2012/10/14
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(1)20年前の今日、何をしていたか1992年10月14日「金枝篇」
9年前の10月に何をしていたか、という日記に続いて、20年前の10月に何をしていたか、の振り返り。1992年10月の日記再録ですが、2004年に「OCNブログ」に再録したものの再再録も含みます。日付の前にある数字は、21世紀になるまで、何日目なのか、というカウントダウンの数字なのですが、数に弱いのでときどき違っています。(Tさん=タカ氏)
『The Golden Bough』(金枝)ウィリアム・ターナー 1834

~~~~~~~~~~~~
1992年三倍速録画再生日記「Golden bough」
(3001)1992年十月一四日 水曜日(曇り午後から雨)ニッポニアニッポン事情(「金丸辞任へ」の記事をみて『金枝篇』を思うこと)
数字や計算にはいたって弱い。掛け算九九なら五の段まではスラスラいくが、六の段になると、六X七や六X八のあたりからあやしくなってしまう。そろばんを使っても、計算機でやっても、足し算を三度すると三度とも違う答えが出てしまうので、家計簿もつけていない。
「二一世紀まであと何日あるか」という計算も、筆算でもやって計算機でもやってみて結局いろんな答えがでて、よくは分からないのだが、二〇〇一年一月一日に二一世紀が始まるとして、一九九二年十月一四日から数えると、あと三〇〇〇日あるらしい。
朝刊は「金丸信辞任」一色である。全国民あげて、このイカニモ「金と権力が政治のすべてであることのいやらしさを顔にも名前にも体現してしまっている老人」が落ちた偶像となることに熱狂している。
老いた王が追い立てられ、あるいは殺されて、新しい王が出現することは、『金枝篇』に言うところ。
『金枝篇』は世界各地から集めた資料で「権力の交代」を描き出した。Tさんは、中国の王朝滅亡も、アメリカの大統領選も、社会にとっては再生の契機なのだと言う。
権力交代劇は、社会を再活性化するための必要不可欠、興奮熱狂の祭典であるのだから、今回の辞任劇が日本の政治再生のもととなるなら、キャスターたちのハシャギぶりも祭りの一部であるハヤシ方として歓迎し、われらもヤンヤヤンヤの喝采くらいおくらねばならない。
しかし、Tさんは「この程度の「殺され方」では、とても「変化再生」には至るまい。密室の中で札束が飛び交って、一本づりやらカスミ網やら、次のアタマ数を決めるだけで、なんにも変りはしないだろう、という。いつも通りの結論。
ついでに『地獄の黙示録』を思い出す。この前『地獄の黙示録』のビデオを見たとき、カーツ大佐の机の上に『金枝篇』がのっていたのに気づいた。
てっきり、ウィラードがカーツを殺し、密林の秘密王国の二代目王になるのだとストーリーを予想したのに、王国は炎上崩壊。ウィラードはペンタゴンのただの使いぱしりだったのか。画面のゴールデンボウは、いったい何の象徴だったのだろう。
さて、今回の「金枝扁日本版猿回し劇」は、再生への契機となるのだろうか。
~~~~~~~~~~~
もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/1014のつっこみ
この日記を書いた1992年、私は『地獄の黙示録』がコンラッドの『闇の奥』を換骨奪胎したシナリオであったことも、『闇の奥』が『金枝篇』の影響のもとに執筆されたことも知らなかった。だから、映画のカーツ大佐の机上に『金枝篇』があることの意味がわからなかったのだ。
『金枝篇』が出てくるからには、王権交代があるだろうと推測する程度の、素朴な観客として、映画を見ていた。
「地獄の黙示録」と『闇の奥』の比較文学的考察を知ったのは、ようやく博士課程のゼミにおいてでした。「西欧の視線から見た植民地とポストコロニアル理論」という内容の授業でした。
ポストコロニアル文学理論を学んでから『地獄の黙示録』を見たら、また違う見かたができるのかもしれません。でも、私は、映画というのは、私のような素朴な、ものを知らない観客にも伝えるものがあってこその映画だと思うので、1980年だったか1981年だったかにこの映画を見たときの私の感想は、それはそれでいいと思うし、1992年にビデオを見たときに机上の「金枝篇」に気付いてもその意味がわからなかった私の見方も、それはそれでよし、と思います。
それにしても。
ウィリアム・ターナーが描いた一枚の絵「金枝」を見たジェームズ・フレイザーが、大著『金枝篇』を残した。『金枝篇』は、膨大な文化人類学者や民族学者民俗学者を育て、コンラッドの『闇の奥』もその影響下に生ましめた。そして、『闇の奥』から『地獄の黙示録』が派生する。
この壮大な文化の連環のなかに私もありたいのだけれど。
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(1)20年前の今日、何をしていたか1992年10月14日「金枝篇」
9年前の10月に何をしていたか、という日記に続いて、20年前の10月に何をしていたか、の振り返り。1992年10月の日記再録ですが、2004年に「OCNブログ」に再録したものの再再録も含みます。日付の前にある数字は、21世紀になるまで、何日目なのか、というカウントダウンの数字なのですが、数に弱いのでときどき違っています。(Tさん=タカ氏)
『The Golden Bough』(金枝)ウィリアム・ターナー 1834

~~~~~~~~~~~~
1992年三倍速録画再生日記「Golden bough」
(3001)1992年十月一四日 水曜日(曇り午後から雨)ニッポニアニッポン事情(「金丸辞任へ」の記事をみて『金枝篇』を思うこと)
数字や計算にはいたって弱い。掛け算九九なら五の段まではスラスラいくが、六の段になると、六X七や六X八のあたりからあやしくなってしまう。そろばんを使っても、計算機でやっても、足し算を三度すると三度とも違う答えが出てしまうので、家計簿もつけていない。
「二一世紀まであと何日あるか」という計算も、筆算でもやって計算機でもやってみて結局いろんな答えがでて、よくは分からないのだが、二〇〇一年一月一日に二一世紀が始まるとして、一九九二年十月一四日から数えると、あと三〇〇〇日あるらしい。
朝刊は「金丸信辞任」一色である。全国民あげて、このイカニモ「金と権力が政治のすべてであることのいやらしさを顔にも名前にも体現してしまっている老人」が落ちた偶像となることに熱狂している。
老いた王が追い立てられ、あるいは殺されて、新しい王が出現することは、『金枝篇』に言うところ。
『金枝篇』は世界各地から集めた資料で「権力の交代」を描き出した。Tさんは、中国の王朝滅亡も、アメリカの大統領選も、社会にとっては再生の契機なのだと言う。
権力交代劇は、社会を再活性化するための必要不可欠、興奮熱狂の祭典であるのだから、今回の辞任劇が日本の政治再生のもととなるなら、キャスターたちのハシャギぶりも祭りの一部であるハヤシ方として歓迎し、われらもヤンヤヤンヤの喝采くらいおくらねばならない。
しかし、Tさんは「この程度の「殺され方」では、とても「変化再生」には至るまい。密室の中で札束が飛び交って、一本づりやらカスミ網やら、次のアタマ数を決めるだけで、なんにも変りはしないだろう、という。いつも通りの結論。
ついでに『地獄の黙示録』を思い出す。この前『地獄の黙示録』のビデオを見たとき、カーツ大佐の机の上に『金枝篇』がのっていたのに気づいた。
てっきり、ウィラードがカーツを殺し、密林の秘密王国の二代目王になるのだとストーリーを予想したのに、王国は炎上崩壊。ウィラードはペンタゴンのただの使いぱしりだったのか。画面のゴールデンボウは、いったい何の象徴だったのだろう。
さて、今回の「金枝扁日本版猿回し劇」は、再生への契機となるのだろうか。
~~~~~~~~~~~
もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/1014のつっこみ
この日記を書いた1992年、私は『地獄の黙示録』がコンラッドの『闇の奥』を換骨奪胎したシナリオであったことも、『闇の奥』が『金枝篇』の影響のもとに執筆されたことも知らなかった。だから、映画のカーツ大佐の机上に『金枝篇』があることの意味がわからなかったのだ。
『金枝篇』が出てくるからには、王権交代があるだろうと推測する程度の、素朴な観客として、映画を見ていた。
「地獄の黙示録」と『闇の奥』の比較文学的考察を知ったのは、ようやく博士課程のゼミにおいてでした。「西欧の視線から見た植民地とポストコロニアル理論」という内容の授業でした。
ポストコロニアル文学理論を学んでから『地獄の黙示録』を見たら、また違う見かたができるのかもしれません。でも、私は、映画というのは、私のような素朴な、ものを知らない観客にも伝えるものがあってこその映画だと思うので、1980年だったか1981年だったかにこの映画を見たときの私の感想は、それはそれでいいと思うし、1992年にビデオを見たときに机上の「金枝篇」に気付いてもその意味がわからなかった私の見方も、それはそれでよし、と思います。
それにしても。
ウィリアム・ターナーが描いた一枚の絵「金枝」を見たジェームズ・フレイザーが、大著『金枝篇』を残した。『金枝篇』は、膨大な文化人類学者や民族学者民俗学者を育て、コンラッドの『闇の奥』もその影響下に生ましめた。そして、『闇の奥』から『地獄の黙示録』が派生する。
この壮大な文化の連環のなかに私もありたいのだけれど。