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ぽかぽか「旧睦沢学校(藤村記念館)」

2014-09-03 00:00:01 | エッセイ、コラム

旧・睦沢学校

20140903
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part2(2)旧睦沢学校(藤村記念館)

 8月2日、中央線で小淵沢に向かう途中、甲府駅を通過するとき車窓から見かけたのが、「旧睦沢学校校舎」。
 2010年から甲府駅北口で公開されているのですが、去年2013年に電車で甲府を通過したときは、3度とも寝てしまい、気づきませんでした。「乗り鉄」は本来、車窓を眺めることこそ電車に乗る喜びを感じるものなのに、電車に揺られるとすぐに眠くなるのも事実。
 2014年8月3日は、ちゃんと甲府駅の外を見ていられました。

 山梨県内に現存する藤村式建築の学校は5校。睦沢学校(甲府市藤村記念館)、尾県学校(尾県郷土資料館 都留市)、室伏学校(牧丘郷土資料館 山梨市)、津金学校(須玉歴史資料館 北杜市)、舂米(つきよね)学校(富士川町民俗資料館 富士川町)。
(舂米の「舂」は、「春」の「日」が「臼うす」です。米を舂いて精米するのが「舂」。校正者泣かせの漢字のひとつ。「柿かき」の旁は市「いち」だけど「杮こけら」は「市」じゃない、みたいな、留学生ならずとも、どこがどう違うんじゃ、と言いたくなる漢字もあります)

 山梨県の藤村式建築をめぐる散歩もいつかコンプリートしたいけれど、8月3日に行った津金学校と、8月26日に見た旧睦沢学校校舎の紹介から。

 8月26日火曜日、甲府市へ行きました。山梨県立美術館でミレー展を見るのと、旧睦沢学校を見るためです。
 甲府で下車するのは、40年ぶりくらい。40年前の甲府駅がどうだったか、まったく記憶にありませんが、駅の北口はきれいに整備され、北口広場には、旧睦沢学校が移築復元され、「藤村記念館」として公開されていました。

 睦沢学校は、1875(明治8)年、睦沢村(現・甲斐市亀沢)に建てられました。1960年代になると、老朽化のため、解体後、廃棄されることになっていました。当時は「古い木造建築でなく、コンクリ製の新しい校舎こそ子ども達のためになる」という意見が主流。しかし、歴史ある建物を惜しむ人々によって、いったん解体された校舎を移築復元しようという運動が起こり、武田神社境内に復元され、公民館として利用されてきました。
 旧睦沢学校校舎は、1967年に重要文化財指定。



 さらに、甲府駅北口整備の際、武田神社から駅前広場へ移転し、これらの藤村式建物を主導した県令藤村紫朗の記念館として残されることになりました。

塔楼

 旧睦沢学校は、1875(明治8)年、藤村式学校の中でも、もっとも早い時期に建設されたもののひとつです。
 手がけた大工棟梁は松木輝殷(てるしげ)。
 山梨県旧下山村で「下山大工」と呼ばれたる大工達の頭領のひとり。下山大工は、大工集団として知られ、早くは鎌倉時代から大工として活動し、各地の神社仏閣武家屋敷などの建築を担ってきたそうです。

 松木八三郎輝殷(1843-1882)は、下山の宮大工頭領松木運四郎宣絹の次男として生まれ、父の元で宮大工として修行をはじめました。10年ほどの修業時代に、宮大工の技のほか、建築の製図、積算、神社仏閣を飾る彫刻の絵様(デザイン)までを身につけました。
  明治維新後、父が亡くなると25歳で独立しましたが、明治政府の廃仏毀釈の時代となり、宮大工の仕事が激減していました。
 八三郎が独立したころ、山梨県に赴任してきたのが県令藤村紫朗です。

 藤村の命を受けて、小宮山弥太郎は津金学校を建てたあと、梁木学校、琢美学校、勧業製糸場を完成させていました。松木八三郎がどの時期から洋風建築に携わったのかは、正確な記録はありませんが、八三郎の父運四郎と小宮山の師匠が知り合いだった関係から洋風建築に関わっていったのではないかと推察されています。
 藤村から次なる学校の建築依頼を受けた小宮山は、裁判所などの官庁の建設に手一杯だったため、相弟子だった松木運四郎を継ぐ八三郎の腕を見込んで、日川学校を彼に託したのではないかと。

睦沢学校ベランダ


 八三郎は、1875(明治8)年に睦沢学校を完成させ、続けて祝学校などを建てていきました。
 睦沢学校大工支払帳には「輝殷」と記されています。洋風建築大工として転身した折に八三郎ではなく、輝殷と名乗ったと思われます。
  明治初期の廃仏毀釈が収まったあと、輝殷は寺や神社の設計図を書き、本来の宮大工として働こうとしましたが、惜しくも39歳でなくなりました。
 亡くなったのちも、松木輝殷がおこした図面をもとにした勝沼郵便電信局舎が1898年(明治31)年頃に建てられるなど、輝殷の仕事は受け継がれていきました。 

 このようなに、下山大工の残した仕事が明らかになったのは、松木輝殷の子孫が建築図面などを大切に保存し、公開したことによります。松木家文書により、江戸時代後期から昭和初期に及大工関係資料が広く知られ、山梨の建築文化研究が進展しました。
 
 甲府駅前の旧睦沢学校は藤村記念館となり、1階には藤村の事跡を知らせる一室があります。
 1880(明治13)年には、明治天皇の甲州・東山道東山道行幸が行われました。藤村紫朗は、さぞや得意な顔で彼が命じて完成した道路や官庁舎、学校校舎をお目にかけたことでしょう。
 藤村は、甲州街道青梅街道などを作り上げ「道路県令」と評されたことが、北村透谷の日記に書かれています。

 以下は、全国の県令について記された刷り物。藤村について挿絵つきで紹介されています。


 古い建物が残されているのを見学して、私の思いはいつも建築を命じた人以上に、実際に建築に携わった職人達に思いが至ります。彼らはものを作り上げること一点に生涯をかけ、名を残すことは気にもかけない人たちだったかもしれない。でも、柱にカンナをかけ、鑿で垂木にほぞをうがったその仕事のひとつひとつをこそ、私は顕彰しつつ眺めたいと思うのです。

 小宮山弥七郎や松木輝殷など、その事跡がしだいに明らかにされている大工だけでなく、屋根裏の棟木に密かに名を記したのみで記録からは消えてしまった大勢の大工や左官もいたことでしょう。
 腕一本をたよりに仕事をした人々がいたことを、誇りに思いつつ津金学校や睦沢学校を眺めました。

<つづく>
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