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ぽかぽか春庭「私のにんぎょうはよい人形」

2014-07-19 11:11:11 | エッセイ、コラム

名古屋市に現存する青い目の人形

20140717
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>人形愛(1)私のにんぎょうはよい人形

 先日、リカちゃんハウスの記事が新聞に載っていました。娘は新聞の写真を見て「わぁ、なつかしい。わたし、これ持っていたんだよね」と言いました。「買ってもらったとき、チョーうれしかったんだ」
 私が買ってあげたのではありません。

 最初に私が中国に単身赴任したとき、20年前のことです。9歳だった娘と5歳だった息子を、妹のモモ一家に半年間預けて、単身が条件だった仕事を引き受けました。
 舅姑の親族は、夫に収入がないことを知らず、「子供を捨ててまで自分のしたい仕事をする母親」と暗に非難していたことは知っていましたが、そんなこと気にする暇もないほど追い詰められていました。この仕事がなければ、一家心中でもしなければならないところでした。

 モモは、息子の保育園お遊戯会の衣装を手作りするやら大わらわだったことを、今でも「大変だったんだからぁ」と言いますが、もちろん、感謝し続けています。モモは娘にやくそくしました。「お母さんがいない間、がんばって弟くんのお世話をちゃんとできたら、リカちゃんハウスを買ってあげる」
 夏休みになって、モモが娘息子を中国に連れてきてくれました。娘の第一番の報告は、「リカちゃんハウスを買ってもらった」でした。

 極貧生活の我が家、娘が着る服もおもちゃも、すべて娘の従姉たち(私の姉の娘ふたり、妹の娘ふたり)のお下がりでまかなっていました。私が新しいものを買ってあげたことはほとんどなかったので、買い物大好きのモモが、その半年の間に新しい服を次々に買ってくれたこと、娘にとっては、「服って、お店で買うものなんだ」と、新世界だったようです
 そしてついに「リカちゃんハウス」を買ってもらいました。

 広げると畳半畳くらいの大きさになる「豪華人形の家」でした。4人の従姉からのお下がりバービーやらリカちゃんやらが10体も暮らしている家。残念ながら、2DKの我が家では、広げると寝るところがなくなってしまうため、めったにフルオープンはできませんでしたけれど。

 私が育った実家はお金持ちではなく、ごく普通の会社員の生活でしたが、私の姉は独身の伯母に金銭つぎ込まれて育ち、人形でも服でも靴でも「あれがほしい」と、ねだって買ってもらえなかったことがありませんでした。一方私は、毎月母がこども雑誌を買ってくれることで満足していたので、ほかのものを「ほしい」と思ったことはありませんでした。
 子供の頃、私が父にねだった唯一のこと。「家には、犬と猫がいるけれど、わたし、ほんとうは馬、飼いたい」というのが、一番のおねだり。速攻却下されましたが。

 そのほかで、「ほしい」とねだって買ったもので思い出に残っているのは、東京の三越本店で買ってもらった「ミルク飲み人形」です。小さな哺乳瓶の水を口に当てると、人形の口に入っていき、ビニールのクダを通っておしめがぬれる、ただそれだけの人形なのですが、当時としては最新式。
 5歳年下の妹が人形をほしがるころには、もう当たり前になっていて、田舎町のおもちゃ屋でも売っていましたが、私が三越で買ってもらったときは、田舎のおもちゃ屋には売っていない「ハイカラ」人形だったのです。

 姉とのままごと遊びや人形遊び。田舎の家の縁側で、母に端切れをもらって、手縫いで人形の服を作りました。姉はミシンが使えるようになると、ミシンを使ってと
ても器用にフリルのついたスカートやフレアースカートを作りました。私は、いつも直線裁ちの、昔でいう「アッパッパ」というズドンとしたワンピース一本やり。脇を縫って裾をまつればできあがり。人形が裸でなければそれでいいのです。

 長じて、私のファッション感覚「冬は寒くなければいい。夏は裸でなければいい」となり、姉は中学生になるとファッション雑誌を毎月定期購読するおしゃれ少女になって、高校生になるとファッション雑誌についている付録の型紙をつかって、自分のスカートなどを作っていました。私は中学家庭科の課題で、パジャマを作らされたとき、右前身頃を2枚作ってしまい、布地を買い足さなければならなくなって、それ以来洋裁には縁なく暮らしてきました。

 でも、後年、娘のリカちゃんたちのためには、人形の服作りも、けっこうがんばったのです。下手でしたけれど。
 娘は、「おばあちゃんに、リカちゃんの浴衣とウェディングドレスを作ってもらって、うれしかったなあ」と言います。
 娘は、その恩に報いるべく、嫁にもいかず、卒寿ばあちゃんのお世話に励んでいます。
 娘のリカちゃんハウスは、妹が運営に携わっていたNPO「学校に行かない子供のための居場所、Sハウス」に寄付して、低学年の女の子たちのためには、役立ってきたのではないかと思います。

 思い出の人形。私のミルク飲み人形、娘のリカちゃんバービーたち。
 生きていれば今年97歳になるはずの私の母にも、思い出の人形がありました。(母の年は54歳でとまっていますけれど)
 母が折りにふれて語ってくれた、小学校時代の思い出の人形。学校代表として朝礼台の上で校長先生から手渡された「青い目の人形」です。

 全国で12,739体の人形がアメリカから友好のあかしとして日本の小学校幼稚園に贈られたそうです。
 小学生だった母、どれほど晴れがましい思いで人形を抱きしめたことでしょう。残念ながら、母がだっこした青い目の人形は、現存の記録にはありません。戦時中に「敵国のもの」として廃棄してしまった校長先生もいたとか。
現存している「青い目の人形」は、今年で87歳になるんですね。

 昔、女の子だった人、みな心の中に「わたしのにんぎょう」がいるんではないかと思います 

<つづく>
コメント (2)
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