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ぽかぽか春庭「読書記録」

2014-11-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141120
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(5)読書記録

読書記録
at 2003 10/08 07:33 編集
 乱読、読みっぱなしの私の読書方法を見て、「せめて読んだ本の題名と著者だけはメモを取っておきなさいよ」と、忠告してくれた友人がいる。
 アドバイスに従って1977年からは、読んだ本の記録を残した。かれこれ26年、四半世紀を越す年月がたったが、忠告を受けて良かったと思っている。

 文庫本は引っ越しのたびに散逸し、単行本の中で、売って金になりそうな本は古本屋行きとなって、日々のおかずに変わってしまった。メモがなければ、読んだかどうか、忘れている本もある。

 一つ残らずメモしたわけではないが、おかげで今、本が手元になくとも、いつ、どの本を読んだか、おおよそがわかる。
 1977年以前に読んだ本については、本が残っているものはわかるが、大半は図書館で借りた本なので、忘れてしまったほうが多い。

 春庭千日千冊では、1977年以前に読んだ本の記憶をたどり、どんな本を読んだか思い出しながらの自分語り、というのを「老いの楽しみ」にしようと試みている。

 1977年以前に読んだ本の著者名をあいうえお順にたどって、読んだころを思い出す。脳の活性化によい。「あいうえお」が何巡できるだろうか。まずは、一巡目から。
 さて、例外として、1977年以後に読み始めた作家を記しておきたい。アイウエオ順でいくと、石牟礼道子、澤地久枝が出て、もう一人好きな作家を「1977年以後に読んだから登場させない」のでは、残念で。

 1990年発行の『ミラノ霧の風景』が出会いの一冊。須賀敦子、たった十年余の作家活動だったが、亡くなるまで次々とすばらしい本を私たちに与えてくれた。
 イタリアのこと、育った関西での思い出、東京での学生生活、フランスへの留学。何を語っても、須賀の日本語で読むと、イタリアや関西が自分のふるさとであるかのごとく、親しくなつかしく目の前に現れる。『トリエステの坂道』『ヴェネツィアの宿』『地図のない道』などなど。

 『遠い朝の本たち』、いつか私もこんなふうに読んだ本のことを語れるようになりたいけれど、ま、こればっかりは、身の丈にあわせて、才無き者は才なきままに、おしゃべりしましょ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.13
(す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

 若い頃出会い、共にすごした仲間たちを、30年のときを隔てて回想し、生き生きと描き出している。熱い議論を交わす仲間たち、キリスト者による社会変革をめざして苦悩する仲間たちが、一行一行から、行間から、立ち上がる。

 須賀は、棚卸しをする本の革表紙の匂いまで伝わるように、思い出をいとおしみつつ書き綴る。「珠玉のような」というありきたりの形容しか思いつかない自分がなさけなるような、美しい日本語。
 『コルシア書店の仲間たち』あとがきから。書店をともに切り盛りしたイタリアの友の死の知らせをうけて。

 『ダヴィデの死を電話で知らせてくれた友人にたのんで、私は新聞の記事を読んでもらった。葬儀のミサ参列者の名を、彼は、ひとりひとり、ゆっくり読んでくれた。カミッロをはじめ、この本に出てくる人たちの名が何人もあった。記憶の中の、そのひとたちの、ちょっとした身振りや、歩き方のくせが、ゆっくりと私の中を通って行った。』

 亡くなった友を思い出す、友人たちの名を聞き、彼らのしぐさや姿を思い浮かべる、そういうひととき、私たちは遠くへ去ってしまった人々と共に生き、今はそばにいない人たちが私たちの中によみがえる。

 須賀敦子も、その死後なお、どんどん作品が出版される作家のひとり。味わいつつ、いとおしみつつ、読んでいきたい。
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出家という老後
at 2003 10/09 07:23 編集
 『源氏物語』のヒロイン紫の上が、晩年に強く願ったことが「出家」だった。極楽浄土へ旅立つことが、人生究極の望みとして人々の意識にのぼってきたのが、紫式部のころから。

 現代も「老後は仏門に入りたい」という言葉を聞くことがあるが、私の知る限りでは、女性には少なく、男性に多い。男性の出家者は、多くの宗派の住職が妻帯し、普通の家庭生活をおくるのに対して、女性の出家者は、文字通りの「出家」を求められることが多いからではないだろうか。だったら、在家の優婆夷(うばい=清信女)のままでいいかと。

 仏門に入った作家で、思い浮かぶのは、近くは立松和平、玄侑宗久、古くは今東光。
女性では、今東光を得度の師として晴美から名を変えた瀬戸内寂聴。
 瀬戸内は五十を境に、前半は激しい愛憎の中に生き、後半は仏門修行と文学を両立させた。

 寂聴は『源氏物語』の現代語訳や、『女人源氏物語』の中で、出家願望に共鳴しつつ紫の上の姿を描いている。平安時代の一夫多妻制度の中で、紫の上が真に自分だけの精神的自立を求めるには、出家しかありえなかったと。しかし、光源氏は最後まで紫の上を手放すことを拒み、出家を許さなかった。
 「とはずがたり」をもとにした、瀬戸内の『中世炎上』の主人公二条も、前半生は激しい愛憎の生活、後半生は仏門へ。瀬戸内と通ずる人生だった。

 瀬戸内の作品、前半生の自身の激しい愛憎生活を描いた自伝的小説類よりも、後半生の仏教エッセイや源氏などの古典エッセイが好き。そして、激しい生を生き抜いた女たちの評伝作品が好き。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.14
(せ)瀬戸内晴美『余白の春』

 私の若い頃の「アイドル(偶像神、崇拝物)」、外国人女性ではローザ・ルクセンブルグ、日本の女性では、菅野須賀子、伊藤野枝、金子文子(すごいラインナップ!)男性では、チェ・ゲバラ。最近ではアフガニスタンのマスード(チェに風貌が似ている気がする)。

 須賀子や野枝は、歴史上の人物として、瀬戸内の評伝『遠い声』や『美は乱調にあり』を読む前から知っていたが、文子については、この『余白の春』を読むまで、遺書となった獄中手記『何が私をかうさせたか』の書名のみを知っていて、その生涯についてはあまり知らなかった。

 須賀子、大逆罪により刑死。野枝、関東大震災の混乱の中、甘粕中尉により虐殺。文子大逆罪により逮捕、獄中で自殺。あまりにも激しい生を生きた女性たちを前にして、私は、ただ、自分のふがいないぐうたら人生をぼやくだけで五十余年がすぎた。
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(そ)の項なし

<つづく>
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