5月15日、福島みずほさんは沖縄に向かうと言っていた。今年の5月15日は、沖縄の施政権が日本に返還されて50年となる。
沖縄は、本土からの侵略に苦しめられてきた歴史をもつ。
沖縄は琉球王国として独立した国家としてあり、長い間、東アジア、東南アジアの交易の結節点の位置にあった。交易の結節点であるということは、平和の結節点でもあったということだ。琉球王国は非武装の国家であったという。
しかし、近世初期、薩摩藩が武力侵攻して琉球王国を服属させた。それ以降、薩摩藩は琉球の富を収奪してきたが、琉球は東アジア諸国の慣例の通り、中国の王朝と朝貢関係にあった。薩摩藩の下にあった琉球王国は、中国王朝とも関係を維持し続けた。
近代になって、維新政府は、琉球を完全に支配下に置くために、1872年琉球を「琉球藩」とし、さらに1879年、維新政府は軍隊や警察を派遣して武力を背景に強引に琉球王国を廃して沖縄県を設置した。琉球処分である。これにより、沖縄は「内国植民地」となった。沖縄の人びとは、大日本帝国内で差別的な位置に置かれた。
そして沖縄戦。沖縄は本土防衛体勢を整備するための時間稼ぎとされた。できるだけ長く米軍を引きつけておくために持久戦が命じられ、兵士はもちろん住民も多数が犠牲となった。1945年6月23日、日本軍の組織的抵抗が終わり、米軍占領が始まった。住民は収容所に入れられ、そこから解放された後に自宅があったところに行ってみれば、そこは鉄条網に囲まれた米軍基地となっていた。しかたなく、基地の周辺に人びとは住み始めた。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は形だけではあるが占領状態を一応終えることになった。しかしそのとき、沖縄は米軍占領が続けられることになった。それ以前に、昭和天皇は沖縄を米軍が占領し続けることをアメリカに希望していて、それが現実となったのである。
民主主義もなく、人権も保障されない占領状態は続いた。本土は日本国憲法が施行され、一定の民主的な制度ができたのに、沖縄は軍政のままであった。
沖縄の住民は、人権や民主主義を求めて闘い続けた。その代表的な人物が瀬長亀次郎であった。沖縄人民党のリーダーであった瀬長は、占領軍と互角に闘った。そして住民たちは「本土復帰」を求めて運動を行った。
それが実現したのは、1972年5月15日。今から50年前であった。しかしそれは、沖縄の本土復帰ではなく、本土の沖縄化であった。それが明確となった。
米軍は、日本の領土を自由に使うことができる。日本の空は米軍機が自由に飛び交い、それ以外の航空機は米軍によって制限された空域しか飛べないという、植民地的状況が続いている。
日本の対米従属は、「隷属」とまでいわれるようになった。
そして米中の対立的構造のなか、「台湾危機」が叫ばれるようになった。それは、沖縄などの自衛隊の新基地建設・配備となって現れている。アメリカに隷属する日本は、自衛隊を米軍の戦略にそって配備し、軍備強化を叫ぶようになった。
日本の外交に自主性はなく、日本はアメリカの言うがままに中国との対立構造に組み込まれていく。
しかし、中国と台湾の問題は中国の内政問題であり、「現状維持」こそがもっとも妥当な状態なのである。この問題については書いたことがあるので参照して欲しい。
1945年の敗戦のなかで、わが国は「非戦」の誓いを立てたはずである。戦争をしないことを国是としたのである。それは戦後の世界において、日本がもつ意味でもあった。ロシア軍のウクライナ侵攻が行われている今こそ、日本は戦争をしないという決意を世界にアピールするべきなのである。
それこそが世界の明日を創っていくのだ。