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ぽかぽか春庭「五姓田義松展」

2016-01-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
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五姓田義松展ポスター

201601010
ぽかぽか春庭@アート散歩>2015秋のアート散歩(2)五姓田義松展

 ヤンゴンは、昼は30度になりますが、朝晩は25度。雨期のころよりはよほど過ごしやすいです。人々は親切で穏やかな国民性。よい町と思います。
 ひとつ物足りない点は、美術館がないこと。

 お寺はたくさんあって、お寺の境内には仏像がたくさん並んでおり、参道には仏像が並べられて売られているのだけれども、仏教信者でなくても、その美しさにほれぼれするような仏教美術作品はめったにないこと。
 どのお寺に行っても、仏像は人々が祈る対象であって、美は求められていない。仏像は白塗りお顔に睫毛バッチリ口紅ボッテリ。私には少しも美しいと思えない仏様なのです。白塗りお顔のお釈迦様と向かい合っても、少しもありがたく感じない、信仰心の薄い日式仏教徒でごめんなさい、と思います。

 そして、仏像以外の美術品を見る美術館は、市内にひとつもありません。何人かの大学の先生に確認したのだけれど、地元民も知らない、というから、絵画の美術館はないのだろうと思います。ホテルのロビーなどには、絵が飾られているのですけれど、絵を公共に見せるための美術館というものは、この町に必要とされていない。

 日本で、江戸期には浮世絵をはじめ、庶民の間にも絵画収集趣味が広がったことと比べると、仏像以外の美術には、まったく興味が薄い土地柄なのだろうと思います。

 2015年10月11月の2ヶ月間、日本滞在中にせっせと美術館めぐりをして、「絵の見溜め」をしておきました。

 10月30日 神奈川県立博物館の五姓田義松展へ。

 私が五姓田義松(1855-1915)を知ったのは、その父親の名とともにでした。木下直之の『美術という見世物』(講談社学術文庫)2010を読んで以後のことです。絵画を見世物興行として陳列するなどした芳柳らの活躍について初めて知りました。

 義松の父五姓田芳柳(182-1892)は、江戸末期から明治にかけて活躍した浮世絵であり洋画家でした。五姓田家は、妹婿が二代目五姓田芳柳を名乗るなど、一家をあげて絵描きを家業とする家でした。

 五姓田義松は、明治初期に日本で最初に油絵画家として活躍した洋画家です。
 幕末、横浜居留地に来ていたイギリス人報道画家ワーグマンに油絵を学びました。
 五姓田義松がワーグマンに入門したのは、1866年、義松10歳のときでした。その翌年に、37歳で入門した高橋由一は、ほとんどの美術教科書に代表作の鮭の絵が近代絵画の嚆矢として載っていて、たいていの人がその名を知っています。

 しかし、五姓田義松は、その死後100年もの間、人々がその名を「明治を代表する洋画家」として脳裏に浮かべることはない「忘れられた画家」となっていました。

 没後100年となる今年、神奈川県立博物館では800点を超す五姓田の作品と関連資料を展示し、油絵、えんぴつ画など、その画業の全容を見ることができました。
 自分の顔を丹念にスケッチした「変顔自画像」、死にゆく母親を見つめた⒛歳のときの『老母図』など、卓越した描画技術を持っていたことがわかります。

 最初の国選絵画展に一等入選した自画像


 若干二十歳の作品。死にゆく母親を描いています。

 義松は、1878年23歳の若さで、明治天皇の御付画家として行幸に同行し、北陸・東海地方の行幸光景も描くなど、また、孝明天皇肖像画、昭憲皇后肖像画などを委嘱により制作するなど、明治前半期には最も有力な画家であったのです。
 25歳で渡仏。サロン展に入賞するなど、時代の先端を行く画家として卓越した技法を示した洋画家であったにも関わらず、歴史の中に埋没し、ほとんど「忘れられていた画家」となっていました。

 会場の神奈川県立博物館には、義松の年譜のほか、父芳柳から息子義松へあてた手紙、義松から当時の画壇のボス黒田清輝にあてた手紙など、五姓田家に残された貴重な資料も展示され、これらをあとでゆっくり見たいと思い図録を購入したかった。でも、図録は重いから、最後に出るときに買おうと思っていたら、「売り切れです。次回、図録販売は11月6日になります」という掲示。売り切れになると知っていたら、最初に買ったのに。

 義松がパリでの成功をひっさげて帰国後、しばらくは才能あふれる洋画家として義松に活躍の舞台が与えられていました。しかし、明治の洋画界はある時点から様変わりしていきます。 
 印象派らの新しい画風を学んできた新帰朝者、黒田清輝がしだいに明治の洋画界を牛耳るようになったのです。黒田は子爵であり、宮中にも政財界にも顔がきく大きな存在でした。黒田清輝らが日本洋画壇を確立すると、五姓田義松は急速に「過去の画家」扱いとなり、世間からも洋画壇からも忘れ去られていきました。

 義松とともにワーグマンの弟子であった高橋由一は、なぜ美術の教科書に載っているのか。明治画壇のボス黒田清輝は、高橋の弟子の弟子。孫弟子にあたります。五姓田義松を「過去の画家」として顧みなかった黒田も、先生の先生にあたる高橋は無視できなかったのでしょう。

 今、公平な目で見れば、五姓田の作品は明治の初期に、大きな存在であったことがわかります。晩年は、自宅で絵画教室を開き、作品を教材として東京美術学校へ売却するなどして、かつかつ生活を送っていたという五姓田義松。

 明治後期には、国選の美術展などに入賞することは出来なくなっていましたが、彼は死ぬまで絵を描き続けていました。彼にとって、絵を描くことが生きる道であり、五姓田流の画塾と工房の弟子達、なによりも五姓田一家を喰わせていく手段だったからです。
 彼の工房の絵は、横浜から船に乗って西欧へ帰国する西洋人たちにとって、格好の「日本土産」となり、日本の風俗を描いた絵は、「横浜絵」と呼ばれるみやげ物として喜ばれました。

 横浜絵とは、幕末明治に売れた西洋風俗を描いた浮世絵をさしますが、五姓田芳柳(初代、2代目)たちが描いた、日本の風俗風景を洋画の技法で写実的に描いた売り絵もさします。

義松が描いた、「絵を描く父、五姓田芳柳」


 五姓田義松は、明治後期の画壇ボスとなった黒田清輝に「絵を買ってほしい」と頼み込む書簡を書き残しています。
 なぜ、黒田は自分の先生の先生にあたる高橋由一のみを「明治初期の画家」としてその名を残そうとし、五姓田義松をそうしなかったか。
 五姓田が最後まで横浜絵と呼ばれる絵を描き続けた、そのことに理由がありはしないかと、私は思います。

 黒田は子爵であり、絵を売らなくても生活していける境遇です。彼にとって絵は「精神の発露」であり、「芸術こそ至高のもの」であったことでしょう。
 大正期の白樺派に集った人々も「芸術は人間精神の表れとして存在する」と考える有産階級の人々でした。
 横浜絵のような、「たかが土産物の絵」を一段と低く見る見方が彼らのなかになかったか。

 これは、私の「芸術至上主義の有産階級」への偏見による見方にすぎません。でも、研究者がこの時代の画壇精神の分析をすすめたら、案外あたらずといえども遠からず、の考え方であるのやもしれず、、、、
 ケニアを中心とするティンガティンガと呼ばれる「みやげ物の絵」が、その芸術性を認められて、西洋美術界に新しい表現として評価されたように、「工房の産業制作品」の横浜絵をきちんと評価する人が明治の世にもいたらよかったのですが。
 五姓田の洋画技法は、あまりに西洋的であり、「日本独自の洋画」を模索していた黒田たちには評価されないままでした。

 子供の頃五姓田一家が住んでいた、近所の向島白鬚神社一帯


 横浜の風景。小店で食パンや水飴を売る女達の風俗と風景。このスケッチをもとに写実的洋画に仕立てた絵は、当時の西洋人の帰国みやげに最適だったことでしょう。
 現在の目で見て、その写実、その的確なスケッチに目を、目張ります。


 1915(大正4)年、五姓田義松は、晩年住み続けた横浜で亡くなりました。享年60歳。

 五姓田義松が、高橋由一と並ぶ明治初期の輝かしい画業を見せたこと、美術の教科書にも載せてほしい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「古事記・天と地といのちの架け橋」

2016-01-09 00:00:01 | エッセイ、コラム

東京ノーヴィレパートリーシアター梅若能楽堂での公演

20160109
ぽかぽか春庭@アート散歩>2015晩秋アート散歩(4)古事記・天と地といのちの架け橋

 11月18日、モネ展を見たあと、世田谷の梅若能楽堂へ向かいました。
 友人K子さんが演劇を学んでいる劇団の公演が、能楽堂で行われるのです。この演目『古事記・天と地といのちの架け橋』を、両国のカイシアターで2度見ました。1度目は試演。2度目はK子さんも「囃子方」としてアイヌ・ムックリを担当した舞台でした。

 今回K子さんはスタッフ参加ですが、招待券を送ってくださったので出かけました。
 梅若能楽堂ってはじめて行く所なので、迷子になると時間ぎりぎりなのに困るなあと思いつつ歩く。案の定、能楽堂は大通りを少し入った所にあって、案内の人が立っていなければ、絶対に見過ごしてしまったろうなあという場所にありました。スタッフの案内のおかげで、開演時間には間に合いましたが、能楽堂のなか、すでに満員で補助椅子も出ています。幸い、右側の奥にひとつ席が空いていたので、腰掛けることができました。

開演前の能楽堂


 私の座った側の一番前には、演出家のアニシモフさんと、原作者の鎌田東二さんが座っていて、開演前トークが行われました。

 鎌田東二さんは、私より一学年下のいわば同世代人。京都大学こころの未来研究センター教授として研究を続けつつ、「神道ソングライター」として「神主の資格を持つ芸能人」、でもあります。
 スピリチュアル系に惹かれる人には有名人だそうですが、私はこの『古事記・天と地といのちの架け橋』の原作者として東京ノーヴィの作品を通して知るまで、まったく縁がありませんでした。

 オフィシャルサイトをのぞいて見ると、産まれたときからスピリチュアル系の世界と縁が深く、現在も宗教学哲学倫理学の研究と共に、「宇宙の神秘世界」と深く関わっているようです。
 『古事記』の研究においては、私が1974年に『古事記』を卒論として選んだとき目指したのとは別の世界を切り開いていらした方ですが、いつか、著作をじっくり読む時間をとりたいと思います。私は比較神話学、言語学の方法で古事記に取り組みたかったのですが、見事失敗しました。

 アニシモフは、シアターカイの公演のとき、ロシア語訳の『古事記』によって日本の神話に興味を持ち、東京ノーヴィレパートリーシアターの演目として上演を考えるようになったことを話していました。

 舞台演出は、シアターカイの上演とほぼ同じ。もっと能楽堂の舞台配置を使った新しい演出があるのかと思いましたが、舞台上の囃子方の人数が減ったことと、照明が能舞台の照明、フラットな明かりのみになったことが違ったくらいで、印象は前と同じ。でも、能舞台という特別な場所での上演だからか、まえよりずっと演目が映えた気がしました。



 以下はK子さんにあてた、ご招待お礼と、舞台感想です。
18日の公演、ご招待をありがとうございました。
とてもよかったです。
シアターカイで見たのよりは、演目と舞台がしっくり合っているように思いました。
能舞台という効果、おおきいですね。
全体としてはすばらしかったです。


 日本にいれば、映画演劇美術館と、退屈しないで過ごせる環境。
 当地では仕事以外に時間もないし、やることないです。ミャンマーの人形劇、なかなかすばらしいという評判は聞いているのですが、観光客相手の上演ではなく、地元の人が「村祭りの出し物」みたいに楽しんでいる人形劇を見たいと願っているので、見に行くチャンスにもめぐりあわない。

ピーター・オートゥール気分で「なにか楽しいことないか、子猫ちゃん。
 ニャイ

<おわり>
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ぽかぽか春庭「猿神、サルタヒコその他」

2016-01-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160107
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>サルの文化史(4)猿神、サルタヒコその他

 野生にしろ家畜にしろ、ヒトは動物のそれぞれの能力を認め、神としてあがめてきました。ヒトの生活に関わる多くの動物が神として敬われています。トキ、キジ、ハト、カラス、想像上の鳥であるガルーダや朱雀などの鳥類。ゾウ、ライオン、トラ、イヌ、ネコ、ウサギ、ヒツジ、キツネ、タヌキなどの四つ足。さらには、ムカデまでが「神のおつかい」あるいは神そのものとしてまつられて来ました。
 エジプトのスカラベは、「ケプリ」「ヘプリ」という名で、頭はフンコロガシ、身体はヒトとして神格化されています。ヘブリの語源「ヘペレル」は、古代エジプト語でフンコロガシのこと。糞の塊からわらわらと虫が発生するようすから、「発生する」という意味になったとか。

頭がフンコロガシのケプリ神


 人に近いサルが、神のおつかい、あるいは神そのものとして信仰されたのも、当然でしょう。
 漢字の神は、「申したことを示す」という字。申は、もともと「电」という形で、稲妻が伸びていく形です。雨の中から稲妻が伸びていったのが「電」ですね。
 もともとは動物を表していたのではない、という十二支「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の「申」に動物の「猿」が当てはめられたのも、なにか人にもの申しそうな、人に似ているのがサルだからでしょうか。

 日本の猿神信仰は、仏教流入以前の古神道の時代から始まっています。農耕神である日輪信仰と結びつき、日吉神、あるいは神のおつかいとして、信仰されてきました。
 古事記では、猿田彦命として登場します。

 今も続く生まれ故郷の祇園祭り。田舎町の町内ごとに山車をひき、20台以上の祇園山車が出て、にぎやかに市内を行進します。山車にはてっぺんにそれぞれ神様が立ちます。私の町内、坂下町の山車は、猿田彦命でした。子供の私は、弁天様や神功皇后などきれいな女神の山車がうらやましくて、サルなんかいやだなあと、思っていました。

ふるさとの祇園山車「猿田彦」

(画像は借り物)

 後年、最初の大学文学部での卒業論文、文化人類学や神話学を専攻したかったので、『古事記』を題材にしました。猿田彦との再会です。

 熊襲タケルなどが、征服王朝であるヤマト側に最後まで抵抗したのに比べると、もともと伊勢の地で日輪信仰と結びついていたサルタヒコは、いともたやすく天照大神側についてしまい、天照の子ニニギが芦原中つ国の支配者として地上に降り立つときは、先導役として道案内をつとめます。う~ん、天津神の側がら見たら、従順な国津神サルタヒコなのですが、国津神側から見ると、この芦原中つ国を、よそ者の支配者に譲り渡した裏切り者。
 どうも私は、祇園山車の上にいたときから「サルタヒコ」に共感できないタチでした。

 2015年11月、友人の所属する劇団が梅若能楽堂で上演した『古事記』は、『超訳 古事記』(2009年ミシマ社)を原作のひとつとしています。原作者の鎌田東二が会場に来ていて、劇団の芸術監督兼演出家のレオニード・アニシモフと、開演前に対談をしました。
 鎌田東二は、古事記研究古代精神史研究を続けてきた学者です。サルタヒコについての研究論文も多く、『ウズメとサルタヒコの神話学』(2000大和書房)、『日本的霊性」を問い直す』(2006千葉大学公共研究第3巻第1号)などで、サルタヒコの存在について論じています。

 鎌田によれば。サルタヒコは、日本的霊性のひとつの現れ方。サルタヒコとアメノウズメが協働して天照大神のために働いたことは、国津神であるサルタヒコの裏切りではなく、新しい日本の体制を開くための和睦であった、と鎌田は解釈しています。

 このときのサルタヒコの行動は、仏教導入後の聖徳太子にも受け継がれ「和をもって貴しとなす」まで、続いていく日本的霊性の現像というわけです。
 明治維新、西郷と勝による江戸城の無血開城も、猿田彦の伝統によるものだったのですね。もっとも、勝は、明治になってからも旧幕臣からは裏切り者と言われていましたが。

 日輪神であったサルタヒコ。大地母神のような「性的な女性性」「産む女神」として存在していたアメノウズメ。この二神が共働する。神楽舞などでは、この二神の共働は、「結婚した」という所作になっている地方も多い。この二神の共働により、同じ日輪神であるサルタヒコとアマテラスが互いに争うことなく、いわば、サルタヒコが自らの支配国を譲る精神をもったことによって、芦原中つ国の平和が保たれ、縄文文化の芦原中つ国がくまなく稲作文化に覆われていく、、、、

 九州の熊襲や東北のエミシの長、阿弖流為など、対抗勢力は局所的に残されており、平安初期までヤマト政権に従わない勢力がのこっていました。アテルイも最後は坂上田村麻呂に下ったのですが、桓武天皇の命によって処刑されてしまいました。抵抗者アテルイ、私は好きです。

 争うことなく、有意な文化を受け入れていく、という日本的精神の原点をサルタヒコに見る、というのが、鎌田らの猿田彦尊のとらえ方なのだと思います。

 なあるほど。猿田彦は、「和をもって貴しとなす」の原点かあ。
 この次ぎ、ふるさとの祇園山車を見るときは、「サルなんていやだなあ」と嫌わずに、武力で争うことなく、外交と調停によって平和的に争いを解決しようとする原点の猿田彦に、おーい、和をもって貴しとしていくよーと、手をふってやろう。

 とはいえ、現実の為政者は、武力を持って争いに加わりたい人ばかり。サルタヒコの日本的霊性をちょっとは学んでほしいですけれど。

 平和を満喫する猿たち「いい湯だな」

信州地獄谷のサルの温泉は、海外でも評判です。(画像借り物)

<おわり>
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ぽかぽか春庭「猿神、孫悟空その他」

2016-01-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

江戸から明治にかけての浮世絵でも親しまれた孫悟空(by月岡芳年)

20160106
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>サルの文化史(4)猿神、孫悟空その他

 ヤンゴン市内、至る所にお寺の仏塔が、金色に輝いています。金色以外の仏塔もあるにはあるけれど、目立たないし、なんといっても、当地の人々は、仏像にしろ仏塔にしろ金色が大好き。
 仏塔に数は負けるけれど、各所にヒンズー寺院も点在する。こちらも、朝に夕にお参りの人が絶えない。イスラムモスクもあり、朝夕、コーラン朗唱の声が響く。町を歩いていると、コーラン朗唱に合わせて唱和している、イスラム帽子をかぶったおっちゃんなども見かける。

 みなそれぞれの信仰を大事にし、少なくとも市内では宗教による争いなどはないように思えます。
 政治の世界では、仏教の高僧が、アウンサンスーチーさんのイスラム教徒対策は生ぬるい、もっと仏教徒優遇策を出せ、と不満を持っているようですけれど。

 中国長春市内のモスクに入ったことがありましたけれど、ヒンズー教のお寺にはまだ一度も入ったことがありません。お寺は、基本だれでも出入り自由なところが多いのですが、やはり知り合いでもいないと、中にはいりづらいものです。

 ヒンズー教の猿神、ハヌマーンは、ラーマーヤナなどの神話伝説によって、ヒンズー教信者以外にも、アジア各地に深く浸透しています。ミャンマーの伝統的人形劇の題材にも使われています。
 私たちになじみの『西遊記』孫悟空も、ハヌマーンの姿が中国に伝わって、その影響から造形されてであろう、という説が有力です。


1864年頃月岡芳年画(早稲田大学演劇博物館所蔵より)

 日本の『ドラゴンボール』も、アジア各地に輸出され、中国などでは日本のテレビアニメ開始直後から、そっくりパクリの海賊版がテレビ放映され、「ドラゴンボール」は中国原産と信じている中国人がいまだに多い。(最近は、著作権問題をクリアした正規の日本アニメ版の放映もありますけれど)

 さて孫悟空のモデルのひとつ、という説のハヌマーン神。
 インド神話『ラーマーヤナ』の中で、ハヌマーン神は特別な神通力を持ち、身体の大きさをかえたり、分身の術をつかったり、猿軍団を率いたり、山を持ち上げたりと、大活躍をしてヴィシュヌ神の化身であるラーマを助ける働きをします。三蔵法師を助ける孫悟空の造形は、やはりハヌマーン神からだろうなあと思わせます。

 インドのヒンドゥー教寺院では、ハヌマンラングールという種類の猿が飼われていることがあります。この猿は、ハヌマーン神の使いとして大切にされ、参詣者から餌を与えられ、境内を飛び回っています。

 ハヌマーン神、ラーマーヤナ、孫悟空、ドラゴンボール、、、、文化はまことに幅広く世界中を飛び回るものだなあと思います。これぞグローバル。

 ハヌマーンラングール(借り物画像)


 ハヌマンラングールに関して面白い説明を読みました。砂漠や森の中などのエサの乏しい地域にいるハヌマーンは、群れの中でも群れ同士でも争うことはないのに対して、寺院の中にすみついてエサを豊富に与えられているハヌマーンラングールの群れでは、群れのリーダーの座をめぐってオス同士の争いが絶えないのだそうです。

 ほほう、人間世界でも、狩猟採集が中心であった縄文文化ではムラ同士が争ったりせずに暮らしてたのに、弥生時代になると水争いなど、ムラ同士で殺し合いになるまで争い事が起きたし、ヤマト政権成立後は、権力者の座をめぐってスメラミコトの一族は血で血を洗う闘争を繰り返しました。

 サルもヒトも、乏しいエサを分け合う方が平和みたいです。豊富にものがあるからといって、けっして幸福度がますわけではない。
 とはいえ、乏しさのランクにおいて最底辺に位置する春庭、どんなエサにでも飛びつきますから、与えてみてください。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ヒトかサルかと問われても」

2016-01-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160107
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>サルの文化史(5)ヒトかサルかと問われても

 昨年鬼籍に入られたヒトの中のおひとかた、西江雅之先生。2015年6月没。享年77歳。
 教え子と名乗るほどの学生ではなく、ただ、学部2年間、院2年間の4年間、授業に出させていただいただけの者でしたが、先生のお声を聞いているだけで「生きてるだけで丸儲け」の気分になってくる、私にとってありがたい先生でした。

 私は、芸能人類学という新しい分野に挑戦したいと思い、そのフィールドワークの地としてパプアニューギニアの仮面舞踊調査をしたいと念願していました。しかし、従妹がケニアに海外青年協力隊員として赴任したことと、西江先生の『花のある遠景』を読んだことから、「踊りの調査は、ケニアでもできる」と、フィールドワークの地をケニアに変更したのが1979年。

 7月末にナイロビに着いたその日に迷子になり、そのときナイロビの町案内をしてくれた日本人が現在の「法律上の夫」であることは何度も書いてきました。
 結局、ナイロビでの舞踊調査は、「ボーマスオブケニア(ケニアの家)」というケニア民族村テーマパークみたいな施設で、ダンスレッスンを受けただけで、私の舞踊人類学挑戦はあえなくダウン。楽しく象やキリンを見ただけで帰国。1982年に上記のタカ氏と結婚して、子育て人生になったのでした。

 つまり、西江先生の本が私と「法律上の夫」との腐れ縁を作ったようなもので、、、、と、人様のせいにしちゃいけませんね。すべて私の意志による選択です。有能な芸能人類学者は生まれませんでしたが、こうしてヤンゴンの地で、愚痴と泣き言を並べつつ、異郷の生活をつつがなく過ごしていられるのも、西江先生に接することができたおかげ。最初期の著作『異郷の風景』『花のある遠景』から、けっこう分厚い『アフリカのことば』まで、単行本はほとんど読んできました。

 西江先生の前半生の自伝である「ヒトかサルかと問われても」は、子供の時分のエピソードからつけられたタイトルです。マサユキ少年が疎開先の村で、「半野生児」として野山をかけめぐっていたころ、少年を見かけた人々が「あれは、サルだろうか、ヒトだろうか」と、いぶかった、といいます。西江少年、疎開先の田舎で、野山の小動物や山菜を採って食べ、なかば自給自足をしていたとか。

 東京に戻ってからの波瀾万丈人生については、西江先生の著作をお読みいただくとして。
 すぐれた文化人類学者であり、言語学者であった西江先生をしのびながら、サルとヒトとの、言語との関わりを、猿シリーズ「サル学ニッポン」に続けて考えていきたいと思います。(画像は、上野動物園で撮影した、「原始的なサル」)



 サルの子が、ほぼ母親単独で養育され、ヒトの子は母親を含めた家族や一族の共働保育によって育てられる、という差異について、述べました。この差がことばを生み、音声言語コミニュケーションを作り出したのだ、と私は思います。
 高層マンションの一室に、母親と赤ん坊ふたりだけですごすような環境であったら、それは子供にとって、最悪の非人間的な環境です。ヒトは、ヒトの輪の中でこそヒトとして育つ。

 サルとヒトの子育ての違いを比較研究しているサル学研究者によると。
 まず第1に、サルの子が産まれて最初にする大事な行動。母親の身体にしがみつくことがなにより必要なこと。母親の腹や背にしがみついてさえいれば、安全にすごせるし、乳も不足なく得られます。

上野動物園のワオキツネザル


 ヒトの子は。
 実験によれば、ヒトの赤子も産まれてすぐには、サルの子と同様に「ものをつかんで離さない能力」を持っているそうです。生まれたての赤ん坊の手に鉄棒にさわらせると、しっかり握りしめて離そうとしない。そのまま鉄棒を持ち上げると、鉄棒を握ったまま、赤ん坊はぶら下がっていて、棒を握りしめたままになっている、という実験結果を見たことがあります。ただし、握るのは五本の指をそろえて握り、後年子供ができるようになる親指と他の指を逆向きにして握るのは出来ない。
 つまり、生まれたてのときは、ヒトもサルも同じくらい、握りしめる能力を持っている。

 しかし、ヒトの子は母親の身体にしがみつかず、たいていは赤子用のカゴやふとんに寝かされます。握る能力はすぐに衰えてしまうそうです。握る能力のかわりにヒトの子に発達するのが、音に対する反応。自分の泣き声で養育者が近づいてきて、お乳を飲ませるとかおむつを取り替えるとか、抱いてあやすとか、赤子の要求に応えようとすることを、ヒトの子は理解していきます。そして、養育者の声や身体的な触れあいの心地よさを知るようになります。

 声やだっこへの反応の次ぎに大切なのは、養育者との見つめ合いです。養育者の目と赤子の目がお互いを見つめ合うこと、これがヒトの子とサルの子の違いになります。サルの子は母親の腹や背にしがみついていますから、母親の目を見つめることができない。

 ヒトの子は、自分をだっこしている母親の目が自分に向かっていることを理解します。その次ぎにヒトの子ができるのは、養育者の視線の先に、自分も目を向けることができるようになること。(共同注視)。特に、養育者の指さしたものの方向へ視線を向けることが大事です。これは、指さした先の「事物」を養育者が見ていることを理解し、自分も同じものを見ようとする行為。そして、指さした事物の名前を養育者が音声で何度も聞かせることが、ことばの獲得につながります。
 父親が入ってきたとき、母がその人に視線を向けて「パパよ、パパが帰ってきた」と言えば、赤子はその視線の先のものが「パパ」であることを理解していく。音声と事物の一対一対応が完成します。

 ここから先の一対一対応理解は急速にすすみ、およそ2年間のうちに赤子の脳内では、音声とものの対応ができあがります。そして、8ヶ月ころの喃語時期に、あらゆる発音ができた赤子は、養育者の発音を聞き取って、養育者の話す音声を身につけていきます。
 およそ3年たつうち、赤子は養育者と音声言語によるコミュニケーションを獲得します。耳が聞こえない赤子や目が見えない赤子も、愛情深く世話をされれば、必ず何らかの方法でヒト同士のコミュニケーションができるようになります。目も見えず耳も聞こえない子供も、ヒトに養育されている場合には、遅れても回復します。ヘレン・ケラーのように。ヘレンは、適切な指導者を得て、流れる水と指文字の記号が一致するものであることを理解しました。

 ただし、ヒトの子として育つ臨界期をすぎる時期まで、動物によって養育されてしまった子供は、成長後にヒトによって訓練されても、十分な言語獲得は難しくなります。

 ヒトの言語能力が、遺伝によってもともと備わっているものか、それとも産まれたあとの後天性の能力なのか、という問題は長年の論争事項でした。
 今では、サルにもヒトにも、ともにコミュニケーション能力は備わっているが、のどの構造の違いにより、サルには十分な発声ができず、赤ん坊のときから「ヒト」と同じように育てられたサルでも、音声言語は獲得できないことが知られています。

 手話によってヒトとコミュニケーションができるまでになったサルも、それを自分の子に伝えることは、(今のところ)成功したサルはいません。手話ができるヒトは、それを自分の子に伝えることができます。両親とも手話話者である夫婦に育てられた子は、自然に手話を習得し、周囲に音声言語を話す人もいる場合は、手話と音声言語のバイリンガルになります。

 現世人類との混血が、DNA解析によって証明されたネアンデルタール人。こちらも化石からのどの構造を復元すると、十分な母音を発声する構造には不足していたであろうと言われています。
 何種類かの子音とたぶん「ア」の母音ひとつで、発音していたとします。子音は、ヒトの子にも一番発音しやすいpbm,つぎにヒトの子が獲得するs,tなど、5~6種類。母音がひとつだと、30種類の発音ができます。一音節語が7つ、二音節語が15~20語、三音節語が発音できたとして、全部の音を組み合わせると、200単語くらいは、ネアンデルタール人の言語があったのではないか。現生人類の子供なら1~2歳児の言語能力です。不足分はジェスチャーでコュニケーションをとっていただろうと、私は想像します。
 
 現生人類の発音は。
 舌の高さの調節と口の形の違いで、子音が15くらい、母音が「ア。イ、ウ」の3つ発音できれば、十分に地上あらゆるものを音声言語で表現出来ます。現在の地球上の言語で母音が3つの言語は、アラビア語も、琉球方言も(ということは、縄文時代の日本語も)、そうですから、コミュニケーションに不足はありません。

 サルとヒトを分けたもの、ネアンデルタール人と現世人類を分けたもの、それが「コトバ」、なかんずく「音声言語」であったこと。
 ヒトは、ヒトと言語によってコミュニケーションをとるからこそヒトです。

 コミュニケーションなしに、身体性を越えた武器で互いに争うこと。武器は石や骨による投擲から、現在のボタンひとつで核兵器を落とすところまできましたが、この能力は、ヒトを、ヒトの原則的存在から離れさせ、ヒトをヒトでなくさせていく能力でした。

 ヒトは、自分自身で制御できない能力を持つべきではない。
 ヒトが制御できない武器を持つべきではなく、ヒトが制御できないエネルギーを持つべきではない。ヒトは、ヒト同士、武力で争うべきではない。

 ヒトがヒトであるために、私は今年も、この原則を守る側にいたいと思います。

 「むしろ、サルかネコか、動物になって生きたかった」と、書き残した最良のサルの子孫、最良のヒトであった、西江先生。
 先生の「ことばの力」で生かさせていただいている、不肖の教え子である私、今年もヒトとしてがんばりますからね。


 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「サル学ニッポン」

2016-01-03 00:00:01 | エッセイ、コラム

上野動物園のニシローランドゴリラ。ゴリラの中では小型です

20160103
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>サルの文化史(2)サル学ニッポン

 世界中のサル研究。日本は、その最先端の研究を続けているひとつです。
 立花隆が『サル学の現在』を上梓したのが1991年ですから、それから15年たって、日本のサル学はさらに研究が進んでいるでしょう。
 私は、動物園に行って、サルを眺めているのも好きですし、京都大学で研究されているチンパンジー、アイのウォッチャーです。

 霊長類学研究は、生物学系統の研究と、人類学のひとつの分野として研究するスタイルに大きく分かれていますが、京都大学などでは、後者の研究が続けられており、チンパンジーを「互いに認め合う仲間」として認識するところから研究が進んでいるところが、とてもユニークだと思います。チンパンジーを数えるときは、一匹とか一頭ではなく、当然ひとり、ふたり、です。

 京都大学霊長類研究所の松沢哲郎教授は、アイの研究を続けて、「ヒトの心」をもさぐっています。松沢先生は、もともとは哲学専攻で、「ヒトとはなにか」からサル研究に入った方なのです。
 動物としての分類では、サル目ヒト科の中に、ヒト属とパン属(チンパンジーとボノボ)、ゴリラ属とオランウータン属がいます。ヒト属とパン属の遺伝子配列の違いは、1.2%のみ。98.8%のDNAは同じです。

 動物園で生まれ育ち、赤ちゃんのときから人間に育てられたサルは、自分が母親になったときに、うまく子育てができない。京都大学の霊長類研究所で育ったパンは、子供のパルを産んだとき、どうやって授乳するかわからず、自分の指をパルの口に突っ込んだそうです。哺乳瓶を咥えて育った記憶があったのでしょう。一方1歳まではアフリカのチンパンジーの群れにいたアイは、ちゃんと授乳をして、息子のアユムをほぼ自分一人の力で育てたといいます。

 松沢先生は、人間の子も、サルの子も、臨界期と呼ばれる時期に愛情深く扱われることが成長にとって大切と語っています。ヒトの子も、記憶にないほどの幼い時期に、愛情深い養育者に出会わなかった子供に、言語能力の未発達や精神的なゆがみが生じることを指摘しておいでです。

 人間の子育てがサル類の子育てと大きく異なるのは、サルの子は乳離れするまで、ほぼ母親一人が養育を担うのに対して、ヒトの母親は、自分の母親や姉妹その他の手助けを期待できる点だと、松沢先生は指摘しています。

 サルの雌は閉経して妊娠能力を失うとほぼ同時期に寿命になるのに対して、ヒトのメスは、閉経後も寿命を保ち、娘らの世代の子育てを手伝うことが大きく異なる。バーサンがいるかいないかが、ヒトのヒトらしさを育てた。、、、、ほらね、どこかの元知事が「生殖能力を失ったバーサンは、さっさと死ね」と公言したことがありました。これを見ても、彼の知性の低さ品性の卑しさがわかります。バーサンがいるから、ヒトはヒトになったんだよ。

 原始的なサルから、霊長目が進化し、霊長目の中でヒトだけが「音声言語」を持った。ヒトの母と子は、目と目でアイコンタクトをとり、子は母親(もっとも身近な養育者)が指さしたものを見つめることができる。子はおなかが空いたとき、おむつが濡れて不快なとき、泣き声をあげ、自分の声が母親を呼び寄せる力を持つことを知る。母親の声の中から有益な発音を聞き分け、しだいにその発音のマネが出来るようになる。1歳すぎるとママ、とかウマウマとか、意味をもった音声を発するようになる。

 京都大学のアイに小片を使った言語教育が行われているのと同様に、外国ではチンパンジーに手話を教えるチームも研究を続けています。
 チンパンジーには、記号を意味化して意味をつかみ取る能力がある。

 アイは、小片の並べ方で単語を理解できるサルになりました。私は、アイが獲得した言語能力を、アユムに教えてやれるのかについて、アユムが産まれたときから興味津々でした。アユムは現在6歳くらいと思いますが、アイがことばを教えたという記録はどこにも出ていません。

 丸くて赤い小片と「ください」を意味する小片を組み合わせて、「りんごください」という文を並べると、ごほうびにりんごをもらえる、という学習は、アイにもできた。アユムがそれをアイから教わる日がくるのだろうか。
 アイがことばをアユムに伝える能力を持っていたら、『猿の惑星』は実現するだろうと思ったのですが、、、、
 まだまだ研究途上、サル学研究は、ますます面白い研究成果を発信してくれるだろうと思います。

 以下の写真、2013年春庭撮影の多磨動物園のオランウータン(インドネシア語で「森のヒト」の意)です。
 
 野生のオランウータンは、高い木の枝から枝を伝い、木のつるなどをロープとして綱渡りして生きています。多磨動物園でも、地上150mにロープを張り、猿の綱渡りを実現しました。
 ロープを伝わってオランウータンの「別荘」に行くと、おやつがもらえる。オランウータンたちはじょうずにロープをつかみ、移動していきました。動物の行動展示のひとつですが、見ていてあきません。

 地上150mの高さに張られたロープを器用に伝わって行きます。






 多磨動物園オランウータンの母子。
 野生のオランウータンは、蟻塚に棒を差し込んで、シロアリを釣って食べる。多磨動物園では人工的に蟻塚を設置。中におやつを隠しておく。母ザルは子に、どうやって蟻塚の中の獲物を探すか、教えます。写真の子猿は、興味津々に蟻塚をのぞき込んでいます。



 多磨動物園オランウータンのオス。たぶん、神はなぜ猿を至高の動物とせず、おろかな戦さをするヒトのほうを優遇したのか、と、宗教的思索にふけっているところ。
 猿の惑星では、ゴリラは軍人に、チンパンジーは政治家に、オランウータンは宗教者になるんじゃなかったっけ。



<つづく>  
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ぽかぽか春庭「サル年」

2016-01-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160102
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>サルの文化史(1)サル年

 当地、12月31日も1月1日も、フツーに平日。しっかり働きました。
 当地では、新年めでたいのは4月。水掛け祭りを盛大に祝います。1月1日は、きのうの続きの平日で、少しもめでたくないっ!ゆえに春庭からのご祝詞はひかえさせていただきますが、日本にてつつがなく2016年をお迎えの皆みな様方、2016年がよい年になりますよう、30度のヤンゴンよりお祈り申しあげます。
 
 2015年の初頭に「羊の文化史」として、古代群馬の「羊太夫」のことなど述べました。
 2016年は申年ですから、サルのお話。(今回のサルシリーズ画像は、2011~2015に上野動物園多磨動物園などで春庭が撮ったお猿さんたちです)

「なんだか、アタシって、孤独を愛するみたいなの」


 そもそも十二支とは、もともと動物を表していたわけではありません。古代中国において人間の生活にもっとも関わりが深かった12の動物を十二支の漢字にあてはめたわけで、家畜として有用な牛兔馬羊鶏犬猪(豚)のほか、ライオンがいない中国で最強の肉食獣であった虎、穀物備蓄と関わりが強い鼠、農耕の水と信仰に関わる蛇と龍までで十一支。エジプトで家畜化したというネコがいつごろ中国に入ったのかは、論争が続いていますが、十二支の動物がきめられたころにはいなかったことは確か。
 さて、今年の猿が十二支に加わったのは、古代中国において何が決めてであったのでしょうか。

 現代中国は、四つ足のものは机と椅子以外、空飛ぶものは飛行機以外、海行くものは潜水艦以外なんでも食べる、と言われています。
 猿も、清朝時代の満漢全席では猿脳が「精力剤」として皇帝の子宝多かれと食べられたと言われていました。現代でもサーズ騒ぎのときに、ウィルスを運ぶ恐れのある動物として、ハクビシンとサルの売買が禁止されたことがありました。そのニュースを見て、今も中国でハクビシンを食べる食文化があると聞いていたけれど、サルも?と思いました。

 「猿は人間に近い動物である」とは、どの文化でも共通した認識です。そして、人間に近い猿を人の生活に近づけることは、人間社会の安定のためにたいへん危険なことであることが、多くの社会で知られてきました。ヒトに近いサルは、ヒトに感染するウィルスを運ぶことがあるからです。

 もともとはサルの間で感染するウィルスであったエイズが人間に蔓延してしまったのは、アフリカのある地域でサル肉を食べる習慣があったために、サルのウィルスがヒトにも移ったからだ、という説があります。真偽のほどは研究が進んでいくうち確かめられるのでしょうけれど、なにやら信じたくなるような。

「アタシたちって、仲良しだわよね」「そうだっけ、、、」


 犬や牛馬と異なり、サルが人間にとって有用な家畜として身近にならなかったのは、知能の高すぎるサルは人の馴致に従わず、家畜化しにくかった、という理由と、生物的にヒトに近すぎるために危険であった、という理由とがあると思われます。

 むろん、猿回し芸のサルや、現代福祉で使われ始めている「介助猿」もいます。四肢の不自由な方の生活を助ける仕事をする訓練を受けた猿は、主にオマキ猿だとか。
 一番知能が高いチンパンジーやボノボは、力が強すぎて身体の不自由な方との共同生活には向かないそうです。

 犬もそうですが、動物は、自分以上に力を持つ人をボスと思い、ボスの言うことには従う。自分より力が弱いとみると、自分のほうが上に立とうとする。サルが家畜とはならなかった理由のひとつ「人の命令に従う」という従順さにおいて、不向きな動物であったからといえます。
 サルのほうが人間より力が強いということを理解している点で、サルは、家畜化に不向きだったのでしょう。

 お山の大将、オレひとり、と、下にいる猿を見下ろす


 インドネシアやタイなどでサルに椰子の実を取らせるところがあるそうですが、どうやら「家畜としての労働」ではなく、観光用みたいです。猿回し芸のように、特別な調教能力を持った親方が、特別な訓練をしないと、言うことをきくようにならないなら家畜というわけにはいきません。

 馬にも調教は必要ですが、家畜として使用できるってことは、一般の農家であっても調教はできた、ということ。牛も特別な調教師が訓練をしなくても、農耕につかうことができます。 オマキザルを介護サルに調教しているのは、どういう訓練方法によるのでしょうか。

 でも、これからは、特別な調教が必要なサルよりも、プログラム次第でヒトを助けるようになるロボットの時代なのでしょうね。
 現在は一体が数百万円くらいするらしいロボットですが、私が介護を受ける頃には、私にも買える値段になるでしょうか。、、、おっと、私の年金では無理そうです。

 自分でサルを調教しようかしら。あらら、私には調教の能力もないのでしたっけ。「夫」調教に見事失敗した実績が、、、、、。我が夫は、家事育児いっさいしない、できないままとっくに還暦もすぎ、今や粗大ゴミ道まっしぐら。
 誰です、「イマドキのイクメン」を育てて「家畜化に成功」とか言うのは、、、、調教のうまい女子うらやまし。

<つづく>
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