ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part3(3)山形まなび館&旧米沢工業学校
旧山形県師範学校見学のあと、山形市での最後の見学場所は、山形まなび館になりました。
擬洋風建築を中心にめぐっていたのですが、師範学校へ行く前に、カメラの電池が終わってしまいました。充電器を持っていかなかったミス。しかたがないので、師範学校はケータイの荒い画素の写真を撮りましたが、今後はケータイの電池が切れそうになりました。思いつきでほいと家を出てきたので、旅の準備などしていなかったのです。
市内地図のDocomoショップをたよりに行ってみたら、入り口には「移転により、当店は閉鎖」という張り紙。う~、どうすんだケータイの充電。道路を隔てた建物を見ると「山形まなび館」と書いてあり、観光案内所もあると看板が出ているので、入りました。観光案内所の女性は、あちこちに電話をかけて、Docomoショップは駅前に移転した、ということを教えてくれました。
係の人が電話をかけてくれている間に、この学校のパンフレットを眺めていたら、ここは、東京でいう「復興小学校」が建てられていた時期の建てものだ、ということがわかりました。
東京は1923年の関東大震災で多くの小学校が焼失しました。そのあと、後藤新平らの策によって、学校はコンクリートの不燃校舎にすることになりました。春庭も、広尾小学校などの復興小学校を紹介してきました。
震災に遭わなかった東京以外の地域でも、コンクリート校舎が「近代的校舎」として建てられていたこと、知りませんでした。
山形まなび館は、東京で次々にコンクリート校舎が建設されていた同時期、1927(昭和2)年に、山形県で初めての鉄筋コンクリート造の学校建築として建てられました。
2004年まで山形市立第一小学校の校舎として利用されてきましたが、2001年に国の重要文化財、2009年に近代化産業遺産の指定を受けたことを受けて、小学校は新校舎に移転。文化財となった旧校舎は、2010年に「山形まなび館・MONO SCHOOL」として整備され、市民の文化活動拠点になりました。伝統工芸の紹介や体験制作活動などを行っています。
本当は、校舎内をあちこち見て歩いたらよかったのに、私はケータイの充電のことばかりが気になり、Docomoショップが閉店時間になるまえに駆け込まなくちゃと、あせりました。宿の予約もしていないひとり旅なので、娘にケータイメールで宿泊地などを連絡しないと心配をかけてしまいます。ちゃんと連絡をとらないと、あとがこわい。一人おでかけ禁止。なんてことになるかも。
自分で撮ったのは、写真は正面からの一枚のみ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/5e/8719829802090269452dc77b3586ccfc.jpg)
旧山形市立第一小学校校舎は、秦・伊藤設計事務所が設計を担当しました。伊藤高蔵は、当時流行のドイツ現代主義やアール・デコの様式を取り入れ、1927年当時には、「東京にも負けないコンクリート校舎」は、山形の人々の自慢だったことでしょう。
秦・伊藤設計事務所(現・株式会社秦・伊藤設計)は、90年続く東北有数の設計建築会社です。
東京から遠く離れた山形市に、東北ではおそらく最初にコンクリート校舎が建てられたのには、理由があります。第一次世界大戦が終わると、日本は長い不況時代に落ち込みました。地方都市の活力低下から、いかに脱却するか。今も昔も、人が考えることは大差なく、やれ、オリンピック景気だやれ万博景気だと。
大正末期の山形市は、不況脱却を図るべく産業博覧会を企画しました。産業博覧会の会場として昭和2年に完成したのが、山形第一小学校校舎でした。当初は産業博覧会会場として利用され、博覧会終了後には学校として利用する、という目的を果すべく招聘されたのが、早稲田大学卒業の伊藤高蔵。伊藤とともに働いたのが、秦鷲雄。施工を請け負ったのは勝又春一と佐藤元次郎(岳南組・現岳南建設株式会社)です。
東京の復興小学校に負けない、立派な小学校ができあがりました。
まなび館の意匠のこまかいところなども見る余裕なく、午後、5時すぎに駅前のDocomoショップへ。
ケータイ充電は無料でできるが、1時間かかると言われて、7日のうちに米沢に行こうと思った計画は変更。山形駅前のビジネスホテルにもう一泊することにしました。
米沢には、8日朝到着。
今回の旅で、カメラもケータイも電池が切れてしまうという失敗のほか、大きな失敗がありました。米沢市の旧米沢工業学校校舎は、震災後の改修耐震工事が現在もまだ続いており、見学できないことを知らずに出かけたことでした。
もともと、宿泊の予約もなにもせずに、朝、家を出て、東北線鈍行を乗り継ぎ、お昼におなかか空いたから郡山で下車。さらに青春18切符で乗り継ぎ、山形下車。あやうく野宿になりそうなところを、「エアコンが壊れている部屋でよかったら」ということで宿泊できた、という行き当たりばっ旅を続けていたのですが、そうそう運がよくは進まない。
結局、旧米沢工業学校本館(現・山形大学工学部)校舎は、シートに包まれた状態を見ただけでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/32/17a477d5f835e558a40ead358d31b0cd.jpg)
せめてのこととして、旧米沢工業学校のルネッサンス様式を模したという、米沢駅舎を撮影。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/5d/c508173caa6defde62e5fb302a712d9a.jpg)
東北の近代建築散歩、今回も見られずに残念だったところがたくさんあるので、まだまだ、これからのお楽しみにしておきたいと思います。
以下は、借り物画像です。
旧米沢工業学校本館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/73/291bb19fb64fdbd7a88666a0451a1c1e.jpg)
山形まなび館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/a9/787809c1e6253f4882438aff4fcf6f01.jpg)
<おわり>
旧山形県師範学校見学のあと、山形市での最後の見学場所は、山形まなび館になりました。
擬洋風建築を中心にめぐっていたのですが、師範学校へ行く前に、カメラの電池が終わってしまいました。充電器を持っていかなかったミス。しかたがないので、師範学校はケータイの荒い画素の写真を撮りましたが、今後はケータイの電池が切れそうになりました。思いつきでほいと家を出てきたので、旅の準備などしていなかったのです。
市内地図のDocomoショップをたよりに行ってみたら、入り口には「移転により、当店は閉鎖」という張り紙。う~、どうすんだケータイの充電。道路を隔てた建物を見ると「山形まなび館」と書いてあり、観光案内所もあると看板が出ているので、入りました。観光案内所の女性は、あちこちに電話をかけて、Docomoショップは駅前に移転した、ということを教えてくれました。
係の人が電話をかけてくれている間に、この学校のパンフレットを眺めていたら、ここは、東京でいう「復興小学校」が建てられていた時期の建てものだ、ということがわかりました。
東京は1923年の関東大震災で多くの小学校が焼失しました。そのあと、後藤新平らの策によって、学校はコンクリートの不燃校舎にすることになりました。春庭も、広尾小学校などの復興小学校を紹介してきました。
震災に遭わなかった東京以外の地域でも、コンクリート校舎が「近代的校舎」として建てられていたこと、知りませんでした。
山形まなび館は、東京で次々にコンクリート校舎が建設されていた同時期、1927(昭和2)年に、山形県で初めての鉄筋コンクリート造の学校建築として建てられました。
2004年まで山形市立第一小学校の校舎として利用されてきましたが、2001年に国の重要文化財、2009年に近代化産業遺産の指定を受けたことを受けて、小学校は新校舎に移転。文化財となった旧校舎は、2010年に「山形まなび館・MONO SCHOOL」として整備され、市民の文化活動拠点になりました。伝統工芸の紹介や体験制作活動などを行っています。
本当は、校舎内をあちこち見て歩いたらよかったのに、私はケータイの充電のことばかりが気になり、Docomoショップが閉店時間になるまえに駆け込まなくちゃと、あせりました。宿の予約もしていないひとり旅なので、娘にケータイメールで宿泊地などを連絡しないと心配をかけてしまいます。ちゃんと連絡をとらないと、あとがこわい。一人おでかけ禁止。なんてことになるかも。
自分で撮ったのは、写真は正面からの一枚のみ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/5e/8719829802090269452dc77b3586ccfc.jpg)
旧山形市立第一小学校校舎は、秦・伊藤設計事務所が設計を担当しました。伊藤高蔵は、当時流行のドイツ現代主義やアール・デコの様式を取り入れ、1927年当時には、「東京にも負けないコンクリート校舎」は、山形の人々の自慢だったことでしょう。
秦・伊藤設計事務所(現・株式会社秦・伊藤設計)は、90年続く東北有数の設計建築会社です。
東京から遠く離れた山形市に、東北ではおそらく最初にコンクリート校舎が建てられたのには、理由があります。第一次世界大戦が終わると、日本は長い不況時代に落ち込みました。地方都市の活力低下から、いかに脱却するか。今も昔も、人が考えることは大差なく、やれ、オリンピック景気だやれ万博景気だと。
大正末期の山形市は、不況脱却を図るべく産業博覧会を企画しました。産業博覧会の会場として昭和2年に完成したのが、山形第一小学校校舎でした。当初は産業博覧会会場として利用され、博覧会終了後には学校として利用する、という目的を果すべく招聘されたのが、早稲田大学卒業の伊藤高蔵。伊藤とともに働いたのが、秦鷲雄。施工を請け負ったのは勝又春一と佐藤元次郎(岳南組・現岳南建設株式会社)です。
東京の復興小学校に負けない、立派な小学校ができあがりました。
まなび館の意匠のこまかいところなども見る余裕なく、午後、5時すぎに駅前のDocomoショップへ。
ケータイ充電は無料でできるが、1時間かかると言われて、7日のうちに米沢に行こうと思った計画は変更。山形駅前のビジネスホテルにもう一泊することにしました。
米沢には、8日朝到着。
今回の旅で、カメラもケータイも電池が切れてしまうという失敗のほか、大きな失敗がありました。米沢市の旧米沢工業学校校舎は、震災後の改修耐震工事が現在もまだ続いており、見学できないことを知らずに出かけたことでした。
もともと、宿泊の予約もなにもせずに、朝、家を出て、東北線鈍行を乗り継ぎ、お昼におなかか空いたから郡山で下車。さらに青春18切符で乗り継ぎ、山形下車。あやうく野宿になりそうなところを、「エアコンが壊れている部屋でよかったら」ということで宿泊できた、という行き当たりばっ旅を続けていたのですが、そうそう運がよくは進まない。
結局、旧米沢工業学校本館(現・山形大学工学部)校舎は、シートに包まれた状態を見ただけでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/32/17a477d5f835e558a40ead358d31b0cd.jpg)
せめてのこととして、旧米沢工業学校のルネッサンス様式を模したという、米沢駅舎を撮影。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/5d/c508173caa6defde62e5fb302a712d9a.jpg)
東北の近代建築散歩、今回も見られずに残念だったところがたくさんあるので、まだまだ、これからのお楽しみにしておきたいと思います。
以下は、借り物画像です。
旧米沢工業学校本館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/73/291bb19fb64fdbd7a88666a0451a1c1e.jpg)
山形まなび館
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/a9/787809c1e6253f4882438aff4fcf6f01.jpg)
<おわり>