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ぽかぽか春庭「津金学校(須玉三代の学校)」

2014-09-02 00:00:01 | エッセイ、コラム

津金学校

20140903
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part2(1)津金学校(須玉三代の学校)

 一般に「擬洋風建築」と呼ばれている近代洋風建物、山梨県では特に「藤村式建築」と名付けられています。
 建築趣味の県令(現在の県知事)藤村紫朗(ふじむらしろう1845 - 1908)の号令のもと、1874-1887年に山梨県内の公共施設や学校の多くが、「洋風建築」として建設されました。

 明治初期、山梨県では、藤村紫朗が県政に辣腕をふるい、殖産興業・教育改革を実行しました。学校建築もその施政のひとつです。藤村のやり方は、官が命令を下して旗を振り、ただし、費用は地元に負わせる、という方法。そのため、後年には大きな反発も生まれ、反藤村勢力ができましたが、明治19年に藤村が愛媛県知事に転任するまでに、県内に100以上もの建物が建てられました。

 8月3日、妹といっしょの清里ドライブ。
 妹と姪のお気に入り「森の雑貨屋」で木工製品の買い物をしたあとは、私の希望で「津金学校」を見学しました。津金学校は、三代の学校校舎が並んでいます。

 昭和校舎は元は津金中学校でしたが、建て直されて、パン屋、地元産の野菜を売る店、昭和の給食が人気メニューになっているレストランが運営されていて「おいしい学校」と呼ばれています。8月3日は予約の団体利用のみの営業で、残念ながら一般客は給食を食べられませんでした
 大正時代の校舎は、復元修復された木造校舎で、地域住民交流施設になり「ハーモニカ教室」など、地域の人たちの居場所です。

大正の校舎


 明治の校舎は須玉歴史資料館となり、古い音楽教育用の楽器などを展示しています。 
 明治津金学校は、藤村式学校の最初期の学校です。
 山梨県須玉町津金地区(現・北杜市須玉町下津金2963)に、1875(明治9)年に建てられました。藤村紫朗の号令により、村人達が寄付を集め、大工棟梁小宮山弥太郎が統括して完成しました。
 津金学校は、移転などがなされずに、地元にそのまま保存がなされたという点で貴重な擬洋風建築です。



 漆喰壁の校舎に大唐破風(おおからはふ)造りの玄関、西洋のチャペル鐘楼を模した太鼓楼など、在来の大工技術により西洋建築の外観を模した和洋折衷の作りです。ドアやベランダ手すり、鎧戸の窓は、当時輸入品で高価だった青いペンキで塗られ、村の人々は文明開花を実感しつつ、ハイカラな校舎を誇りにしたことでしょう。

玄関の唐破風


2階ベランダの菱組み天井

太鼓楼と始業終業を知らせる太鼓楼


青い鎧戸


復元された2階教室




 大工棟梁小宮山弥太郎は、1828年10月17日甲斐塩山(今の塩山市)に生まれ、15歳の時に島村半平に弟子入り、宮大工の修行に励みました。洋風建築については、独学だそうです。
 弥太郎は、藤村紫朗の号令のもと、梁木(やなぎ)学校、琢美(たくみ)学校、山梨県師範学校などの学校建築、甲府及び静岡裁判所、県立病院、山梨県庁舎などの公官庁の建物を手がけ、藤村が愛媛県知事に転任すると、愛媛に呼ばれて建築を任されています。それだけ小宮山の腕が信頼されていたのでしょう。

 愛媛での5年間仕事をしたのち山梨に戻り、後進を育てつつ、1917(大正6)年には宮大工棟梁として武田神社の新築を監督しました。1920(大正9)年93歳の長命を保った一生、大工として思い残すことのない生涯だったと思います。

 小宮山の建てた藤村式建築のうち、現在も保存されているのは、この睦沢学校だけです。
 山梨県だけでなく、明治初期の大工達は独学で洋風建築を学び、明治の文明開化を建物によって人々に見せることをやり遂げました。
 残念ながら、当時の建築図面などの記録類が残されていることはほとんどなく、担当した棟梁や左官の名も残されていないことが多いのです。解体修理のさいに、天井裏などから棟板が発見され、こそに大工左官の名が書かれていたのが発見され、ようやく大工棟梁名などが明らかになった、という例もあります。

 建築を命じた建築趣味の県令藤村紫朗は、男爵ともなり、記念館も建って顕彰されていますが、大工や左官も、もっと顕彰されるべきだと思います。
 もっとも、小宮山は、武田神社や睦沢学校がこうして現存しているだけで、満足しているのかもしれませんが。

 うれしいことに、展示品のオルガンや蓄音機は、「自由にお使いください」という表示が出ていて、小学唱歌の楽譜などがおいてあります。
 私と妹が、かわるがわる50年前に習ったバイエルの曲などをたどたどしく弾いて音を出してみたら、3月まで保育園の保母さんをしていた姪は、子供達と歌った歌を上手に弾いて聞かせてくれました。

 明治時代の田舎では、人々にとって学校は唯一の「文明文化に向かって開かれた窓」だったのだろうなあと、オルガンの音色に聞き入りました。
 すっかりと指が動かなくなっていて、バイエルさえ満足に弾けなかった私は、高所恐怖症の妹は上ってこられない太鼓楼に上って、「自由にたたいてください」とバチがおいてあるので、終業を知らせる太鼓をドンドンと打ち鳴らしました。




<つづく>
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