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ぽかぽか春庭「グッバイレール、さよなら都会の星」

2014-11-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141111
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記午年尽(3)グッバイレール、さよなら都会の星

 11月の声を聞いて、「もう今年も終わってしまうんだ」という話を続けようと思っていたのですが、フィギュアに感激して、まだまだ続くグランプリシリーズの話を挟みました。
 さて、本題に戻って、「もうおしまい」のお話です。

 フィギュアスケートも、羽生や町田のように伸び盛りの若手もいれば、高橋大輔のように、今年で引退という選手もいる。
 大相撲では、本名カロヤンの愛称で親しまれた琴欧洲が引退。ブルガリアから日本に帰化して、妻の姓により安藤カロヤン。断髪式を10月に終えて、これからは所属の佐渡ヶ嶽部屋で若手の指導に当たると同時に、来年からは日本体育大学3年に編入し学生の身分でコーチも引き受けるのだそうです。
 野球やサッカーでも引退の選手はいるでしょうが、すみません、名前を知らない。

 今年を限りで終わってしまうというもの、いろいろあります。
 私の住む区では、区営のプラネタリウムが終わってしまいました。老朽化したプラネタリウム投影機を買い換える時期になったのですが、その予算がない。我が家も、子ども達が小さかった頃は、周辺にプラネタリウム施設もないし、東京の空では星空も1等星くらいしか見えないので、ときどき星を見にいきました。「今日はプラネタリウム見にいくんだ」と、小学校の先生が引率して星空見学に行ったこともありました。

 しかし、周辺の区や商業施設にもっと新しい設備のプラネタリウムができ、近年は集客できないまま、土日だけ運営していました。新規投影機を購入することなく、廃止が決まってしまったのです。

 もうひとつ、ご近所で「今年でおしまい」になってしまったものがあります。近所の桜の名所になっている倉庫への引き込み線の線路。廃線となりました。

 桜の下を貨物車が出入りする光景は、鉄道ファンの「知る人ぞ知る撮影スポット」にもなっていて、毎年桜のころは、カメラを持った人がいっぱいいました。
 地方には廃線となっても線路がそのまま残され、レールは赤く錆びて、草に覆われ、なんだかいい感じの別の風情が出てきます。鉄道ファンの中には「廃線マニア」もいるので、全国各地の廃線を踏破した写真集も出ています。

 しかし、都会の中の廃線、近々線路は撤去され、なにか跡地利用がされるのでしょう。「乗り鉄子」の私、特に廃線マニアじゃありませんけれど、撤去される前にと思い立って、線路を撮影しました。もうその上を貨車も電気機関車も通らないレール。夏場は草がたけたく茂って、それらしい廃墟の雰囲気が出ていたんですが、跡地利用が決まったのか、撮影した10月には草も刈られて、線路に投げ込まれているペットボトルや空き缶などもわびしい風情で、あまり廃線情緒を感じませんでしたけれど。




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ぽかぽか春庭「流血のファントム」

2014-11-09 00:34:41 | エッセイ、コラム
20141109
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記午年尽(2)流血のファントム

 我が家のスポーツ観戦、基本、チームプレーは苦手&ボールで勝ち負け決めるものはダメ。、夏のスポーツは水泳と陸上、冬はフィギュアスケートとマラソンです。
 フィギュアグランプリシリーズが始まり、アメリカ大会カナダ大会、全選手のショートフリーの演技を応援しています。

 ただ、残念なのは、オリンピックとことなり、日本の選手が出ないとアイスダンスとペアの放映がないこと。スケートそのものを見たいのだから、日本の選手が出場していなくても放映してくれればいいのに、というのですが、視聴率とれる選手が出ていないとテレビも写してくれません。

 高橋大輔の現役引退、浅田真央休養ということで、今年のグランプリシリーズ、少し寂しいですが、アメリカ杯では町田樹、カナダ杯では無良崇人が優勝し、若手ががんばっています。また、女子シングル村上佳菜子や、ペアの高橋成美木原龍一組の成長も楽しみです。

 11月8日のグランプリシリーズ中国杯も、テレビ観戦で応援しました。女子シングルは、村上佳菜子3位。「オペラ座の怪人」ファントムバージョン、よかったです。
 しかし、男子シングルラストグループの6分間練習で、大きなアクシデント。中国のエース閻涵とオリンピックチャンピオン羽生結弦が、互いに後ろ向きで滑ってきてげきとつしてしまいました。双方氷の上から立ち上がれないダメージ。ことに羽生はあごから流血し、氷の上に仰向けになったまま。ほんとうに心配でした。

 若い羽生結弦の今後の選手生活を考えて、娘息子私3人一致で「棄権してほしい」と思いました。
 羽生はあとNHK杯の試合が残っていますが、中国杯棄権すれば、グランプリファイナルの出場はなくなります。前シーズンは、グランプリファイナル、ソチオリンピック、世界選手権の3冠を達成してます。今回のグランプリシリーズをあきらめても、まだまだ先があるから、、、、オーサー・コーチ、なんとか出場をあきらめさせて、と中国に向けて大声を出したのですが、「棄権する」という声は聞こえてきません。羽生の顔色は真っ青で、完全に血の気が失せた状態。

 演技が再開されると、閻涵、羽生、ともに周囲の制止をふりきって強い意志で出場しました。ジャンプのたびに転んでしまう羽生。もう最後のほうは、3人で「飛ばなくていいから、これ以上大きなけがにならないように、難しいことは回避して滑り終えて」と祈る思いでした。

 「オペラ座の怪人」4分半を滑り終えた羽生はふらふらで、歩くのもままならない様子。
 5回も転倒したのに、点数は最終滑走者ロシアのコフトゥンに次ぐ2位でした。
 オリンピックで金メダルを手にしても決してファンの前では涙を見せなかった羽生選手でしたが、今回は手で顔を覆って号泣。3人でもらい泣きしました。

 私はこれまで線の細い羽生より、円熟した演技を見せる高橋大輔のほうが好きでしたけれど、これからはだんぜん、羽生を応援していこうと思いました。
 個性的な発言を繰り出す町田樹もおもしろくて好きですが、今回の羽生はほんとうに、強い精神力を見せてくれました。

 羽生はファンのあいだでは「私の天使」と認識されていて、私はそういう「ふわふわしたファン」が嫌いだったのですが、今回の演技で羽生は「天使」以上にスポーツ精神の神様が降りてきて背中を押す人なのだと感じました。

 どうか、けがを完全に治して、それから脳波検査をちゃんとやって、NHK杯には体調万全にして出場してほしいです。担架に乗せられてスケート会場を去る羽生の姿が映りました。早くよくなってね。次は完璧な状態での演技を見たいです。

 土曜日の生中継を見逃して、日曜日のダイジェストニュースなどで羽生の演技を見る人、何度もころぶ羽生ですが、ものすごい精神力で怪我を押し切ってすべっているのだ、ということをわかってやってね。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「和種在来馬の去勢」

2014-11-08 01:01:01 | エッセイ、コラム
20141108
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記午年尽(1)和種在来馬の去勢

 カレンダーが11月になると、毎年同じことを思うのです。あらら、何もしないうちに今年もあと、2ヶ月しかない。午年、何か世のため人のためになるようなこと、やったかしら。あはは、今年も「それにつけても金がない!」というだけの1年であったと。

 今年は日記タイトルを十四事日記と名付けました。江戸武士の武術たしなみを十四並べた「十四事」にちなむものです。
 午年でしたから、十四事のうちでも「騎」の術、馬の話題をときどき書きました。女子校同級生に連れられて馬事公苑でホースショウを見たとか、彼女が指導している大学馬術部を見学したとか。馬について思い巡らすことが多くなりました。
 思い巡らすといっても、父が生前言っていた「バカの考え、休むに似たり」で、何も結論やら出ないものですけれど。

 私が馬について考え巡らし、結論がわからないことのひとつは、馬の去勢についてです。
 家畜として馬を乗りこなすための去勢について、中国の文献に去勢の方法を記した記述があり、中国や朝鮮から馬を御する技術者が海を越えてやってきたであろうに、日本では明治維新後の西洋騎馬術、獣医術が取り入れられるまで、行われたことがありませんでした。

 古代日本があれほど熱狂的に中国の文化を取り入れたのに、受け入れなかったものの代表が馬の去勢と、宮中における宦官制度。町を城壁で囲い込む構造。
 長安の町は、高い城壁で囲まれていますが、異文化遊牧民の襲撃を恐れる心配のない日本が城壁を築かなかったのはわかります。しかし、なぜ、馬の去勢は取り入れなかったのか。

 日本の馬の在来種、和種の木曽駒や野間馬は、地面から背中の鞍までの高さが130~140センチほど。鎌倉武士や戦国武士が乗っていたのは、この在来種です。
 戦国期の日本を記録したイエズス会などの宣教師達が、本国に送信した手紙などによると、戦国武者の馬は、彼らの目には「ポニー」と思えたのだそうです。

 小型種だから去勢しなかったのではありません。同じような140センチほどの馬種に騎乗していたモンゴル人たちは、去勢を行っていました。
 多摩動物園に、モンゴルでは滅んでしまった野生の馬、「蒙古野馬」が飼育されています。モンゴルの騎馬民族が騎乗したのは、この蒙古野馬を家畜化した馬なので、やはり馬高は140センチ程度であり、昨今我々が見る競馬用のサラブレッド(馬高160センチ)とはイメージが異なっています。

 日本で馬の去勢術が一般的に行われるようになったのは、義和団の乱以後という説を読みました。(日本獣医師学会理事長小佐々学「日本在来馬と西洋馬」)
 北京に駐屯した列強各国の騎馬隊と共同出兵したときに、日本の軍馬は去勢をしていないために獰猛で、雌馬の尻を追いかけて隊列を乱すなどが、みっともないと、各国にわらわれたのだそうです。去勢が行われたのは、この義和団の乱以後だと、小佐々学は描述べているのです。この説、納得できません。

 日本騎兵の父といわれる秋山好古(1859-1930)がフランスの騎兵学校を修了して帰国したのが1891(明治24)年。翌年の1892年には、陸軍士官学校馬術教官に就任しています。1900年の義和団事件まで10年もの間、馬を去勢しないままにしておいたとは、考えられません。

 ただし、法的には確かに小佐々学が述べているとおり、1900年義和団の乱の1年後、1901(明治34年(1901年)に「馬匹去勢法」が成立し、種牡馬及び将来の種牡馬候補以外の牡馬は全て去勢することが全国に通知されたのです。義和団以後、という説は、ここから来ているのでしょう。義和団事件のとき、雌馬の尻を追い回して、列強の軍隊に笑われたという馬は、おそらく運輸用の雑馬であったのでしょう。
 秋山好古らの騎馬兵の去勢馬がよく訓練されて優秀であることが知られ、全国の馬が去勢されることになったのかもしれません。勝手に雌馬を追いかけて回していた雄馬にとっては、1901年はゆゆしき年でした。

 また近年定説化している「日本の在来種の馬は、140~140センチの馬高しかなかったのだから騎馬術は未発達であり、騎馬軍団は成立していない。戦国の武田騎馬軍団などは、講談話などが江戸時代に広めた虚構である」という説について、作家の佐々木譲が異議を唱えており、私は佐々木の説に納得できました。佐々木譲の説は、モンゴル馬の馬高と、モンゴル騎馬兵の騎馬術を例に挙げて、140センチしかないから、騎馬武者の軍団は活躍できない、という説に反論を述べています。
 佐々木譲「天下城ノート3」 
 http://www.sasakijo.com/note/tenka3.html 

 さて、明治期まで、在来馬には去勢が施術されていなかった、というのは、そうかもしれない、と思います。では、いったいなぜ、牛馬の去勢を、はたまた宦官の去勢をおこなわなわなかったのか。

 平安から江戸期の宮廷では、天皇の妻さえ間男を引き入れることが不可能ではなかった。「問わず語り」の主人公二条も、恋人との間に生まれた子を「上皇後深草院の子」と、つくろっています。DNA鑑定などなかった当時ですから、天皇の妻たち(女御更衣その他大勢)が産みさえすれば、天皇の子。万世一系も平安~江戸期までについては、どうもあやしいと思います。(この発言、戦前なら不敬罪により逮捕されるところ)

 日本列島はユーラシア大陸の東のはしっこの吹きだまり。さまざまな文化が西から南から押し寄せて、日本海のおなかに抱え込むように、すべてをため込んで自分たちに合わせて取り込んできました。しかし、その中で、日本が受け入れなかったもの、いったんは受け入れたけれど消化しないままになったもの、受け入れた上ですっかり換骨奪胎してしまったもの、など、いろいろです。

 なぜ、日本の宮廷は宦官を使わなかったのか、なぜ馬は去勢しないまま使われたのか、このらちもない疑問点、午年が終わる今になっても、結局わかりませんでした。別にいいんですけれどね。わかったからどうする、という疑問でもないので。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「モミジ色・ママの嫁入り」

2014-11-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141106
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記11月(5)モミジ色・ママの嫁入り

 上智大学ソフィア祭見学を終えて、四谷からJRで錦糸町へ。11月3日夜の部は、知り合いのダンス発表会見物です。
 が、錦糸町駅からトリフォニーホールへ向かう途中、あれ?今日行くところは、トリフォニーホールではない、と、気づきました。東陽町でした。

 交番で聞いて、錦糸町北口から東陽町行きのバスが出ているのがわかりました。四谷のカフェで買ったパン、ホールについたらロビーで腹ごしらえしようと思っていたのを、間に合わないかと思って、バスの中でぱくつく。いつものドジです。やれやれ。

 同じ先生に習っている相弟子グループが出演する文化祭です。
 先生は、夏頃体調が悪くなり、秋に検査をうけて即入院手術となりました。幸い手術は成功し回復も順調ということですが、ダンス指導ができるようになるまで、私たちのサークルも自習を続けなければなりません。

 私たちのサークルの9月発表会のときは、先生は具合が悪いそぶりなど見せずに指導してくれました。相弟子の港区のグループは、発表会直前に先生が入院なさったので、練習もリハーサルも自主運営になり、たいへんだったことでしょう。

 でも、ダンスの動きはほんとうにすばらしく、同じ先生に習っていて、同じ振り付けのダンスをしても、ぜんぜん動きのキレが違いました。

 ダンスが終わってから、東陽町駅近くのケンタッキーフライドチキンで、お茶。私はフィッシュフライとポテトチップス。
 ミサイルママは、仕事が終わってから駆けつけて、ぎりぎり港区グループの発表に間に合いました。港区グループのダンス、とてもよかった、と感想を述べ、先生の具合について、情報をもらいました。先生の回復は順調らしいけれど、ダンス指導の復帰はいつになるか、まだ未定。当分は自習が続きます。

 自習の中心になってくれると思っていたミサイルママは、12月いっぱいで私たちのジャズダンスサークルを退会することになりました。
 私がダンスサークルを続けて来れたのは、ミサイルママがいたからです。ドジばかりな私をいつもカバーしてくれて、女手ひとつで子育てをする愚痴を互いにこぼしあって、これまで30年間、いっしょにダンスの練習を続けてきたのです。

 退会の理由は「この夏、ある方から申し込みがあり、おつきあいすることにしたから」
 美人のミサイルママなので、息子さん達の父親と離婚後も、おつきあいする方は何人かいました。私たちのダンス発表会のとき、ミサイルママに花束を届けてきた人もいたりして、いつもモテモテなのを皆で冷やかしたり羨んだりしていたのです。美人で誠実な人だから、女性にも男性にも慕われるのはわかります。
 本人いわく「さすがに還暦すぎてのおつきあいはないかな、と思っていたので、プロポーズされてびっくりした」

 驚いたけれど、申し込みを受け入れて、おつきあいすることにしたのだそうです。お相手は、仕事のために転居したので、ミサイルママは、当面自分の仕事を続けながら、パートナーの仕事を支えることにしたと。

 そうなると、ミサイルママがこれまで続けてきた、水曜昼のダンスサークル、金曜夜のダンスサークル、木曜日は合唱練習と絵のサークル、土日は一人登山または実家に帰って父親介護、というスケジュールはこなせません。まあ、これまでこれだけいろいろ続けてきたってこともすごいですけれど。

 一人登山。テントかついで一人で縦走などをやってきましたが、これからはパートナーといっしょに登山するかもしれません。パートナーは、もとは器械体操の選手で、体操の先生をしていた方なので、今は、ジョギングなどをいっしょにやっているんですって。

 合唱団は、当面は休む。1年に秋と冬の東京芸術劇場での合唱公演参加を続けてきましたが、練習参加がたいへんだから、冬だけにする。ダンスは水曜昼の練習は休会、金曜夜の練習は退会。
 しばらくは、独立して仕事をはじめたパートナーの手助け中心の生活になるということを、サークルメンバーも納得しました。水曜昼のサークルメンバーたちは「うん、OK。彼と別れたらまた戻ってきてね」と、了承したのですって。

 ケガで退会するメンバーが相次ぎ、サークル維持ができないからどうしようか、という時期に、先生の入院、ミサイルママの退会。サークル解散の時期なのかなとも思いましたが、ダンス講師謝金で生活を維持している先生のためにも、なんとか続けていけないかと、集まるたびにケータイの電卓機能で計算するのですが、メンバー4人になってしまって、もはや運営ができません。

 ミサイルママには、幸せになってほしい。6歳年下という彼、私は電話で話しただけですが、とてもよさそうな人です。ちゃんとミサイルママを幸せにしてくれる人かどうか、彼がブログに書いてあることは全部読んでチェック。まだ独立したばかりで仕事が順調にいくかどうかはわかりませんが、何事にも誠意をもって尽くすミサイルママなので、きっと二人三脚で歩んでいけることでしょう。

 大竹しのぶが母親で、宮崎あおいが娘。母親が年下の男性と再婚することになる、という顛末の映画「オカンの嫁入り」を以前に見ました。舞台「さくら色・おかんの嫁入り」は見ていないけれど。

 「ミサイル・ママのヨメ入り」、
 結婚式はしないし、当分入籍もしないで、ただ、二人でいっしょにいる時間を大切におつきあいしていく、という形にした、というので、「嫁入り」とは違うかもしれませんが、ミサイルママの嫁入りを応援していきたいと思っています。

 パートナーさんには「私たちの大事なミサイルママを幸せにしないと、あとがコワイよ。ミサイルママファンの仲間は結束がすごいんだから。みんなの大切なママを独占したいのなら、覚悟を持て」と、電話やメールで脅してあります。きっと幸せにしてくれるでしょう。

22年前,1992年のミサイルママ(右)とわたし。ウェストサイド物語のアメリカアメリカを踊っています。


2014年のミサイルママ(右)とわたし。レディガガの「テレフォン」を踊っています。



<おわり>  
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ぽかぽか春庭「上智大学ソフィア祭」

2014-11-05 00:00:01 | エッセイ、コラム

上智大学1号館

20141105
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記11月(4)上智大学ソフィア祭

 11月2日の清泉女子大学に引き続き、3日は上智大学ソフィア祭見学に出かけました。
 A子さんの息子さんが4月に上智に入学して「入試のとき来たけれど、大学内をよくみていないので」と、大学見物に誘っていただきました。
 仕事に出かけるとき四谷駅で乗りかえるので、駅ホームから上智大学の校舎が見えるのですが、中に入ったことがなかったので、喜んでお供しました。

 待ち合わせは11時半に正門前、ということでしたので、待ち合わせ前に上智の「近代建築」の写真を撮ってしまおうと、10時半に四谷に着きました。
 最初に聖イグナチオ教会へ。私は、聖イグナチオは上智大学が運営している教会だと思っていたのですが、今回、別組織であると知りました。同じイエズス会の大学と教会ですが、運営は別々。

 イグナチオ教会の前庭には、オッサンたちがたくさん集まっていました。ベンチにすわっている人、どう見ても大学祭見物にきたとは思えません。聖イグナチオ教会の隣、2階にマリア中聖堂があり、1階にオッサンたちが出入りしています。私もつられて入ったら、そこでは、カレーライスの炊き出しが行われていました。オッサンたちの食事時間は9時半から10時半まで。

 「私もこのカレーを食べることができますか」と、ボランティア女性におたずねしたら、「どうぞ、どうぞ、月曜日にやっていますので、どなたでも」ということでした。
 「ボランティアたちは、8時半から調理を始めます。10時半からボランティアさんたちの食事時間になります」というので、「あのう、食べるだけの人は?」と聞くと、「もう、終わり」ですと。残念ながら、炊き出しカレーを食べることはできませんでしたが、私が無職になったとき、月曜日に四谷にくれば、カレーが食べられることがわかりました。

 上野公園に行くと、ときどき炊き出しに集まっているのを見かけます。ほとんどが男性です。
 チェックしてみたら、都内の炊き出しはさまざまな場所で毎日のようにどこかで行われていて、おう、都内では食いっぱぐれることないな、と、思いました。多くはキリスト教関係の団体が運営しているみたいです。食べ物を配るほかに、生活相談就職相談なども行っているところもあります。

 炊き出しをしているボランティアの女性たち、穏やかなやさしい雰囲の方々でした。でも、私は意地悪な人間だから「彼女たちは、炊き出しボランティアによって、人を助けているという満足感を得ているだろう。しかし、炊き出しカレーを食べる側の人を生み出している社会構造については、思考停止しているかもしれない」と、思いました。イヤなやつです私。キリスト教の清い心によって洗われるべき貧しき精神の持ち主であるわたくし、悔い改めるべく、上智大学の門をくぐりました。

 最初に、正門前の1号館の写真を撮りました。
 中世修道院風の外観。スイス人建築家のマックス・ヒンデル(Max Hinder、1887~1963)設計。ヒンデルは1924年に来日。最初は北海道に、3年後から横浜に住み、キリスト教会やキリスト教大学関連の建築を手がけました。1940年ドイツへ。
 ヒンデルの設計を受けて施工したのは、木田保造(1885~1940)。木田組を率いて北海道函館などで活躍した棟梁です、大工として出発し、夜間の工手学校(現・工学院大学)で学んだ後に、コンクリートを用いた建物の設計施工を請け負いました。



 1号館は、スクラッチタイル(タイルの表面を櫛引きして平行の溝をつくり、それを焼成した粘土タイル)を外壁に用いた外観。1932(昭和7)に竣工。80年前の建物なので、耐震工事など改修は必要なのかも知れませんが、記念館などではなく、現役の校舎として毎日利用されています。こういう歴史的な建物で学べることのありがたさは、たぶん、学生は感じていないのでしょう。「ぼろい」と、思っているのかも。


1号館入口


 1号館より古い建物、明治時代に建てられたのが教会堂クルトゥルハイムです。外観写真を撮ろうと思って、近づいたら「今日は茶道部により野点が開催されているので、お茶券を買わないと入場できません」という。
 このクルトゥルハイムの前庭のSJガーデンは、上智大生でも通常は入場できない場所なのだそうです。OB会ガーデンパーティとか、クルトゥルハイム教会で結婚式を挙げた人が親族との写真撮影をするなどで利用できるのみとか。

 撮影時間のために早く来たのに、撮影できないのではしかたないので、ステージの前で応援団とチアリーリングの演技、フラダンスサークルの発表を見ていました。脇の高齢者席というのに座ったら、学生達が立ち見をはじめると、ほとんど見えないのでした。「高齢者席」というのをもうけるなら、高齢者がきちんと観覧できるように場内整備をするべきである、今回の反省会が行われるなら、こういう声があったことを伝えてください、と、係の学生に言いました。たぶん、来年の係は別の学生だから、また同じでしょうけれど。

 11時半にA子さんと正門前で会い、まずは腹ごしらえ。テントが立ち並ぶエリアのはしっこ、図書館前で社会福祉専門学校の学生が店だししているラーメン店でラーメンを食べました。値段は一般の店の半額の350円ですが、量は一般のラーメンの4分の1くらい。留学生の会の店で買った小籠包はおいしかったけれど、ラーメンは「学生への寄付」と思うことにすればいいや、という感じ。

 食べたあと、理工学部授業が多いという3号館に入って、物理学実験室とか、○○研究室などのドアを眺めました。
 クッキーの店になっている教室で一休みしたら、ここも社会福祉専門学校の運営でした。夜間の専門学校なのだそうです。
 クックー、チーズケーキを買いました。

 次にギターアンサンブルの演奏という教室が静かな感じなので入って見ました。とっても内気な子たちが集まった、という雰囲気で、インスタントコーヒーとティーバックの紅茶を紙コップで出して100円。ジブリ曲メドレーなどの演奏を聴きました。特別上手ではなかったけれど、元気いっぱいの学生ばかりではなく、おとなしい静かな学生にも居場所はあるんだよ、っていう感じが伝わってよかったです。テントのお店屋さんの呼び込みをしている学生たち、なんだかやたらに元気ハイテンションで「たこやき安いよ」とか「おいしい焼きそばいかがっすか」とか叫んでいましたから。

 私の希望で、さきほどのクルトゥルハイム前のSJガーデンのお茶席に出ることにしました。野点の席に着くまで、お庭の中でかなり待ちました。

 通常は結婚式利用者以外、なかなか教会内部を見ることは出来ないらしいです。教会はいつでも誰にでも開かれていると思っていたのですが、しっかりクローズされている教会でした。ときたま公開されているときもあるらしいので、チャンスがあったら内部見学もしたいです。

 このクルトゥルハイム(ドイツ語で「文化館」の意味)は、もともと明治の軍人政治家の高島鞆之助中将・陸軍大臣、子爵(薩摩出身。1844-1916)の邸宅でした。確実な竣工年は、大学のキャンパス案内などには明記されていないのですが、高島鞆之助の没年が大正5年ですから、明治後期の竣工だと思います。1896年~97年頃という説あり。

 イエズス会が教会や大学のために紀尾井町に4300坪の土地を購入。その中に高島鞆之助の土地と家が含まれていました。イエズス会は高島邸を教会に転用しました。そのため、前庭には井戸があったり、灯籠があったり、およそ教会の庭らしくない雰囲気です。紅葉が多かったので、紅葉のころはきれいでしょうね。



 野点の席は、最初に1年生の立てるお茶をいただき、次にまた並んで、4年生の席。2・3年生は、受付と席への案内などのアシスト。
 1年生の席、私は一番はじっこの椅子に座りました。案内の学生が「奥から順にどうぞ」と言うので。そこが正客席でした。お菓子は、干菓子を手の上に受けていただき、一番上等そうなお茶碗で飲みました。



 お茶を運んでくれた留学生、袴を身に着け、お菓子やお茶の運び手になっています。お茶席が終わって、ホフマンホール(学生サークルの部室などがある)の和室に戻った彼に聞いてみたら、アメリカ人学生でした。茶道部入部の動機は「正直いうと、かわいい女子学生が勧誘していたから」と、言ってました。うん、正直でよろしい。和服の着付けも体験しただろうし、お茶やお菓子を運ぶ係をやってみて、これができただけでも日本に来てよかったんじゃないかしら。

 野点のあと、体育館などを見て、上智見学おわり。
 息子さんが「体育館が狭いので、交代で部活動に使うから、練習が十分にできない」とぼやいていたというので、体育館を見たのですが、スポーツマンの息子さんには、不満な体育館であることは、A子さんも納得できたみたい。

 四谷駅ビルのカフェでお茶飲んで、「来年、国立大学の仕事が終わりになるのに、これからどうやって暮らしていくか、まだめどがたっていない」という愚痴など聞いてもらいました。愚痴をこぼしたからといって、来年の活路が開けるわけじゃないのですが、暮らしていけない不安を聞いてもらうだけで、なんだか気が休まる。
 A子さん、ソフィア祭へのお誘い、ありがとうございました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「建物めぐり散歩with yokoちゃん」

2014-11-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141104
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記11月(3)建物めぐり散歩with yokoちゃん

 ブログ友達yokoちゃんは、いろいろな建物巡りの先達です。yokoちゃんのブログ写真を見て、「私もここに行ってみた~い」と、お出かけ場所を決めたりします。仕事が忙しい人なので、いっしょに出かける機会は数多くはありませんが、同じ場所に行って、同じ建物を見て、あれこれ建物について語り合えるのは楽しいひとときです。

 11月2日、yokoちゃんといっしょに清泉女子大学へ出かけました。コンドル設計の建物、旧島津邸を見るためです。
 今年は見学が中止されていましたが、大学祭の開催期間は、特別に公開されています。
 鹿鳴館などを建てたコンドルの邸宅は、都内に、北区の旧古河邸や上野の旧岩崎邸が残されています。旧岩崎邸のもう一つが、品川駅近くの三菱開東閣ですが、こちらは三菱関係の人出ないと中に入れません。そして、もうひとつが、元島津公爵邸です。

yokoちゃんに撮ってもらった島津邸前のHAL


 明治時代の旧島津邸、江戸時代には伊達藩の下屋敷だったそうです。1915年に島津家袖ヶ崎邸としてジョサイア・コンドルが設計。現在は清泉女子大学本館として使用されています。
 大学祭で訪れたときは、旧島津邸の各部屋は、スペイン語科とか「地球市民学科の説明会に使用します」という「一般の方は見学できません」という札がドアにかかっていました。でも、説明会は行われていなかったので、勝手に中も見学しました。建物リポートはまたのちほど。

 大学祭の見学はまったくしませんでしたが、女子大生たちの楽しげなようす、青春ていいなあと思いつつ眺めました。1970年代、私の青春時代には、母校は学園闘争のために大学祭が開催中止となっている時期でした。
 二度目の大学生活では、1985年と1988年には大学祭に参加しましたが、ママさん学生として参加したので、保育園のお迎え時間を気にしながらの参加でしたから、青春謳歌ではなかった。

 もし、運良ければ、三菱開東閣の門が開いていて、中をのぞけるかもしれないと思って品川駅にむかったのですが、今回もうっそうと茂る木々の間からまったくコンドル設計の旧岩崎弥之助高輪邸のお屋敷は見えませんでした。

 品川駅ビルの食堂でナスの中華炒め定食を食べてから、プリンスホテル脇を通って、yokoちゃんにおもしろそうな建物を教わりながら、歩きました。
 岡見健彦(1898 - 1972)が1932年に設計した、日本基督教団高輪教会。岡見は、フランク・ロイド・ライトの弟子だったとかで、教会の入り口横壁の印象は、ライト設計の自由学園明日館とそっくりでした。



 白金二丁目にある、高輪消防署二本榎出張所を見学。係の人が、屋上から塔楼を眺めるスポットに案内してくれました。また、昭和36年まで現役だったというボンネット方の消防自動車の展示も案内してくれました。





 次は、明治学院大学。こちらも学園祭開催中で、宣教師の住まいだったインブリー館が内部公開されていました。2011年の夏に見学して以来、久しぶりの訪問ですが、yokoちゃんも見たことある建物なので、写真をささっと撮影して、次の訪問地へ。

 近くの八芳園。こちらも数年前に来たところですが、地図に「洋館」というのが出ているので、もしや前回見落とした古い洋館でもあるのかと思って寄ってみました。係の人に確認したのですが、リニューアルした新館を「洋館」と表記しただけみたい。

 大久保彦左衛門の屋敷だった土地を、鉱山王・久原房之助が料亭にしたという八芳園。現在は結婚式場となっていて、何組もの新郎新婦がお庭に出て写真をとっていました。

 幕末に生糸貿易でもうけた田中平八が建てた茶室。それを八芳園に移築したお茶室など見て通り抜けました。



 東京大学医科学研究所の構内を通りぎる。
 内田祥三設計の旧国立公衆衛生院本館は、老朽化によって囲いがされており、下部は見ることができません。研究所と病院部分は、まだ現役で使われています。東大の駒場キャンパス、本郷キャンパスの建物より、もっと内田ゴシックのゴシックらしさが出ている建物で、yokoちゃんはこの内田コシックは好きでないというので、中は建学せず。

東大医科学研究所


 この医科学研究所と病院の建物は、内田の東大たてものの中でも、特に重厚な感じがするし、病院で亡くなった人の幽霊とかが出そうな雰囲気です。
 旧国立公衆衛生院本館の建物は、文化財として改修保存し、港区が「ホスピタルパーク」なる施設にするそうです。
 幽霊でそうな廃墟となっている現在のオモムキも、私は好きですけれど。

 きっとホスピタルパークとかになっちゃうと、「お子様がたが、明るい雰囲気の中で、医学に関心を持ち、科学的探究心を高められるような」健康的施設になるんでしょう。けれど、こういう、いかにも毒がありそうな幽霊が出そうなままにしておいてほしい気もする。
 子供心に「恐ろしい場所だった」と、大人になっても思い返してトラウマになりそうな場所ってのも、必要なんだと思うけれどなあ。

 私は、子どものころ「避病院」というのがすごく怖くて、夢にうなされたりしたのだけれど。見世物小屋の「衛生博覧会」とか、そういうおどろおどろしたいかがわしい恐ろしさ、世の中から消えてしまうのみ。夜中の理科室のこわさ、とか、子どもに必要なんじゃないかしら。明るく健全なものの中だけで育つ子どもが健全とは限らない。

 プラチナ通りを通って、白金台駅に戻る途中、一本脇道に入ったところに、yokoちゃんが洋館発見。同じ道を歩いているのに、私はぼうっとしていて、ぜんぜんわかりませんでした。やはりいっしょに見て歩くといいことある。

 14代目渡辺甚吉という岐阜県出身の実業家が建てた洋館です。設計遠藤健三、内装デザイン今和次郎。
 十六銀行から東海テレビまでさまざまな会社を設立し、貴族院議員衆議院議員として政界にも進出した渡辺甚吉が、私邸として住んだ洋館。最近までスリランカ大使公邸として貸し出されていました。現在は渡辺家が結婚式場として経営しています。

チューダー様式ハーフティンバースタイルの白金甚夢迎賓館


 yokoちゃんの感覚では「迎賓館」というネーミングが気に入らぬと。確かに。
 迎賓館とは。「外国からの賓客を歓迎する施設」ということなので、赤坂やら京都にある本物はいいけれど、一般の建物につけると、途端に成金趣味になる。キャバクラとかラブホのネーミングっぽくなる。甚夢というのは、「甚吉の夢」ということなのでしょうが、「迎賓館」は、あまりいいネーミングとは思えません。
 ランチは5400円からだそうです。日頃ワンコイン500円のランチだって高いと感じる私なのに、5千円のランチは、誕生日だって食べないのに。安っぽいネーミングだなんて言ったりするのは、きっと「すっぱい葡萄」と、つぶやくキツネクンなんです。わたし。

 いつも白金にきたときは、カフェつきのブックオフに寄って、古本ながめながらお茶飲んで、何冊か買って帰る、というコースなので、yokoちゃんともお茶飲もうと思ったのに、ブックオフつぶれてドラッグストアになっていました。残念。
 で、6500歩あるいた足は地下鉄の中で休めることにして、白金台駅から地下鉄にのりました。
 今日見学した建物写真は、整理してのちほどUPします。

 帰りにお茶できなかったのは残念だったけれど、yokoちゃん、おつきあい、ありがとうございました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「レリゴー in 東京芸術劇場」

2014-11-02 00:00:01 | エッセイ、コラム

20141102
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記11月(2)レリゴー in 東京芸術劇場

 11月1日。ダンス仲間のミサイルママとTT子さんが出演するので、東京芸術劇場でのコンサート、「いっぽ・イッポ・み・ら・い・へ10」にでかけました。 

 合唱の曲目は、混声合唱のための唱歌メドレー「ふるさとの四季」。「ふるさと」「おぼろ月夜」「鯉のぼり」「夏はきぬ」「我は海の子」「村祭り」など、200人の大合唱団が、ときに力強く、時に美しいハーモニーで歌いました。

 山形県の遊佐混声合唱団、君津市のきみつ夢未来合唱団、地元の豊島区民合唱団の合同合唱、人数が多ければ多いほどいいというわけではないですが、合同練習はゲネプロの1回だけ、ということなのに、とてもハーモニーがよかったです。

 それぞれの区や市の歌を、子どもたちも、きみつ少年少女合唱団と、豊島区のジュニア・アーツ・アンサンブルが合同で参加。豊島区の歌はさだまさしの作品。豊島区主催のコンサートが開かれると、たいてい最初か最後に歌うので、豊島区民ではないミサイルママもすっかり覚えた、と言っていました。ミサイルママは、勤務先が池袋なので、合唱団メンバーなのです。

 第2部は、オペラとミュージカルのプロ歌手のステージ。
 テノールの若井健司が、カルメンから「花の歌」、ソプラノ市村柾美とメゾの古澤真紀子が、着物姿で登場。マダムバタフライから「花の二重唱」を歌いました。

花の二重唱(真ん中は、司会&指揮の坂本和彦)


坂の上の雲より「Stand Aleone」を歌いおわって。


 今日のコンサートのテーマは「薔薇」です。京成バラ園から寄贈された薔薇がロビーや指揮台前に飾られているほか、ローラン・ボーニッシュというフラワーデザイナーが、舞台上で薔薇のブーケを作る、というパフォーマンスがありました。15年前にフランスから来日し、今年、田園調布にブーケの専門店&スクールをオープンさせたフラワーデザイナーなのだそうです。
 台の上に載っている大量の薔薇を、9分ほどのピアノとオーケストラの演奏の間に、大きなブーケに仕立てました。



 ゲスト歌手、宝塚歌劇団宙組の娘役だった和音美桜と、ミュージカルスターの岡幸二郎。 
 和音美桜がレミゼラブルから「夢破れて」を歌い、岡とデュエットで「トゥナイト」を歌いました。美男美女のトゥナイト、とてもカッコよかったです。


 最後の曲は、今年一番の話題曲『アナと雪の女王』より「Let it Go ~ありのままで」。
 私も娘とのカラオケ大会で、歌ってみましたが、けっこう難しい曲調なのです。子ども達が映画館で「大合唱」をするという歌、子ども達にはやすやすと歌えるのでしょうけれど、ヨナ抜き音階で育った世代には難曲。ミサイルママも「すごく難しいよ」と、練習のようすを語っていました。

 ミサイルママたちは、指導の坂本和彦さんが大好きです。
 坂本さんは、コンサートではいつも指揮と司会の両方をこなし、軽妙な話術で観客を楽しませる先生です。
 今回もジョーク連発で、会場をわかせていました。たのしいコンサートでした。
 雨の池袋。西口口広場ではイベントが行われていたのですが、雨では足をとめて見る人もまばら。大学祭なども人出が少なかったでしょう。
 あしたは、大学祭、よく晴れた一日になりますように。

(今回コンサートが始まる前にたいていアナウンスされる、ケータイのスイッチを切れ、録音録画禁止などの場内アナウンスがなかったのです。遊佐町や君津市からのゲスト合唱団がきているから、友人親戚一同の応援団は写真を撮りたいだろうから、という配慮だったのか、単に観客もマナーは心得ているだろう、と、主催者側が思ったからなのかわかりませんが。私もミサイルママが歌う姿、撮りたかったのですが、彼女は体の大きな男性の陰に隠れていて、お顔が見えませんでした)

<つづく>
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ぽかぽか春庭「藁葺き屋根はなつかしいか」

2014-11-01 02:25:53 | エッセイ、コラム
20141101
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記11月(1)藁葺き屋根はなつかしいか

 11月3日が文化の日であるのは、この日が憲法公布の日だからです。
 この日を新憲法公布の日にしたのは、国民の祝日として、明治時代の天長節、大正昭和の明治節を残すためと思いますが、文化の日制定の公式記録にはそんなこと書いてない。さいしょはこの日の公布を避けたがっていたというGHQをうまく丸め込んだ知恵者がいたにちがいない。憲法記念日は「新憲法施行の日」である5月3日になり、11月3日は、めでたく文化の日となって残りました。明治節が「文化の日」に仮装したとも言える。

 憲法第二十五条には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。文化勲章には縁遠いながら、文化的な最低限度の生活は営まにゃならぬでありましょう。私の文化生活は、もらった招待券で絵でも見ることかな。あとは、文化鍋で煮物でもつくるとか。

 文化鍋、、、なんとなく新しげで、しかしあまり重厚なものでないしろものに「文化○○」というネーミングが与えられるみたいです。「鯖の文化干し」とか。
 文化包丁なる刃物があります。庶民が一般的に使っていた菜っ切り包丁に対して、文化的な食生活すなわち肉を食う生活に適する肉も切りやすい包丁、三徳包丁万能包丁が、文化包丁と呼ばれる。
 文化住宅なる住まいがあります。大正時代に洋室と和室を折衷させた住宅が流行し、文化住宅と名付けられました。また、従来の平屋の「長屋」とは異なる2階建ての集合住宅も「文化住宅」と呼ばれたそうです。

 日本の津々浦々に、安普請の文化住宅が雨後の筍のごとく立ち並ぶ時代に、消え去りゆく草屋根の家をせっせと写生して歩いた画家がいました。「民家の向井」と呼ばれた向井潤吉です。
 向井は1950年代から30年間に1000点以上の油絵作品に民家を描き続けました。

 10月31日、世田谷美術館分館のひとつ、向井純吉アトリエ館を訪れました。3度目か4度目になるのですが、今回はじめて、渋谷からバスに乗って、駒場中学校前で下車。世田谷の閑静な住宅街、向井が住み続けた家をそのまま残したアトリエ館ですから、とてもわかりにくい場所にあります。今回は最寄り駅からではなくてバス停から徒歩3分だったので、迷わずにたどり着きました。
 平日の午後。観覧者は私一人。玄関ロビーでお茶などいただきながら、ゆったりすごしました。

 向井潤吉が家族とともに60年間住んだ家。アトリエは、東北に残されていた土蔵を改築したものです。床には絵の具がこぼれた跡などがそのままに残されていて、向井の制作の痕跡をたどることができます。

土蔵を改築したアトリエ


 向井がパり修行時代に描いたルーベンスやコロー、ルノアールの模写や中国で描いた蘇州、大同雲崗で描いた絵の展示に「異国の空の下で」というタイトルがついていますが、いつもの藁葺き屋根茅葺き屋根の民家の絵も、展示されています。

 最初に渡仏した修業時代の裸婦像。フォービズムの影響が見られる。
横たわる裸婦(1928)


パリの風景(1960頃)


塔と壁(中国蘇州1982)


 向井潤吉が描いた草屋根の民家のうち現在もそのままに残っている家は何軒もないだろうと思います。ダムの底に沈んだ家もあり、廃屋となってあとかたもなく崩れた家もある。家が残されたとしても、屋根は葺き替えの費用が高いために瓦葺きトタン葺きに変わっていることでしょう。

岳麓好日(長野県白馬村1969頃)


 向井は、写生旅行の記録として、民家の写真をとり詳細なスケッチの記録を残しています。写真と油絵作品を比べてみると、決して見たままを描いているのではなく、木の姿や家の周囲の景色などを、家が映えるように配置していることがわかります。

今回見た民家のうち、「マタギの家」。北秋田の根子の家です。(1963頃)


 10月31日、渋谷の街にやたらに仮装の若いもんが目立ちました。それも、グループごとに同じ仮装をしているので、おお、「みんなおんなじ」が好きなニッポンジンは、仮装まで「みんなと同じ」でないとやっていけないのか、と思いました。3人娘が、同じ緑色のロングストレートのかつらをかぶり、緑色のストッキングをはいていたり、銀色の塗料で顔を仮面のようにメイクした二人組のワケーシュ、とんがり三角帽子に同じ杖を持った女の子ふたり。仲良しグループを確認し合って「楽しいパーティ」に向かうのでしょうね。

 戦後の画家達がみんなして新しいモチーフを求めていった時期に、ひたすら古く滅びようとしている民家を描き続けた向井純吉。「仮装もみんなでやればこわくない」式の現今の風俗からは遠く離れた画風ですけれど、このような風景に「なつかしさ」を感じる私たちの世代も、また滅びようとしているのでしょうね。
 仮装でハロウィーンパーティを楽しむ若者達には、草屋根の家はすでに縄文時代の縦穴住居と同じなのでしょう。

 地下鉄乗り換え駅のイートインで「鴨そば特盛り」を食べて帰りました。
 仮装した文化の日も、文化なり。エキナカイートインのそばは、きっと外国産のそば粉が仮装しているのだろうけれど、まあ、おいしかったです。

<つづく>
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