
ロバート・キャパ撮影「PCと書かれた石によりかかるゲルダ」
2013/03/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>写真を見る(12)二人の写真家展その4戦場写真家
1937年7月25日、タローはブルネテの戦いにおける敵軍襲来の混乱の中、自軍の戦車とゲルダの乗った車が衝突するという事故にあい、亡くなりました。
そして、彼女の死は、共和軍側、パリ人民戦線側にとって、「聖女の殉死」として大きな宣伝材料になったため、特別な墓が用意され、葬儀には反ファシズムに共感する数万の人々が連なりました。しかし、スペイン戦争がファシズム側のフランコ総統率いる右派軍が勝利をおさめると、ゲルダ・タローの名は忘れ去られていきました。スペインは、以後1977年の王制復活までフランコ独裁が続きました。
ゲルダ・タローの墓の写真を見ていて、昨年8月シリア内戦取材中に亡くなった山本美加さんを思い出しました。山本さんは、15年間公私にわたるパートナーとしてともに取材してきた佐藤和孝さんと同行の取材中でした。なぜ狙撃手が佐藤さんのほうでなく山本さんのほうを狙い撃ちにしたのかというと、おそらく「女性であること」が原因だろうと思います。イスラムの地では、女性が男性とともに行動するというだけで反発を招きますから。それでも山本さんはパートナーと共に紛争地へ出かけた。女性でなければ写し得ないショットがあったからだと思います。
女性戦場写真家。1937年に27歳の誕生日直前に亡くなったゲルダ・タロー。2012年8月に45歳で亡くなった山本美香。もっともっと自分の写真を撮りたかったろうと思います。でも、彼女らの写真は残ります。強烈な意志によってとり続けた一枚の画像は、人の心を動かし、何ものかを与えずにおきません。
一連の紛争地域の写真を見るとき、私はただ、人の心のひとつの継承を感じ、「真実を伝えること」の中に消えていった美しい魂を忘れない、と写真に語りかけます。
ゲルダ・タローさん、山本美香さん、あなたの写した真実は、私の心に届きました。
山本美香は、著書『戦争を取材する』の中で、ひとつのエピソードを紹介しています。
内戦に苦しむ人々を取材しながら、「医者なら目の前の命を救えるが、記者の仕事にどれほどの意味があるのか」と、自問し、やがて無力感に襲われる。そんなとき、わが子を失ったばかりの父親が言った。「こんな遠くまで来てくれてありがとう。世界中のだれも私たちのことなど知らないと思っていた。忘れられていると思っていた」
山本は、読者に語りかける。「世界は戦争ばかり、と悲観している時間はありません。この瞬間にもまたひとつ、またふたつ…大切な命がうばわれているかもしれない-目をつぶってそんなことを想像してみてください」
日本は、「フツーに戦争できる国」を目指すのだそうだ。そして人々はその政策を支持している。選挙で選んだのだから。ナチスドイツのヒットラーだって選挙で選ばれた。
彼は、「支持されたのだから、人々は景気回復が成功すれば喜ぶ。景気回復のためには原発も復活するし、武器も売る」と、考えている。
私は、いかなる大義名分があろうと、武力による紛争解決を望みません。たぶん、数年後には非国民と呼ばれるようになるのかもしれませんが、私は平和を希求します。命をかけて現場に出かけて行ったゲルダや山本美香にくらべて、私は安全な場所にいてらちもないことを言っているだけ、という現実は承知していますが。
ゲルダ・タローも山本美香も戦場に身を投じ、一身をなげうって真実の報道を志しました。ゲルダは写真のほか、著作を残していないけれど、キャパほかの友人たちに言い残したことばから、どんな気持ちで報道に命をかけたのかはわかる。
ゲルダはナチスによって故郷を追われた一家の出身であり、故郷を出てから二度と家族と会うことはできなかった運命のなかで、難民のこどもや女たち、共和軍の女たちをとり続けました。なぜ戦争を報道するか、真実を伝えるため、そして真実を知ることにより平和への願いを人々が持ちつづけるためであったと思います。
ゲルダ・タローの作品、写真史の上で、また写真の構図や光線の取り入れ具合とか、技術的な論評は専門家たちはいろいろするでしょう。私には、ただ、ゲルダの撮った写真から、人間存在の根源的な美しさを感じるのみ。
彼女自身が美しいひとであったのと同じく、ゲルダの撮った写真は、美しい。(二人の写真家展の感想おわり)
<つづく>