20150728
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>70年前の夏に(2)私たちが受け入れたこと
ハフィントンポスト日本語版は、インターネット新聞です。アメリカのリベラル系ネット新聞ですが、イギリス、カナダ、スペイン、フランスなどに各国語版があり、日本語版は2013年から。
ハフィントンポスト日本語版の報道から、5月20日の国会討論を引用します。
5月20日に行われた党首討論で、共産党の志位和夫委員長は安倍晋三首相に、ポツダム宣言に関する認識を質問した。
志位氏は「過去に日本が行った戦争は、間違ったものという認識はあるか。70年前に日本はポツダム宣言を受け入れた。ポツダム宣言では、日本が行ったのは間違った戦争だったと明確に記している。総理はこの認識を認めないのか」と聞いた。これに対し、安倍首相は「ポツダム宣言は、つまびらかに読んではいないが、日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争が終結した」と述べた。
この記事が報じている通り、AB首相は「つまびらかに読んではいない」と述べました。
5月下旬のネットでは、「戦後レジュームからの脱却」を声高に述べる首相は、戦後レジュームの出発点と呼ばれるポツダム宣言をろくすっぽ読んだこともない人だったことが露呈されたとして、大騒ぎでした。
ただし、AB様御用達の某N○K放送は、この「読んでない」発言の部分をカットして放送。この騒動を報じた新聞も少なかったので、「ポツダム読んでないけど、戦後レジュームから脱却したい」というしんちゃんの信念が、「じっちゃんの名にかけて」だけであって、日本の現代史を「つまびらかに」学んだ結果ではないことが知れ渡りました。憲法学者でなくとも、口あんぐりです。
アメリカ大統領が「独立宣言をくわしく読んだことはない」とか、ドイツ首相が「ベルリン宣言をつまびらかには読んでいない」と言ったら、たちまち「政権担当失格者」と指さされるのに、日本はほんとうにのんきな国だと思います。
むろん、二枚舌を持つ政治家の例にもれず、シンゾーさんは「1度も読んだことはないなんていうこと、あるはずないではないか。予定外の質問で、手元に資料がなく正確な引用が不可能だったので、つまびらかに読んでいないと言っただけだ」と、言い訳をしてすませようとしました。この二枚舌のいいわけですむなら、国会という国民の代表が集まった場というのも、ずいぶんと軽く見られたものですね。
「読んだことは読んだけれど、くわしく検討してはいない」という意味だったとしても、問題です。くわしい検討なしに、戦後レジュームからの脱却なんてことを述べているのだとしたら、これまた大問題ですから。
いずれにしても、国会審議を経る前に「アメリカ議会で、安保関連の新法案を夏までに通すと演説してしまった」というだけでも、国会軽視のソーリであることはわかっていました。
数が多ければ、どんな法案も成立させられる、という考え方を持った人なのだろうと思います。
私たちは、歴史的事実に対し、まずはそれを知ることから始めることにしなければなりません。
政府が招聘した憲法学者3人が3人とも、おのれの学識と良心とを掛けて、「審議中の安保関連法案は、憲法違反」と断じました。
憲法を無視して審議を続けるなら、立憲主義という国の根幹にかかわる大問題であると、そのほかの識者も述べています。
まずは、現行憲法の成立史を読むこと、憲法が現代社会にどのような役割を果たしてきたかを知ること。その上で、これからの社会にとって、憲法をどのようにしていったらいいのか、国民全体で考えるべき問題でしょう。
イマドキの18才19才なんて、な~んにも考えていないから、彼らに選挙権与えて国民投票すれば、政府の狙ったとおりのアピールにとびついて、政府の考え方に賛成してくれるだろう、という即席の選挙改革も、もっと時間をかけるべきです。
18才以上に選挙権を与える国は数多いですが、自国の問題を討議する授業を十分に与えて、現代史を学ぶ授業も行って、それぞれが国の問題を考える頭を持つ教育を実施しています。
「国を愛することにしましょう」というお題目の道徳教科書を与えておけば、国のいいなりになる18才ができあがるのだと思っているなら、そうはいかない、と、微力ながら教育に携わってきた私は、信じています。
私は支持政党を持たない、普段は政治活動などしたこともない、ひ弱な一市民です。でも、自分の頭で考え続ける気力は、なんとか持ち続けたいと思っています。
さて、資料として、まずは、ソーリが「読んだことない、なんて言っちゃったけど、ほんとは読んでいるに決まっているだろ」と言った、ポツダム宣言を読むところから始めました。読み返す人も。はじめて読む人も、7月26日は、70年前の1945年にポツダム宣言が日本に出された日ですから。
50年目にも、60年目にも、いや、毎年3月10日がくれば、この日、大空襲の火の下を、東京中の人が逃げ惑い焼け死んだのだ、と思い、6月23日になれば、沖縄でこの日の前に、島の奥で、海岸で、親は泣き叫ぶ赤子を「うるさいから殺せ」と命じられ、集団で自決した村もあったことを思います。8月6日も9日も祈りを欠かしたことはありません。
でも、今年は、これらの祈りの日々をすべて踏みにじる法案が通されようとしているのです。憲法違反です。
平和を求め、戦争を放棄した憲法に違反することなかれ。
我が国は、近代国家として「立憲民主主義」を国の根本として成立しています。民主主義とは、国家の主権は国民にある、という意味です。国民は、近代的共同体である国家をコントロールできる、という意味。国家を動かすのは国民です。
立憲主義とは、国家は国民が定めた憲法を根本の存立基準としており、国民が国家によって自由を奪われないために、国の権力中枢にいる者をコントロールできる。国民は、国家権力による制約から自由であるということです。
この立憲民主主義を破壊してしまったら、国の成り立ちの屋台骨を壊すことになるのです。国の屋台骨を自分たちで壊しておいて、「外部の脅威から国を守る」というのは、マッチポンプ以上に、矛盾しています。
今、与党政府が行おうとしていることは、「国民が国家をコントロールする国民主権をふみにじり、国家権力が国民を支配できるようにする」ということです。
「これまでだって、国民の声なんぞ無視して通したい法案を通してきたのだから、今度もそうする」と、高村氏は言いましたが、国の土台を破壊しておいて、「さあ、国を守れ」とは、いったい、何をどう守れというのでしょうか。
私は、民主主義と立憲主義を守りたいです。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>70年前の夏に(2)私たちが受け入れたこと
ハフィントンポスト日本語版は、インターネット新聞です。アメリカのリベラル系ネット新聞ですが、イギリス、カナダ、スペイン、フランスなどに各国語版があり、日本語版は2013年から。
ハフィントンポスト日本語版の報道から、5月20日の国会討論を引用します。
5月20日に行われた党首討論で、共産党の志位和夫委員長は安倍晋三首相に、ポツダム宣言に関する認識を質問した。
志位氏は「過去に日本が行った戦争は、間違ったものという認識はあるか。70年前に日本はポツダム宣言を受け入れた。ポツダム宣言では、日本が行ったのは間違った戦争だったと明確に記している。総理はこの認識を認めないのか」と聞いた。これに対し、安倍首相は「ポツダム宣言は、つまびらかに読んではいないが、日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争が終結した」と述べた。
この記事が報じている通り、AB首相は「つまびらかに読んではいない」と述べました。
5月下旬のネットでは、「戦後レジュームからの脱却」を声高に述べる首相は、戦後レジュームの出発点と呼ばれるポツダム宣言をろくすっぽ読んだこともない人だったことが露呈されたとして、大騒ぎでした。
ただし、AB様御用達の某N○K放送は、この「読んでない」発言の部分をカットして放送。この騒動を報じた新聞も少なかったので、「ポツダム読んでないけど、戦後レジュームから脱却したい」というしんちゃんの信念が、「じっちゃんの名にかけて」だけであって、日本の現代史を「つまびらかに」学んだ結果ではないことが知れ渡りました。憲法学者でなくとも、口あんぐりです。
アメリカ大統領が「独立宣言をくわしく読んだことはない」とか、ドイツ首相が「ベルリン宣言をつまびらかには読んでいない」と言ったら、たちまち「政権担当失格者」と指さされるのに、日本はほんとうにのんきな国だと思います。
むろん、二枚舌を持つ政治家の例にもれず、シンゾーさんは「1度も読んだことはないなんていうこと、あるはずないではないか。予定外の質問で、手元に資料がなく正確な引用が不可能だったので、つまびらかに読んでいないと言っただけだ」と、言い訳をしてすませようとしました。この二枚舌のいいわけですむなら、国会という国民の代表が集まった場というのも、ずいぶんと軽く見られたものですね。
「読んだことは読んだけれど、くわしく検討してはいない」という意味だったとしても、問題です。くわしい検討なしに、戦後レジュームからの脱却なんてことを述べているのだとしたら、これまた大問題ですから。
いずれにしても、国会審議を経る前に「アメリカ議会で、安保関連の新法案を夏までに通すと演説してしまった」というだけでも、国会軽視のソーリであることはわかっていました。
数が多ければ、どんな法案も成立させられる、という考え方を持った人なのだろうと思います。
私たちは、歴史的事実に対し、まずはそれを知ることから始めることにしなければなりません。
政府が招聘した憲法学者3人が3人とも、おのれの学識と良心とを掛けて、「審議中の安保関連法案は、憲法違反」と断じました。
憲法を無視して審議を続けるなら、立憲主義という国の根幹にかかわる大問題であると、そのほかの識者も述べています。
まずは、現行憲法の成立史を読むこと、憲法が現代社会にどのような役割を果たしてきたかを知ること。その上で、これからの社会にとって、憲法をどのようにしていったらいいのか、国民全体で考えるべき問題でしょう。
イマドキの18才19才なんて、な~んにも考えていないから、彼らに選挙権与えて国民投票すれば、政府の狙ったとおりのアピールにとびついて、政府の考え方に賛成してくれるだろう、という即席の選挙改革も、もっと時間をかけるべきです。
18才以上に選挙権を与える国は数多いですが、自国の問題を討議する授業を十分に与えて、現代史を学ぶ授業も行って、それぞれが国の問題を考える頭を持つ教育を実施しています。
「国を愛することにしましょう」というお題目の道徳教科書を与えておけば、国のいいなりになる18才ができあがるのだと思っているなら、そうはいかない、と、微力ながら教育に携わってきた私は、信じています。
私は支持政党を持たない、普段は政治活動などしたこともない、ひ弱な一市民です。でも、自分の頭で考え続ける気力は、なんとか持ち続けたいと思っています。
さて、資料として、まずは、ソーリが「読んだことない、なんて言っちゃったけど、ほんとは読んでいるに決まっているだろ」と言った、ポツダム宣言を読むところから始めました。読み返す人も。はじめて読む人も、7月26日は、70年前の1945年にポツダム宣言が日本に出された日ですから。
50年目にも、60年目にも、いや、毎年3月10日がくれば、この日、大空襲の火の下を、東京中の人が逃げ惑い焼け死んだのだ、と思い、6月23日になれば、沖縄でこの日の前に、島の奥で、海岸で、親は泣き叫ぶ赤子を「うるさいから殺せ」と命じられ、集団で自決した村もあったことを思います。8月6日も9日も祈りを欠かしたことはありません。
でも、今年は、これらの祈りの日々をすべて踏みにじる法案が通されようとしているのです。憲法違反です。
平和を求め、戦争を放棄した憲法に違反することなかれ。
我が国は、近代国家として「立憲民主主義」を国の根本として成立しています。民主主義とは、国家の主権は国民にある、という意味です。国民は、近代的共同体である国家をコントロールできる、という意味。国家を動かすのは国民です。
立憲主義とは、国家は国民が定めた憲法を根本の存立基準としており、国民が国家によって自由を奪われないために、国の権力中枢にいる者をコントロールできる。国民は、国家権力による制約から自由であるということです。
この立憲民主主義を破壊してしまったら、国の成り立ちの屋台骨を壊すことになるのです。国の屋台骨を自分たちで壊しておいて、「外部の脅威から国を守る」というのは、マッチポンプ以上に、矛盾しています。
今、与党政府が行おうとしていることは、「国民が国家をコントロールする国民主権をふみにじり、国家権力が国民を支配できるようにする」ということです。
「これまでだって、国民の声なんぞ無視して通したい法案を通してきたのだから、今度もそうする」と、高村氏は言いましたが、国の土台を破壊しておいて、「さあ、国を守れ」とは、いったい、何をどう守れというのでしょうか。
私は、民主主義と立憲主義を守りたいです。
<つづく>