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ぽかぽか春庭「和種在来馬の去勢」

2014-11-08 01:01:01 | エッセイ、コラム
20141108
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記午年尽(1)和種在来馬の去勢

 カレンダーが11月になると、毎年同じことを思うのです。あらら、何もしないうちに今年もあと、2ヶ月しかない。午年、何か世のため人のためになるようなこと、やったかしら。あはは、今年も「それにつけても金がない!」というだけの1年であったと。

 今年は日記タイトルを十四事日記と名付けました。江戸武士の武術たしなみを十四並べた「十四事」にちなむものです。
 午年でしたから、十四事のうちでも「騎」の術、馬の話題をときどき書きました。女子校同級生に連れられて馬事公苑でホースショウを見たとか、彼女が指導している大学馬術部を見学したとか。馬について思い巡らすことが多くなりました。
 思い巡らすといっても、父が生前言っていた「バカの考え、休むに似たり」で、何も結論やら出ないものですけれど。

 私が馬について考え巡らし、結論がわからないことのひとつは、馬の去勢についてです。
 家畜として馬を乗りこなすための去勢について、中国の文献に去勢の方法を記した記述があり、中国や朝鮮から馬を御する技術者が海を越えてやってきたであろうに、日本では明治維新後の西洋騎馬術、獣医術が取り入れられるまで、行われたことがありませんでした。

 古代日本があれほど熱狂的に中国の文化を取り入れたのに、受け入れなかったものの代表が馬の去勢と、宮中における宦官制度。町を城壁で囲い込む構造。
 長安の町は、高い城壁で囲まれていますが、異文化遊牧民の襲撃を恐れる心配のない日本が城壁を築かなかったのはわかります。しかし、なぜ、馬の去勢は取り入れなかったのか。

 日本の馬の在来種、和種の木曽駒や野間馬は、地面から背中の鞍までの高さが130~140センチほど。鎌倉武士や戦国武士が乗っていたのは、この在来種です。
 戦国期の日本を記録したイエズス会などの宣教師達が、本国に送信した手紙などによると、戦国武者の馬は、彼らの目には「ポニー」と思えたのだそうです。

 小型種だから去勢しなかったのではありません。同じような140センチほどの馬種に騎乗していたモンゴル人たちは、去勢を行っていました。
 多摩動物園に、モンゴルでは滅んでしまった野生の馬、「蒙古野馬」が飼育されています。モンゴルの騎馬民族が騎乗したのは、この蒙古野馬を家畜化した馬なので、やはり馬高は140センチ程度であり、昨今我々が見る競馬用のサラブレッド(馬高160センチ)とはイメージが異なっています。

 日本で馬の去勢術が一般的に行われるようになったのは、義和団の乱以後という説を読みました。(日本獣医師学会理事長小佐々学「日本在来馬と西洋馬」)
 北京に駐屯した列強各国の騎馬隊と共同出兵したときに、日本の軍馬は去勢をしていないために獰猛で、雌馬の尻を追いかけて隊列を乱すなどが、みっともないと、各国にわらわれたのだそうです。去勢が行われたのは、この義和団の乱以後だと、小佐々学は描述べているのです。この説、納得できません。

 日本騎兵の父といわれる秋山好古(1859-1930)がフランスの騎兵学校を修了して帰国したのが1891(明治24)年。翌年の1892年には、陸軍士官学校馬術教官に就任しています。1900年の義和団事件まで10年もの間、馬を去勢しないままにしておいたとは、考えられません。

 ただし、法的には確かに小佐々学が述べているとおり、1900年義和団の乱の1年後、1901(明治34年(1901年)に「馬匹去勢法」が成立し、種牡馬及び将来の種牡馬候補以外の牡馬は全て去勢することが全国に通知されたのです。義和団以後、という説は、ここから来ているのでしょう。義和団事件のとき、雌馬の尻を追い回して、列強の軍隊に笑われたという馬は、おそらく運輸用の雑馬であったのでしょう。
 秋山好古らの騎馬兵の去勢馬がよく訓練されて優秀であることが知られ、全国の馬が去勢されることになったのかもしれません。勝手に雌馬を追いかけて回していた雄馬にとっては、1901年はゆゆしき年でした。

 また近年定説化している「日本の在来種の馬は、140~140センチの馬高しかなかったのだから騎馬術は未発達であり、騎馬軍団は成立していない。戦国の武田騎馬軍団などは、講談話などが江戸時代に広めた虚構である」という説について、作家の佐々木譲が異議を唱えており、私は佐々木の説に納得できました。佐々木譲の説は、モンゴル馬の馬高と、モンゴル騎馬兵の騎馬術を例に挙げて、140センチしかないから、騎馬武者の軍団は活躍できない、という説に反論を述べています。
 佐々木譲「天下城ノート3」 
 http://www.sasakijo.com/note/tenka3.html 

 さて、明治期まで、在来馬には去勢が施術されていなかった、というのは、そうかもしれない、と思います。では、いったいなぜ、牛馬の去勢を、はたまた宦官の去勢をおこなわなわなかったのか。

 平安から江戸期の宮廷では、天皇の妻さえ間男を引き入れることが不可能ではなかった。「問わず語り」の主人公二条も、恋人との間に生まれた子を「上皇後深草院の子」と、つくろっています。DNA鑑定などなかった当時ですから、天皇の妻たち(女御更衣その他大勢)が産みさえすれば、天皇の子。万世一系も平安~江戸期までについては、どうもあやしいと思います。(この発言、戦前なら不敬罪により逮捕されるところ)

 日本列島はユーラシア大陸の東のはしっこの吹きだまり。さまざまな文化が西から南から押し寄せて、日本海のおなかに抱え込むように、すべてをため込んで自分たちに合わせて取り込んできました。しかし、その中で、日本が受け入れなかったもの、いったんは受け入れたけれど消化しないままになったもの、受け入れた上ですっかり換骨奪胎してしまったもの、など、いろいろです。

 なぜ、日本の宮廷は宦官を使わなかったのか、なぜ馬は去勢しないまま使われたのか、このらちもない疑問点、午年が終わる今になっても、結局わかりませんでした。別にいいんですけれどね。わかったからどうする、という疑問でもないので。

<つづく>
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