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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年10月16日「太地喜和子とカラヴァジョの果物籠」

2012-10-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/16
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(2)20年前の今日、何をしていたか1992年10月15日「太地喜和子とカラヴァジョの果物籠」


カラヴァッジョ(イタリア 1571~1610)「果物籠」 1597年頃

(3000)1992年10月15日 木曜日(雨午後から曇り)
ニッポニアニッポン事情(「太地喜和子の葬儀」をみて『カラヴァッジョの果物篭』を思うこと)

 朝から冷たい雨。ワイドショウは終日、太地喜和子の葬式。
 杉村春子の談話など、三回も見てしまった。花の盛りに水死した女優の葬儀には、この雨もいっそふさわしいと皆思っているのだろう、葬式というのに惨めっぽさがなくって華やかで、芸能リポーターなんか、浮かれ出しそうなのを必死にこらえているかに見える。

 太地喜和子の舞台を見たのは二十年ほど前の『美しきものの伝説』のみで、あとはテレビの近松アレンジもので見たくらいなのだから、ファンなどといってはおこがましいのだろうが、とても好きな女優であった。他の人の好みは知らないが、私は、かっぽう着が似合って、大根刻む手つきもサマになってという、いわゆる「生活感」にあふれる人はあまり女優としては好きではない。女形が演じるように「女」を演じてくれるほうがいい。

 タイで死んで、先日山田五十鈴が喪主挨拶をした嵯峨美智子とか、妖艶華麗で、非日常的な女優が好きだった。嵯峨も太地も、現実の「女」という性をいったん昇華させてしまってから、あらためて「女」の情念を演じるというような魅力があった。

 嵯峨のほうは、昔のテレビ『三姉妹』に出たときいいなと思ってから、女優としての仕事はほとんど見たことがなかったし、ずっと病身であることも、ときどき「あの人は今」風の週刊誌ダネになっていたから、わざわざ病気をおしてタイへ行って死んだということもうなずけるような気がするのだが、太地のほうは、「大輪の花今盛りなり」の大女優。まさかこのようなあっけない事故死を遂げるとはだれも思わなかったから、劇団のアトリエで行なわれた葬儀がいっそう演劇めいて、「死」が記号化されてあらわれる。

 祭壇の写真の太地は、とりわけ美しい。生のはかなさを知らしめるために、神が念入りに作りあげた花の化神さながらである。みずみずしく芳醇な果実であり花であった女優の、悲劇の死。

 彼女が、その肉体とことばで描き出した近松の女たちも、唐人お吉もこの地上から消え失せる。ビデオやフィルムに演技を残すことはできるけれど、演劇は、演じる者と観客が、「今・ここで」同じ空気の中に存在することが第一の要素なのだから、太地が演じる空間に共に存在することは、二度とできないのだ。

 芸能ニュースのノリでいけば、興味は、涙の下で闘われる女優たちの代役獲得戦争。
 代役にきまった女優のインタビューがあったが、あまりにも太地とはイメージが違いすぎた。数いる女優陣の中から選ばれたのだから、けっして水準以下の人ではないだろうに、これから文学座は経営的にたいへんだろう、といらぬ心配。杉村・太地ラインの下にはペンペン草もはえていないのかと思った。

 もう一方の芸能ダネといえば、菊五郎が贈った紫の着物と、勘九郎が贈った銀色のバラの花をお棺にいれたよし。この二人がともに太地の愛人として有名だっただけに、なんとも色鮮やかで、なまなましく、この葬儀にふさわしい気がした。

 若桑みどり先生の『絵画を読む』が3チャンネルではじまった。
 第一回は『カラヴァッジョの果物篭』について。花と果物は、美と若さと快楽がその甘さゆえたちまち腐り、枯れてしまうということの暗喩として描かれている、という解説のはぎれよさは七年前とまったく変わっていない。芸大から千葉大へ移って、研究に熱中しているせいか、髪型が変わったせいか、前より若く見える。

 花に埋もれた太地の華やかな笑顔は、現代における『カラヴァッジョの果物篭』だ。
 美しく艶やかで、生のはかなさと死の暗喩。

 人生八十年の時代に、働き盛りの四十八歳の死。われらの世代にとってまだ遠いはずの死が、突然目のまえに現実となってあらわされているのだ。生と死は表と裏、紙一重、と知ってはいる。しかし、病気や危険な仕事と向き合っている人でなく、平々凡々な日々を生きている人のなかで、明日は死ぬかもしれないと思って今日生きている人は、余程サトっている人であろう。

 十二支が一巡したら、私は母が死んだ年になる。百歳まで生きるつもりの私だって、明日死ぬかもしれないのに、私だけはノストラダムスの予言があたって一九九九年に地球が崩壊したとしても、二〇〇一年の一月一日にカウントダウン・ゼロを叫びつつこの日記のづづきを書いているような気がする。


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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012年10月16日のつっこみ

 1985年86年に若桑先生の授業を受けた時、先生がスライドで大教室に映し出した絵は、以下の「果物籠を持つ少年」の方でした。この絵を展覧会で見たとき、「ああ、あのときの授業で見た絵だ」と感激したことは覚えているのに、さて、いつの何の展覧会だったのか、さっぱりおぼえていません。記憶は年々うすれぼやけ、こうして人は老いていくのでしょう。

 ネット検索で調べたら、あいまいな記憶はたちまち判明。庭園美術館、2001年9月~12月「カラヴァッジョ 光と影の巨匠―バロック絵画の先駆者たち」でした。 

『果物籠を持つ少年 (Boy with a Basket of Fruit)』(ボルゲーゼ美術館所蔵、1593年 - 1594年


 母が死んだ年齢も、2001年の21世紀カウントダウンも、はるかに過ぎて、私はまだまだ「明日は死ぬかも知れない」なんていう悟った状態にはなく、もがき悩みのたうち、ひがみねたみそねみやっかみを続けて生きている。
 「花の命は短くて」であるのだとしたら、花も咲かない雑草は、踏みつけられても生きながらえるしかない。めざせ百歳。
コメント (2)
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