2012/10/24
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(8)20年前の今日、何をしていたか1992年10月24日10月25日新聞コラム欲望論を読む
1992年十月二四日土曜日(雨)「『欲望論』をよんで、無欲は難しと思うこと」
午前中、文庫本の切抜。例文カード作り。『青葉繁れる』一冊も終わらなかった。こんなに時間がかかるのに、今まで作業がいやで、時間をムダにしてしまった。後悔。
朝日夕刊の「ウイークエンド経済」に野田正彰が『欲望論』というコラムを連載しているがこれがなかなか面白い。
これまでコイサン語を話す人々(いわゆるブッシュマン)の社会の話を狩猟採集経済時代の例としてあげて、この社会の人間関係と欲望のあらわれかたについて説明が続いてきた。コイサン族の社会では、獲物をしとめた本人に対し、特別な賞賛も特別な分け前もなく、働き手は当然のこととして獲物をとり、当然のこととして平等に分けるという。子供たちの遊びも、ゲームにルールはあっても、「勝ち負け」という概念がない、という。狩猟・採集経済社会には、人間対自然、人間対人間の対立がなく、「共生の社会」であったと。
今回はヘシオドスの『仕事と日』を題材に、「農耕社会の成立を支えた精神的エネルギーは羨望であったこと、羨望を媒介とする勤勉と蓄財の快楽が農耕社会を今日へと至らしめたこと」について書いてあった。他人の羨望こそが勤勉とその結果である富と名誉を快いものにしてくれるという。
誰かに誉められようとか、羨ましがられたいとか思わない私たちは、人間社会の常識からずれてしまっているのかもしれない。あるいは、羨望の視点がずれているのか。私が羨ましいのは、「蓄財の快楽」ではなく、マザーテレサとか良寛のように完全な「無私無欲」が実現できる人。
私は、自己実現の欲望とあきらめの間を、ウロウロしているだけだから。
夫も私も、他人よりうまいものを食べたい、とか他人より美しく着飾りたい、という欲望は、これまで持ったことがない。「衣食」に関する欲望が稀薄だった。朝、「この靴下穴が開いているよ」と夫が言ったとき、心優しき妻は「靴を脱がなきゃわからない」と答える。夫も「そうだそうだ」と納得してそのまま出勤する。しかし、類人猿と人間には、「未知のものを知る欲望」というものがある。
象やライオンに芸を仕込むとき、芸ができたとき与えるごほうびのエサなしに仕込むことは不可能だそうだが、高知能を誇る京大のチンパンジー「アイ」は、「できた」という達成感を味わうために学習し、褒美のエサは二の次だそうだ。「知りたい」という欲望はシッポと引き換えに類人猿にくっついたのだろう。
私の欲望の第一のものは、「未知を既知にする」こと、すなわち「知りたがりの知ったかぶり」「好奇心」である。第二は「人とのコミュニケーション」。直接会話をかわすということ以上に、文章を通じての会話、つまり「本」。この二つの欲望は断ち難い。
以前は「うまいものを食べたい」という欲望は素直に受け取られるのに、「本を読みたい」という欲望は、何か特別なものというか「教養主義のいやらしさ」のように受け取られてきたが、このごろ「本を読むのもマージャンするのもみんなおんなじ趣味のひとつ」として、平等に扱われるようになったのは喜ばしい。
「欲望」こそが社会を維持し、人間に生きるエネルギーを与えるという。修論がおわったら読みまくるゾ!
本日の家訓「欲望という名の電車に乗り遅れて遅刻」
~~~~~~~~~
もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/24のつっこみ
あれも食べたいこれも読みたい、あの絵も見たい、この映画も見たい。欲望は今も限りなし。行きたい、踊りたい、愛したい、、、、、という欲望にまどいつつ生きてきて、2012年10月23日火曜日は、突然のどしゃぶりで全身濡れ鼠。
の大カバンの中の本をぬらさないように、傘をカバンをかばってさしていたこともあって、横殴りの雨にびしょ濡れになりました。学生に配るプリントやら本やら史料やらをぎっしり入れてあり、5kgのカバンです。重い!
下着まで濡れたのだけれど、着替えなんて持っていないし、授業がはじまるので、洗面所で靴の中の水をじゃあと流し、ずぼんの水をタオルで拭くのせいいっぱい。傘をさしていてこれほど濡れたのは久ぶりのこと。ゲリラ豪雨とか聞くけれど、局地的な雨で、授業を終えて帰るころには小止みになっていました。
私のささやかな欲望は、せめて雨風しのいで生きることです。あ~、それからお腹すかない程度の食べ物と、目的地まで歩いてたどりつく足と、、、、あらら、欲望かぎりなし。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(8)20年前の今日、何をしていたか1992年10月24日10月25日新聞コラム欲望論を読む
1992年十月二四日土曜日(雨)「『欲望論』をよんで、無欲は難しと思うこと」
午前中、文庫本の切抜。例文カード作り。『青葉繁れる』一冊も終わらなかった。こんなに時間がかかるのに、今まで作業がいやで、時間をムダにしてしまった。後悔。
朝日夕刊の「ウイークエンド経済」に野田正彰が『欲望論』というコラムを連載しているがこれがなかなか面白い。
これまでコイサン語を話す人々(いわゆるブッシュマン)の社会の話を狩猟採集経済時代の例としてあげて、この社会の人間関係と欲望のあらわれかたについて説明が続いてきた。コイサン族の社会では、獲物をしとめた本人に対し、特別な賞賛も特別な分け前もなく、働き手は当然のこととして獲物をとり、当然のこととして平等に分けるという。子供たちの遊びも、ゲームにルールはあっても、「勝ち負け」という概念がない、という。狩猟・採集経済社会には、人間対自然、人間対人間の対立がなく、「共生の社会」であったと。
今回はヘシオドスの『仕事と日』を題材に、「農耕社会の成立を支えた精神的エネルギーは羨望であったこと、羨望を媒介とする勤勉と蓄財の快楽が農耕社会を今日へと至らしめたこと」について書いてあった。他人の羨望こそが勤勉とその結果である富と名誉を快いものにしてくれるという。
誰かに誉められようとか、羨ましがられたいとか思わない私たちは、人間社会の常識からずれてしまっているのかもしれない。あるいは、羨望の視点がずれているのか。私が羨ましいのは、「蓄財の快楽」ではなく、マザーテレサとか良寛のように完全な「無私無欲」が実現できる人。
私は、自己実現の欲望とあきらめの間を、ウロウロしているだけだから。
夫も私も、他人よりうまいものを食べたい、とか他人より美しく着飾りたい、という欲望は、これまで持ったことがない。「衣食」に関する欲望が稀薄だった。朝、「この靴下穴が開いているよ」と夫が言ったとき、心優しき妻は「靴を脱がなきゃわからない」と答える。夫も「そうだそうだ」と納得してそのまま出勤する。しかし、類人猿と人間には、「未知のものを知る欲望」というものがある。
象やライオンに芸を仕込むとき、芸ができたとき与えるごほうびのエサなしに仕込むことは不可能だそうだが、高知能を誇る京大のチンパンジー「アイ」は、「できた」という達成感を味わうために学習し、褒美のエサは二の次だそうだ。「知りたい」という欲望はシッポと引き換えに類人猿にくっついたのだろう。
私の欲望の第一のものは、「未知を既知にする」こと、すなわち「知りたがりの知ったかぶり」「好奇心」である。第二は「人とのコミュニケーション」。直接会話をかわすということ以上に、文章を通じての会話、つまり「本」。この二つの欲望は断ち難い。
以前は「うまいものを食べたい」という欲望は素直に受け取られるのに、「本を読みたい」という欲望は、何か特別なものというか「教養主義のいやらしさ」のように受け取られてきたが、このごろ「本を読むのもマージャンするのもみんなおんなじ趣味のひとつ」として、平等に扱われるようになったのは喜ばしい。
「欲望」こそが社会を維持し、人間に生きるエネルギーを与えるという。修論がおわったら読みまくるゾ!
本日の家訓「欲望という名の電車に乗り遅れて遅刻」
~~~~~~~~~
もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/24のつっこみ
あれも食べたいこれも読みたい、あの絵も見たい、この映画も見たい。欲望は今も限りなし。行きたい、踊りたい、愛したい、、、、、という欲望にまどいつつ生きてきて、2012年10月23日火曜日は、突然のどしゃぶりで全身濡れ鼠。
の大カバンの中の本をぬらさないように、傘をカバンをかばってさしていたこともあって、横殴りの雨にびしょ濡れになりました。学生に配るプリントやら本やら史料やらをぎっしり入れてあり、5kgのカバンです。重い!
下着まで濡れたのだけれど、着替えなんて持っていないし、授業がはじまるので、洗面所で靴の中の水をじゃあと流し、ずぼんの水をタオルで拭くのせいいっぱい。傘をさしていてこれほど濡れたのは久ぶりのこと。ゲリラ豪雨とか聞くけれど、局地的な雨で、授業を終えて帰るころには小止みになっていました。
私のささやかな欲望は、せめて雨風しのいで生きることです。あ~、それからお腹すかない程度の食べ物と、目的地まで歩いてたどりつく足と、、、、あらら、欲望かぎりなし。
<つづく>