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ぽかぽか春庭「我が大草原の母・額吉エージ」

2014-09-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140907
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>かあちゃん映画(1)我が大草原の母

 日本では劇場未公開だった中国映画、NHKの放映を録画しておき、夏休みに見ることができました。モンゴル族出身の寧才(ニンツァイ)が監督した「我が大草原の母」原題「額吉エージ(モンゴル語で「母」の意」


中央の漢字「額吉」とモンゴル文字エージが重なっています。
エージはモンゴル語で「母」です。

 中国では、毛沢東は今や神様の扱い。毛沢東の事跡への教育はしっかりなされていて、「失敗もあったが、現代中国にとっては、失敗面よりも功績面を大きくとらえるべきである」という「功績第一、誤り第二」という公的な評価は、中学生でも口にする。
 その「失敗」のひとつは、私も強烈な印象を持った文化大革命。1960年代末文化大革命によって数千万人、一説には1億人近くが粛正されたといいます。文化大革命とは、大躍進政策の失敗によって権力が弱まった毛沢東による権力奪回の大キャンペーンでした。

 1958年の毛沢東政策の失敗については、当時は海外への報道も押さえられ、私もこの「大躍進の失敗」についてあまり理解しないままでした。
 毛沢東が大号令した、無謀な人海戦術による製鉄と人民公社方式による農業経営の失敗によって、1960 年から数年の間に、中国全土に5000万人以上の餓死者が出ました。なかでも上海地域には、このまま飢え死にさせるよりは、孤児院で育ててもらいたいと考えて子を捨てる親もいて、多くの孤児が残されました。

 この大躍進失敗飢餓によって、親を失ったり親から捨てられたりして生まれた孤児が上海だけでも3000人に上ったこと、長い間国内外で大声では語られてきませんでした。
 中国映画『我が大草原の母』は、中国内モンゴル出身の監督ニンツァイが、この時代の漢人孤児とモンゴル族の母の実話を映画にしたものです。以下、ネタバレを含むあらすじ紹介です。

 1960年代のはじめ。中国共産党支配下の内モンゴル地区。人々は昔ながらの遊牧を続けていましたが、草原の村は共産党の幹部が支配していました。幹部はさまざまな命令を下し、子どもの進学も個人の希望ではなく、すべて党の命令によって決められていく、という時代でした。

 ある日、党幹部は村人を集めて告げます。「乳の出る牛を飼っている者は、上海から連れられてくる孤児を引き取って育てること。それが、国家のためになる」と。
 もともとモンゴル族は、遊牧民のならいとして、自分の子と他人の子を分け隔てなく育ててきた人々です。国家への忠誠などといわれずとも、人情として、親がいない子があれば、育ててやる人々なのです。

 孤児達が列車に乗せられて内モンゴルに到着すると、乳児を持つ母親達は、いっせいに自分の乳房を出して孤児の赤子に含ませました。粉ミルクを飲めない赤子がいると聞くと、モンゴル族の母たちは、我が子を置いて、漢族の孤児のために自分の乳房を与えたのです。だれに命じられたのでもない、ただ、子どもは大地の子、天からの授かりものとして、だれの子であれ大切にしたいと、遊牧民の母たちは乳を飲ませてやったのです。

 チチクマ(其其格瑪 演:ナーレンホア娜仁花。ニンツァイ監督夫人)は、夫と息子バトル(巴特爾)、姑といっしょに、羊を飼ってつましく暮らしていました。村の集まりに行って幹部の話を聞き、孤児を引き受けようと決心します。親のない子がいるなら、育ててやるのは、当然のこと、と。しかし、党幹部は「乳牛を飼っている者でなければ、子を渡さない」と言います。

 チチクマは、夫の反対を押し切って、大切な羊や家の中のめぼしいものを売り払って、牛を買いました。姑は、大切にしまっておいた婚礼の飾りを、「売ってこい」と、チチクマに渡します。

 こうして、上海の孤児がふたり、チチクマのもとにやってきました。ふたりは、血のつながりはありませんが、孤児院でいつもいっしょにいて、兄妹のように離れずにいたのです。チチクマは、ひとりもふたりもひきとるなら同じ、と、ふたりいっしょに育てることにしました。

 漢名ユーション(雨生)と妹のジェンジェン(珍珍)。
 シリンゴフ平原(錫林格勒草原)からとって、シリンフ(錫林夫)、シリンゴワ(錫林高娃)と名付けます。



 やさしい養母のもと、ふたりの子は、チチクマの実の子と分け隔てなく大草原で成長して行きました。ふたりとも頭がよく、シリンゴワは教師として地元の学校で働いています。シリンフには、党幹部から大学進学の推薦がもらえるかもしれない、という希望がでてきました。

 チチクマは誰にたいしても心やさしく、他家の家畜を盗んだ罪に問われた村人が引き立てられてゆくのを見ると、一杯のお茶をふるまおうとします。ところが、これが党幹部に知られ、国家への反逆心を持つ、と解釈されてしまいました。シリンフの大学進学推薦も暗礁に。  

 1980年代になると、上海の経済は大きく発展していきました。
 「捨てた我が子を取り戻したい」と、親たちが「我が子捜し」を始めます。シリンゴワの実の親も会いに来ます。チチクマは、シリンゴワの将来を考え、都会に出て実の親と暮らすよう説得します。
 やがてチチクマの実子バトルも、将来を考えて軍人になろうと草原を出て行きます。

 シリンフはただひとり母を助けて働き、詩を書くことを唯一の心のなぐさめにしていました。そんなシリンフのもとにも、上海の実の親が判明したという連絡が入ります。
 「飢えに苦しんだあげく、親のもとにいるよりは、孤児院のほうが生き延びられるかと思って捨ててしまった。毎日捨てた我が子を思って泣き暮らしていた」と、実の両親は言います。しかし、シリンフは草原の母こそ自分のほんとうの母、と、実の親との同居を承諾しませんでした。

 婚礼の飾りを売って里子を迎えた養祖母も老いて死んでしまいます。自分の死をさとったおばあちゃんは、孫達に言います。「死は特別なことじゃない。人は大地に生き死せば大地に戻っていく」
 
 シリンフを育て上げた母も、やがては大地に帰って行くでしょう。その目をとじるとき、実子と里子ふたりを育てた愛情は、大草原に広がっていくのです。

 シリンフが上海から帰って行く現代の内モンゴルには、発電用の風車が立ち並んでいます。時代は変わっていきます。
 内モンゴルでは、定住化がいやおうなく進められ、私が教えた内モンゴル出身の留学生たちもそのほとんどは、都会定住の暮らしでした。「夏休みには祖父母のいる大草原で暮らすのが楽しみだったけれど、自分は遊牧民として生きていくのは難しい」と、留学生達は言っていました。

 このような映画を見ると、果てしない草原で、はかりしれない愛情を持って子を育て、大地の一部になっているかのように自然の摂理に従って生きていったモンゴルのかあちゃんが、今も大草原に生きていてほしいと思うのです。

 日本映画の母ものだと、「母性のまったき肯定」には、いささか反発を感じてしまいます。あまり「よい母」ではなかった自分に負い目を感じるからかもしれません。
 しかし、遠いモンゴルの話なら、こういう母のあり方をすなおに受け入れられる気がします。遠ければ遠いほど「母ファンタジー」を受け入れられるという心理なんでしょう。
 日本だと、24時間テレビの中のドラマくらいしか、「母もの」は受けなくなっているんじゃなかろうか。たとえば、三益愛子の母物を今放映したとして、「三倍泣けます」というキャッチフレーズのとおりにハンカチ手ぬぐいを三つ用意する客がいるだろうか。

 「我が大草原の母」は、2011年NHKアジア・フィルムフィステバル優秀賞受賞作品ですが、いまだに劇場公開はされていないのは、残念です。

 ナーレンホア演じるチチクマはモンゴルの大地神に祈りを捧げつつ、いとしい育て子を産みの親に返してやる。

 う~ん、そんなすばらしい母を映像で見ながら、私は今日もごろごろと「夏休みなのに、遠出もできない」とかいいながら、テレビを見てすごしました。息子が「我が母」を描くなら、「クウネルごろごろ我が大腹の母」ということになるかも。

<つづく>
コメント (2)
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