
2014年9月4日の旧東京医学校
20140906
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part2(4)旧東京医学校(東京大学総合研究博物館小石川分館)
文京区小石川にある旧東京医学校の校舎は、何度も紹介してきました。
四季折々に小石川植物園を散歩します。花や木を見ながら歩いたあとは、たいてい植物園の北の端に建っている博物館に寄ることにしていましたから、ツツジの時期、ハンカチの木の白いハンカチが広がる時期、桜の時期、植物園を散歩し、旧東京医学校を見てきました。
2,010年の桜のころ

2,011年のツツジのころ

私がはじめて旧東京医学校の姿を見たのは、1985年か86年。娘の保育園の遠足先が小石川植物園でした。広い園内でお弁当を食べて楽しく過ごし、園内散歩のおりに見かけた旧東京医学校の校舎は、1,970年に重要文化財に指定されたとはいっても、何も利用されておらず、絵に描いたような「幽霊が出そうな洋館」といった趣でした。このころ館内に忍び込んだ近所の悪童がいたなら、きっと「明治時代に解剖授業なんぞが行われた教室」と言われるあたりから、青いぼうっとした光が出ていくのを見た、とかの噂を信じたに違いない。
それから15年たった2,001年、ようやく東京大学総合研究博物館小石川分館として公開されました。私が中を見学したのは、公開されてからしばらくたってからだったと思います。入場無料というのを知らなかった。
博物館の見学を楽しむようになってから以後、そうとうたって、この建物が、全国に残る明治の擬洋風建築の嚆矢であり、全国の擬洋風校舎のお手本にされたことを知りました。
昨年、山形などの擬洋風建築を見たとき、地元の大工さんたちは洋風の校舎を建てるよう要請されると、すぐに上京し、東京医学校や開成学校を見学して、洋風建築というのがどういうものか、外観や内装、木組みなどを見て研究した、ということを知りました。
洋風校舎を依頼された宮大工たちがお手本にしたのが、1,876(明治9)年竣工の東京医学校と、その翌年の開成学校でした。
1,877年に東京医学校と開成学校は合併し、東京大学となったため、医学校は東京大学医学部と名称を変え、1,911年に赤門前に移築。その際に山口孝吉が移築設計をほどこし、窓枠、手すりなどに改築を加えらました。
1,965年まで本郷キャンパスで史料編纂掛として利用されました。1,969年に本郷から小石川の理学部付属植物園内に移転。1,970年に文化財指定がなされましたが、公開はされていませんでした。
博物館として公開されてから、大学の教育設備(古い顕微鏡などの教育機材や、学術標本)などの展示をしていました。2,006年にこれらの教育設備を「驚異の部屋」として常設展示するようになって、とても展示方法が垢抜けて見学するおもしろさが増しました。
入り口側から

2,013年12月のリニューアル以後は、「建築博物誌アーキテクトニカ」の展示をしています。旧医学校の建物自体が建築史上の重要な建築物であることを生かし、「アーキテクト」を展示の中心的なコンセプトにしています。
アーキテクチュアarchitectureとは、構成原理、統括原理、設計思想、設計仕様、建設、建築という幅広い意味を持つことばで、アーキテクトニカとは、それらをすべて含んだ意味での展示をしていく、ということだそうです。
リニューアル前はそうではなかったと思うのですが、古い柱をそのままむき出しにして、明治時代の建物のようすを展示しています。また、天井をはずして、棟木、梁などが見られるようにしてあります。
柱の展示

天井の展示

最初に校舎を設計したのは工部省営繕局に所属した技師たち。施工は本郷近辺の大工たちだったことでしょう。江戸の名残もまだ消えていない本郷近辺。宮大工が選ばれたのか、藩邸の仕事を失った大名屋敷お抱えの大工だったか、名前は残されていません。柱の一本一本、天井の梁を見ていると、明治9年にこの建物を建てた大工や、1,911年に赤門前に移築したとき屋根を吹き直した瓦職人たち、壁を塗り直した左官たち、それぞれの声が聞こえてくるようです。
ベランダ

<おわり>