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ぽかぽか春庭「水着の夏は、遠い、、、」

2015-07-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150709
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記7月(3)水着の夏は、遠い、、、

 わたくし、ブログネーム春庭は、ダンサーネームは「e-Na(イーナ)」です。
 ジャズダンス仲間のミサイルママが、日曜日に電話してきました。「イナちゃん、太っているのはいつものことだけれど、この頃ちょっと太りすぎかも」と、心配してくれます。

 「うん、毎年正月にダイエットの目標を決めて、何もしないうちにあっという間に半年すぎる。あと2ヶ月して9月には、文化センターの発表会で踊らなくちゃ、という時期になって、ようやく少しは節制しようかという気になるんだけれどね。今年の9月は、ミャンマー滞在中で発表会に出ないことになったから、節制する気にもならない。自分でもこのおなかの出具合はちょっとマズイって、わかっているんだけどね」

 ミサイルママのパートナーさんが逗子に住んでいます。去年「いっしょに逗子に遊びに行こう」と誘われたとき「この体型じゃ、お目にかかるも恥ずかしい。ちゃんとやせて、水着が着られる身体になったら、夏にお邪魔して、逗子海岸で海水浴するから」と、約束したのです。ところが、水着どころか、ぶかぶかのチュニックスタイルでもはっきりわかるおなかの膨らみ。臨月のときだって、これほどふくれていなかった気がする。

 これもあれも、ストレス解消の爆食いが原因です。ナッツだとかおせんべいだとか、草団子だとか、とにかくやたらに食べるし、お昼ご飯を食べる時間の節約のため、たいてい電車移動の時間に、車両の一番はじに座り、パンやお寿司をほかの人の目につかぬよう、大急ぎで口に入れる、という早業。だいたい5~10分もあれば、お寿司の折り詰めなど食べ終わります。早食いは太る原因とわかっていますし、とにかく食べ過ぎです。

 お昼ご飯食べる時間がない、とか言いつつ、休みの日には洗濯お茶碗洗いを終えると何をする気力もなく、ぐうたらしてしまうのです。録画しておいた映画などぐうたらと見ながら、お菓子をぱくぱく。これじゃ、太るなというほうがむり。

 7月5日の日曜日、娘息子はおばあちゃんの家へ。私は「今週、疲れたからパス」と、自宅でごろごろ。洗濯して、お茶碗洗って、『グリーンデスティニー(臥虎蔵龍)』を見ました。2001年3月の73回アカデミー賞、外国語映画賞、撮影美術作曲賞を受賞した作品です。でも、アクションものに興味がなかったので、今まで見ていませんでした。

 アウンサンスーチーさんを演じたミシェル・ヨーが、武道の達人ユーシューレン(兪秀蓮)役。チャンツィイーもミシェル・ヨーも、細い身体ですごい活劇。その間、バナナ入れたヨーグルト食べて、アンズ1パック6個入り食べて、「フィッシュ&ナッツ」を食べて、キャベツとキュウリのサラダ食べて、雑炊を作って食べて、柿の種食べて、、、、

 毎日の仕事は、今まで通り、日本語学、日本語教育学を教えることなのですが、3つの私立大学で、6種類の授業の準備をするのは、なかなかしんどいことです。
 それでも、3月までは3つの私立大学のほか、2つの国立大学で留学生教育を受け持ち、90分授業を週に11コマ受け持っていたにの比べれば。今は90分授業が週に9コマです。後期12月からは日本にいないから、後期の分も前期に授業をしているのですが、新しい種類の授業も引き受けたので、準備がたいへん。

 今ミャンマーに赴任中の若手日本語講師が、体調を崩してしまい、インフルエンザで伏せっている、という連絡が入りました。若手もやられるヤンゴンの気候。まさか、中東呼吸器症候群(MERSマーズ)じゃ、ないでしょうね。
 老体の私が健康でいられるのだろうか、と、自分の老化がこれほど切実にストレスになったこと、今までになかったことでした。
 それで、ストレス解消、、、、、食べる、、、、、のは本末転倒なんですけれどね。
  
 先週金曜日夜の練習のとき、私が疲れた顔をしていたから、ミサイルママが心配してくれたのです。友人に心配かけてしまって、申し訳ない。
 自分の健康不安、老化不安。
 中国に赴任したときは、6名の講師がチームで授業を分担したので、誰かが風邪をひいた、というときにも助け合うことができましたが、この夏の赴任は、まったくのひとりぼっち。いっしょにヤンゴンにいると思ったボスは、7月8月には日本での仕事優先なのですって。

 そんなこんなのストレスで、またぼりぼりと、、、、

<おわり>
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ぽかぽか春庭「雨安居」

2015-07-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150708
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記7月(2)雨安居

 安居(あんご)とは、もともとはサンスクリット語(梵語)で雨期を意味する語だったそうです。
 温帯気候の日本の季節は、春夏秋冬の四季。
 熱帯モンス-ン気候のミャンマーの季節は、雨季(5月中旬~10月)、乾季(11月~3月)に分かれます。乾期の中でも一番暑いときが、暑季(2月末~5月上旬)。
 春庭が、3月下旬に1週間ヤンゴンに滞在した折は、暑季の真っ最中。滞在中の平均気温は36度でした。

 しかし、暑季の暑さも、雨期の湿気がたっぷりの暑さよりはマシなのだそうです。
 春庭赴任後、8月のヤンゴンは雨期のさなか。湿気のため洗濯物はからっと乾くことがないから、下着にもアイロンを当てないと、じめっとした下着を身につけることになる、という注意を受けました。速乾性の下着やTシャツ類を持って行くといい、というアドバイスも。

 仏教行事を中心に社会が動いているので、7月に雨安居入りしてから、10月の満月の日に雨安居明けになるまで、僧侶は僧院の中でおつとめに励み、一般の人は雨安居の3ヶ月に、結婚式引っ越し新築などの人生の節目になるようなイベントは控えます。雨安居に入るとき、仏教徒は、僧侶の衣などの寄進を行います。普段の生活でも、毎朝托鉢の僧たちに食事を寄進し、寺や僧侶への寄進を欠かさないのがミャンマー仏教徒の生活です。

 日本でも夏安居(げあんご)という行事は夏の季語にもなっていますが、仏教徒たちが寺院に寄進をすることも聞かないし、第一に僧侶が寺にこもって3ヶ月間修業に励むというのも、一般のお寺さんでは見たことない。夏安居だって、いつもの通りにボンさん酒を飲むし、土佐の高知のはりまや橋でボンさんカンザシ買うを見る。ヨサコイヨサコイ。

 ミャンマーの仏教徒が、現世において敬虔な生活をおくるのは、輪廻転生ののち、来世によりよい生を受けるため。悪人が悪行をはたすのも、来世には、ゴキブリだかウジ虫だかに生まれ変わるかも知れないと覚悟しての行いなのです。
 わたしは、日頃の行いのいいかげんさからいうと、来世は「働き蟻」くらいのものだろう。って、今でも働き蟻のようなものですけれど。

 夏の元気を失わないために、3月にヤンゴンで買ってきたミャンマービール、最後の1缶をあけました。ミャンマーの胡麻せんべいつまみに、関東地方の空梅雨気味な空模様を眺めて飲みました。



<つづく>
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ぽかぽか春庭「青い鳥」

2015-07-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150707
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2015十五夜満月日記7月(1)青い鳥

 7月7日は、新暦七夕の日ですが、私にとってそれ以上に大事なこと、ブログ友達青い鳥さんの65歳の誕生日なのです。

 65歳になると、これまでの障害者福祉から切り替わり、介護保険の適用も加わるということで、これまでの生活が大きく変わるのではないか、と心配なさっていました。が、障害者福祉のケアマネジャーさんと、介護保険のケアマネジャーさんの提携になる、ということです。どちらのケアマネさんもよい方のようで、青い鳥さんのこれからの生活レベルが極端に悪くなるということもなさそうなので、私もほっとしています。

 青い鳥さんが書いた詩を何度か紹介してきました。
 双子の姉妹として生まれ、出生時にひとりは健常者、ひとりは脳性マヒ者して人生を歩むことになったこと。2008年に、東京で身体状況の改善を目指して入院、手術を受けました。しかし、そのあとのケアの中で、首から下がまったく動かなくなる事態に陥りました。一時は、舌も動かず、まばたきだけで意思疎通をする日も。

 それから7年。青い鳥さんは、指が一本動いた、足が動いたと、リハビリに励み、周囲の人々の応援もあって、現在は、車いすに座っていることもできるまでになりました。
 私から見ると、青い鳥さんは「奇跡の人」です。私なら、下半身がまったく動かなくなった時点で、ただ神仏を恨み、すべてをあきらめてしまったかもしれません。

 青い鳥さんが、日一日と痛みに耐え、少しでもよい状態になるようにと努力を続けてきた歳月を思うと、「いつまでたっても貧困家庭から抜け出せない」なんぞと愚痴りながらだらだらと生きている自分が情けなくもなりますが、少しは青い鳥さんを見習おうという思いもします。
 
 青い鳥さんは、現在、パソコンに向かって、右足の指でマウスを動かしてカーソルを合わせ、動かせるようになった左手の指でキーボードを打つそうです。
 青い鳥さんのサイトです。http://blog.goo.ne.jp/aoitori277

 青い鳥さんのすばらしい生き方を見つめていると、だらだら生活の私にも力をもらえます。

 青い鳥さん、誕生日おめでとうございます。「年をとりたくない」と書いていらっしゃいますが、青い鳥さんの年のとり方は、常に前向きで努力を重ねていくすばらしいものです。いっしょにがんばっていきたいです。これからも、春庭に勇気元気を与えてくださいね。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ザ・レディ」

2015-07-05 00:00:01 | エッセイ、コラム


20150705
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ミャンマー事情(3)ザ・レディ

အောင်ဆန်းစုကြည်  ビルマ文字で、アウンサンスーチーと書いてあります。
 ミャンマー軍事政権下で、アウンサンスーチー女史の名を口にしただけで、秘密組織に密告され、逮捕される恐れがありました。そこで、人々はただ、「あの女性 ザ・レディ」とだけ呼ぶことにしました。
 あたりをはばかって「あの女性」と呼ぶ必要がなくなった現在では「、ビルマ語の女性敬称ドーをつけて、ドー・アウンサンスーチー(アウンサンスーチー女史)
略称「ドー・スーDaw Suu スー女史」と、呼ばれることも多いです。
  
 アウンサンスーチーさんは1945年、ビルマのラングーン(現ヤンゴン)で、アウンサン将軍を父とし、元インド大使キンチーを母として生まれました。インドの女子大学卒業後、イギリスのオックスフォード大学で学士号を受け、1972年、オックスフォードで出会ったイギリス人マイケル・アリスと結婚。息子ふたり、アレキサンダーとキムとともに、静かな家庭生活と研究生活なかに暮らしていました。
 1986年には京都大学で研究生活をおくるも、1988年、母親の病気介護のため帰国。以後、祖国にとどまりました。

 夫マイケルは癌に冒され、妻のもとで残りの月日を送りたいと希望しましたが、軍事政下でマイケルがミャンマーに入国することには制限が多く、また、スーチーがイギリスに出国した場合、ふたたびビルマに戻ることが許可されないとわかっていました。
 夫とは引き裂かれたままついに会うことかなわず、1999年にマイケル・スミスは死去。葬式にも参列できませんでした。

 2012年6月に、長きにわたった幽閉生活から解放され、スーチーは、国会議員となります。長年民主化運動の先頭にたってきたアウンサンスーチーは、国民からの絶大な信頼を得ています。しかし政府はミャンマー憲法を変え、外国籍の家族がいる者は、大統領になれない、と決定しました。2015年6月、この条項の改正を求めた案を否決。
 政府は、イギリスミャンマー二重国籍であったアウンサンスーチーの息子のビルマ国籍を剥奪した上、息子が外国籍であるから、スーチーに大統領被選挙権はない、としたのです。

 現在、少数民族ロヒンギャの問題に積極的な役割を果たそうとはしていないことによって、スーチー非難の声もあがっていますが、軍人出身のテインセイン大統領が政権を握っている以上、スーチー女史の政治活動は限定されたものになることは、わかっていることです。

 2012年に日本で公開された映画「ザ・レディ」は、リュック・ベッソン監督作品。ミシェル・ヨーがスーチーさんを演じました。
 映画は、引き裂かれても妻への支援をあきらめなかったマイケル・アリスを主人公としていました。



 映画『ザ・レディ』の冒頭、「ビルマ建国の父」アウンサン将軍(1915-1947)が、幼い娘にビルマの昔話を聞かせているシーンから始まります。迎えの車に乗って会議に出かけた父は、暗殺団によって銃殺され、娘は父に2度と会うことができませんでした。

 次のシーンは、スーチーの夫マイケル・アリス(1946-1999)が余命宣告を受ける場面。前立腺癌の進行により、早ければ数ヶ月、長ければ5年という診断でした。マイケルは双子の兄に「5年あれば、いろいろできる」と、妻への支援、学生への教育、息子二人の養育に意欲を示すのでした。

 アウンサンスーチーの生涯をもとにしたストーリーですが、メインは副題の「引き裂かれた愛」ですから、少女時代から成人するまでの伝記は割愛されています。
 スーチーは、大使となった母とともにインドに渡り、当地の女子大学で教育を受けたのち、オックスフォード大学に留学。1歳年下のマイケルと出会いました。

 1972年に結婚したふたりは、長男アレクサンダー、次男キムに恵まれ、マイケルは東洋文化学者として研究を続けていました。マイケルの双子の兄のアンソニー・アリスもチベット文化学者です。
 映画では、デヴィッド・シューリスが双子の両方を演じました。(シューリスはハリーポッターシリーズのリーマス・J・ルーピン役がよく知られていますが、深い愛情に満ちたスーチーの夫役もとてもよかったです)。

 スーチーを演じたのはミシェール・ヨー(楊紫瓊)。中国系マレーシア人で、元ミスマレーシア。バレリーナになるためにロンドンに留学していたので、英語ができるのは当然ですが、ビルマ語の演説シーンもとてもじょうずに聞こえました。(私はビルマ語ぜんぜんできないので、ほんとうに上手なのかどうかわからないのですが)。『宋家の三姉妹』での次女アイリン役もよかったですが、スーチーの冷静で強固な精神をよく表現していたと思います。

 アウンサンスーチーは、1988年に母キンチーの看病のためビルマに帰国。それ以後、一度出国すれば帰国が拒否され、二度と祖国に帰れない恐れがあるため、ビルマを離れることはありませんでした。
 マイケルはビルマ民主化にかける妻を理解し、支え続けます。自身が余命宣告を受けたのちも、妻の使命に殉じ、最愛の妻に会えない年月を耐えるのです。
 軍事政権によるスーチーの自宅軟禁は断続的に23年間(軟禁幽閉の合計は15年)に及びました。

 ビルマ民主化闘争は、学生や市民が虐殺迫害されるなど多くの犠牲者を出しましたが、1990年の選挙でスーチー率いる、国民民主連盟(NLD)が圧勝。しかし、軍事政権は国政をNLDに引き渡すことはせず、選挙結果を無視しました。

 マイケルは、「国際的に有名になれば、軍事政権もスーチーの命を奪うことはできなくなる」と考えて、スーチーにノーベル平和賞を与える運動を始めます。
 1991年にノーベル平和賞を受賞した際も、スーチーは自宅から出ることは許されず、受賞スピーチは息子が行いました。一家は、1995年のクリスマスに短い間ともに過ごすことができたのち、1999年3月にマイケル・アリスが癌の進行によって死去するまで、再会は許されませんでした。

 国際世論の非難もあり、何度か断続的に軟禁が解かれることがあったものの、完全な自由解放まで、自宅軟禁は23年にわたりました。
 現在アウンサンスーチーさんは、「外国籍の家族がいる者は~」という不合理な法律の改正を求めています。スーチーの息子達が保持していたビルマ国籍を剥奪したのは、軍事政権なのですから。

 ミャンマー(ビルマ)は、いくつもの少数民族が入り組んで暮らす、複雑な国勢です。さまざまな権力組織が入り乱れ、アウンサンスーチーさんへの誹謗中傷も絶え間なくわき起こります。日本での評判を見ただけでも、「夫のマイケル・アリスは東洋学の研究者、チベット学の教育者だというけれど、正式にオックスフォード大学の教員になったこともない。実は英国情報部の局員だったんじゃないか。スーチーはスパイの妻だ」という言説も流布しています。「スーチーは、ビルマを植民地にしたイギリスに魂を売った売国女だ」という論も見ました。

 大半が仏教徒であるビルマ族。イスラム教徒ロヒンギャ族。植民地時代にイギリス政府によりキリスト教徒化が行われた山岳地帯の少数民族。民族と宗教の対立は今なお根深い。

 ミャンマー軍事政権から民主化されたといっても、現大統領は軍人出身で軍事政権を引き継いでいます。日本の現政権は、2013年にビルマが日本に借りていた2000億円の円借款を返済不要とし、ミャンマー経済発展の利権を得ようと、経済界政界一体となって儲け話に血眼です。日本の経済人政治家が、利権を求めてハイエナのごとく群がっているようすが目に浮かびます。アウンサンスーチーの存在がこの利権獲得の邪魔になるなら、どんな悪口雑言もながすだろうと思います。

 素朴でだれにも親切であったミャンマ-の人々。これからは国をあげて「金儲け」に奔走する国になっていくのでしょうか。
 私がアウンサンスーチーさんを支持するのは、何度も軍事政権から「この国を出れば、自由に暮らせるし、家族ともいっしょにすごせる」と脅されても、祖国から離れなかったからです。私のような自分の身の回りの狭い範囲だけで損得勘定をするような人間には、思い及ばない、強い義務と誇りとが、彼女を祖国にとどまらせたのだ、と、映画を見て感じました。

 映画は、英仏合作であり、西欧視点での撮影です。だから、軍人ネ・ウィン将軍は思いっきり悪役に描かれています。迷信家で冷酷。また、アウンサン将軍を射殺する役の人は、あきらかに少数民族の顔つきをしていました。西欧側の偏見も多数はいっている映画ではありましたが、政治面だけでなく、家族を愛し家族との絆によって、非暴力の闘争を戦い抜いた女性の生き方を感じることができました。

 春庭のヤンゴンでの勤務。教室で政治がらみの話をすることは厳禁。日常生活でも、政治とは関わらないよう、注意深く行動しなければなりません。
 3月下旬1週間のヤンゴン滞在中も、下町の大通りで何のデモ行進かわからないけれど、バスの中からデモ隊を取り囲む警察だか軍だかにカメラを向けて撮ろうとしたら、バスの乗客に「よせ」と、注意を受けました。おっと、アブネー危ねー。日本のように、町を撮影するにも、気楽にぱちりとはいかない国でありました。

 もっともっとこの国ついて学ぶべきことはあるのですが、私の映画鑑賞ときたら、アウンサンスーチーを演じたミッシェル・ヨーと監督のリュック・ベンソンは、ロンドンのバレエ学校先輩後輩というのがおもしろいな、と感じる程度のヨタ話のほうが好きで、、、、はい、ちゃんと勉強しなければ。

<おわり>
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ミンガラ春庭「ビルマのダディンジュ祭り」

2015-07-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150704
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ミャンマー事情(7)ビルマのダディンジュ祭り

 8月に赴任する予定のミャンマーについて、細々とおベンキョーを続けています。
 ようやくミャンマー文字の数字とアルファベットに当たるミャンマー文字がぽつぽつと読めるような読めないようなという程度の勉強ぶりです。

 なにしろ、私立大学の9月以後の後期の授業を、今年は全部前期にぶち込むという荒技をやったので、月火水土の週4日、90分授業を9コマこなすという仕事。老体にはなかなかきついです。
 ほんと、過労死予防健康管理に気をつけているところです。

 春庭が、過去ミャンマーについて書いた文章は「ビルマの竪琴について」のほか、もうひとつありました。都内の公園で見た、在日ビルマ人によるフェスティバル「ビルマのダディンジュ祭り」についてです。2005年、まさか10年後にミャンマーとご縁がつながるとは思わないで、在日ビルマ人によるお祭りを見ていました。
~~~~~~~~~~~~~

2005/111/02 水
ニッポニアニッポン事情>ビルマのダディンジュ祭り

 10月9日、公園からにぎやかな歌声が聞こえてきた。「ビルマのダディンジュ祭り」だった。
 公園野外ステージには、ビルマ文字と日本語で「ビルマ ダディンジュ祭り」という大きな看板が掲げられ、文字の横にはアウン・サン・スー・チーさんを思わせる女性の肖像画が描いてある。

 ビルマは、軍事独裁政権となってから、国名をミャンマーと変えた。軍事政権に反対する人達は、今でも自分の国をビルマと呼び続けている。<つづく> 

2005/11/03 木
ニッポニアニッポン事情>ビルマのダディンジュ祭り(2)

 絵が、スーチーさんそっくりの似顔絵じゃないのは、何か問題が起きたときに、「いや、これは別段スーチーの顔じゃなくて、一般的なビルマ女性のひとりだ」と、言い逃れをするためかと思われる。スーチーさんは、ノーベル平和賞受賞者であるが、本国では政治犯として幽閉中の身だ。

 これまで私が受け持ったクラスにも、何名かのミャンマーからの国費留学生がいた。今期もひとりいる。
 かれらは、本国から軍事政権によって選抜されて来日した学生であるから、現政権に従う考え方の人が多い。

 しかし、今、日本に在留しているビルマ系の人々は、軍事政権のために本国では生活していけなくなった方が多い。軍事政権に反対して政治犯とされた人、留学してから民主化運動を行ったために、帰国できなくなった人など。

 10月に東京近辺の在留者が集まって行ったビルマのお祭り「ダディンジュ祭り」
 ダディンジュ祭りとは、ビルマの月の名であるダディンジュ月(太陽暦9月~10月上旬頃)の満月の日に行われる。

 6月の満月から9月の満月まで、ビルマの仏教徒は、小乗仏教の戒律を普段より厳しく守ります。この期間を『雨安居(うあんご)』と言う。
 雨安居明けを迎えると、人々はパゴダ(仏教寺院)にお参りをして、花や灯明を供え。家に僧侶を招き、食事を差し上げ法話を聞く。その後、家族親戚、友人知人とご馳走をいただきながら、おしゃべりしたり楽しい時間をすごす。

 10月9日は、イスラム教徒(モスレム)の人々が、一ヶ月間のラマダン(断食)に入る日だった。ラマダンの期間中は、飲食その他日常生活に戒律を設け、ラマダン明けには、友人親戚集まって、盛大なパーティをする。

 同じように、ビルマの仏教も、雨安居(うあんご)の期間は、仏教の戒律を厳しく守り、雨安居が終わる解夏(げげ)となる日には、集まってお祭りをする。
 ことしは、雨安居明け(解夏)とラマダン入りの時期が、同じころになった。

 10月9日に東京で開催された、ビルマの雨安居明けを祝うダディンジュ祭り。
 ビルマの歌や踊り、本格的ビルマ料理が楽しめる屋台、などのイベントがあった。

 催し物は17時で終わりになったが、私が公園についたときは、名残を惜しんでいる人々がステージを囲んで、歌をうたっていた時間だった。
 ステージのマイクを持った人は、ビルマ語の人気の歌を歌っている。ステージ前の人は、いっしょに踊ったりうたったり。

 主催者は、「国民民主連盟(NLD)日本支部」。在日ビルマ人民主化団体である。
 NLD書記長のアウンサンスーチーさんは、ノーベル平和賞を受賞後も、本国で長期間、幽閉生活を余儀なくされている。<つづく>

2005/11/04 金
ニッポニアニッポン事情>ビルマのダディンジュ祭り(3)

 私が受け持ったミャンマー留学生たちは、現政権側の人が多いので、NLDに対しては距離をおいている。そうしなかったら、留学を取り消され奨学金も受けられなくなる。
 現政権の範囲内で、自国の発展のために尽くそうといっしょうけんめい勉学を続ける留学生たちもいれば、また、NLDに心を寄せ、民主化運動を続けるビルマ人もいる。

 私は、ビルマ又はミャンマーの政治的な背景にたちいるほど、ビルマについて知ってはいない。私になじみがあるのは『ビルマのたて琴』ぐらい。
 ただ、現政権がどれほど一生懸命国家の建設をやっているのであろうと、現政権に反対する側の勢力に対して、代表者を幽閉し、反対意見の人が帰国できないような状況であるのは、やはり心が痛む。

 いろんな立場さまざまな意見があって、それを全部認めていたならカンボジアのような内乱となり、国家建設ができない、という立場から、現政権は反対勢力の活動を認めないのであろうことは推測するが。
 一日も早く、国民が安定した生活をおくれるようになり、さまざまな意見も採り入れて議論ができる余裕が生まれるように願っている。

 名残を惜しむ人々が、歌い続ける中、ビルマの若者たちが、けんめいにイベント片づけに取り組んでいた。
 イベントに使用した機材、道具を運び、腰をかがめてもくもくとゴミを拾っている姿が印象的だった。

 歌って踊って楽しむ人達もいる。縁の下の力持ちとなって、黙ってゴミを拾い集め、片づけに励む若者もいる。
 きちんと片づけをしようとしている若者の姿をみて、未来に向かって祖国のために働こうとしている人々はどこにもいる、という気分になった。

 もちろん、内情はそんな単純なものじゃない。アウンサンスーチーさんの軟禁状態はこれからも続きそうだし、NLDの活動をしている人は祖国に帰れそうにない。
 軍事政権側にも言い分はあるのはわかっている。

 「いっしょうけんめいイベントを行い、片づけに励む若者がいるから大丈夫」と思ってしまうほど簡単なものじゃないのはわかっているけれど、自国の現状をひたすら嘆いて暗い亡命生活をするより、こうやって歌ったり踊ったり、おいしい祖国の料理を食べたり、そんなお祭りを楽しむのも、いいんじゃないかなあと感じた、秋の夕暮れでした。

解夏(げげ)祭るビルマパゴダの金色(こんじき)の屋根をかすめて飛ぶ白き鳥

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20150704

日本でのダディンジュ祭りを見物したのは、2005年のことでした。
 ミャンマーの仏教徒による祭りは、仏教行事であり、お寺を中心に陰暦で行われます。満月の夜のお祭りのひとつ、ダディンジュ(Thadingyut)祭りについて。 

 ミャンマー仏教徒は、6月の満月から9月の満月までを 『雨安居(うあんご)』として。仏教徒の戒律を固く守ってすごします。(日本ではお坊さんでも夏安居の戒律まもっていないけれど)
 ダディンジュ月(ミャンマーは陰暦を使っています。太陽暦だとおよそ10月頃)
 ダディンジュ祭りは、雨安居の厳しい戒律の時期が終わったことを仏に感謝し、家族親戚友人達とごちそうをいっしょ食べ談笑し、お坊さんを招いて食事をさしあげ法話を聞くことでよりいっそう堅固な仏教徒となることを喜ぶ祭りです。

 10月には私は日本に帰国している時期なので、本場のダディンジュ祭りは見られませんが、日本でも各地で在日ビルマ人が集まって、祭りを行っているので、参加したいと思っています。

 「解夏祭るビルマパゴダの金色の屋根をかすめて飛ぶ白き鳥」
 この歌は、ビルマに行ったこともない春庭が、ビルマのお寺を想像して2005年に詠んだものです。そのビルマの金色のお寺を10年後に本当に見ることができたなんて、感激でした。
 赴任する8月9月は雨安居の真っ最中。私も、ちと仏教徒らしく、身をつつしんで過ごしたいと思います。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ビルマの竪琴について その2」

2015-07-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150702
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ミャンマー事情(4)ビルマの竪琴について その2

 2009年に執筆したレポートの再録をつづけます。「ビルマの竪琴について」の後半です。
~~~~~~~~~~~

(承前)

(2)ビルマ僧の出家と音楽についての誤謬
 「ビルマ仏教においては僧侶が音楽に関わることは破戒行為である」とは、竹山道雄の原作発刊時から指摘されてきたことだった。
 水島上等兵が復員兵たちに書き残した手紙によれば、日本に復員する井上部隊との別れの前に、水島は正式に僧侶になっている。その別れの時、水島は「仰げば尊し」を奏でて、「帰るわけにはいかない」という心中を吐露する。

 しかし、正式な僧侶であるならば、人前で竪琴を弾くことはあり得ない。戒律を破ったことになるのだ。竹山が想像でビルマを書いたことは、小説作法として責められはしないのだが、この決定的な部分だけは、書き直したほうがよかったと思う。ビルマの人々にとって、この部分は「ビルマ仏教への冒涜」になるからだ。これを市川崑監督は知っていながら、あえて、二度の映画化にあたっても、変えなかった。それはなぜなのか、私は知りたく思った。どうして水島は最後に自分自身で竪琴を奏でなければならないのか。

 原作では、水島は肩の上にオウムをのせて連れ歩いているとなっていたことについて。リメイク版の映画では、水島が連れているビルマ人少年がオウムを肩にのせて歩いていた。 「出家者は、鳥や動物を肩にのせたりしない」という点については、ビルマ仏教文化を考慮したことが伺える。水島が最後に仲間の前で「仰げば尊し」を奏でるシーンにおいて、市川崑がどうしても水島自身に竪琴を演奏させなければならないと感じたのは、「死んでいった人たちを、私自身は忘れずに供養を続ける」というメッセージを、水島自身が伝える、ということを画面に示したかったからだろうと思う。

 だったら、水島の正式な得度出家時期を日本軍との別れのあとにするという脚色も可能だったのではないのか。映画的な脚色として、正式な僧侶になるのは、部隊と別れてから、ということにしてもストーリーの大きな変更とはならないはずなのに、そうしていないのは、脚本家も監督も「ビルマの僧にとって、音楽は破戒である」ということが問題として意識されなかったということになる。

 1956年の第一回映画化後も、この「破戒僧」問題は批判が続いた。市川監督自身、この問題の処理にはいろいろな策を考えたのだろうと思う。「お別れの竪琴を弾くシーンのあとに得度する」という脚色をすることを、市川が考慮したことがあったのかどうか、リメイク版脚本執筆の過程を記した市川のメイキング記録などがあるなら、読みたいところだ。

 1985年リメイク版を観たとき、1956年の映画を観たときには気付くかなかったことが、いくつか、私には気になった。画面をみて、すぐに「あ、このロケ地はミャンマーではなくてタイだな、この石造りの寺院もタイのお寺だな」とわかった。2005年にタイへ行き、アユタヤの寺院などを見たせいもあるだろうし、ここ数年、続けてミャンマーからの留学生を受け持ち、ミャンマーとタイの文化風俗の差について詳しくなった、という理由もあるだろう。

 たとえば、水島上等兵が僧侶になって着る僧衣は、タイ仏教式の着付け方であり、ビルマ僧の着付け方ではない。ミャンマーの人がみれば、「このお坊さんのふりをしている人は、タイから来たのか、それともどこかの部隊からの脱走兵なのか。少なくともビルマ人ではない」と、すぐにわかるらしい。すぐに脱走兵とわかる水島の僧衣であっても、食べ物を寄進するほど、ビルマの人々は深く仏教に帰依している、ということもできるし、並んで托鉢に歩くお坊さんたちがそろって「タイからやってきた、タイ式着付けのお坊さんの集団」であっても、やはり自分たちの食べ物を削ってもお坊さまたちに米でも野菜でも報謝するだろう。

(3)仏教に帰依するビルマ人の日常生活について
 このように信心深いビルマの人々を描くにあたって、原作と映画で描き方が異なっていて、不満な点がある。1956年版と1985年リメイク版の両方に同じ役で出演している唯一の人、北林谷栄。彼女は、カタコトの日本語ができるビルマ人老婆の役で、井上部隊に野菜やバナナを運び、物々交換で靴下やナイフなど、日本製の品物と取りかえる。

 この老婆の映画での描き方も、ビルマの人々にとっては、残念に思われる人物像なのだ。老婆が日本兵と取りかえた日本製品は、ビルマでは高額で売れるものばかり。野菜やバナナはただ同然。交換風景だけを映画にしたなら、老婆はあこぎな商売をしているように、ビルマ人には見えてしまう。
 原作では「ビルマ人は、少しでも余裕があれば、お寺に寄進します」と書かれていて、この老婆も持ち金はお寺に寄付するとある。

このばあさんは、信心深いビルマ人の中でもことに信心深い人でした。日本軍の御用商人のようになってずいぶんもうけたはずなのに、それをみなお寺に寄付してしまって、自分はいつも貧乏でした。」竹山道雄原作(新潮文庫版)

 しかし、映画では、老婆がもうけた金をすべてお寺に寄進してしまうところは描かれていなかった。映画は、この「ビルマ人婆さん」の姿を「ただのがめつい商売人」に脚色したことになる。市川がそのようなことはまったく気にしなかったのか、考慮した上であえて無視したのか、私にはわからないことであるけれど、せっかくビルマと日本をつなぐ映画となる可能性があったのに、このままではビルマの人には見てもらえない映画になってしまっていることは残念だ。老婆は、ただ金儲けのために売り買いをする、がめつい商売人に見え、ビルマ人からみると「ビルマ仏教文化への侮辱」に感じられるという。

 商売をして儲けがでたら、自分が食べるためにとっておくほかは寺院へ寄進する、というのが伝統的なビルマ人の生き方であり、自分だけがうまいものを食べたり、よい服を着たりしたところで、そんなことは軽蔑の対象になるだけで、まわりの人から尊敬されない。回りの人の尊敬を得られなければ、生きていても無意味であり、幸福な人生とは言えない。

 北林谷栄が演じた老婆の描かれ方は、ビルマの人々にとっては、「あのような人がビルマ人の代表のように思われたら恥ずかしい」と、感じてしまうらしい。せめて、1シーンでもいいから、老婆がお寺でお坊さんに寄進するシーンを入れて欲しかった。もちろん、ビルマ人のなかにも「がめつい人」、「したたかな人」はいるにちがいない。しかし、ビルマ人にとって「仏教精神をもって生き、一生を利他の心ですごす」のが自己イメージなのだ。

 ビルマ人の生活やビルマ精神を反映できる程度には「ビルマ仏教文化」を画面に映して欲しい。ビルマ人の生きかたを誤解させてしまうのであれば、せっかくビルマを舞台にした映画を撮影しているのに残念なことだ。

 酒井直樹(2007)は、市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956, 1985)における日本軍の姿を批判的に読み解く。日本軍と商売をする「ニッポン婆さん」の北林谷栄が、「カタコトの日本語」を話す設定にされている点について、日本からビルマへの「植民地的まなざし」を認めている。

 酒井は、この老婆の描き方を日本側から見たステレオタイプな原住民と規定しているのだ。日本兵を信頼し、たどたどしい日本語をしゃべる「原住民の婆さん」。
 北林が演じる「原住民」は、日本人(または「原住民」でない者たち)が思い描く通りの姿を見せている。
 演出は、「日本語」の母語話者から見た「野蛮で知能の低い原住民」への帝国主義側の優位的気分を照らし出す。

 また、かつての敵国イギリスと「羽生の宿」合唱で和解するシーンについて酒井は、「自らの国民的・民族的・人種的同一性」を強化しようとした日本が、帝国主義側のイギリスと構造的に共振する」とも述べている。このように国家的な矛盾を押し隠しながらも国民全体を荒業でまとめあげてしまう装置を、酒井は「共感の共同体」と呼ぶ。共感の共同体とは、実は「共犯の共同体」である。これを見つめる視線によって、日本と欧米の関係を考え、日本にとっての「他者」とは何かを、酒井は探っている。

 異文化理解について学生に教えることも仕事の大切な一部である私にとっては、「ある国に関わる表現をするならば、その国と国民を尊び、文化や生活を尊重し、その国の人々が納得できる画面を撮影してほしい」というのが願いだ。

 ハリウッド映画などによる「非西洋社会の描き方」には問題が多い。常に西洋文化の視線によって一方的な見方がなされ、当該国の歴史や文化を尊重しないことも多い。西洋視線で描かれた映画の中には、当該国のアイデンティティの問題に関わる重要な問題も含まれる。たとえば『王様と私』という映画。タイでは国王を侮辱している映画として上映が禁止されている。西洋婦人が神聖な王の身体に触れるという禁忌をはばかりなく描いているからである。

 ハリウッドが描くアジアやアフリカなど、偏見と独断にみちた描写ばかりであるのに比べれば、『ビルマの竪琴』に描かれたビルマは、まだしも良心的なのかもしれない。また、『ビルマの竪琴』は、日本で上映するための映画であり、日本人はビルマとタイの仏教の差など気にしていないから、そんな細かいところまで気にすることはない、というのも、制作側のひとつの考え方であるだろう。もっとも、それを同罪であると断じるのが、上で紹介した酒井直樹の議論であるのだが。いずれにせよ、市川崑監督の映像はすばらしい。それだけに、ビルマ文化をもう少し考慮した脚色があったなら、ビルマでの上映も可能になったのに、と惜しく思う。

【参照文献】
•イ・ヨンスク(1997)『「国語」という思想』
•上野瞭(1997)「戦後児童文学の不幸なる起点-『ビルマの竪琴』について」『戦後児童文学論』理論社
•酒井直樹(1996)『死産される日本語・日本人―「日本」の歴史、地政的配置』新曜社
•  〃 (2007)『日本/映像/米国―共感の共同体と帝国的国民主義』青土社 
•竹内好(1954)「ビルマの竪琴」『文学』12月号
•竹山道雄(1947)『ビルマの竪琴』新潮文庫(1949)
•鶴見俊輔・加太こうじ他(1962)「大衆芸術名作百選・解説」『日本の大衆芸術』(現代教養文庫)

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20150702
 最後の部分が尻切れトンボに思えますが、これは「電子マガジン」掲載時の字数制限のためと思います。もう少し続いていたような気もするのですが、元原稿は前のパソコンに入れたまま外部バックアップをとっていなかったので、こわれたパソコンの中で眠っています。

 いずれにせよ、「ビルマの竪琴」について思い巡らした日々があり、縁あってそのビルマに出かけるのだ、ということ、出発前にわくわくしています。

 3月のたった1週間3月24日から30日までの出張では、仕事の場である大学の見学や居住形態を下見するくらいがせいぜいで、観光などはする余裕はありませんでした。
 次回、8月4日から9月30日まで滞在。次々回は2015年12月から2016年3月までヤンゴンに滞在します。どのようなミャンマー生活になるでしょうか。

 ミャンマーの人々と文化に敬意をもちつつ、生活の中で、さまざまな人々、出来事に出会いたいと思います。

<つづく> 
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ミンガラ春庭「ビルマの竪琴について」

2015-07-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150701
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ミャンマー事情(3)ビルマの竪琴について

 ビルマについて、検索をしていたら、思いかげず自分自身が書いたエッセイがひっかかりました。
 「日本語教育で行われる異文化理解教育について」という内容のエッセイを2009年に博士後期の単位取得科目課題レポートとして提出するにあたって執筆したのです。

 私の年代の人にとって、ビルマと聞くと一番先に頭に思い浮かぶ映画が「ビルマの竪琴」です。
 映画そのものについては、私は1956年版も1985年版も、涙しながら感動した観客でした。

 しかし、この映画をビルマ人側から見たときの違和感について、異文化理解教育を実践する教師の立場から書きました。
 映画の中のビルマ文化の描き方について、批判をしています。日本語教師として異文化理解を考えたときに、映画『ビルマの竪琴』のビルマ人とビルマの文化の描き方には、やはり日本側から見た偏りがあることを、日本の人に知ってもらいたいと思ったのです。

 日本語教育に関わる部分を割愛し、ビルマの竪琴の部分を二分割してします。次回、後半をUPします。
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異文化教育としての日本語教育 -unlearn とunteach
『ビルマの竪琴』を事例として・その1-

 『ビルマの竪琴』は、第二次大戦下と戦後のビルマ(現ミャンマー)を舞台に、日本軍兵士を主人公にした児童文学である。本稿では、竹山道雄『ビルマの竪琴』の原作と、原作から二度にわたって映像化された作品を通して、unlearn(まなびほぐし学習再構築)することを目的とする。不断のunlearn実践が、日本語教師にとって必要不可欠であり、日本語教育の可能性を深めるものであることを述べていきたい。

1)異文化へのまなざし―『ビルマの竪琴』への評価と批判
 『ビルマの竪琴』は、第二次世界大戦下のビルマ戦線で、日本軍のある部隊が合唱によって心を結びあい、敗戦までを生き延びたことと、部隊の一員である水島上等兵が、野ざらしになった戦没者の慰霊を行うために帰国をあきらめ、ビルマで僧としていきていく決意を仲間に伝えるまでを描いている。

 『ビルマの竪琴』の上に現れている文化的な歪曲や偏見を明らかにし、それらがいかになされているのか、それらに対する批判はどのようになされ、どのように反論が出されてきたのか。児童文学『ビルマの竪琴』をめぐって、学び、学びほぐすことの過程を示しアンラーン/アンティーチのひとつの実践報告としたい。

 鶴見俊輔は、『大衆芸術名作百選・解説』の中で、『ビルマの竪琴』を鞍馬天狗や宮本武蔵と比較している。
戦争を悔いた元兵士が、戦後に敵味方の死者の苦境を弔うために、僧侶となって戦場をめぐる話。熊谷次郎直道以来の、日本の大衆芸術の回帰的主題を、東洋との連帯の上にくりひろげた少年教養小説である
と、評価している。

 肯定的な鶴見の評とは反対に、竹内好は『ビルマの竪琴』に対して
水島を理想化することによって戦争批判を行っているわけだが、この戦争批判の角度に私は問題を感じる。戦争を宿命的なものとする考え方と、その救済を精神的な方面に求める態度が強調されているのが私には不満なのである
と、批判している。

 児童文学者上野瞭は、長編評論「戦後児童文学の不幸なる起点-『ビルマの竪琴』について」において、論戦の中に出てきた批判点を4つにまとめている。
1)国家を不動軸にした。
2)戦争責任を天皇制や国家機構ではなく、日本人一般、人間の問題にすりかえた。
3)戦争責任を無力な個人に還元する。
4)水島一人で責任をとるやり方。


 上野瞭が最も問題にした部分は、批判点の4番目にあたる。
竹山がすべての責任を水島ひとりの良心の問題として描いたために、一つの錯誤にみちた「戦後」の出発の仕方をすり替える物語になってしまった
という点である。この論争については、児童文学と戦争責任の表現に関わって論が存在してきたことを確認したのみにとどめ、今回は、「異文化を描写することの批判点」に論をまとめていきたい。

 現在のミャンマーについて、日本の人に知られていることといえば、民主化闘争のスーチーさんを弾圧し軟禁状態にしていることと、2007年に軍兵士によってジャーナリスト長井健司さんが射殺されたことくらいかもしれない。また、かってビルマという国名で日本の人が思い浮かべたことは、圧倒的に『ビルマの竪琴』だった。

 私は、竹山道雄の『ビルマの竪琴』を、学校図書館にあった本で読んだ。
 小学校何年生だったのか忘れたが、安田昌二が水島上等兵を演じた映画も見た。安田昌二の水島上等兵の印象が強かったせいか、市川崑監督が1985年に中井貴一を水島に起用して自らリメイクした作品を、公開当時に見ることはなかった。
 リメイク作品公開から後23年後の2008年、市川崑 が2月13日に亡くなり、2月15日に、追悼放映された『ビルマの竪琴』を見た。今回『ビルマの竪琴』をunlearnする、という契機になったのは、このリメーク版映画『ビルマの竪琴』を見たことによる。

 市川崑監督の『ビルマの竪琴』は、映画としてよくできていると思う。このお話では、音楽学校出身の井上隊長指導の合唱が物語の要になっている。また、水島上等兵の奏でる竪琴の音が、ストーリーの推進役だから、本を読んだとき以上に音楽の持つ力が身に染みた。

 原作者の竹山道雄は、ビルマへ行ったことも、従軍体験をしたこともない人であり、一高教授、大学教授としてドイツ文学研究などに携わってきた。『ビルマの竪琴』は、竹山道雄にとって唯一の「長編児童文学」であり、作者のあとがきとして
「自分はビルマに行ったことがないが、復員した人の話を聞いた。ビルマに残された白骨化したままに放置されている日本軍兵士の話などをきいて、小説に仕上げた
という意味のことばを書いている。だから、ビルマ文化のや風俗の記述において、正確な記述ではないとしても、そこを責められるべきとは思わない。一般の人には、ビルマは日本にとって遠い存在だった、というしかない。

 竹山道雄は、巻末の「ビルマの竪琴ができるまで」に、自分がビルマの社会風俗について何も知らず、『世界地理風俗体系』や「ビルマ写真帖」を参考にした」と、書き留めている。また、1952年には、『ビルマの竪琴』英訳本を読んだビルマ人新聞記者に、「宗教関係に間違ったところがあるが、ビルマ人は宗教についてきわめて敏感だから、この本をビルマに紹介するときには気をつけるように」といわれたと書いている。つまり竹山自身も自分の記述に間違いが多かったと承知していたのであり、ビルマ文化ビルマ仏教について間違っている点を改める必要があることを認識していたのだ。

 竹山の原作で一番決定的な問題点は、ビルマ仏教では僧侶が音楽に携わることは戒律で禁じられており、僧衣を着たものが竪琴を鳴らすことはあり得ない、ということ。この点は、リメーク版ではうまく処理できたのではないか、という思いが残る部分である。最初の映画が公開されたあと、この破戒に関して多くの批判点が出された。市川監督はこの批判点を十分に把握していたはずだと思うのだ。

 以下、次号では
(2)ビルマ僧の出家と音楽についての誤謬は、原作者も修正すべきと感じていた部分であるが、出家した僧が音楽を奏でるという宗教的禁忌を映画において原作のままにしている。
(3)原作に描かれた仏教に帰依するビルマ人の日常生活について、映画では歪曲した描かれ方になっている。侵略国日本から見て、侵略されているビルマが文化的に劣った<野蛮人たちの住む国>と見える描かれ方になっている。
等を論ずる。


<つづく>
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