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ぽかぽか春庭録画再生日記1992年10月25日「万華鏡を読む」

2012-10-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/10/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(8)20年前の今日、何をしていたか1992年10月25

1992年十月二五日日曜日(晴れ一時雨) 「『万華鏡』を読んで「魂の新生」について思うこと」

 朝日新聞日曜家庭欄の随筆、遠藤周作の『万華鏡』が今日で終り。この欄、藤原新也とか中野孝次とか、好きな作家が担当していたときは欠かさず読んだ。
 『万華鏡』も割合熱心に読んだ。中心のテーマのひとつが「超常的人間心理」。「虫の知らせ」とか「幽体離脱」についてとか。

 人の心はまことにマカ不思議で、通常の考えでは思いも寄らぬ現象がおこるが、私は通常でない時の心理学に興味があるので、あまり不思議とは思わない。たとえば幽体離脱は比叡山の僧の修行の中で、身体を極限まで痛めつけて、死との境目になったときにおこるという。
 僧の意識は肉体を離れ、自分の肉体を上空から眺めることができるという。幽体離脱は、マカ不思議なできごとではなく、人間の極限心理のひとつなのだ。宗教心理学や超常心理学などを学べば、トランス状態やきつねつき状態、予知能力など、かなりの「超常心理」に説明がつく。

 『万華鏡』最終回は「病気」と「癒し」の問題について述べてあった。「病気」というのは人間にとって、最も「死」に近くなるチャンスで、病気中の心理、回復期の心理はたいへん興味深い。

 千葉敦子さんの『乳ガンなんかに敗けられない』には、入院中に読む本のリストにスーザン・ソンダクの『陰喩としての病気』があげられていたが、遠藤周作が『万華鏡』で紹介している玉谷直実さんの『乳房よかえっておいで』はなかった。千葉の死後でた本なのかもしれない。

 玉谷さんはユング派の心理療法家で、自身の病気体験から、病気によって起こる不安や恐怖の心理、病気を受け入れて新しい生が生れ、人生の見方に変化がくること、などについて書いてあるという。

 病気と新しい生について、大江健三郎が『文学再入門』の第一回目でまったく同じ事を書いている。大江は、ラスコーリニコフと時任謙作が病後に「魂の新生」を体験したことを述べ、『罪と罰』『暗夜行路』という二つの小説が「大病からの回復」と「生との和解」を説得力をこめて語っていること、これが、私たちの再生を思い描かせてくれる未来のモデルであると、結んでいる。

 生物は「DNA」を運ぶ「乗り物」で、生物の一生の最も大きな目的は、自己のDNAを利己的に維持し、保存することだという。人間もまたしかり。自己のDNAが消滅の危機にたたされる「病気」という状態が、人間の魂に大きな影響を与えずにはおかないだろう。

 病気によって、超常的な心理が現われたり、「魂の新生」を感じたり、すべて、DNA消滅の危機によって人の心が激しく揺り動かされるから起こることなのだ。
 病人に関わる人は、これまでのように身体の回復のみでなく、魂の「癒し」を考えていかねばならない、というのが遠藤の主張。イエスが奇跡によって病気を直したのも、まさしく、この「癒し」の力によるのだろう。精神への働きかけによって、自己免疫力も高まるし、魂も新生する。

 私自身が死に瀕したのは一度だけだが、そのとき私は自分が死ぬかもしれないとは知らなかったので、魂のドラマも生まれなかった。息子を生むとき、私は三十九歳の高齢出産、前置胎盤。予定日より四十日早く破水、出血。十日間の絶対安静でベッドに括りつけられていたが、母子ともに危険な状態になって帝王切開で出産した。赤ん坊は仮死状態だったが、私自身が死との境目にいたのだとは、思ってもみなかった。

 夫は医師から「出血多量の場合死亡という結果もあるが、母親の命だけは助かるように最大の努力はします。しかし、運のないときは、二人ともダメだろう。」と告げられたそう。私は自分が死ぬ危険にあるとは知らず、たとえ、障害が残るようなことがあっても子供の命だけは助けてほしいと念じていた。医師が心配したより出血が少なくて、運よく、母子共に生存できたのは奇跡的なことなのだった。感謝感謝。

 帝王切開手術時の出血量「多量一二二五ml」と書いてある息子の母子手帳の記載も、これまであまり気にしたことがなかったが、千葉さんの乳ガン切除の際の出血が二百mlと書いてあるのと比べても、「そうか、1リットル牛乳パック一本よりたくさん出血したのか」と改めて驚いたくらい。DNA存続の危機に際して、のんきなことであった。

 病気と回復による再生の経験はできなかったが、「文学再入門」は来年から実行。大江健三郎は私の魂の教師なのだ。大江を読み始めたのは、『飼育』で芥川賞をとってから十年もたってからのことだ。もしかしたら『個人的な体験』をよんでから、初期の作品を読んだのかもしれない。今思うと、大江が障害のある子と共に人生を歩んだことが、私にとって、あるいは全人類にとって救済であり、「癒し」であった気がする。

 人間もまた生物の一種であり、人は「DNAの乗り物」にすぎない。が、この乗り物はなんと多様で奥深く、興味つきない乗り物であろうか。
 人間こそ最も興味深い「未知なるもの」であり、これを探り、ひとつでも多く未知を既知とすることが私の「欲望」である。

 知るための手段・方法として「文学」があり「文化人類学」があり「歴史」「考古学」「民俗学」「言語学」「美術」「宗教学」「心理学」etc....
 ああ、知りたいことがいっぱい。読みたい本がいっぱい。早く修論書いちゃおう。

 そして私が取り組みたいのは、「身体論」がひとつ、「言語文化論」がひとつ、「女性史」がひとつ。身体論と言語文化論のフュージョンとして、舞踊や演劇があり、女性史と言語文化のフュージョンとしてまずとっかかりたいのは、言文一致期の女性文学。稲舟を中心に調べるところから始めるつもりだ。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/25のつっこみ

 大江が日本人として二人目のノーベル文学賞を受賞したのは1994年。それ以後の作品に関して、私はよい読者ではない。エッセイは読むけれど、小説はほとんど読んでいない。
 好奇心、蘊蓄さがしの読書にとって、最適だった丸谷才一の蘊蓄エッセイ、好きだったけれど、2012年10月13日没。享年87歳。
コメント (4)
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