2013/03/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>新語旧語(3)ちょうちょ
(承前)「万葉集」には、蝶を詠んだ歌がない、というのも、やはり「魂の運び手」としての蝶を名指しで記録することは忌まれていたからなのでしょうか。夜あかりに集まる蛾のほうは、「ひひる」「火取り虫」として記録されています。
『魏志倭人伝』には卑弥呼の使者が魏に朝貢し、倭錦(わにしき)という日本の野蚕の織物を献上したという記録があります。野生の蛾を集め、繭から繊維をとることが卑弥呼の時代にもすでに行われていて、機織りがなされていたことがわかります。
東北の蚕神の「おしら様」、繭が白いところから「おしらさま」なのだろうと思っていましたが、ひらひら飛ぶ蛾の「おひら」様であったかもしれません。
沖縄の「てびらこ」も、蝶も蛾も含めての語と思われます。沖縄の古い民俗では、蝶は祖霊として大切にされ、祖霊の意思を問うシャーマンのみに蝶の文様の着物が許されたそうです。蝶は霊であり、死と結びつく忌むべきものと思われていました。沖縄よりさらに台湾よりの宮古や八重山などでは、蝶の訪れは吉祥で、蝶は神霊。どちらも、蝶を人を超えた尊い存在と見なしていました。
古代中国の「胡蝶の夢」、ギリシアのプシュケー伝説など、洋の東西、蝶と魂は結びつけられてきました。ギリシア哲学を導入したイスラム神秘主義においても、火に飛びこんで焼かれた蝶は、迷妄を離れて本来の人間としてよみがえった境地の象徴「ファナ」となるという教えがあるのだそうです。
蝶→卵→幼虫→さなぎ→蝶、という循環は、世界中で変化と再生の象徴になっていたことだろうと思います。サナギということばも、古代日本では重要なものでした。
東京国立博物館で出雲大社展を見たとき、出土品の銅鐸がたくさん並べられていました。その説明だったと思いますが、銅鐸は古語では「さなぎ」と呼ばれていた、と在りました。
11世紀末から12世紀頃に日本で成立した漢字事典「類聚名義妙」に「鐸」の和語として、オホスズ、ヌリデ、サナギと書かれています。「サナギ」というのは、銅鐸の形が蝶の蛹に似ているところからの命名かと思います。江戸時代まで、銅鐸は「佐名伎さなぎ」と呼ばれていました。明治時代以後は「銅鐸どうたく」
「さなぎ」は、古事記の出雲神話で、オオクニヌシの魂であるスクナヒコナが「さなぎ=ヒムシの皮、鵝」を着て表れたと書かれています。
これも、蝶が魂を運ぶことのひとつの表れだろうと思います。
『万葉集』の和歌には蝶の歌はありませんが、漢詩には表れる、と紹介しました。
平安初期。嵯峨天皇時代の『文華秀麗集』に蝶の漢詩が出てきます。蝶の群舞を漢詩にしています。音楽の響きなしに自ずから舞っているとしていますので、現実の蝶が野原に舞っているようすを詠んだのかもしれませんが、平安時代に盛んに上演された舞楽の「胡蝶」の光景から作られたのかもしれません。
嵯峨天皇の漢詩『舞蝶』
数群胡蝶飛乱空(数群の胡蝶空に飛び乱れ)
雑色紛紛花樹中(雑色粉々なり花樹の中)
本自還元不因響(本自弦管の響の因らず)
無心処々舞春風(無心にして処々春風に舞う)
『万葉集』には無かった蝶。八代集(古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、千載集、新古今集にも「蝶」は登場しません。『古今集』にわずかに「蝶」が詠まれています。思い惑う魂の象徴としての蝶、恋しい人に見せてはいけないものとしての蝶です。
「散りぬれば後はあくたになる花を 思い知らずもまどう蝶かな」僧正遍照
「こてふ(胡蝶)にも似たるものかな花薄 恋しき人に見すべかりけり」紀貫之
鳥は、「てう→チョウ」という音読みが伝わったのちも、「とり」という訓読み(和語)が使われ、神々や霊や魂を運ぶ乗り物として「天鳥船」という名も残りました。鳥を音読みで使う熟語として日常語であったのは「鳥目ちょうもく(=銭)くらい。同じ空飛ぶものであり、霊魂に関わると意識されたのに、「とり」は和語が残ったのに対し、「かはひらこ」は、地方の方言にしか残らず、中央の語は「てふ」だけになってしまったのは、なぜなのか、まだわかりません。ことばの栄枯盛衰は、まこと諸行無常の響きあり。
平安後期に後三条・白河・堀河の3代に使えた大江匡房の蝶の歌は、荘子の「胡蝶の夢」をふまえてのものと思われます。
「百とせの花にやどりて過ぐしてき この世は蝶の夢にぞありける」大江匡房
平安末期から鎌倉にかけては、藤原定家の日記『明月記』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』などに、蝶の群舞が不吉とされる記述があり、やはり、蝶の出現は、特別なもの、という意識が残されています。
人をも御神輿をも恐れなかった平家は、紋章のひとつとして「丸に揚羽蝶」を用いました。いつから平氏がこの紋を用いだしたのか、歴史に詳しくない私は知らないのですが、忠盛清盛の頃から平家公達が直衣直垂の模様として柄にし、後世、平氏末裔を称する武家の家紋となったようです。蝶を恐れた定家などの公家に対して、武家としての強い意志を感じます。定家などは、平氏の蝶紋を見るたびに滅びを予感したのかも知れません。
蝶の出現が恐れられた平安末期から鎌倉への変動期、民謡俗謡の歌詞を記録した『梁塵秘抄』(後白河法皇が1180年前後(治承年間)に編集)にある神歌(巫女達が歌ったものであろう)のひとつ。
♪ よくよくめでたく舞うものは 巫(こうなぎ)小楢(こなら)葉車の胴とかや
八千ごま蟾(ひきがえる)舞手くぐつ 花の園には蝶小鳥 ♪
白拍子や巫女たちが、神の言葉の伝達として謡うのが神歌。この神歌に出てくる「花の苑には蝶小鳥」も、人の魂を運ぶものとしての「蝶」の観念が残されているように思います。この歌を採録した治承年間といえば、おごれる平氏のおごりのまっさかりのころ。平清盛の妻の妹滋子(健春門院)が後白河上皇との間に産んだ高倉天皇、次いで清盛の娘徳子が高倉帝との間に産んだ安徳天皇が即位したころです。
この歌を料紙に書き写す後白河上皇は、目の前にひらひらと舞う花の園の蝶を目の当たりにしつつ、魂の行方をじっと見つめていた、そんな気もする巫女の歌と舞です。
平家の紋所のいろいろな蝶
室町以後になれば、蝶は紋章だけでなく、衣裳の図柄として盛んに染められもし、縫い取りもされます。東京国立博物館の能衣裳や小袖打ち掛けが並んでいる部屋その他衣裳博物館などには、蝶の模様が舞い踊り、刀の鍔にも蝶の模様が施されています。
さて、現代のちょうちょ。
かってはどこにでも飛び交っていたモンシロチョウさえ、現代の子ども達には縁遠いものになっているのだとか。
多摩動物園の昆虫館は、大温室の中に舞う蝶を見ることができます。ここで昆虫採集はできませんけれど、蝶の舞う姿を子どもに見せたいなら、いいかも。本当は、もちろん親子で蝶々を追いかけて虫取り網を振り回せる場所に行けるのが一番いいけれどね。
以上、春庭の「ちょうちょ」つれづれでした。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>新語旧語(3)ちょうちょ
(承前)「万葉集」には、蝶を詠んだ歌がない、というのも、やはり「魂の運び手」としての蝶を名指しで記録することは忌まれていたからなのでしょうか。夜あかりに集まる蛾のほうは、「ひひる」「火取り虫」として記録されています。
『魏志倭人伝』には卑弥呼の使者が魏に朝貢し、倭錦(わにしき)という日本の野蚕の織物を献上したという記録があります。野生の蛾を集め、繭から繊維をとることが卑弥呼の時代にもすでに行われていて、機織りがなされていたことがわかります。
東北の蚕神の「おしら様」、繭が白いところから「おしらさま」なのだろうと思っていましたが、ひらひら飛ぶ蛾の「おひら」様であったかもしれません。
沖縄の「てびらこ」も、蝶も蛾も含めての語と思われます。沖縄の古い民俗では、蝶は祖霊として大切にされ、祖霊の意思を問うシャーマンのみに蝶の文様の着物が許されたそうです。蝶は霊であり、死と結びつく忌むべきものと思われていました。沖縄よりさらに台湾よりの宮古や八重山などでは、蝶の訪れは吉祥で、蝶は神霊。どちらも、蝶を人を超えた尊い存在と見なしていました。
古代中国の「胡蝶の夢」、ギリシアのプシュケー伝説など、洋の東西、蝶と魂は結びつけられてきました。ギリシア哲学を導入したイスラム神秘主義においても、火に飛びこんで焼かれた蝶は、迷妄を離れて本来の人間としてよみがえった境地の象徴「ファナ」となるという教えがあるのだそうです。
蝶→卵→幼虫→さなぎ→蝶、という循環は、世界中で変化と再生の象徴になっていたことだろうと思います。サナギということばも、古代日本では重要なものでした。
東京国立博物館で出雲大社展を見たとき、出土品の銅鐸がたくさん並べられていました。その説明だったと思いますが、銅鐸は古語では「さなぎ」と呼ばれていた、と在りました。
11世紀末から12世紀頃に日本で成立した漢字事典「類聚名義妙」に「鐸」の和語として、オホスズ、ヌリデ、サナギと書かれています。「サナギ」というのは、銅鐸の形が蝶の蛹に似ているところからの命名かと思います。江戸時代まで、銅鐸は「佐名伎さなぎ」と呼ばれていました。明治時代以後は「銅鐸どうたく」
「さなぎ」は、古事記の出雲神話で、オオクニヌシの魂であるスクナヒコナが「さなぎ=ヒムシの皮、鵝」を着て表れたと書かれています。
これも、蝶が魂を運ぶことのひとつの表れだろうと思います。
『万葉集』の和歌には蝶の歌はありませんが、漢詩には表れる、と紹介しました。
平安初期。嵯峨天皇時代の『文華秀麗集』に蝶の漢詩が出てきます。蝶の群舞を漢詩にしています。音楽の響きなしに自ずから舞っているとしていますので、現実の蝶が野原に舞っているようすを詠んだのかもしれませんが、平安時代に盛んに上演された舞楽の「胡蝶」の光景から作られたのかもしれません。
嵯峨天皇の漢詩『舞蝶』
数群胡蝶飛乱空(数群の胡蝶空に飛び乱れ)
雑色紛紛花樹中(雑色粉々なり花樹の中)
本自還元不因響(本自弦管の響の因らず)
無心処々舞春風(無心にして処々春風に舞う)
『万葉集』には無かった蝶。八代集(古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞花集、千載集、新古今集にも「蝶」は登場しません。『古今集』にわずかに「蝶」が詠まれています。思い惑う魂の象徴としての蝶、恋しい人に見せてはいけないものとしての蝶です。
「散りぬれば後はあくたになる花を 思い知らずもまどう蝶かな」僧正遍照
「こてふ(胡蝶)にも似たるものかな花薄 恋しき人に見すべかりけり」紀貫之
鳥は、「てう→チョウ」という音読みが伝わったのちも、「とり」という訓読み(和語)が使われ、神々や霊や魂を運ぶ乗り物として「天鳥船」という名も残りました。鳥を音読みで使う熟語として日常語であったのは「鳥目ちょうもく(=銭)くらい。同じ空飛ぶものであり、霊魂に関わると意識されたのに、「とり」は和語が残ったのに対し、「かはひらこ」は、地方の方言にしか残らず、中央の語は「てふ」だけになってしまったのは、なぜなのか、まだわかりません。ことばの栄枯盛衰は、まこと諸行無常の響きあり。
平安後期に後三条・白河・堀河の3代に使えた大江匡房の蝶の歌は、荘子の「胡蝶の夢」をふまえてのものと思われます。
「百とせの花にやどりて過ぐしてき この世は蝶の夢にぞありける」大江匡房
平安末期から鎌倉にかけては、藤原定家の日記『明月記』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』などに、蝶の群舞が不吉とされる記述があり、やはり、蝶の出現は、特別なもの、という意識が残されています。
人をも御神輿をも恐れなかった平家は、紋章のひとつとして「丸に揚羽蝶」を用いました。いつから平氏がこの紋を用いだしたのか、歴史に詳しくない私は知らないのですが、忠盛清盛の頃から平家公達が直衣直垂の模様として柄にし、後世、平氏末裔を称する武家の家紋となったようです。蝶を恐れた定家などの公家に対して、武家としての強い意志を感じます。定家などは、平氏の蝶紋を見るたびに滅びを予感したのかも知れません。
蝶の出現が恐れられた平安末期から鎌倉への変動期、民謡俗謡の歌詞を記録した『梁塵秘抄』(後白河法皇が1180年前後(治承年間)に編集)にある神歌(巫女達が歌ったものであろう)のひとつ。
♪ よくよくめでたく舞うものは 巫(こうなぎ)小楢(こなら)葉車の胴とかや
八千ごま蟾(ひきがえる)舞手くぐつ 花の園には蝶小鳥 ♪
白拍子や巫女たちが、神の言葉の伝達として謡うのが神歌。この神歌に出てくる「花の苑には蝶小鳥」も、人の魂を運ぶものとしての「蝶」の観念が残されているように思います。この歌を採録した治承年間といえば、おごれる平氏のおごりのまっさかりのころ。平清盛の妻の妹滋子(健春門院)が後白河上皇との間に産んだ高倉天皇、次いで清盛の娘徳子が高倉帝との間に産んだ安徳天皇が即位したころです。
この歌を料紙に書き写す後白河上皇は、目の前にひらひらと舞う花の園の蝶を目の当たりにしつつ、魂の行方をじっと見つめていた、そんな気もする巫女の歌と舞です。
平家の紋所のいろいろな蝶
室町以後になれば、蝶は紋章だけでなく、衣裳の図柄として盛んに染められもし、縫い取りもされます。東京国立博物館の能衣裳や小袖打ち掛けが並んでいる部屋その他衣裳博物館などには、蝶の模様が舞い踊り、刀の鍔にも蝶の模様が施されています。
さて、現代のちょうちょ。
かってはどこにでも飛び交っていたモンシロチョウさえ、現代の子ども達には縁遠いものになっているのだとか。
多摩動物園の昆虫館は、大温室の中に舞う蝶を見ることができます。ここで昆虫採集はできませんけれど、蝶の舞う姿を子どもに見せたいなら、いいかも。本当は、もちろん親子で蝶々を追いかけて虫取り網を振り回せる場所に行けるのが一番いいけれどね。
以上、春庭の「ちょうちょ」つれづれでした。
<つづく>