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ミンガラ春庭「ミャンマー事情」

2015-04-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150401
ミンガラ春庭ミャンマー便り便り>ミャンマー事情(1)ミャンマーの歴史と文字

 3月24日~30日、ヤンゴン市へ行ってきました。出張報告はまたのちほど。まずは、出発前のミャンマー事情探索から。

  ミャンマー文字を始めて見た人は、「これは視力検査表か」と思うのではないかしら。
 私にもそう見えました。
 以下、ミャンマー文字で「ミャンマー連邦共和国」と表記してみますが、ウィンドウズの場合、バージョン8以後のみミャンマー文字が表記されます。(バージョン7以下だと文字化けするようです。すみません)


 ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်

 ミャンマーについて、ざっと歴史や教育情勢を勉強しました。
 1989年までの国名はビルマでした。ビルマを植民地にしていたイギリスが、主要部族の名前であるバーマという現地発音を英語表記に変え、ビルマと呼んで植民地の名前にしたのです。
 2010年以後、日本での公式国名(外務省による)は、ミャンマー連邦共和国。通称はミャンマー。

 現在の首都はネピドー。ビルマ中央に位置する新しい都市です。旧首都はヤンゴン。もとはラングーンという発音で呼ばれていました。
 中国語でのミャンマー国を表す漢字は「緬甸ミィェンディェン」。
 緬甸の存在は、江戸時代後期には蘭学者を中心に知られていましたが、日本が緬甸と関わりをもつようになったのは、明治以後です。

 国民の70%がミャンマー族ですが、その他の少数民族がいます。7つの主な民族は、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ヤカイン族、シャン族。そのほか細かく分けると100以上の少数民族に分かれます。(ミャンマー政府公式発表で135部族ですが、民族学者により、説はそれぞれ)

 ミャンマー北部には中国系の住民のコーカン族がいます。2015年3月14日には、コーカン族居住地域で反政府ゲリラと政府軍の間に紛争がありました。
 少数民族の独立運動にミャンマー政府は神経をとがらせています。もともと少数民族は「自分たちはミャンマー族とは別の民族であり、ミャンマー族支配下に入ることはない」と考えており、イギリス統治時代には、ミャンマー族よりも政府に重用された、という意識があります。

 この地域は、古くからさまざまな民族が居住し、それぞれが古い王国を作ってきました。国内に残る仏教遺跡はこれらの王朝によって寄進されたものが多く、現在もミャンマー族を中心に仏教信仰が根付いています。

 次にミャンマー近代史。1824-1852(日本では江戸時代後半にあたる)イギリスとビルマの間で英緬戦争が起こり、ビルマが敗れると、1885年以後、イギリスはビルマをインドの州のひとつとして植民地にしました。(英領インド)
 その際インドからの移民を金融業を中心に経営をさせ、中国系の華僑には商業を、ミャンマー族に対立する少数民族は、軍人として採用。多数をしめるミャンマー族を支配しました。ミャンマー族が圧倒的に仏教徒であることに対抗して、イギリスは少数民族をキリスト教に改宗させたうえで利用したのです。

 少数民族とミャンマー族の対立は、もとはといえば宗主国イギリスがもたらしたもの。
 (パレスチナのイスラム教とユダヤ教の対立も大英帝国のパレスチナ政策を原因として起こっています)。帝国主義の覇権争いが、現在まで地球のさまざまな場所に禍根を残しているのです。

 第二次世界大戦中、アウンサン将軍がビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共にイギリス軍と戦いました。日本軍のビルマ敗戦の後も、ビルマ独立戦争を支援する日本人がアウンサンらに協力しました。ミャンマー政府は、1981年に、独立に協力した日本軍人ら7人にアウンサンタゴン勲章を授与しました。

 戦時中の日本軍の行動は、インパール作戦失敗により多数の日本人兵士をむざむざと死においやったほか、ビルマ人を労役によって酷使し死なせたなど、痛ましい出来事も数々ありました。ミャンマー独立に日本人が関わったことも事実ですが、多数のアジア民間人を死に至らしめたのも事実。元日本人軍人へのミャンマーの勲章授与をもって「日本人がアジアの独立解放に貢献したのだから、日本が行った戦争は正しかった」と、述べる人もいますが、それは違うと思います。

 毎年3月27日は、国軍記念日。この日は、アウンサン将軍が抗日戦争に立ち上がった日であり、最近までは「抵抗記念日」と呼ばれていましたが、名称変更されたのは、日本に対する抵抗という内容だと日本との友好関係に影響があると思われたのかも知れません。
 1947年7月19日(殉難記念日)にアウンサンは暗殺されました。アウンサン将軍は今でも国父として尊敬を集めており、その娘がスーチー女史です。
 ミャンマー人には家族名(氏)はなく、他のスーチーと区別したいときには、「アウンサンの子どものスーチー(アウンサン・スーチー)」と呼びます。

 1948年、イギリス植民地より独立。ウーヌーが首相となる。
 1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、以後は社会主義軍事政権を樹立、1988年まで軍事独裁体制を維持しました。
 2007年に新首都ネピドに遷都し、悪化した経済の立て直しをはかりましたが、民主化運動が強くなっていきました。
 2007年9月27日、APF通信社の長井健司が反政府デモ(サフラン革命)の取材中に射殺されました。
 2011年に新憲法に基づく選挙実施。スーチー女史の軟禁を解きました。テイン・セインはミャンマー大統領に就任。現在まで政権を維持しています。

 以上がざっくりとした植民地化以後のミャンマー史ですが、現在も政権が完全に安定しているわけではありません。
 中国北部での中国系の少数民族と政府軍との抗争により、2015年3月14日、少数民族の反政府軍を追って中国領土内に深入りしてしまったミャンマー国軍が、中国の農民を殺傷したというニュース、肝を冷やしました。中国政府はエネルギーや資源をミャンマーから調達したいという理由があり、ミャンマーとの関係を良好に保ちたいので、今回は中国軍との衝突はしませんでした。しかし、国内に紛争や動乱の火種はたくさんあります。

 旧ビルマ国と日本は、1954年11月に平和条約締結。以来関係は良好でした。現大統領のテイン・セインは、大規模な開発を日本に要請し、上水道・下水道・道路・光ファイバーケーブルなどの開発が日本企業の請負で行われています。
 私が読んだ「ミャンマーで儲ける5つの真実」も、この開発利権をどう金儲けにつなげるかという人々を見越した出版です。

 
 開発により不動産所有などでお金儲けに走る人も出ているミャンマー。しかし、まだまだ一般の人(多くは農民)は貧しく、国民のGDPも世界でも低い方です。2013年のひとりあたりの年収は、869ドル約10万円ほど。一般的なミャンマー人給与生活者は、日本人の月給の約40~20分の1だそうです。
 日本から派遣されている商社ビジネスマンは、一泊50ドルのホテルに泊まり、一回の食事に40ドルかける。一日に100ドル使う。農民の年収分、ミャンマー給与生活者の1ヶ月分のお金を一日で消費しています。

 そんな中、教員の給与も世界的に見て低水準です。大学教員も低給与のために、男性は教員になりたい人は少なく、優秀な人材はビジネスへ行ってしまいます。大学教師も女性が中心になってになっているそうです。
 次回、ミャンマー学校事情を。

<つづく>
コメント (2)
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