20160107
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>サルの文化史(4)猿神、サルタヒコその他
野生にしろ家畜にしろ、ヒトは動物のそれぞれの能力を認め、神としてあがめてきました。ヒトの生活に関わる多くの動物が神として敬われています。トキ、キジ、ハト、カラス、想像上の鳥であるガルーダや朱雀などの鳥類。ゾウ、ライオン、トラ、イヌ、ネコ、ウサギ、ヒツジ、キツネ、タヌキなどの四つ足。さらには、ムカデまでが「神のおつかい」あるいは神そのものとしてまつられて来ました。
エジプトのスカラベは、「ケプリ」「ヘプリ」という名で、頭はフンコロガシ、身体はヒトとして神格化されています。ヘブリの語源「ヘペレル」は、古代エジプト語でフンコロガシのこと。糞の塊からわらわらと虫が発生するようすから、「発生する」という意味になったとか。
頭がフンコロガシのケプリ神

人に近いサルが、神のおつかい、あるいは神そのものとして信仰されたのも、当然でしょう。
漢字の神は、「申したことを示す」という字。申は、もともと「电」という形で、稲妻が伸びていく形です。雨の中から稲妻が伸びていったのが「電」ですね。
もともとは動物を表していたのではない、という十二支「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の「申」に動物の「猿」が当てはめられたのも、なにか人にもの申しそうな、人に似ているのがサルだからでしょうか。
日本の猿神信仰は、仏教流入以前の古神道の時代から始まっています。農耕神である日輪信仰と結びつき、日吉神、あるいは神のおつかいとして、信仰されてきました。
古事記では、猿田彦命として登場します。
今も続く生まれ故郷の祇園祭り。田舎町の町内ごとに山車をひき、20台以上の祇園山車が出て、にぎやかに市内を行進します。山車にはてっぺんにそれぞれ神様が立ちます。私の町内、坂下町の山車は、猿田彦命でした。子供の私は、弁天様や神功皇后などきれいな女神の山車がうらやましくて、サルなんかいやだなあと、思っていました。
ふるさとの祇園山車「猿田彦」

(画像は借り物)
後年、最初の大学文学部での卒業論文、文化人類学や神話学を専攻したかったので、『古事記』を題材にしました。猿田彦との再会です。
熊襲タケルなどが、征服王朝であるヤマト側に最後まで抵抗したのに比べると、もともと伊勢の地で日輪信仰と結びついていたサルタヒコは、いともたやすく天照大神側についてしまい、天照の子ニニギが芦原中つ国の支配者として地上に降り立つときは、先導役として道案内をつとめます。う~ん、天津神の側がら見たら、従順な国津神サルタヒコなのですが、国津神側から見ると、この芦原中つ国を、よそ者の支配者に譲り渡した裏切り者。
どうも私は、祇園山車の上にいたときから「サルタヒコ」に共感できないタチでした。
2015年11月、友人の所属する劇団が梅若能楽堂で上演した『古事記』は、『超訳 古事記』(2009年ミシマ社)を原作のひとつとしています。原作者の鎌田東二が会場に来ていて、劇団の芸術監督兼演出家のレオニード・アニシモフと、開演前に対談をしました。
鎌田東二は、古事記研究古代精神史研究を続けてきた学者です。サルタヒコについての研究論文も多く、『ウズメとサルタヒコの神話学』(2000大和書房)、『日本的霊性」を問い直す』(2006千葉大学公共研究第3巻第1号)などで、サルタヒコの存在について論じています。
鎌田によれば。サルタヒコは、日本的霊性のひとつの現れ方。サルタヒコとアメノウズメが協働して天照大神のために働いたことは、国津神であるサルタヒコの裏切りではなく、新しい日本の体制を開くための和睦であった、と鎌田は解釈しています。
このときのサルタヒコの行動は、仏教導入後の聖徳太子にも受け継がれ「和をもって貴しとなす」まで、続いていく日本的霊性の現像というわけです。
明治維新、西郷と勝による江戸城の無血開城も、猿田彦の伝統によるものだったのですね。もっとも、勝は、明治になってからも旧幕臣からは裏切り者と言われていましたが。
日輪神であったサルタヒコ。大地母神のような「性的な女性性」「産む女神」として存在していたアメノウズメ。この二神が共働する。神楽舞などでは、この二神の共働は、「結婚した」という所作になっている地方も多い。この二神の共働により、同じ日輪神であるサルタヒコとアマテラスが互いに争うことなく、いわば、サルタヒコが自らの支配国を譲る精神をもったことによって、芦原中つ国の平和が保たれ、縄文文化の芦原中つ国がくまなく稲作文化に覆われていく、、、、
九州の熊襲や東北のエミシの長、阿弖流為など、対抗勢力は局所的に残されており、平安初期までヤマト政権に従わない勢力がのこっていました。アテルイも最後は坂上田村麻呂に下ったのですが、桓武天皇の命によって処刑されてしまいました。抵抗者アテルイ、私は好きです。
争うことなく、有意な文化を受け入れていく、という日本的精神の原点をサルタヒコに見る、というのが、鎌田らの猿田彦尊のとらえ方なのだと思います。
なあるほど。猿田彦は、「和をもって貴しとなす」の原点かあ。
この次ぎ、ふるさとの祇園山車を見るときは、「サルなんていやだなあ」と嫌わずに、武力で争うことなく、外交と調停によって平和的に争いを解決しようとする原点の猿田彦に、おーい、和をもって貴しとしていくよーと、手をふってやろう。
とはいえ、現実の為政者は、武力を持って争いに加わりたい人ばかり。サルタヒコの日本的霊性をちょっとは学んでほしいですけれど。
平和を満喫する猿たち「いい湯だな」

信州地獄谷のサルの温泉は、海外でも評判です。(画像借り物)
<おわり>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>サルの文化史(4)猿神、サルタヒコその他
野生にしろ家畜にしろ、ヒトは動物のそれぞれの能力を認め、神としてあがめてきました。ヒトの生活に関わる多くの動物が神として敬われています。トキ、キジ、ハト、カラス、想像上の鳥であるガルーダや朱雀などの鳥類。ゾウ、ライオン、トラ、イヌ、ネコ、ウサギ、ヒツジ、キツネ、タヌキなどの四つ足。さらには、ムカデまでが「神のおつかい」あるいは神そのものとしてまつられて来ました。
エジプトのスカラベは、「ケプリ」「ヘプリ」という名で、頭はフンコロガシ、身体はヒトとして神格化されています。ヘブリの語源「ヘペレル」は、古代エジプト語でフンコロガシのこと。糞の塊からわらわらと虫が発生するようすから、「発生する」という意味になったとか。
頭がフンコロガシのケプリ神

人に近いサルが、神のおつかい、あるいは神そのものとして信仰されたのも、当然でしょう。
漢字の神は、「申したことを示す」という字。申は、もともと「电」という形で、稲妻が伸びていく形です。雨の中から稲妻が伸びていったのが「電」ですね。
もともとは動物を表していたのではない、という十二支「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の「申」に動物の「猿」が当てはめられたのも、なにか人にもの申しそうな、人に似ているのがサルだからでしょうか。
日本の猿神信仰は、仏教流入以前の古神道の時代から始まっています。農耕神である日輪信仰と結びつき、日吉神、あるいは神のおつかいとして、信仰されてきました。
古事記では、猿田彦命として登場します。
今も続く生まれ故郷の祇園祭り。田舎町の町内ごとに山車をひき、20台以上の祇園山車が出て、にぎやかに市内を行進します。山車にはてっぺんにそれぞれ神様が立ちます。私の町内、坂下町の山車は、猿田彦命でした。子供の私は、弁天様や神功皇后などきれいな女神の山車がうらやましくて、サルなんかいやだなあと、思っていました。
ふるさとの祇園山車「猿田彦」

(画像は借り物)
後年、最初の大学文学部での卒業論文、文化人類学や神話学を専攻したかったので、『古事記』を題材にしました。猿田彦との再会です。
熊襲タケルなどが、征服王朝であるヤマト側に最後まで抵抗したのに比べると、もともと伊勢の地で日輪信仰と結びついていたサルタヒコは、いともたやすく天照大神側についてしまい、天照の子ニニギが芦原中つ国の支配者として地上に降り立つときは、先導役として道案内をつとめます。う~ん、天津神の側がら見たら、従順な国津神サルタヒコなのですが、国津神側から見ると、この芦原中つ国を、よそ者の支配者に譲り渡した裏切り者。
どうも私は、祇園山車の上にいたときから「サルタヒコ」に共感できないタチでした。
2015年11月、友人の所属する劇団が梅若能楽堂で上演した『古事記』は、『超訳 古事記』(2009年ミシマ社)を原作のひとつとしています。原作者の鎌田東二が会場に来ていて、劇団の芸術監督兼演出家のレオニード・アニシモフと、開演前に対談をしました。
鎌田東二は、古事記研究古代精神史研究を続けてきた学者です。サルタヒコについての研究論文も多く、『ウズメとサルタヒコの神話学』(2000大和書房)、『日本的霊性」を問い直す』(2006千葉大学公共研究第3巻第1号)などで、サルタヒコの存在について論じています。
鎌田によれば。サルタヒコは、日本的霊性のひとつの現れ方。サルタヒコとアメノウズメが協働して天照大神のために働いたことは、国津神であるサルタヒコの裏切りではなく、新しい日本の体制を開くための和睦であった、と鎌田は解釈しています。
このときのサルタヒコの行動は、仏教導入後の聖徳太子にも受け継がれ「和をもって貴しとなす」まで、続いていく日本的霊性の現像というわけです。
明治維新、西郷と勝による江戸城の無血開城も、猿田彦の伝統によるものだったのですね。もっとも、勝は、明治になってからも旧幕臣からは裏切り者と言われていましたが。
日輪神であったサルタヒコ。大地母神のような「性的な女性性」「産む女神」として存在していたアメノウズメ。この二神が共働する。神楽舞などでは、この二神の共働は、「結婚した」という所作になっている地方も多い。この二神の共働により、同じ日輪神であるサルタヒコとアマテラスが互いに争うことなく、いわば、サルタヒコが自らの支配国を譲る精神をもったことによって、芦原中つ国の平和が保たれ、縄文文化の芦原中つ国がくまなく稲作文化に覆われていく、、、、
九州の熊襲や東北のエミシの長、阿弖流為など、対抗勢力は局所的に残されており、平安初期までヤマト政権に従わない勢力がのこっていました。アテルイも最後は坂上田村麻呂に下ったのですが、桓武天皇の命によって処刑されてしまいました。抵抗者アテルイ、私は好きです。
争うことなく、有意な文化を受け入れていく、という日本的精神の原点をサルタヒコに見る、というのが、鎌田らの猿田彦尊のとらえ方なのだと思います。
なあるほど。猿田彦は、「和をもって貴しとなす」の原点かあ。
この次ぎ、ふるさとの祇園山車を見るときは、「サルなんていやだなあ」と嫌わずに、武力で争うことなく、外交と調停によって平和的に争いを解決しようとする原点の猿田彦に、おーい、和をもって貴しとしていくよーと、手をふってやろう。
とはいえ、現実の為政者は、武力を持って争いに加わりたい人ばかり。サルタヒコの日本的霊性をちょっとは学んでほしいですけれど。
平和を満喫する猿たち「いい湯だな」

信州地獄谷のサルの温泉は、海外でも評判です。(画像借り物)
<おわり>