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ぽかぽか春庭「幕末写真を見る」

2013-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/03/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>記憶と記録 写真を見る(8)ツンデレ系No.1池田長発 夜明けまえ-知られざる日本写真開拓史北海道東北編  

 東京都写真美術館の「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史」展は、2007年の「関東編」からはじまり、2009年「.中部・近畿・中国編」、2011年「四国・九州・沖縄編」と、回を重ね、今回は「北海道東北編」です。
 私は、2007年2009年のときは中国赴任中だったので、見ることができず、2011年3月-5月の会期には震災後アパシーで出かける気になれず、2013年3月20日、今回初めてこのシリーズをみました。
 今回、写真展のポスターが、イケメン土方歳三の箱館戦争時のポートレートを大きくデザインしたものなので、土方ファンも見にきて、写真展としてはなかなかのにぎわいでした。

 この写真開拓史展は、東京都写真美術館が、日本各地の博物館美術館に所蔵の古写真について、アンケートを送付し、全国にどれくらい古写真が保存されているか調査するところから始められています。地方の博物館などに、中央には知られていない古写真が数多く所蔵されていることがわかりました。
 地元にゆかりの展示などがなされるときには人目にふれるチャンスもあったし、上野彦馬や下岡連杖などの幕末写真師の研究などで知られた古写真も多いけれど、地方のまとまった古写真記録としては、このシリーズがはじめてといってよい本格的な収集展示なのです。

 写真は、日光などにさらされると痛みますから、館内の照明は暗く50ルックスに設定されています。貴重な本物の写真は保存を優先すべきです。
 私は、館内掲示は、レプリカで十分だと思っています。写真を納めた台紙やアルバムの現物など、「モノ」としての展示は、レプリカ制作にもお金がかかるし、現物を50ルクスで見るのもしかたがありませんが、画像展示は、すべてレプリカ展示またはスライド展示でけっこうだと思います。本物は、研究者などに見せるだけに限定し、私のような素人には、デジタル再生新プリントまたはコロタイプ印刷でのレプリカで十分です。

 写真帳の掲示は1ページしか出来ませんから、スライド上映がなされていました。
 ほとんどの写真をこのスライド方式で掲示し、「写真撮影ご自由に」にすればよいと思います。100年前の写真、「公の記憶」にすべきです。

 写美その他の研究者の方々、貴重な写真の収集展示をありがとうございました。これからの歴史研究、写真研究に、「知られざる日本写真開拓史」の写真が寄与していくだろうと思います。

 今回の「北海道・東北編」でも、明治期の天災被害写真とか、千島列島探検時の写真など、今まで見たことのない写真を見ることができました。
 東京都写真美術館の研究報告書を買ってきました。図録ではないので、掲載写真よりも資料や研究報告のほうが多いですが、貴重な記録です。関東編、九州編なども写真美術館4階の図書室で閲覧してきました。

「夜明けまえ」研究報告書


 幕末明治の写真術黎明期の写真師について、長崎の上野彦馬、横浜の下岡蓮杖の名は知っていましたが、今回、函館の開業写真師田本研造をはじめて知りました。冒頭の土方歳三を撮った写真師です。


 この写真は、フランスに同様の写真が残されていてフランス人が撮影したのかと思われていました。写真に写っている「徳川幕府逃亡武士(箱館戦争従軍の徳川軍武士とフランス軍事顧問団の兵士たち)」の中の、フランス人軍曹らの名前も判明しています。この写真が函館にもあったことから、撮影したのは田本研造ではないか、という説も出ています。

 肖像写真では、大月文彦が依頼して撮影された父親の大槻盤渓の肖像写真とか、押川春浪の12~13歳と思われるころの写真とか、クラーク博士、新渡戸稲造夫妻、など、興味深い写真がたくさんありました。

 幕末随一のイケメンは冒頭の「土方歳三」で、なんと言っても本人が「京都の女たちにモテてモテて、困っちゃうな」なんていう手紙を残している。
 ジャニーズ系またはジュノンボーイ系の土方に対して、「ツンデレ」系No.1と思えるのが、徳川幕府外国奉行にして1864年の幕府第2回遣欧使節(横浜鎖港談判使節)正使、池田筑後守長発(いけだちくごのかみながおき)です。東大図書館などが所蔵する上半身の肖像は見たことがありますが、全身の肖像をはじめて見ました。

第2回遣欧使節正使 池田筑後守長発(撮影:ナダール)
 

 「第二回遣欧使節」の写真。
 一行は、エジプトスフィンクスの前で集合写真を撮ったり、ユニークな視察旅行をしてきました。正使は27歳の外国奉行、池田長発(いけだながおき 1837 - 1879)。横浜港を閉鎖する条約を結ぶべきなのに、パリを見るや開港派となってしまった池田長発は、帰国後「開港」を主張したために蟄居厳封。のちに許されて軍艦奉行になりましたが、直後幕府は瓦解。体をこわして43歳で死去。

 第二回遣欧使節一行は、スフィンクスの前でベアトに写真を撮らせたほか、パリの写真師ナダール(Nadar本名ガスパール=フェリックス・トゥールナションGaspard-Felix Tournachon) に、さまざまな肖像写真を撮らせました。

 ナダールは、気球旅行を企てたり、小説、雑誌編集などさまざまなことを試みた近代人ですが、はるばる東洋の片隅からやってきた幕府派遣のサムライたちを、「奇妙な人々」と思い、見世物気分で「サムライの肖像」を撮影しました。ナダールの息子がいっしょに写っている写真が、展示されていました。


左は谷津勘四郎(小人目付)、右は斎藤次郎太郎(徒目付)中央、ナダールの息子。武士ふたりは気張って写されているのに、息子は小生意気な顔つきで、「東方から来た野蛮人どもといっしょに写されてやるか、やれやれ」という声が聞こえてきそうな。

 ナダールの撮影した肖像のなかで、「すみ」という女性がいます。
 清水卯三郎が1867年のパリ万博に茶店をしつらえ、桃割りを結ったおすみ、おかね、おさと、の3人にお茶の接待をさせたのが、パリ中で大人気だったことが記録されています。「本物のゲイシャガール」として万博のようすを報道する新聞のイラストにも登場していますが、髪型は桃割れだったいうことから、芸者になる前の半玉だったのかもしれません。徳川昭武随行員としてパリ万博に派遣された渋沢栄一が航西日誌にこのゲイシャガールについて記録しています。

 展示会場の「すみ」写真の展示の説明によると、第二回遣欧使節に同行した、おそらくは一行の小間使いとして働いた、または正使の身の回りのお世話係だった女性のひとりだろう、ということです。
 果たして1864年遣欧使節団の小間使い「すみ」と、1867年のパリ万博茶店の柳橋芸者「すみ」が同一人物なのかどうか。パリ万博の方は記録に残されていますが、第二回遣欧使節に同行した方は、幕府の記録にはいっさい表れない女性です。秘密裏に連れて行った?
 ナダールが写真を撮ったことにより、「すみ」という名と肖像が伝わりました。

 民間人で幕末に米欧へ出かけて行ったのは、奇術見世物小屋の一行です。アメリカやヨーロッパで興業して回りました。その中には女性もいたと思いますが、1864年の「すみ」は、当時もっとも早くに西欧を見た女性のひとりでしょう。なんらかの記録が残されていたら良かったのにと思います。幕末の歴史研究、女性史研究、写真映像研究のどこかで、「すみ」について発表があるなら、ぜひ読みたいです。

 幕末明治期の写真、ほんとうに興味深い展示でした。

<つづく>
コメント (4)
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