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ぽかぽか春庭「富山妙子インタビューを聞く」

2012-04-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

2012/04/08
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(9)富山妙子インタビューを聞く

 3月31日、強風強雨の一日でしたが、下北沢にでかけて、よい一日になりました。でかけた先は、http://vawwrac.org/?p=599

 友人のA子さんとは2004年にウェブで出会って以来、会うのは1年に1度くらいなのですが、いつもいろいろな刺激をもらいます。

 今回、A子さんから「富山妙子さん、ぜったいに春さんが興味を持つ人だと思う」と紹介され、講演会を聞く前に、富山さんの著書『アジアを抱く』岩波書店2009と、『戦争責任を訴えるひとり旅』岩波ブックレット1989を読みました。
アジアを抱く

 強い風雨に難儀しながら、A子さんと和食の店でランチしてから早めに会場に着きました。
講演中の富山さん

 富山妙子は画家です。でも、展覧会開催の報道をこれまで私は見ることがなかったし、中央画壇の大きな賞を受賞したニュースもなかった。私のアンテナは非常に貧しいものであり、自分では画家富山妙子をキャッチできませんでした。富山妙子とコラボレーションを続けてきた作曲家高橋悠治の名前は知っていました。高橋悠治の公式プロフィールに「1976年から画家・富山妙子とスライドと音楽による物語作品の製作」とあるのですが、たぶん、「富山妙子」というそれほどインパクトの大きくない名前で、スルーしていた。
 (こう言ってはなんですが、田中洋子とか鈴木芳子とか、あまり印象に残らない「普通っぽい」名前です。若桑みどりは、山本みどりという旧姓名が平凡な響きなので、離婚後、夫の姓を名乗り続けたと述べていました)。
2012年3月31日
 
 富山妙子は1921年生まれ、今年91歳になります。画家として長いキャリアを持つ人なのに、マスコミの注目を集めたことはなかった。なぜか。反権力の人だからです。新聞や雑誌が取り上げるとウヨクの標的にされそうな仕事を続けています。
 富山の絵画のテーマは、炭鉱労働者、半島から日本の炭鉱への強制動員。戦争責任の追及とアジア民衆への連帯、従軍慰安婦問題の追及、反原発、どれをとっても、現在のマスコミには「取り扱い注意」となってきた問題ばかり。富山は、既成の画壇には背を向け、ひとり「社会と関わる絵画」を描き続けてきました。

 慰安婦とかアジアに対する戦争責任問題などと口にしただけで、冷静な議論ではなく、一方的な暴力にさらされてしまう世の中で、韓国の民主化運動、タイの女性の売春問題など、常に「弱者からの異議申し立て」を行う画業は、どれほどのエネルギーを要したことでしょう。
 今回の企画、富山妙子・公開インタビュー第3回「フェミニズムアートと『慰安婦』」も、ヤワなマスコミには取り上げられにくいイベントです。

 2009年7月8月、「富山妙子の全仕事展 1950〜2009」が、越後妻有「大地の芸術祭」で開催されました。越後妻有は、私の先祖の出身地。3年に一度行われる現代美術の芸術祭で富山妙子が取り上げられたのも、アートディレクターの北川フラムが信念の人だからです。第4回大地の芸術祭。富山の画業60年の作品は、廃校になった旧清津峡小学校に展示されました。

 しかし、せっかく「富山妙子の全仕事」が展示された2009年に、私は日本にいなかった。2009年夏、富山妙子がマスコミにも話題になったであろうこのとき、私は中国滞在中でした。youtubeも遮断されていたような当時の中国通信事情で、日本のニュースから遠かった。
 2012年3月、91歳の富山妙子にようやく出会いました。

 おおよその生涯は富山の公式ブログ「火種工房」のプロフィールで。
 キーワードをあげていけば、神戸で出生、9歳から18歳まで旧満州ハルビンで成長。ひとり内地に渡り、女子美に入学。二度の結婚と二度の出産を経て、離婚後は子育てをしつつ、炭鉱取材。離職した炭鉱夫の棄民先であったラテンアメリカ入植地への旅。戦争責任をテーマとして、欧米各地でスライドによる作品展示。91歳の今日まで、国家権力に抵抗し経済優先の社会の姿と闘い、作品を作り続けてきました。
富山妙子と火種工房のあゆみ http://www.ne.jp/asahi/tomiyama/hidane-kobo/contents/jidai/jidai.html
火種工房トップ http://www.ne.jp/asahi/tomiyama/hidane-kobo/

 富山は、童話絵本の挿絵雑誌表紙イラストなども手がけています。私、著者名は見るのに、挿絵担当者の名までは見ることなく、気づかぬうちに富山妙子の絵を目にしていました。下記のギリシア神話の本のイラストなどもその例。
文:石井桃子 挿絵:富山妙子
 
 2012年3月31日開催の「富山妙子インタビュー」は2時から4時まで。
 富山は、これまでの人生を90分間休みなく語り続けました。
 『アジアを抱く』に書かれている自伝部分と重なる話もありましたが、やはり本人の口から直接聞くと、行間を埋めていくように画家91年の人生がくっきりとします。
 休憩を挟んで、インタビュアーの質問に答えるコーナーと参加者の質問に答えるコーナーがありました。インタビュアー西野瑠美子 は、「女たちの戦争と平和資料館」館長。
 参加者は、大阪や京都から来た人も、九州からかけつけた人もいて、富山さんへの熱い思いが伝わりました。

 90歳で遭遇した未曾有の大震災のあと、富山妙子はすぐさまセシウムへの怒りを絵に描いています。津波と原発とセシウムをモチーフにした絵。このシリーズは絵はがきに仕立てられています。「この絵はがきの売上げは、被災の悲劇を訴える活動に使われます」というメッセージがついた絵はがきセットを購入しました。3枚500円。
 この3枚の絵は、『週刊金曜日』の2012年3月、震災1年後の特集号の表紙となっていますので、富山妙子の作品を気づかぬうちに目にした方もいらっしゃるかと思います。

フクシマ春のセシウム137
海の黙示つなみ
日本:原発2011 

 原画は、アトリエいっぱいの大作だそうです。90歳の女性が描いた、気迫に満ち、地上をみたすものの尊厳へ向けた祈りの気持ちにあふれる大作ですが、この絵はがきは今販売中なので、ネットにUPするときは著作権に留意ということで、画質を落としていて、細部はわかりにくいかと思います。
 ぜひ、絵はがきをご購入ください。

 富山の絵は、激しいです。強く激しいモチーフと色使い。こちらの中途半端でヤワな生き方がぐさりと突き通されるような気迫があり、のうのうと楽をしたいという近代都市生活者のいいかげんさに刃が迫る気がします。だから、「絵を見て心地よく癒されたい」という絵画鑑賞には向かないかも知れません。
 でも、私はこれからできる限り富山の絵を見て歩くつもりです。ときには、燃える絵とともに火傷を負う覚悟で、富山妙子に近づいてみます。

<おわり>

もんじゃ(文蛇)の足跡:
掲載した富山妙子さんの肖像は、私が勝手に撮影したもので、このときの富山さんのインタビューを企画したVAWW RAC及び富山さんの許可を得て掲載したものではないことをお断り申し上げます。富山さんの写真は、オープンソースとしてネットには出ており、作品画像も、「大地の芸術祭」などで撮影されオープンとなっているものをコピーさせていただきました。
こののち、VAWW RACまたは富山さんから「不都合」であるとの連絡があったとき、画像を削除する旨、あらかじめお断り申し上げます。また、このページからの画像コピー等は固くお断り申し上げます。
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ぽかぽか春庭「藤牧義夫の版画」

2012-04-07 00:00:01 | アート

2012/04/07
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(7)藤牧義夫の版画

 3月22日、春まだ浅い景色の鎌倉を訪れたのは、藤牧義夫の版画を見るためでした。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2011/fujimaki/index.html

 藤牧義夫(1911-1935)は、群馬県館林市出身の版画家。は、群馬県館林市出身の版画家です。少年の頃から抜群の才能を示しましたが、画業半ばにして24歳のとき忽然と失踪し、生死不明となった芸術家です。
藤牧義夫23歳ポートレート1934

 1935年6月25日~27日にわずか3日間ですが、最初の個展を開き、版画家としてこれからという9月2日に失踪。その後は忘れられた存在になっていました。
 私は竹橋の近代美術館で何作か藤牧の作品を見ていたのですが、特別な興味はありませんでした。

 「藤牧をまとめて見てみよう」と思ったのは、ウェブ友まっき~さんの父上が藤牧研究を続けていて『赤陽物語ー私説藤巻義夫論』という著作を出版されていることを知ってからです。
 藤牧義夫について、牧野さんの本のあと、駒村吉重『君は隅田川に消えたのか-藤牧義夫と版画の虚実』2009なども出され、藤牧の版画コレクターでもある大谷芳久の『藤牧義夫 眞僞』(学藝書院2010)が従来の藤牧研究を一新するとして美術業界で話題になりました。ただし、この本は、収集された藤牧の版画集でもあり、21000円という値段なので、私には買えません。

 鎌倉近代美術館の展示では、各地の美術館収蔵品のほか、大谷さんの画廊「かんらん舎」からの借用品が何点かありました。同じ作品でも、版画ですから、数点が並んでいるうち、美術館収蔵品とかんらん舎コレクションでは色調が微妙に異なっていたりして、版画作品は、何点も並べて見る必要があるなあと思いました。

 1978年1月~2月にかんらん舎で開催された「藤牧義夫遺作版画展」が、藤牧再評価のきっかけを作り、忘れられていた藤牧版画が再び評価されるようになりました。かんらん舎の画廊主大谷芳久さんは、版画家小野忠重から藤牧作品を譲り受けたそうです)。

 版画という媒体には、元版から複数枚を摺ります。同じ作品が何枚かあるのをいいことに、贋作もあったそうです。大谷さんは、自分が手がけた作品の中に、気づかないで売ってしまった贋作があったのではないかという疑念を抱きました。画廊主のプライドをかけて2000年から10年をかけて藤牧作品の真贋を追い続けてきました。『藤牧義夫 眞僞』は、その集大成です。
 贋作販売に手を染めて羞じない画廊主もいる中、「もしかしたら自分が販売した中に贋作も混じっていたのではないか」という後悔から、真贋研究を始めたというところに、美術に関わる人の心意気を感じました。

大谷は、著書『藤牧義夫 眞偽』の中で、藤牧の代表作「赤陽」が東京上野の松坂屋上層階から見た風景であることを明らかにしています。また、藤牧の失踪は、従来伝えられてきたような「病苦や貧困の果ての自殺」ではない、というのが大谷説です。
赤陽(東京国立近代美術館蔵)

 贋作で思い出した。以前ビッグコミックスピリッツで愛読していた、細野不二彦『ギャラリーフェイク』。アニメ版は見ていないので、どこかで再放送してくれたら、録画してみたいです。もひとつついでに、映画「ミケランジェロの暗号」も、ナチスのユダヤ人迫害と贋作をめぐる丁々発止でおもしろかった。
 
 私には買えないけれど、藤牧の版画を質の良い図版で見たいかたは、電話・FAX・e-mailで版元より直接購入。アマゾンでも「現在お取り扱いできません」になっていて、版元に直接注文する以外にないみたい。私もいつかお金に余裕ができたら買いたいから、メモをコピーしておきます。ただし、限定360部発行のところ、残部稀少。すでに売り切れたかもしれません。再版あるのかどうかもお問い合わせの上。
発行所・学藝書院 〒248-0013 鎌倉市材木座1-11-3
電話・FAX 0467(22)3062 e-mail / tojaku@m4.dion.ne.jp
21000円と郵送料の郵便振替口座は、00200-6-116021

つき『新版画』第12号所収1934年(神奈川県立近代美術館蔵)

 神奈川県立近代美術館と群馬県立館林美術館の共同編集による藤牧義夫年譜
http://www.gmat.gsn.ed.jp/ex/data/11fujimaki/fujimaki_nenpu.pdf

 藤牧義夫紹介サイト
http://yfujimaki.exblog.jp/
 上記サイトのトップ「玉乗りする猫の秘かな愉しみ」
http://furukawa.exblog.jp/

<つづく>
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ぽかぽか春庭「写真を見る・堀野正雄&ベアト」

2012-04-06 00:00:01 | アート
2012/04/06
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(4)写真を見る・堀野正雄とベアト

 3月21日、写真美術館へ行きました。
 ロベール・ドアノーの生誕百年展は3月24日からだったので、残念ながら見ることができませんでしたが、3階の「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」と2階「フェリーチェ・ベアトの東洋(J・ポール・ゲティ美術館コレクション)」はとても充実した展示で、よいひとときをすごすことが出来ました。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1540.html
 http://syabi.com/contents/exhibition/index-1538.html

 1930年代、関東大震災後のモダン都市東京の建設ブームとモガモボが闊歩する大都会を堀野正雄(1907-1998)は「近代写真の旗手」として写し取りました。堀野が活躍したころ「新興写真」運動がドイツからアメリカへと広がり、日本の若き写真家たちも「芸術写真」の表現を追求するようになりました。堀野は、1930年に結成された「新興写真研究会」のメンバーとして、写真集『カメラ・眼×鉄・構成』1932を刊行するなど、プロ写真家として、戦前の写真芸術を牽引しました。
ガスマスクをした女学生の行進1936~1939頃)

 私が見た今回の「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」は、まとまった堀野の作品展としては、初めてと言える展覧会です。堀野は、戦後ミニカム研究所というストロボ制作の会社経営に打ち込み、フォトグラファーとして生きることをやめてしまいました。そのため、飯島耕太郎らによって再発見されるまで、生死すら不明だったのだそうです。

 戦前の朝鮮中国を撮影したもの、築地小劇場の舞台写真、東京をグラフ・モンタージュで表現したもの、どれもすばらしい作品でした。
 「半島の舞踊家」として知られた崔承喜。私は写真でしか崔のダンスを見たことがないのですが、崔の写真のなかでも堀野の「ポーズ」1931は、崔の魅力がよく伝わる一枚だと思います。
ポーズ1931

 今回の堀野正雄展に「幻のモダニスト」と題されているのは、堀野が長い間埋もれていたからです。
 戦前に撮影した写真を否定し、ストロボ制作会社を経営して写真界から身を引くに至るまで、どのような戦中戦後の葛藤があったのか。これから研究が深まっていくのかもしれません。
築地小劇場の一景


 フェリーチェ・ベアト(Felice Beato1832-1909)は、英国国籍ですが、実はベネチアで生まれフィレンツェで亡くなったイタリア人。兄弟ふたり(アントニオとフェリーチェ)で初期の写真技術を習得し、1851年にカメラを購入して1854年にはベアトの妹と結婚したロバートソンと共同経営でトルコイスタンブールで写真館を開きました。ギリシャやマルタ島、エジプト、イスラエル、インドなど各地を撮影し、幕末明治初期にあたる時代の貴重な日本の姿を記録しています。
 アントニオ・ベアトは、1864年にパリに派遣された徳川幕府の使節がエジプトを経た際に、プラミッドを背景とするサムライたちの記念写真を撮影した写真家です。
スフィンクス前でのサムライ記念写真byアントニオ・ベアト(1864年撮影。写真美術館の今回の展示作品ではありません)

 フェリーチェ・ベアトはアロー戦争撮影のためにイギリスから中国へ派遣されました。国籍がイギリスであるのは、このためと思われます。ベアトは清朝最後の中国を記録し、頤和園や恭親王の写真を撮りました。恭親王・愛新覚羅奕訢(あいしんかくら えききん、アイシンギョロイヂン)は、兄である咸豊帝の死後、その妻のひとり西太后と結んで権力をふるった人です)
 
 ベアトは幕末1861年頃来日し、先に日本に来ていたワーグマンと「絵と写真」の会社を共同経営して、写真とイラストで日本を西欧に伝えました。ワーグマンとの共同経営を解消したあとも、1877年まで日本に滞在し、上野彦馬との写真館共同経営のほか、さまざまな投機的な事業を行い、結局はほとんどの財産を失う結果となりました。しかし、ベアトの撮影した幕末明治初期20年間の日本は、貴重な歴史の証言となっています。
長弓を引く武士byフェリーチェ・ベアト(1863年撮影Jポールゲティ美術館所蔵)

 1888年ごろにはビルマで写真館を経営していましたが、最晩年にはどのようにすごしたかわからないまま、フィレンツェで1909年に死去。

 写真術草創期にインド、中国、日本、朝鮮、ビルマを撮影し、クリミア戦争、インド大反乱、第二次アヘン戦争、下関戦争、辛未洋擾など東洋における国際紛争を記録した戦争写真家第一号とも言えるベアト。さまざまな事業に手を出す山っ気の持ち主でもあり、晩年はどこで何をしていたのやらもわからないというボヘミアン(定住せず伝統的な暮らしや習慣にこだわらない自由奔放な生活という意味での)でもありました。
 好きです、こういう人。

 飯島耕太郎は、写真家フォトグラファーとは、「写真によって’生かされる者’である」と言う。(飯沢耕太郎『フォトグラファーズ』1996作品社)
 すなわち、その生涯の「生」を支えるものが「写真を撮ること」「写真を撮ることによってその生を輝かせた者」ということになるでしょう。
 その意味では、堀野正雄の後半生は、「ストロボ会社の経営者」にすぎず、飯島の定義する「フォトグラファー」からは抜け落ちます。しかし、没後、堀野の一生を振り返れば、「フォトグラファー堀野正雄」こそ、堀野の生を輝かせたと思うのです。
 ベアトは自分自身を「写真家」とも思っていなかったのかも知れません。常に「何か新しいもの、新しい土地」をめざして、世界を渡り歩いた男。しかし、ベアトの一生もやはり、彼が撮影した数々の写真によって輝き、ベアトは真のフォトグラファーであったと思います。


冬着姿の女性(1868年頃 Jポールゲティ美術館所蔵)
 モデルは、歌舞伎の女形ではないかというのが、東京都写真美術館三井圭司学芸員の説。

 現存する最古の写真は1825年頃のもの。1万年前の壁画も発見されている長い歴史を持つ絵画に比べ、写真はたかだか200年の歴史しかない。けれど、ベアトの写した江戸の写真も、堀野の東京の写真も、単なる「記録」以上の「生の軌跡」を伝えずにはおかない、強い光を放っています。「光の芸術」である写真。

 写真術が発明されてから200年になり、写真技術の革新は日々新しい。私のような者でも、デジカメで花やら建物やらを撮影できる。ありがたし。私の撮影技術はいつまでたってもへたっぴいのままですが、写真を見ることにかけては、毎回新たな発見があります。

150年前の王子(音無川前の扇屋)byフェリーチェ・ベアト(今回の展示作品ではありません)。
 私の散歩道、150年前はこうだったのかと、感慨深い。

<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡:
 フェリーチェ・ベアトの写真については、著作権が消滅していますが、コレクション所蔵者である美術館には、「所蔵者の有する所有権」があります。このサイトからのコピーを商用として用いることは、お断り申し上げます。
 堀野正雄の写真には著作権があります。写真掲載は「引用」の範囲内であることを確認してください。

1984年最高裁判決
著作権の消滅後は、著作権者の有していた著作物の複製権等が所有権者に復帰するのではなく、著作物は公有(パブリック・ドメイン)に帰し、何人も、著作者の人格的利益を害しない限り、自由にこれを利用しうる。
原作品の所有権者はその所有権に基づいて著作物の複製等を許諾する権利をも慣行として有するとするならば、著作権法が著作物の保護期間を定めた意義は全く没却されてしまうことになるのであって、仮にそのような慣行があるとしても法的規範として是認することはできない。

 以上の判決によるならば、作品を損なうことのない範囲で、著作権の切れた作品を美術館などで撮影することを、美術館博物館側が制限するのは、法的に「おこがましい」行為ということになる。
 美術館博物館での撮影許可が、もっと広まることを望んでいます!!
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ぽかぽか春庭「パラちゃんデビューの鼬」

2012-04-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/04
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(3)パラちゃんデビューの鼬

 4月1日、楽友協会の演奏をいっしょに聞いたのは、K子さんと。
 演奏の前にホール近くの錦糸町小町食堂という大衆食堂でランチを食べました。棚に並んだお総菜を好きなだけお盆に並べて、あとで会計するセルフサービス食堂です。私は、ニシンのぬか焼、ひじきと厚揚げ煮付け小鉢、ゴーヤチャンプルー、豚汁、(ごはん抜き)を選び、890円。
 K子さんは、これまで参加してきた演劇ワークショップ「シニアクラス」の公演が4月にあるので、お稽古の最中です。

 小劇場のメッカである下北沢。本多劇場、スズナリなんてのは大手です。
 東京ノーヴイ・レパートリーシアターは、客席数26席という小劇場の中でも一番客席が少ないんじゃないかと思える劇場です。でも、椅子はゆったりしていて、素敵な劇場空間です。
 ロシア人演出家のレオニード・アニシモフさんがスタニスラフスキー・システムによる俳優訓練と演出を行い、チェホフ、ドストエフスキー、近松門左衛門などの作品をレパートリーにしています。
http://www.tokyo-novyi.com/japanese/index.html

 K子さんは、私と出会った大学時代にいっしょに演劇を見始めて、早稲田小劇場や文学座などを見てまわりました。その後、働きながらホメロス朗読公演などに関わりましたが、国家公務員として地方への赴任があり、演劇に直接関わることからは遠ざかっていました。しかし、定年退職後、演劇への情熱が復活。私の所属するジャズダンスサークルで1年半、ストレッチなどの体作りをしながら、劇団ワークショップなどで演劇の勉強をはじめました。

 サークルをやめてからは東京ノーヴイ・レパートリーシアターのシニアクラスで演技を学び、いよいよシニアクラス公演で、デビューです。
 「最初は裏方のお手伝いをするつもりだったのだけれど、出ることになって、、、、」と言うのですが、老婆役の役作りのために、髪染めを中止して白髪にするなど、気合いが入ったようすでした。

 私たち団塊の世代は、がむしゃらに働いてきて還暦を迎え、それぞれの老後設計をしています。「旅行三昧。毎年夫婦でクルージング」という余裕ある人もいるし、「若い頃に夢中になっていたけれど、長年遠ざかっていた登山を復活した」という人もいます。何もやることが見つからない、と途方にくれる人も多い。
 K子さんが定年退職後に「若い頃関わった演劇」を復活させて着実に自分のやりたいことを続けているようすを知ると、しょぼくれている私まで元気になってきます。私もやりたいこと、やらなくちゃ、と思います。

 私は、貧乏暇無しにちょうどよかったか、70歳までは続けられる仕事があるので、さて、70歳すぎていきなり「何もやることがない」とならないように、K子さんを見習って、今から少しずついろんな方向にアンテナを張って、古稀デビューをしたいと思います。古稀デビューのテーマが「恋愛」なんてのもいいな。

 K子さんが送ってくれた公演パンフレットをカラーコピーして、ジャズダンス仲間に配り、「パラちゃんが出演するからいっしょに見にいこう」と誘ったら、3人いっしょに見に行くことになりました。(パラちゃんは、K子さんのダンサーネーム。私のダンサーネームはe-NAイーナちゃん)」
公演案内 http://www.tokyo-novyi.com/japanese/pg240.html

 『鼬』は、真船の出世作です。1935年に発行された真船豊のデビュー戯曲集に掲載されています。 昭和初期、東北地方が舞台の没落農家の物語。
 4月14日(土曜日)から19日(木曜日)の1週間公演、機会があったらパラちゃんの熱演をご覧下さい。

 4月1日、東京の団地の木々。毎年、春まっ先に咲くこぶしの花はもう終わりで花びらのふちが茶色っぽくなっています。咲くのが一ヶ月も遅かった紅梅はまだ盛り。学童保育の庭になっている児童公園の桜は一輪二輪ほころんでいます。梅と桜が同時に見られそうです。
2012年4月1日6号棟前の辛夷

 一本だけ、早くも三分咲きになっている木がありました。どこにも「私が一番!」と先走るのがいるもんです。
2012年4月1日3号棟前の児童公園の桜三分咲き

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東京楽友交響楽団のハーリ・ヤーノシュ」

2012-04-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/03
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(2)東京楽友交響楽団のハーリ・ヤーノシュ

 土曜日ほどではないですが日曜日もまだ風が強く、コートが必要な気温でしたが、気分は光の春。春を味わおうとコンサートに出かけました。錦糸町のトリフォニーホールでの、東京楽友協会交響楽団第92回定期演奏会。

 毎年、春にはこの楽友協会のコンサートを聞きます。アマチュアオーケストラですが、各地の区民交響楽団やら大学オーケストラやらを聞き比べた結果、アマチュアの中でもっとも演奏技術が確かな、プロにも負けない音を持つオケだと思っています。
 毎年聞いているのは、葉書招待券が貰えるから。15年ほど前に入場料500円払って聞いて、招待券応募のアンケートに名前を書いたら、そのあとずっと招待葉書が送られてくるのです。

 昨年、震災後の節電モードで公共ホールなどが閉鎖になり、プロのオーケストラも軒並み演奏会中止となりました。そのため、入場料収入が激減しオーケストラの財政が悪化しているというニュースを読みました。
 お金払って音楽を聞くのも、文化振興のためには必要なことなのだとわかってはいるのですが、こうして無料招待のオーケストラが聞けるとなると、足の向くのは無料の方で、プロの方々すみません。

 今回も期待に違わぬすばらしい演奏でした。指揮、田部井剛。曲目は、はじめて聞くものばかり。東欧作曲家特集ということで、リゲティ作曲「ルーマニア協奏曲」、コダーイ作曲、組曲「ハーリ・ヤーノシュ」、シェーンベルクが交響曲用に編曲をしたブラームス作曲ピアノ四重奏曲第1番ト短調作品25。
 堂々の演奏で、アマチュアとは思えない音でした。

 コダーイ(Kodaly Zoltan, 1882-1967。ハンガリーは、元はアジアの民族なので姓が先、名をあとに名乗る)は、ハンガリーの言語学者、哲学者。民族音楽の研究を続けブダペスト音楽院教授。音楽家としては、アマチュアに徹して作曲を続けました。1910年に19歳年上の作曲家シャンドル・エンマ(1863-1958)と結婚。エンマが1958年に95歳の長命を保って死去した1年後、77歳のコダーイ、今度は58歳年下の19歳の教え子シャルロッタと再婚しました。1967年にコダーイが84歳で亡くなったあと、シャルロッタはコダーイ未亡人として、彼の音楽を守って暮らしたみたい。次はシャルトッタが20歳年下の若い音楽家と再婚したなら、お話としては「ハーリ・ヤーノシュ」と同じくらい面白いのに。

 ハーリ・ヤーノシュHary Janosは、コダーイ作曲の歌劇。ハンガリーの老農夫が、「七つの頭のドラゴンを退治した話、ナポレオンと戦って捕虜となる話、オーストリア皇帝フランツの娘マリー・ルイーズ王女から求婚されたが断った話 など、大ボラ吹きの冒険譚を語って聞かせます。
 コダーイは、歌劇を元にした組曲を残しました。第1曲「前奏曲、おとぎ話は始まる」第2曲「ウィーンの音楽時計」第3曲「歌」第4曲「戦争とナポレオンの敗北」第5曲「間奏曲」第6曲「皇帝と廷臣たちの入場」

 第3曲と第5曲にハンガリーの民族楽器ツィンバロムCimbalomが演奏されます。もらったプログラムの演奏メンバー表によると、楽友協会でツィンバロムを演奏したのは、崎村潤子さん。よい演奏でした。
 演奏が終わって休憩になると、観客の何人かはステージにかけ寄り、このめったに見られない楽器を眺めていました。ヤジ馬大好きの私ももちろん、ステージ前へ行って、ツィンバロムをしげしげと見ました。

 チェコのツィター(映画『第三の男』のテーマ曲が有名)、中国の楊琴(ヤンチン)と同じ、弦を横に並べてバチで叩く楽器です。
 ツィター属の楽器は、「共鳴体に弦を平行に張ったもので、かつリュート属のようなネックを持たないもの」で、ツィターが弦を爪ではじく演奏なのに対し、ツィンバロムや楊琴は、バチで叩いて演奏します。

 どこのオケの演奏なのかわからないのですが、youtubeにUPされているツィンバロム演奏の第5曲「間奏曲」
http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&v=zSv5CvhOEsA&NR=1

リゲティ作曲「ルーマニア協奏曲」 
http://www.youtube.com/watch?v=5IRw1fIyrO0

 2009年に中国で演奏体験させてもらった時の楊琴は、こんな楽器です。


中国楊琴

<つづく>
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ぽかぽか春庭「可愛い花」

2012-04-01 09:40:00 | エッセイ、コラム

2012/04/01
ぽかぽか春庭十二単日記>はるHAL春(1)可愛い花
 
 土曜日3月最後の日は、強い風が吹き荒れ、雨も横殴りになりました。春の嵐のような風雨も、春を連れてくるための試練と思いましょう。31日は、そんな風雨をものともせずに生き抜いてきたすばらしい画家、富山妙子さんの講演を聴くことができました。報告はのちほど。

 つらく長い試練を耐え、ほんの1mmでも先に進もうと努力している人がいることを知るだけでも、ふんわりとやさしい春は厳しい冬のあとに来るということの摂理が心に蘇ります。
 青い鳥さんからのお知らせがありました。(3月30日付けのfacebook)
「おはようございます。昨日は、携帯メールを自分で開いて読み、返信を書いて送信することが出来ました。テレビのチャンネルもリモコンで切り替えれるようにもなりました。
4,5日前までは出来なかった事です。起きてる生活、素晴らしいね!」

 手術のあと、首から下がまったく動かなくなってしまってから3年。寝たきりの生活から厳しいリハビリを続けて、メール返信が送信できるまでに「神経の赤ちゃんを育てる」生活、私にはとうてい辛抱できそうにない、つらく厳しい日々だったと思うけれど、青い鳥さんが「起きてる生活、すばらしいね」と書いているのを見ると、どんな春よりもうれしい気持ちが満ちてきます。

 青い鳥さん制作カレンダーをパソコン前の壁に下げ、四月の詩「可愛い花の心」を読みながらキーボード打っています。心がシャンとしてぽかぽかしてきます。

~~~~~~~~~~~~
青い鳥の詩「可愛い花の心」

新しい風の中
可愛い花の心で
ゆっくり ゆっくりと 歩く
時には車椅子に乗って
時にはセニアカーに乗って
時にはテクテクと自分の足で歩く
一人寂しい時には鼻歌を歌いながら
あてもなくただ歩き続ける
どんな困難な道も
ただひたすらに歩き続ける
どんな困難な道も
ただひたすらに歩き続ける
冷たい風に吹かれようとも
冷たい雨に濡れようとも
そんなことは問題ではない
私という 私が
可愛い花の心を
暖かな陽の光に守られて
生きている
小さな 小さな 夢を持って
のんびりと生きている
~~~~~~~~~~~
 青い鳥さんの詩とボランティアさんの絵を組み合わせた2012年のカレンダーが各方面に好評だったので、2013年度は販売をするそうです。A3表に月ごとの日付、めくった裏に青い鳥の詩と絵。12枚。1500円。お申し込みは青い鳥サイトへ。
http://blog.goo.ne.jp/aoitori277

<つづく>
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2012年3月目次

2012-04-01 00:00:01 | エッセイ、コラム

2012年3月目次

03/01 ぽかぽか春庭十二単日記>もうすぐはるですね(1)春一番
03/02 もうすぐはるですね(2)ゆみさんコンサート
03/03 もうすぐはるですね(3)ひなまつりのダンス

03/06 ぽかぽか春庭ブックスタンド>読んだ本、読みたい本(1)DISCO
03/08 読んだ本、読みたい本(2)リッパな読書-あと千回の晩飯再読

03/09 ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>あと1万回の晩飯(1)明治34年の食生活・子規『仰臥漫録』の献立
03/10 あと1万回の晩飯(2)GPR120礼賛2012年3月の食生活
03/12 あと1万回の晩飯(3)2005年10月の食生活

03/13 ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(1)復活へ向けて3.11チルチルさんニュースとあんぱんまん日記
03/14 bbsコピー(2)人魚姫のささげ物
03/16 bbsコピー(3)宝くじ
03/17 bbsコピー(4)昔の映画
03/18 bbsコピー(5)幕末のワケーシュ
03/19 bbsコピー(6)「雲は天才である」の歌
03/20 bbsコピー(7)ゴッホによせて
03/22 bbsコピー(8)男系

03/23 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>赤い花束車に積んで(1)菫買いましょ野のスミレ・パンセソバージュ
03/24 赤い花束車に積んで(2)青い野菜も市場について・凍み菜、青菜
03/25 赤い花束車に積んで(3)店のさきにも春の唄・漢字も唄う絆
03/26 赤い花束車に積んで(4)空はうららかそよそよ風に

03/27 ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(1)法隆寺展の幡&天寿国繍帳
03/29 布をみる(2)うに染めと螺鈿細工
03/30 布をみる(3)三の丸尚蔵館・正倉院古代裂れ
03/31 布をみる(4)近代美術館工芸館・北村武資の織物
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