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ぽかぽか春庭「2003年のめぐり逢う大地」

2015-04-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150423
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年三色七味日記4月(3)2003年のめぐり逢う大地

 2003年三色七味日記再録を続けています。
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2003/04/09 水 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『めぐり逢う大地』

 子どもたちは学校始まったが、私はもう少し春休み。薬を飲んだらたちまち痛みもおさまったので、せっかくの残り少ない春休み、ひとりで『めぐり逢う大地』を見た。

 トマス・ハーディの「なんとか市長」という作品が原作とうたってあるが、原作ではなく「原案」にすぎない。なぜハーディを持ち出したか。「文芸大作」っぽい権威を宣伝対策上つけたかったのじゃないか。『千と千尋の大冒険』の原案が『霧のむこうのふしぎな町』というのと同じくらいの原案度だった。これなら『千』のほうだって、原作として『霧のむこう~』をださなければ、申し訳がたつまい。
 つまり、ハーディのほうは著作権が切れているのだから、どう使っても原作料を払わなくてもいいから?

 映画の原題は「The Claim」このごろのはやりは、英語をそのままカタカナにするタイトルだが、カタカナで「クレーム」にしてしまったら、意味が異なってしまう。外来語としてのクレームと英語のclaimは違うから、タイトルとして、ふさわしくなくなってしまうのだろう。

 この映画の見所は圧倒的なシェラネバダ山脈の偉容と、今にも谷底に転げ落ちそうに走る蒸気機関車。ビッグサンダーマウンテンの100倍こわそう。
 あとの人間模様は、ナスターシャ・キンスキー、結核で死にかけていていいとこないし、父の故郷にちなんで新しい町に「リスボア」と名付けるルシアは、ファドの声はいいが、町の新支配者として腕をふるうところをみる前に話は終わるし。結局、妻子を売って、金鉱町の行政権警察権司法権を一手に握る町の権力者になった男の没落物語。それも売り払った妻の「クレーム=要求、異議申し立て」によって、すべてを失う話。

 ラストシーンで鉄道測量技師はディロンの死を「王のようだった」と評する。もし、彼が本物の王なら、捨てた妻が結核で死に、実の娘に父親だとうち明けても本気にして貰えないからって、絶望なんかしちゃいけない。自分が一から作り上げた町に火をつけて、雪の中で凍死するという最後を選ぶべきでない。銀行の金庫でむなしく焼けた金。あの金を使って、鉄道沿いに新しい町を開き、娘に全財産を相続させるべく万全の手をうつべきだったろう。それができない「なりあがり偽王のさびしい生涯」という映画でした。

 どんなに息子が暗愚でも、王位につける努力を惜しまなかった「いるそん王」こそ、真の赤い帝王であろう。無論2代目で傾き、「唐様で売り家と書く三代目」というのが正しい王位継承である。

 久し振りにNHK7時のニュースを見た。バクダッド情勢を見る。ここでも成り上がり偽王のラストシーンをやっている。盛者必衰のことわりとやら、もののあはれを誘う桜吹雪の季節である。

本日の負け惜しみ:公団2DK住まいでは、唐様でも金釘流でも「売り家」と書けないが、娘は書道五段


2003/04/10 木 晴れ
トキの本棚>『男たちの脱暴力』

 姉の命日1周年。桜吹雪忌。法事は3月にすませたが、皆それぞれのやり方で、柿実さんをしのんでいることだろう。
 柿実さんの最初の亭主は、素面ではいい人なのに、酒が入ると暴れ出す人だった。この元亭主が結局肝臓をやられて死んだ後、3ヶ月後に柿実さんが亡くなった。元姑は「息子のあとを追ったんだね」と言ったそうだが、誰が別れた暴力夫の後なんぞ追いかけたいものか。

 「元DV夫疑惑」井上ひさしについて。
 米原万里が先月NHKのおひるのトーク番組にでたとき、はじめて彼女が「私の妹は井上ひさしの妻だ」と発言するのを聞いた。私が聞いたことがなかっただけで、他の場所では公言していたのかもしれないが。井上ひさしがペンクラブ会長になったことと、関係するのだろうか。井上がペンクラブ会長になってしまえば、彼が共産党幹部元国会議員米原昶の婿であることが世間に知れ渡ってもいいが、副会長であるうちは、共産党の婿殿であることは、公にしないほうがいいとか。

 「DV本」流行中とはいえ、西館好子が今更昔の話を出すのもせつない気がする。
 西村ドクターは好子さんのDV非難を受けて、ますます井上ひさしを見限っている。私は作品と実人生は別、という考えを持ち続ける。「いっぱいのかけそば」騒動のときのように、作者が悪者なら、作品の価値が落ちるという程度の作品なら、最初から文学作品としての価値はなかったのだ。作者の顔や生き方は本の売り方に関係するだけ。内容の価値には関係ない。

 中村正夫さんのDV本を読んでみる。『男たちの脱暴力』
 中村さんの本は、メンズサポートルームの活動の記録。DV加害者の男性たちの、セルフヘルプワークショップ。男性の側だけから見たインタビューが中心となっている、ということわりがあるせいか、どのDVも、女性たちの記録にみるような悲惨な状況ではない。
 家族や妻への感情を抑えに抑えていて、ついに爆発してしまうと、ついカッとなって妻をなぐってしまう、とか、ここに話されている程度のDVなら、女性たちをあれほど恐怖のどん底に陥れる暴力ではないのではないか、自由意志でワークショップに出ようとする男性は、DV加害者の中でも軽症なのではないかと感じた。

 毎年きまって、家族一緒に撮った写真を年賀状に印刷してくる中村正夫さん。今年は家族5人の他、ペットのインコまでカラー印刷されている念の入れ具合で、我が家のような擬似母子家庭に毎年こんな「幸せ家族写真」を送ってくるのは何のいやみじゃ、と思わせてきた。

 『男たちの脱帽力』あとがきでの、本人の告白によると、奥さんとはギクシャクしっぱなし。正夫さんは蒸発願望が強いのだと。蒸発願望など、誰でも持つわい。持つけど、実行はしないの。「蒸発願望がある」くらいが妻に対する申し訳のなさ、なら、うちのように初めから蒸発しっぱなしの家庭はどうなるんじゃ。ぷん。

本日のねたみ:一家4人で撮った写真、10年前のものしかない


<つづく>
コメント
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