2012/10/30
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(13)20年前の今日、何をしていたか1992年10月29日結婚の理由
(二九八六)1992年十月二九日 木曜日(雨)「結婚した理由を娘に説明すること」
娘から「どうしてお母さんはお父さんと結婚したの」という質問を受けたときは「お母さんがケニアに行ったとき、ナイロビに着いた次の日に、町の中で迷子になっちゃったの。その時、向こうから日本人がやってきて、道案内をしてくれたから、やさしい人だなと思って結婚したの。」と説明してきた。
アフリカのナイロビで迷子になって、道案内をしてくれた人と結婚したなんて、話としては、なんだか運命的みたいで面白いんだけど、この時はまさかこの人と結婚することになるなんて夢にも思わず、いっしょに町を歩いていた。
ケニアに行くまでは、「私は男性からは『こわい女』と思われている」と思いこんでいた。「究極のモテない女」というコンプレックスのかたまりだった。
今は典型的中年のオバサンになっている私だって、若いときはそれなりにカワイかったのに、と、昔のアルバムを開くたびに思う。だけど、当時は「私は決して男性にはカワイイと思ってもらえない」と思い込んでいた。
自分の生き方を捜し、何事にも自分の意見を持つような女性は「女らしくない」と言われた時代だったのだ。私が、自分の思うところ考えるところを率直に発言すると、世の男たちは「コワイナァ」という印象を持つらしかった。
女の子は男の述べる意見に「フーン、難しくって、アタシにはよくわかんないけど、あなたの考えってスゴイんじゃない。」なんて小首をかしげていわなくちゃならなかった。
私が自分の意見をいっても怖いと思わないらしいのは、Tさんだけだった。結婚後十年たって、Tさんの実家の家風にも精通した結果、これは姑の影響だったことがわかった。生れたときから「論理的思考」「理論的おしゃべり」の母親に育てられてきたので、女性が理屈を述べるのに何も抵抗がなかったのだ。
姑からの電話で「栄養学的、理論的献立の話」なんかが始まると、一時間も続いてたいへんなのだが、この姑の理屈好きがTさんの女性観を作ったと思えば、心して聞かねばならない。
どうして結婚したかといえば、私を怖がらなかったのはTさんしかいなかったから、ということになる。
二十歳の頃だったか「君の歩いている姿ってコワイ。」って言われたことがあったが、しゃべらなくっても、姿だけで、コワイ存在だったらしい。もうちょっと私が利口で、かわいこブリッコできる演技派だったら、もっと違う人生が展開したかもしれない。まあ、バカだったからこういう人生だったのだ、というしかない。娘も母がバカでよかったといっている。
娘が「どうして他の人じゃなくてお父さんが一番いいって思ったの?」と質問してきたときは「お父さんが、お母さんのこと美人だって思ってくれたから」と答えて、納得していた。
しかし、このごろ娘も父の価値基準法を理解してきて「お母さんはバカだね。お父さんは『ぼくは女性に対してブスなんて思ったことはない。ぼくにとって女性は「美人」「とっても美人」「ものすごく美人」の三種類しかないんだ』っていってるよ。お母さんのこと「美人」だって思っているなら、それは一番下のランクだってことじゃないの。世間の、ブス、ふつう、美人というランクに直せば、お父さんのいう美人は世間のブスってことだもん。ブスって思われて結婚しちゃったお母さんはバカだね。でも、お母さんがバカだったおかげで、わたしが生れてよかったあ。」
母「妻を美人と思ってくれる人と結婚しました」
娘9歳「だから、それは世間のランクではブスなんだっていってるでしょ」
父「僕の辞書にブスっていう言葉はない」
息子4歳「だから僕のお母さんは美人です」
母 「この次は乗ってみたいな玉の輿」
結論「美人の妻を得るための確実な方法。→ 世の女性を、美人・とっても美人・ものすごく美人、の三つに分類すればよい」
1992年十月二九日 木曜日(雨)「満十年の結婚記念日も、なんにもしないですぎたこと」
午前中、体育館でジャズダンス練習。
夫が「また行くのか」という顔をするので、「日本語教師はやっぱりジミで、私には合わないから、ダンサーめざすことにした。」と言っておいた。
「ダンサーになってお金稼げるようになったら、今度は私があなたを食べさせてやるから、楽しみに待っててね。ダンサーのヒモになれるなんて、嬉しいでしょう。」
十二年前、七月末にケニアのナイロビではじめて出会い、十年前、一九八二年の十月二九日に結婚式を挙げた。本日結婚満十年の記念日ナリ。
といっても、夫は「フンフン、めでたいことである。そうではあるが、パンツのゴムがのびている、まともに着られるワイシャツがない、ハンカチがない。」といいつつ着替えて仕事にいった。あまりにもおなかが出ているために、パンツのゴムもすぐ伸び切ってしまうのだ。御結婚満十年を記念する愛のパンツでも買うことにしよう。
~~~~~~~~~~~
もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/30のつっこみ
20年前、「結婚10年目でもなんのこともなくすぎた」結婚記念日。20年目も、25年目の銅婚も、まったく祝うこともなかったが、本年はついに30年目。
「自分の父親だから、悪く言いたくはないけれど、お母さん、どうしてああいう人と結婚しちゃったんだろうね、もうちょっとマシな人、いたでしょうに」と,娘から責め立てられはするけれど、30年前の私は、今よりもっとトガッていた。刺されてもいいと思って結婚する蛮勇ふるった男はひとりだけだったのだから、仕方がない。
あっちはあっちで、刺されまくって満身創痍。こっちはこっちでシングルハンドの子育て&家計維持を続けてくたびれ果てて、気がつきゃ互いに割れ鍋に綴じ蓋。
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年(13)20年前の今日、何をしていたか1992年10月29日結婚の理由
(二九八六)1992年十月二九日 木曜日(雨)「結婚した理由を娘に説明すること」
娘から「どうしてお母さんはお父さんと結婚したの」という質問を受けたときは「お母さんがケニアに行ったとき、ナイロビに着いた次の日に、町の中で迷子になっちゃったの。その時、向こうから日本人がやってきて、道案内をしてくれたから、やさしい人だなと思って結婚したの。」と説明してきた。
アフリカのナイロビで迷子になって、道案内をしてくれた人と結婚したなんて、話としては、なんだか運命的みたいで面白いんだけど、この時はまさかこの人と結婚することになるなんて夢にも思わず、いっしょに町を歩いていた。
ケニアに行くまでは、「私は男性からは『こわい女』と思われている」と思いこんでいた。「究極のモテない女」というコンプレックスのかたまりだった。
今は典型的中年のオバサンになっている私だって、若いときはそれなりにカワイかったのに、と、昔のアルバムを開くたびに思う。だけど、当時は「私は決して男性にはカワイイと思ってもらえない」と思い込んでいた。
自分の生き方を捜し、何事にも自分の意見を持つような女性は「女らしくない」と言われた時代だったのだ。私が、自分の思うところ考えるところを率直に発言すると、世の男たちは「コワイナァ」という印象を持つらしかった。
女の子は男の述べる意見に「フーン、難しくって、アタシにはよくわかんないけど、あなたの考えってスゴイんじゃない。」なんて小首をかしげていわなくちゃならなかった。
私が自分の意見をいっても怖いと思わないらしいのは、Tさんだけだった。結婚後十年たって、Tさんの実家の家風にも精通した結果、これは姑の影響だったことがわかった。生れたときから「論理的思考」「理論的おしゃべり」の母親に育てられてきたので、女性が理屈を述べるのに何も抵抗がなかったのだ。
姑からの電話で「栄養学的、理論的献立の話」なんかが始まると、一時間も続いてたいへんなのだが、この姑の理屈好きがTさんの女性観を作ったと思えば、心して聞かねばならない。
どうして結婚したかといえば、私を怖がらなかったのはTさんしかいなかったから、ということになる。
二十歳の頃だったか「君の歩いている姿ってコワイ。」って言われたことがあったが、しゃべらなくっても、姿だけで、コワイ存在だったらしい。もうちょっと私が利口で、かわいこブリッコできる演技派だったら、もっと違う人生が展開したかもしれない。まあ、バカだったからこういう人生だったのだ、というしかない。娘も母がバカでよかったといっている。
娘が「どうして他の人じゃなくてお父さんが一番いいって思ったの?」と質問してきたときは「お父さんが、お母さんのこと美人だって思ってくれたから」と答えて、納得していた。
しかし、このごろ娘も父の価値基準法を理解してきて「お母さんはバカだね。お父さんは『ぼくは女性に対してブスなんて思ったことはない。ぼくにとって女性は「美人」「とっても美人」「ものすごく美人」の三種類しかないんだ』っていってるよ。お母さんのこと「美人」だって思っているなら、それは一番下のランクだってことじゃないの。世間の、ブス、ふつう、美人というランクに直せば、お父さんのいう美人は世間のブスってことだもん。ブスって思われて結婚しちゃったお母さんはバカだね。でも、お母さんがバカだったおかげで、わたしが生れてよかったあ。」
母「妻を美人と思ってくれる人と結婚しました」
娘9歳「だから、それは世間のランクではブスなんだっていってるでしょ」
父「僕の辞書にブスっていう言葉はない」
息子4歳「だから僕のお母さんは美人です」
母 「この次は乗ってみたいな玉の輿」
結論「美人の妻を得るための確実な方法。→ 世の女性を、美人・とっても美人・ものすごく美人、の三つに分類すればよい」
1992年十月二九日 木曜日(雨)「満十年の結婚記念日も、なんにもしないですぎたこと」
午前中、体育館でジャズダンス練習。
夫が「また行くのか」という顔をするので、「日本語教師はやっぱりジミで、私には合わないから、ダンサーめざすことにした。」と言っておいた。
「ダンサーになってお金稼げるようになったら、今度は私があなたを食べさせてやるから、楽しみに待っててね。ダンサーのヒモになれるなんて、嬉しいでしょう。」
十二年前、七月末にケニアのナイロビではじめて出会い、十年前、一九八二年の十月二九日に結婚式を挙げた。本日結婚満十年の記念日ナリ。
といっても、夫は「フンフン、めでたいことである。そうではあるが、パンツのゴムがのびている、まともに着られるワイシャツがない、ハンカチがない。」といいつつ着替えて仕事にいった。あまりにもおなかが出ているために、パンツのゴムもすぐ伸び切ってしまうのだ。御結婚満十年を記念する愛のパンツでも買うことにしよう。
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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/30のつっこみ
20年前、「結婚10年目でもなんのこともなくすぎた」結婚記念日。20年目も、25年目の銅婚も、まったく祝うこともなかったが、本年はついに30年目。
「自分の父親だから、悪く言いたくはないけれど、お母さん、どうしてああいう人と結婚しちゃったんだろうね、もうちょっとマシな人、いたでしょうに」と,娘から責め立てられはするけれど、30年前の私は、今よりもっとトガッていた。刺されてもいいと思って結婚する蛮勇ふるった男はひとりだけだったのだから、仕方がない。
あっちはあっちで、刺されまくって満身創痍。こっちはこっちでシングルハンドの子育て&家計維持を続けてくたびれ果てて、気がつきゃ互いに割れ鍋に綴じ蓋。