1972年11月、革マル派の暴力支配下にあった早稲田大学文学部で、川口大三郎くんが殺された。革マル派によるテロ・リンチによるものであった。
この事件を契機にして、日頃革マル派の暴力に怒りを覚えていた学生たちが決起した。そのなかに著者の樋田君がいた。当時私は法学部の学生であった。本部で開かれた集会で樋田君が話しているのを何度か見ている。あの頃、本部前には多くの学生が集まり、革マル派の暴力に対する怒りを表明していた。私もその輪の中にいた。ただ本書を読んで、本部構内で起きていたのに、知らなかったこともあった。
法学部は民青系の自治会であったので、私たちは革マル派の暴力にはあうことはなかった。私自身はサークル活動(1号館地下)やアルバイトで忙しかったので、積極的に革マル派の暴力追放運動に参加していたわけではなく、ある意味傍観者であった。法学部学生は傍観者でいられたのだ。
しかし革マル派の学生に良い思いを抱いたことは一度もない。彼らは陰険で、暗い雰囲気を漂わせていた。革マル派学生は、その目を見ればすぐわかった。眼には輝きがなかった。他者を疑うような眼で睥睨するような感じであった。
樋田君は、第一文学部の新たに選出された自治会の委員長として、多くの仲間とともに革マル派の暴力に素手で対抗していた。まさに当事者そのものであった。本書を読み、樋田君をはじめとした文学部の学生たちが、どれほど困難のなか、暴力追放運動を展開したのかを教えられた。本書に記された詳細な運動の展開など知ることはなかった。私も少しは関わったが、それはほんの一部であった。革マル派の暴力支配下にあった文学部の学生には、ほんとうに頭が下がる思いである。まさに彼らは、本気で鉄パイプを振り下ろしていた。私の知人にも襲撃された者がいた。頭を強打された彼もまた即入院した。
本書を読んでいて、村井資長総長をはじめとした大学本部、また文学部の教員たちのまったく無責任で誠実さのない対応にあらためて怒りを覚えた。革マル派と大学当局とが癒着していたのだ。
本書で指摘されていることだが、人を殺すほどの暴力が日常的に吹き荒れていたのに、大学当局はまったくその対策をとらなかったのだ。
本書には、知った名前があった。法学部の自治会委員長であった柳ヶ瀬くん、浅野くんなど。革マル派の文学部自治会委員長であった田中敏夫という名も記憶がある、名前だけだが。
いろいろ思い出すこともある。ある日、夕方だったか、大学の正門に機動隊がいた。そこへコートを着た学生たちが校内へ入ってきた。明らかにコートのなかに鉄パイプを忍び込ませている様子であったが、機動隊員は彼らを素通りさせていた。当時中核派のビラに「K・K連合」という文字があったように思うが、そのとき、なるほど革マル派と機動隊は気脈を通じているのだと思ったことがある。
早稲田大学の革マル派は、奥島孝輔(法学部)が総長となってから、追放された。そのことをしったとき、私はたいへん喜んだ。しかしそれまでの大学当局はいったい何をしていたのか。
革マル派は自治会費や早稲田祭、文団連を牛耳り、大学から多額のカネをせしめていた。総額は20億円にもなるという。早稲田祭においては、早稲田大学の学生でさえもパンフレットを購入しないと大学に入れないというシステムをつくり、そこでも多額のカネを得ていた。私の学生時代、学友は早稲田祭の期間中帰省したり、アルバイトに精を出したりしていた。
樋田君の「寛容」と「不寛容」に関する議論は傾聴に値する。かれの根本的な思想であろう。それは、朝日新聞阪神支局襲撃事件追及にも通じるものだ。
本書を読み、当時のことをいろいろ思い出した。おそらく当時早稲田大学に在学していた人は、川口大三郎くん虐殺事件に関わる一連の出来事にいろいろな思いをもっていることだろう。
鉄パイプを振り回していた革マル派に今もなお怒りをもちつづける私は、樋田君がみずからの体験(そして革マル派活動家へのインタビューも)を書いてくれたことに感謝したい。
現代の日本は、様々な「暴力」が横行している。ネットの中にも、ことばの「暴力」がある。「暴力」は「不寛容」の現れである。「暴力」は人を傷つける。「暴力」のない社会は到来するのだろうか。