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ぽかぽか春庭「王のスピーチ王女のコックニーその2」

2014-09-13 00:00:01 | エッセイ、コラム

20140913 
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>ことば映画(2)王のスピーチ王女のコックニーその2

 最近では、イギリス国内でも正統派とされるクィーンズイングリッシュを話す人々は、人口の1%にすぎない、という調査報道もあります。
 しかし、有名人になっても労働者階級の英語で話すことを矯正せず、労働者階級の英語で語ったデビット・ベッカムに対して、一部の「上流」社会の人々は「しょせんは成り上がり者」という冷たい評価をしていた、などの報道を考え合わせると、まだまだイギリスのような階級社会では、「話し方でお里が知れる」という受け止め方が残っているんだなあと思わされます。

 ベッカムは、近年むしろ「アメリカ英語」の話し方に近づけるようにしており、少なくともコックニー英語では語らなくなっている、ということですが、私は、以前のベッカムのインタビュー英語と現在の英語を比較できるほど英語力はないので、なんともいえません。でも、ベッカムがコックニーを出さないようとしている、というのもわかるような気がします。

 マイフェアレディにおいて、ヒギンズ教授は、イライザのコックニー訛りを矯正させます。まず、母音の発音、息が強く出る有気音「H」の発音などを矯正していきます。しかし、発音矯正ができただけのころに出かけていったアスコット競馬場では「お天気の話以外するな」と、イライザに釘をさしています。

 発音がキングズイングリッシュになったとしても、たとえば、シェークスピアを引用したジョークなどを聞かされたら、当意即妙にユーモアで打ってかえす機知がなければ、社交界の会話についていけません。
 アスコット競馬場のイライザは、まだ、「ロンドン下町訛り(コックニー)が矯正できただけ」の段階でした。「スペインでは、雨は広野に降る」とか「ハートフォード、ヘレフォード、ハンプシャーでは、ハリケーンはめったに吹かない」などの、発音練習したとおりのことを言っているうちはよかったけれど、競馬に夢中になると「ケツひっぱたけ!」と大声で叫んでしまいます。

 ヒギンズは、イライザが上品な話し方を身につけていっても、「下町の花売り娘」、しょせん下層の出身者という見方を変えることはありませんでした。ヒギンズは、上流の話し方と身のこなし方は教育したけれど、彼女の成長を認めたくなかった。
 イライザは、ヒギンズの友人ピッカリング大佐からはレディとしての扱いを受け、さまざまな教養もピッカリングを通じて身につけていきました。インド滞在経験を持ち、サンスクリット語研究者でもあるピッカリング大佐は、イライザをレディとして扱い、成長を認めてやったのです。

 教育心理学では、このイライザの成長をひとつの典型として「ビグマリオン効果」と呼びます。「生徒は、教師が期待し、そうあれかしと扱う通りに成長しようとする」という効果。ピッカリング大佐がイライザをレディとして扱ったことによって、イライザはレディに成長したのです。

 上流の舞踏会に出席した日のイライザは、上品に踊ることだけではなく、「トランシルバニア皇太子」のことばに受け答えができるまでに成長しています。英語の訛りによって出自を嗅ぎ出しゆすりを行うハンガリー人の言語学者も、イライザを「おしのびでイギリスに来ている王女だ」と断言します。

 短い期間に「王女の会話」ができるまでにイライザが成長した、ということは、イライザがはもともと頭のよさと不断の努力によって、ヒギンズの音声教育だけでなく、ピッカリングが与える教養を吸収できた、ということでしょう。
 教育を受け、自分自身の立場が理解できるようになったイライザにとって、ヒギンズの自分への扱い方に納得できないのは当然です。

 映画『マイフェアレディ』のイライザは、ヒギンズのもとに戻りますが、決してこれまでのように、ヒギンズから「下品な下町娘」の扱いを受けたままにしていることはないでしょう。イライザは、ヒギンズが「甘えん坊の坊や」から成長していないわがまま息子であることも理解でき、それを受け入れてやる度量さえも身につけたのです。

 バーナード・ショウの原作「ビグマリオン」では、イライザはヒギンズを見限ります。そして、イライザを慕うフレディが破産したあと、彼と対等の立場で結婚して花屋を開きます。ショウは、ヒギンズの元に戻る結末と、フレディと結婚する結末のふたつを考え、映画ではイライザがヒギンズ家に戻るほうを採用しました。
 どちらの結末がお好みかは分かれるでしょうが、どちらにしろ、イライザが、自ら学ぶ決意をして、自分を鍛えることによって自立し、成長した、というストーリーは変わりません。

 「ことばを学ぶ」ということは、単に「ペラペラすらすらと、異なる言語を話す」というだけではないのです。学ぶことは、自分を変え、新たな自分に向かわせてくれる。
 逆に言うと、どんなに年をとっても、新たな自分と向き合うことを続ければ、脳は成長していくだろうということ。

 とは、言っても、ダイエットは明日から、学びは来週から。
 今日は、とりあえず、昼寝をして疲れをとって、疲れた脳には甘いものを補給。

<つづく>
コメント (2)
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