春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「her/世界にたったひとつの彼女vs南極1号そして、バッテリーはビンビンな雨上がりの夜」

2014-07-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140722
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>人形愛(3)her/世界にたったひとつの彼女vs南極1号そして、バッテリーはビンビンな雨上がりの夜

 最近の若者は、アニメや漫画などの平面に現れる画像に「萌える」、さらには2次元の彼女を相手に本気で恋をする、という話題は、すでにニュースにもならない。
 しかし、この夏、モニターの中のAI(人工知能)との恋を描いた「her/世界にたったひとつの彼女」がヒットしたというのは、ニュースになっています。スパイク・ジョーンズ監督はインタビューに答えて「恋人の設定が人工知能なだけで、これは恋愛映画」と述べた由。

 私は未見ですが、予告編によると。
 主人公セオドアは離婚後も傷ついた心を癒やせないままでいましたが、人工知能型OS(AI)であるサマンサ(声:スカーレット・ヨハンソン)と、言葉を交わすようになってから、生気をとりもどし、生き生きとした生活ができるようになります。やがてモニターの中から声だけを伝えてくる彼女に恋愛感情を持つようになります。
 身体なきサマンサを恋する気持ちは、どうなっていくのか。AIサマンサが恋人として相手にしているのは、セオドアだけではない、という当然の事実を知ったあとは、、、、

 体を持たないAIとの恋との対極にあるのが、心を持たない(言葉での応対をしない)人形を愛するお話です。
 ギリシャ神話に登場するキプロス島のピュグマリオーン王は、この世の現実の女性に失望していました。王は自ら理想の女性ガラテアを彫刻し、朝夕眺めて暮らすようになります。最初は裸体で掘りましたが、ガラテアに感情移入すると、服を着ていないことに恥ずかしさを覚え、服を彫り入れます。そしてピグマリオン王はガラテアに恋をするのです。

 以来、人形を愛する話はいろいろ作られました。バレエ作品なら「コッペリア」とか。
 映画『空気人形』は、空気を入れて膨らませて使うタイプのラブドールが、人の心を持つというストーリー。
 私はダッチワイフというほうに耳が慣れていますが、ダッチとはオランダのことなので、今はトルコ風呂をソープランドって言うみたいに、国名関係を風俗ものの名につかうのはNGみたいです)

 単純な射精欲だけを満たすものなら、シリコン製のラブドールだのアンドロイドだの、南極1号以来、さまざまなタイプが進化開発されているのでしょう。
 けれど、ラブドールだけでは、人の欲望のもうひとつのもの、認証欲を満たせない。

 「自分の存在をかけがえのないものとして認め、自分のよい点を褒め、励ましてくれる」という、従来は親とか神とか世間とかが担ってきた役割。
 はたしてAIによる代行で人は認証欲が満たされるのだろうか。セオドアにとってサマンサは唯一の「自分をわかってくれる存在」であっても、サマンサにとってはそうではない。まあ人間同士なら一方にとっては恋で、他方にとっては「その他大勢」の片思い。片思いも恋はこいなんだろうけどね。という興味で映画を見てみます。

 サマンサタイプのAI、もうちょっとモバイル性能を向上させれば、ラブドールに組み込むことができて、会話しながら使用するのも可能じゃね?日本のすぐれたロボット技術なら、もうそこまで研究はきていると思います。

 で、形而上的なほうでは、身体性の問題とか「間身体性」とか「間主観性」とかを哲学者とか社会学者があれこれ云々するに違いない。
 形而下のほうだと、ラブドールをめぐる三角関係とか起こって、殺し合い事件などが起こり、最愛のラブドールを破壊してしまった罪への慰謝料は、ペット殺しの場合に相当するのか、単なる器物損壊かなどをめぐって、司法見解も分かれるだろうし。家族同然に愛していたんだから、器物損壊への罪だけじゃ足りない、じゃ、法の整備もせねば、、、、

 そこで問題になるのは、壊れたラブドールの記憶媒体をそっくり同じタイプの新品ラブドールに組み込んだものは、もとのラブドールと同一と言っていいのかどうか。そうなると唯一無二性の定義も変わってしまうし。「私」と「他者」の定義でまたいろいろたいへんだ。というわけで、ラブドール問題とは、「間身体性」とか「間主観性」とか、めんどくさいのであります。

 私が考えてもわかんないんで、ここはひとつ忌野清志郎「雨上がりの夜に」でも聞きながら、お過ごしください。あ~、特に選曲に意味はありません。「今夜のおかずはなんだよー」と思いながら牛乳を買っていたら、スーパーの店内に流れていた曲です。

https://www.youtube.com/watch?v=AW4MiYudAJI

 7月22日の朝刊によると、倉敷の女児誘拐事件。藤原武容疑者は、「防音装置の部屋の中で女児を好みの女性に育てたかった」と、誘拐動機を供述しています。
 う~ん、日本文学には、『源氏物語』から『痴人の愛』『東京doll』までの、「少女を好みの女性に育てたい」願望文学があります。

 私の勝手な解釈によれば、これはマザコンの裏返し現象であり、成熟した一人前の女性と対峙できない、弱っちい男のコンプレックスの表れです。(ここで用いているマザコンは、現代日本語の四音節省略語としての俗用マザコンであって、フロイトのいうエディプス複合の俗流翻訳としての用語ではありません。為念)

 数え年10歳の女児「若紫」を誘拐して好みの女性に育て上げた光源氏以来の「人形愛」があるので、ときどき現実に妄想してしまうこういうおばかな男が出てくるのですが、妄想は文学に昇華してほしい。谷崎もナオミの成熟成長を描き、紫式部も「若紫」が人形のよう愛らしい少女から自立する過程もきちっと描いているのはさすがです。

 現代日本の俗用の「人形愛」には、人形を人間のように愛する、という用いられ方と、人間を人形のように愛する、という用いられ方があるのですが、光源氏や藤原容疑者のは後者。私の今回のシリーズは、前者ですから、人間を人形のように扱うほうは、論外と考えます。

 人形を恋愛の相手にして愛するのは、趣味嗜癖の範囲として認めますが、人間の女性、少女を人形のように扱うことは、断じて許しません。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする