2012/10/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(4)20年前の今日、何をしていたか1992年10月18日「身体論」
(二九九七)1992年十月一八日日曜日(曇り)日常茶飯事典(ジャズダンスを踊って「身体論」を思うこと)
「ふるさと区民祭り」の出し物として、ジャズダンスサークルAダンスィングも十分間の割り当て時間を受けて、日頃の練習の成果を発表した。
三曲のうち、私は「ウォント・ビー・ロング」「アメリカ・アメリカ」に出演。
出演者の動きがバラバラでそろっていないし、身体指先は伸びていないし、観客に見せる踊りにはなっていなかったが、四十代五十代のオバサンたちは大いに楽しみ、ダンサー気分で舞台に立った。
娘は、おねえさんらしくよく弟の面倒をみてくれ、二人でお母さんのダンス発表を見ていた。
練習は毎週水曜日午前中、文化センターで、ミワコ先生の指導を受けている。週一回では身体をほぐすところまでで終ってしまい、踊りが上達するところまではいかない。このサークルの仲間たちは、指導してくれるミワコ先生の教室に通ったり、他のサークルの練習にも顔を出すなどしている。
私も週二回は練習したいのだが、したいことをするのが主義にしては、これまでちょっと遠慮してきた。修士論文を書くため日本語教師の仕事をやめたあと、現在、自分自身の収入がないのだ。サークル会費も自分のカセギから出しているのではないという弱みもあったし、娘の週二回のスイミングには「身体が健康丈夫になって、おおいにけっこう」というTさんが、ダンスにはいい顔をしないという事情がある。
水泳は身体を鍛えるスポーツだが、ダンスはオンナコドモの遊びである、とTさんは思っている。「身体を動かしたいなら、ジョギングをすれば、ただですむし、新聞配りながら走ればお金が貰える。ダンスというのは不必要ゼイタクな遊びである。」というのがTさんの見解なのだ。
新聞配りながらジョギングすると充実した気分になれる人もいるだろうが、私にはジョギングは合わない。私の心は潤わない。
ダンスは私の心を解放し、生活に活力を与えてくれる。子供の頃からスポーツが嫌いだったTさんには、身体を動かすことの喜びがわからないのだ。
良寛さんだって、村の子供たちと鞠をついて一日すごしたし、賢治も生徒たちとレコードのベートーベンを聞いて楽しんだ。「心楽しく過ごすこと」が貧乏生活継続には大事。
橘曙覧の「楽しみは」の歌には「心楽しく生きる喜び」にあふれているが、私の心を豊かにするもののひとつがダンスなのだから、Tさんが何と言おうと、私はダンスの練習をつづける。
私の母方の祖父は、農民歌舞伎の役者をするのが趣味だった。農閑期には義太夫を語り、踊りを踊った。ときどき母に連れられて、祖父の演じる忠臣蔵や先代萩の舞台を見にいった。今、妹は「親子劇場」の会長をしているし、姉はエアロビクスのレッスンに通っている。芸能好きの遺伝子があるが、好みはそれぞれ。
姉のエアロビのレッスンにくっついて、無料レッスンを体験したが、私には合わなかった。私が一番好きなのは、イサドラ・ダンカンやマーサ・グラハムの流れのモダンダンス。次がジャズダンス、その次がクラシックバレエ。
エアロビがなぜ楽しくなかったか。エアロビクスの基本はスポーツ。身体訓練がメイン。
世界大会などで優勝するような演技は、観客にみせる要素をもっているが、普段の練習は表現ではなく「体操」だ。ラジオ体操と変りはない。ではダンスにあってエアロビにないものはなにか。
ダンスの本質は「神への接近」そして「観客とのコミニュケーション」なのだ。この接近や交流を生み出すのは、旋回と跳躍の動き。ダンスの根源は旋回と跳躍!
世界中の宗教的舞踊でも、神に近づく動きは旋回と跳躍に極まる。
エアロビにはこれがない。またエアロビの移動は左右前後の対称的動きのみ。エアロビの移動は歩行の移動と同じ。しかし、ダンスの移動は身体による空間の把握である。
詩は舞踊、散文は歩行という比喩があるが、逆に言えば、エアロビは散文、ダンスは詩であろう。
ダンスの根源は旋回と跳躍、ということに自分の身体を通じて気づいたのは、エアロビを体験したおかげだ。
このことはどんな舞踊論、身体論にも書かれていることであり、一五年前に市川雅さんの舞踊論の授業を受けたときにもたぶん講義の中にあったのだろう。しかしその時は、頭の中でわかっただけで通りすぎてしまったのだ。
石福恒雄『身体の現象学』をパラパラと読み返してみた。(この本を読んでいる場合じゃないと思いながら読む)
シュトラウスの舞踊論にいわく、『舞踊においては胴の動きが舞踊の動き全体を支配する。舞踊は空間的時間的な限界を持たず、エクスターゼに達するときにのみ終わる。』
バレリーいわく、『踊り子はすべてを表現している。愛も海もそして人生そのものも。思想も。彼女は変身の行為そのものだ』
石福いわく、『踊る者の身体からあふれ出す雰囲気と生気によって、ダンサーと観客の間に身体的コミュニケーションが生起する。日常的生を越えて私たちをそこへと赴かせる舞踊の根源としての舞踊』etc・・・・
子供のころ読んだファーブル伝の中にある逸話。ファーブルが目をとじ、口をあけて「ものが見えるのは口があるからじゃなくて、目があるからなんだ」と彼の大発見を語ったとき、周りの大人は皆「バカだね、この子は。そんなことあたりまえじゃないか」といった、というエピソードがあった。
私がダンスの旋回と跳躍の魅力、非日常的動きによる生の活性化に、気づいたのも「バカだね、あたりまえのことじゃないか。」ということになるのだが、私にとっては自分の身体感覚を通じて納得できたことが嬉しいのだ。ファーブルも、ものが見えるのは目があるからだとわかって、どんなにか嬉しかったことだろう。
生きるために、踊る!
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「ウォントビーロングWON'T BE LONG」を踊る1992年の春庭
舞台下手(いちばん左側)がミサイルママ。下手(いちばん右側)が私

「マイケル・ジャクソンのThe Way You Make Me Feel」を踊る1992年の春庭
前列中央は、歌手のゆみさん、後列下手(左側)がミサイルママ、上手(右側)が私
">
「アメリカ・アメリカ(ウェストサイドストーリーより)」を踊る1992年の春庭
左側が私、右側がミサイルママ

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/18のつっこみ
あいもかわらず、「へたの横好き」でダンスを続けている。慶賀雀躍。
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(4)20年前の今日、何をしていたか1992年10月18日「身体論」
(二九九七)1992年十月一八日日曜日(曇り)日常茶飯事典(ジャズダンスを踊って「身体論」を思うこと)
「ふるさと区民祭り」の出し物として、ジャズダンスサークルAダンスィングも十分間の割り当て時間を受けて、日頃の練習の成果を発表した。
三曲のうち、私は「ウォント・ビー・ロング」「アメリカ・アメリカ」に出演。
出演者の動きがバラバラでそろっていないし、身体指先は伸びていないし、観客に見せる踊りにはなっていなかったが、四十代五十代のオバサンたちは大いに楽しみ、ダンサー気分で舞台に立った。
娘は、おねえさんらしくよく弟の面倒をみてくれ、二人でお母さんのダンス発表を見ていた。
練習は毎週水曜日午前中、文化センターで、ミワコ先生の指導を受けている。週一回では身体をほぐすところまでで終ってしまい、踊りが上達するところまではいかない。このサークルの仲間たちは、指導してくれるミワコ先生の教室に通ったり、他のサークルの練習にも顔を出すなどしている。
私も週二回は練習したいのだが、したいことをするのが主義にしては、これまでちょっと遠慮してきた。修士論文を書くため日本語教師の仕事をやめたあと、現在、自分自身の収入がないのだ。サークル会費も自分のカセギから出しているのではないという弱みもあったし、娘の週二回のスイミングには「身体が健康丈夫になって、おおいにけっこう」というTさんが、ダンスにはいい顔をしないという事情がある。
水泳は身体を鍛えるスポーツだが、ダンスはオンナコドモの遊びである、とTさんは思っている。「身体を動かしたいなら、ジョギングをすれば、ただですむし、新聞配りながら走ればお金が貰える。ダンスというのは不必要ゼイタクな遊びである。」というのがTさんの見解なのだ。
新聞配りながらジョギングすると充実した気分になれる人もいるだろうが、私にはジョギングは合わない。私の心は潤わない。
ダンスは私の心を解放し、生活に活力を与えてくれる。子供の頃からスポーツが嫌いだったTさんには、身体を動かすことの喜びがわからないのだ。
良寛さんだって、村の子供たちと鞠をついて一日すごしたし、賢治も生徒たちとレコードのベートーベンを聞いて楽しんだ。「心楽しく過ごすこと」が貧乏生活継続には大事。
橘曙覧の「楽しみは」の歌には「心楽しく生きる喜び」にあふれているが、私の心を豊かにするもののひとつがダンスなのだから、Tさんが何と言おうと、私はダンスの練習をつづける。
私の母方の祖父は、農民歌舞伎の役者をするのが趣味だった。農閑期には義太夫を語り、踊りを踊った。ときどき母に連れられて、祖父の演じる忠臣蔵や先代萩の舞台を見にいった。今、妹は「親子劇場」の会長をしているし、姉はエアロビクスのレッスンに通っている。芸能好きの遺伝子があるが、好みはそれぞれ。
姉のエアロビのレッスンにくっついて、無料レッスンを体験したが、私には合わなかった。私が一番好きなのは、イサドラ・ダンカンやマーサ・グラハムの流れのモダンダンス。次がジャズダンス、その次がクラシックバレエ。
エアロビがなぜ楽しくなかったか。エアロビクスの基本はスポーツ。身体訓練がメイン。
世界大会などで優勝するような演技は、観客にみせる要素をもっているが、普段の練習は表現ではなく「体操」だ。ラジオ体操と変りはない。ではダンスにあってエアロビにないものはなにか。
ダンスの本質は「神への接近」そして「観客とのコミニュケーション」なのだ。この接近や交流を生み出すのは、旋回と跳躍の動き。ダンスの根源は旋回と跳躍!
世界中の宗教的舞踊でも、神に近づく動きは旋回と跳躍に極まる。
エアロビにはこれがない。またエアロビの移動は左右前後の対称的動きのみ。エアロビの移動は歩行の移動と同じ。しかし、ダンスの移動は身体による空間の把握である。
詩は舞踊、散文は歩行という比喩があるが、逆に言えば、エアロビは散文、ダンスは詩であろう。
ダンスの根源は旋回と跳躍、ということに自分の身体を通じて気づいたのは、エアロビを体験したおかげだ。
このことはどんな舞踊論、身体論にも書かれていることであり、一五年前に市川雅さんの舞踊論の授業を受けたときにもたぶん講義の中にあったのだろう。しかしその時は、頭の中でわかっただけで通りすぎてしまったのだ。
石福恒雄『身体の現象学』をパラパラと読み返してみた。(この本を読んでいる場合じゃないと思いながら読む)
シュトラウスの舞踊論にいわく、『舞踊においては胴の動きが舞踊の動き全体を支配する。舞踊は空間的時間的な限界を持たず、エクスターゼに達するときにのみ終わる。』
バレリーいわく、『踊り子はすべてを表現している。愛も海もそして人生そのものも。思想も。彼女は変身の行為そのものだ』
石福いわく、『踊る者の身体からあふれ出す雰囲気と生気によって、ダンサーと観客の間に身体的コミュニケーションが生起する。日常的生を越えて私たちをそこへと赴かせる舞踊の根源としての舞踊』etc・・・・
子供のころ読んだファーブル伝の中にある逸話。ファーブルが目をとじ、口をあけて「ものが見えるのは口があるからじゃなくて、目があるからなんだ」と彼の大発見を語ったとき、周りの大人は皆「バカだね、この子は。そんなことあたりまえじゃないか」といった、というエピソードがあった。
私がダンスの旋回と跳躍の魅力、非日常的動きによる生の活性化に、気づいたのも「バカだね、あたりまえのことじゃないか。」ということになるのだが、私にとっては自分の身体感覚を通じて納得できたことが嬉しいのだ。ファーブルも、ものが見えるのは目があるからだとわかって、どんなにか嬉しかったことだろう。
生きるために、踊る!
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「ウォントビーロングWON'T BE LONG」を踊る1992年の春庭
舞台下手(いちばん左側)がミサイルママ。下手(いちばん右側)が私

「マイケル・ジャクソンのThe Way You Make Me Feel」を踊る1992年の春庭
前列中央は、歌手のゆみさん、後列下手(左側)がミサイルママ、上手(右側)が私
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「アメリカ・アメリカ(ウェストサイドストーリーより)」を踊る1992年の春庭
左側が私、右側がミサイルママ

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/18のつっこみ
あいもかわらず、「へたの横好き」でダンスを続けている。慶賀雀躍。