2014118
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(3)ラグナグ国とえぞ松の更新と赤ワイン
ラグナグ国とグナえぞ松の更新
at 2003 10/04 06:41 編集
中願寺雄吉さん逝去の報と同じ日の夕刊(2003/09/29付)に掲載された富岡多恵子のエッセイ「ラグナグ国」について。同じ日の新聞だというのは、何かの偶然?
エッセイのラスト『高齢の人に、「いつまでもお達者で、、、」などと何気なくいったあとで、「いつまでも」の残酷に慄然とすることがあるが、ここはラグナグ国ではないので、怒るひとはいない』
ラグナグ国は『ガリヴァー旅行記』に出てくる架空の国。その国では稀に「不死の人」が生まれる。不死の運命を持つが、不老ではないため、200歳300歳ともなると、記憶も失い「ただ生きているだけ」の状態になる。
「作者スウィフトは不死人間の凄惨さをくわしく書いてゆく」と富岡の記述。
私は、おおかたの人と同じく、子ども向けの「ガリバー」しか読んだことがなく、巨人と小人の国くらいしか覚えていなかった。ラグナグ国を知ったのは阿刀田高の『貴方の知らないガリバー旅行記』による。
伯母がいろいろ忘れていっても、それでも楽しく生きて欲しいと願うのは、周囲の者のわがままだろうか。本人は失われていく記憶におびえ、自分が自分でなくなっていく過程におののいているのだろうか。天の采配によってお迎えがくるその日まで、命のかぎり生き抜いてほしいと願うのみ。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.9
(こ)幸田文『えぞ松の更新』初出「學燈」『木』所収 (け)の項なし
死すべき生物の運命を享受し、いのちの輪廻を納得するために、何度でも読み返す一文。幸田文のすばらしい日本語文体を堪能し、倒れ伏した老木が若木の栄養となって、新しい命を育てる永遠のめぐりを味わえる。
読んでないけれど、たぶん『葉っぱのフレディ』も主題は同じじゃないかしら。フレディも勿論、いい本だろうが、幸田文の日本語は、「言文一致」以後の言語表現のひとつの到達点。
~~~~~~~~~~~~
アルツハイマーには赤ワイン
at 2003 10/05 07:56 編集
フランスなどで、定期的に赤ワインを飲んでいる人にアルツハイマー病を含む痴呆症の危険が少ないということは、従来からの疫学調査で報告されていた。この調査が、「神経化学」の研究によって証明された。(2003/09/29付)
痴呆症のひとつアルツハイマー病の患者の脳には、βアミロイドというたんぱく質が繊維状になって沈着する。赤ワインに多く含まれるミレセチンなどのポリフェノールは、βアミロイドを分解するという実験結果が確認されたのだ。赤ワインのポリフェノールは、アルツハイマーの予防治療に応用できる可能性があるという。
1日に500ccの赤ワインで効果が上がる。私もビール党から転向しようかな。でも、ビールも研究が進めば、きっと何かの効果があると思うよ。緑茶のフラボノイドやカテキン、コーヒー、ココアにも、医学的効果。「1日にりんご1個で医者いらず」「骨粗鬆、牛乳飲んで骨太に」など、食べ物飲み物はすべて天の恵みなのだ。
ただし、酒を飲んでも飲まれるな。「アル中の乱暴」は、アフリカに死す。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.10
(こ)小林秀雄『ランボオ(「作家の顔」所収)』
高校の国語教科書で『面とペルソナ』を読んで以来、晩年の大著『本居宣長』まで、読みふけった。志賀直哉が「小説の神様」なら、小林秀雄は「批評の神様」だった。
私が読み出したころには「小林の批評の方法はもう古い」と言われ、小林を乗り越えることが批評をめざす人の目標になっていた。
フランスの詩人、アルチュール・ランボーの批評「ランボオ」は、1948年に発表。
ランボーが『酩酊船』を掲げて登場し、フランス文学界の旋風となったのは1870~1873年、ランボー16歳から19歳の間のたった3年間だった。
19歳で「文学的な死」を遂げたランボーは、アフリカの地で病に倒れるまでの20年、アフリカアジアヨーロッパを放浪し、ときに探検家、ときに志願兵、ときに隊商の頭、としてすごした。アフリカからマルセイユの病院へ移され、足を切断する手術を受けたが、1891年12月10日に死去。看取ったのは、妹イザベルただ一人だった。
『彼(ランボー)は、あらゆる変貌を持って文明に挑戦した。然し、彼の文明に対する呪詛と自然に対する讃歌とは、二つの異なった断面に過ぎないのである。彼にとって自然すら、はや独立の表象ではなかった。
或る時は狂信者に、或る時は虚無家に、ある時は風刺家に、然し、その終局の願望は常に、異なる瞬時における異なる全宇宙の獲得にあった。定著にあった』
このような小林の批評のことばに、我々は酩酊し、悪酔いし、ときに吐いた。小林の言葉を乗り越えようと多くの「自称、批評の革命家」が飲み比べに挑戦し、あえなく破れた。
学生コンパ。これから大いに飲むぞ、といういうときには「アル中の乱暴!」と、わめいたりするのが当時のオヤクソクだった。
数年前の映画、デカプリオがランボーを演じた『太陽と月に背いて』では、ベルレーヌとランボーの関係が私の想像と逆だった。映画では、ベルレーヌが女役、ランボーが男役だった。そ、そうだったのか、、、1
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(3)ラグナグ国とえぞ松の更新と赤ワイン
ラグナグ国とグナえぞ松の更新
at 2003 10/04 06:41 編集
中願寺雄吉さん逝去の報と同じ日の夕刊(2003/09/29付)に掲載された富岡多恵子のエッセイ「ラグナグ国」について。同じ日の新聞だというのは、何かの偶然?
エッセイのラスト『高齢の人に、「いつまでもお達者で、、、」などと何気なくいったあとで、「いつまでも」の残酷に慄然とすることがあるが、ここはラグナグ国ではないので、怒るひとはいない』
ラグナグ国は『ガリヴァー旅行記』に出てくる架空の国。その国では稀に「不死の人」が生まれる。不死の運命を持つが、不老ではないため、200歳300歳ともなると、記憶も失い「ただ生きているだけ」の状態になる。
「作者スウィフトは不死人間の凄惨さをくわしく書いてゆく」と富岡の記述。
私は、おおかたの人と同じく、子ども向けの「ガリバー」しか読んだことがなく、巨人と小人の国くらいしか覚えていなかった。ラグナグ国を知ったのは阿刀田高の『貴方の知らないガリバー旅行記』による。
伯母がいろいろ忘れていっても、それでも楽しく生きて欲しいと願うのは、周囲の者のわがままだろうか。本人は失われていく記憶におびえ、自分が自分でなくなっていく過程におののいているのだろうか。天の采配によってお迎えがくるその日まで、命のかぎり生き抜いてほしいと願うのみ。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.9
(こ)幸田文『えぞ松の更新』初出「學燈」『木』所収 (け)の項なし
死すべき生物の運命を享受し、いのちの輪廻を納得するために、何度でも読み返す一文。幸田文のすばらしい日本語文体を堪能し、倒れ伏した老木が若木の栄養となって、新しい命を育てる永遠のめぐりを味わえる。
読んでないけれど、たぶん『葉っぱのフレディ』も主題は同じじゃないかしら。フレディも勿論、いい本だろうが、幸田文の日本語は、「言文一致」以後の言語表現のひとつの到達点。
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アルツハイマーには赤ワイン
at 2003 10/05 07:56 編集
フランスなどで、定期的に赤ワインを飲んでいる人にアルツハイマー病を含む痴呆症の危険が少ないということは、従来からの疫学調査で報告されていた。この調査が、「神経化学」の研究によって証明された。(2003/09/29付)
痴呆症のひとつアルツハイマー病の患者の脳には、βアミロイドというたんぱく質が繊維状になって沈着する。赤ワインに多く含まれるミレセチンなどのポリフェノールは、βアミロイドを分解するという実験結果が確認されたのだ。赤ワインのポリフェノールは、アルツハイマーの予防治療に応用できる可能性があるという。
1日に500ccの赤ワインで効果が上がる。私もビール党から転向しようかな。でも、ビールも研究が進めば、きっと何かの効果があると思うよ。緑茶のフラボノイドやカテキン、コーヒー、ココアにも、医学的効果。「1日にりんご1個で医者いらず」「骨粗鬆、牛乳飲んで骨太に」など、食べ物飲み物はすべて天の恵みなのだ。
ただし、酒を飲んでも飲まれるな。「アル中の乱暴」は、アフリカに死す。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.10
(こ)小林秀雄『ランボオ(「作家の顔」所収)』
高校の国語教科書で『面とペルソナ』を読んで以来、晩年の大著『本居宣長』まで、読みふけった。志賀直哉が「小説の神様」なら、小林秀雄は「批評の神様」だった。
私が読み出したころには「小林の批評の方法はもう古い」と言われ、小林を乗り越えることが批評をめざす人の目標になっていた。
フランスの詩人、アルチュール・ランボーの批評「ランボオ」は、1948年に発表。
ランボーが『酩酊船』を掲げて登場し、フランス文学界の旋風となったのは1870~1873年、ランボー16歳から19歳の間のたった3年間だった。
19歳で「文学的な死」を遂げたランボーは、アフリカの地で病に倒れるまでの20年、アフリカアジアヨーロッパを放浪し、ときに探検家、ときに志願兵、ときに隊商の頭、としてすごした。アフリカからマルセイユの病院へ移され、足を切断する手術を受けたが、1891年12月10日に死去。看取ったのは、妹イザベルただ一人だった。
『彼(ランボー)は、あらゆる変貌を持って文明に挑戦した。然し、彼の文明に対する呪詛と自然に対する讃歌とは、二つの異なった断面に過ぎないのである。彼にとって自然すら、はや独立の表象ではなかった。
或る時は狂信者に、或る時は虚無家に、ある時は風刺家に、然し、その終局の願望は常に、異なる瞬時における異なる全宇宙の獲得にあった。定著にあった』
このような小林の批評のことばに、我々は酩酊し、悪酔いし、ときに吐いた。小林の言葉を乗り越えようと多くの「自称、批評の革命家」が飲み比べに挑戦し、あえなく破れた。
学生コンパ。これから大いに飲むぞ、といういうときには「アル中の乱暴!」と、わめいたりするのが当時のオヤクソクだった。
数年前の映画、デカプリオがランボーを演じた『太陽と月に背いて』では、ベルレーヌとランボーの関係が私の想像と逆だった。映画では、ベルレーヌが女役、ランボーが男役だった。そ、そうだったのか、、、1
<つづく>