不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「歴史戦」

2016-11-29 23:19:56 | その他
 公民館(といっても、浜松市では協働センターという)での歴史講座が終わった。本当は先週で終わるはずだったのだが、風邪で声を失ったために2回つぶしてしまった。それでもそのうち1回はやらないといけないと思い、今日は「地域から見た大日本帝国の戦争」というテーマで話した。そのなかで、南京事件について話した。私が発見した軍事郵便をもとに話したのだが、なかに南京事件否定派の方がいて、私の話が終わった後、いろいろ質問してきた。

 私が発見した軍事郵便は、歴史学では一次史料であり、誰も否定できないものだ。したがって、虐殺はなかったとはいえなくなる。そこで、南京で殺された中国兵の多くは中国兵に殺されたとか、南京にいた中国兵に中国軍幹部は敗退した後どう行動すべきか命令を出さなかったとか、いろいろ話してきた。

 しかし、この軍事郵便で、彼は虐殺を否定できず、軍事郵便に書かれていたことを認めつつも、南京事件が世界で問題になったのは、第二次大戦後にアメリカが原爆投下の罪を減じるためであったというようなことも言った。しかし、南京は中国の首都。そこには外国人ジャーナリストがいて、みずからの見聞を打電していた。したがって、南京の日本軍の蛮行は、まさにそれが起きているときに世界に報道されていたのである。

 彼は、これは「歴史戦」だといった。そういえば、あの『産経新聞』にそういう連載があった。

 私は史料をもとにして歴史を組み立てていく。その組み立てたことを話す。「歴史戦」は、いったい何を根拠に書いているのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016-11-29 10:27:32 | その他
 農作物をつくるだけではなく、私は花も育てる。基本的に苗を買ってくるのではなく、種から、である。春の花の芽が出て花壇に植えられるようになったので、移植した。
 
 ところが、猫がたびたび来て荒らす。荒らすだけではなく、糞尿までおいていく。そこで、花壇に支柱をいっぱいさして猫の「荒らし」を防ごうとした。しかし、朝起きてみると、支柱の間の狭いところに入り込み、いつものように糞尿をまき散らし、土をほじくり返す。当然苗は無残な姿となる。

 今日は、100円ショップに行って、小さなフェンスを買ってきた。それで花壇を取り巻くようにした。さらにそこで売っていた、これを周辺に置いておくと猫は来ないというマットも買った。

 さてどうなるか。

 もしこの方法で猫が来なくなったら、もう一度苗を植えようと思う。

 基本的に、私は猫は嫌いである。幼いとき、飼っていた金魚が猫に盗られたからだ。それ以降、猫によい思いを持たない。

 私の友人には、家の中で4匹の猫を飼っている人がいるが・・・・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】上原善広『日本の路地を旅する』(文春文庫)

2016-11-28 23:13:06 | その他
 被差別にかかわる本の書評を依頼された。私は、被差別の歴史については、15年ほど前に静岡県にかかわる資料を集めて書いたことがあるが、その後はまったくご無沙汰していた。

 書評を書くためには、その本だけを読むのではなく、現在の被差別を取り巻く全国的な状況や研究水準などをしらべておかなければならない。一冊の本の書評をするのもたいへんなのだ。

 さてこの本は、被差別のことを「路地」と表す。それは今はなき、「路地」出身の中上健次が使い出したものだ。

 著者、上原氏も大阪の「路地」出身である。その彼が、全国各地の路地を訪ね歩いて書いたものが本書である。かなり自由な書き方をしていて、地理的に飛んだり(それは「路地」同士は、遠方であってもつながりがあるからだ)、時間を行ったり来たりする(つまりそれぞれの「路地」ができた由来を書いたり、現在の「路地」の姿を描いたり)。

 この本を読みながら、私が15年前に被差別を調べたとき、そこに生きている人々の生活をまったく書かなかったことに気付いた。私が依拠したのは、ほとんどが文献資料であった。二つの地区だけ訪ねて話を聞いたりしたが、その地域の生活を詳しく聞いたのではなかった。

 私も、県内の被差別とされているところを歩いて、そこに住む人々と接触すればよかったと、この本を読みながら思った。

 読み始めると、「路地」というものがどういうものであるか、それが地域差を伴ったり、あるいは普遍的なものもあったり、そういうところがきちんと押さえられている。

 昨日読み始めて、今読み終えた。なかなか面白かった。書評を書く上で、参考になる考えもあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本にかかわる会社がなくなる

2016-11-28 21:54:45 | その他
 昔は、我が家の近くに書店があった。おそらく中学校の学区に一つは必ずあった。しかしそれがひとつ、またひとつと消えていった。そして今、近所には書店はない。

 コンビニが近くにあるが、そういうところで売っている雑誌には興味はないので買うことはない。

 どうしても、書店で買う場合、浜松駅ビルの書店に行く。しかし東海道線で行くと往復380円。バスなら500円を超える。車で行くと駐車場に入れなければならない。ということから、通販が主になってしまう。今日も新書本が1冊届けられた。雑誌も直接購読である。

 なぜ書店がなくなるか、その最大の理由は、人々が本を読まなくなっているからだ。「こんなものがありました」と持ってくるのは、本のコピーではなく、ネット記事を印刷したものだ。大人も、若者も、本を読まない。だから読む人と読まない人にも大きな格差が生まれている。読む人のところには膨大な本がたまり、読まない人のところには、雑誌が転がっているだけだ。

 さて本題。

 東京神田にある岩波ブックセンター=信山社が倒産したという。神田の古本屋街にいくときには、ブックセンターによって岩波本を買ったりした。寂しくなる。

 ちなみに、本が売れない理由の一つは、大学が買わなくなっているからだ。大学の教員の研究費がすすめの涙ほどになってしまっている。安倍政権は、文化や学問にはカネを出さない。カネもうけに直結する分野にはカネをばらまくが・・・・・

 悲しい国だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常識を知らない首相

2016-11-27 23:16:01 | その他
 こういう報道もある。

 私が属す研究会の初代会長が逝去し、私は故人のご冥福を祈っているが、その家族などには冥福を祈らない。なぜなら、その家族は生きているから。

【悲報】安倍首相、カストロ氏死去に対しなぜか「キューバ共和国政府及び同国国民、並びに御遺族の皆様」の冥福を祈る

http://buzzap.jp/news/20161127-rip-cuba/

 「冥福」とは、「死後の幸福」(『広辞苑』)ということ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民の税を収奪する人々

2016-11-27 23:12:40 | その他
 正義や倫理という価値からもっとも遠い人物が権力を掌握すると、こういうことをする。

http://lite-ra.com/2016/11/post-2728.html

 こういうことは、しかし、リテラくらいしか報じない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】伊藤ルイ『海の歌う日 大杉栄・伊藤野枝へ ルイズより』(講談社)

2016-11-25 20:39:30 | その他
 よい本だった。文も味があって、内容はあまりに豊かだ。彼女自身の生活が豊かだ。別に経済的に豊かではない。その意味では貧しさのなかに生きてきたといってよいだろう。しかし豊かな人間関係に囲まれ、山や花など豊かな自然に包まれて生きてきたことがよくわかる。人間って、こうした豊かさの中で生きることこそが幸せなのではないかと思った。

 今日、3時頃畑に行った。レタスを収穫し、小豆の鞘を採り、少しだけ畝をつくった。スコップで掘っていたら、カエルが飛び出てきた。もう冬眠に入っているカエルを起こしてしまった。きっとぶるっと震えていたのではないだろうか。そのあと、ミミズを狙ってか、ハクセキレイ(?)が図々しく寄ってきた。キャベツについていた青虫をとる作業を続けていたら、冷たい風が強くなってきたのでひきあげた。

 自然と交感しながら生きていくことは豊かであると、私は思う。

 話がずれた。伊藤ルイは、大杉、野枝の娘である。

 ものごとに対する優しい目や、いとおしむ心、哀しむ心が深まれば深まるほど、それを阻むものへの怒りは鋭敏になっていく。ほんとうに優しくあるためにはどれほど強くなければならぬか、どれほど鋭くならねばならぬか(126ページ)

 まさにそのように生きた人であった。

 ルイさんは、伊藤野枝とは異なるが、しかし輝いた人生であったと思う。その輝きを慕って、先に紹介した『しのぶぐさ』がある。

 ルイさんは、

 私は、自分が63才という年になって、28才の女、28才の母としての野枝を思いえがくとき、じつに美しく、輝いて感じる。その美しさ、その輝かしい生命が、ある日突然その夫とともに残酷な形で踏み潰される。「畳の上では死なれんとよ」とその母に告げ、その覚悟をもってつねに自らの生と向き合っていた彼女を思うとき、その文章のすべてが、思いをこめた、誠意をつくした「女たちへの遺書」として書きのこされたのを感じる。

 と書いている。しかし、ルイさんの生き方も、同じようなそれであったと思う。

 晩年に、ルイさんは全国各地の市民運動を担っている人々と手をつないだ。

 「国」は人民にたいして「愛国」を要求するけれども「愛民」の思想というものはもともと「国」にはない。国が愛国というとき、そこにはかならず他国に対する排他性があり、国民の犠牲が求められていることを感じる。

 大杉、野枝が求めたことを、ルイさんはそれを継いで、求めて生きていた。

 とてもよい文章だ。

 昨日夕方、研究会の仕事で静岡まで行った。その往復の電車でこの本を読み続けた。帰りは23時を過ぎた。帰りの電車には、学生や会社員風情の人々がたくさん乗っていた。スマホを操作している人、眠っている人・・・・

 私は、この本をただ読み続けた。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原口清先生の本

2016-11-24 12:14:18 | その他
 14日に亡くなられた先生のご著書を、もう一度読もうと思い、『日本近代国家の形成』(岩波書店)を書庫からもってきた。
 この本は1968年に刊行されたものである。私は高校生の時にこの4刷を買っているが、2月14日に刊行されて、4月にはもう4刷となっている。いかにこの本が多くの歴史学徒に受容されたかがわかる。

 この本の「序説」を読みはじめる。字を追うと、先生の声が聞こえてくる。最初の頁に、「今日、国家論・権力論の深化が、とくにつよく要請されている」と記されている。先生には、明確な国家論・権力論があった。実証と理論がきっちりと結びついていた。
 しかし今、国家論・権力論はなりを潜めている。マルクス主義が「凋落」し、そうした理論を深めようとする学者はほとんどいなくなった。本当は、日本のようなアメリカに従属する国家とはいかなる国家か、いかなる権力構造をもっているかなど、検討されなければならないのだが・・・。

 読み進むと、先生の堅牢な実証と理論が、確実に書き込まれている。

 先生は、「戦前の天皇制の性格の究明は、今日の民主主義的課題の遂行のためにも必要であろう」(2頁)としている。「戦前の民主主義的伝統は」、「天皇制支配のもつ政治的・イデオロギー的性格によって制約され歪曲される面」があり、そしてそれは、戦後の民主主義と「深い関連をもっている」からだ。そういう問題意識で、先生は天皇制が打ち立てられる時期の歴史を克明に明らかにしようとしたのだ。

 先生は、講座派の流れに位置づけられる。といっても、講座派、労農派の論争は、まったく過去のことになってしまっているようだが、先生は、こう記す。

 「初期明治国家の構造分析は、ブルジョア革命論者によっては、ほとんどなにひとつなされていない」(5頁)として、詳細に検討していく。

 「ブルジョア的発展を促進する改革を行ったからといって、その国家権力をただちにブルジョア権力と断定することはできないし、また絶対主義による封建領主権の集中化・封建的特権の剥奪の傾向が、一定の条件のもとでは、封建領主制の廃止という極限形態をとる可能性もある」(6頁)

 幕末の政治勢力は、「基本的には封建領主階級の生みだしたものであり、封建領主階級の利益を第一義的に反映したものである」(9頁)とする。彼らによって維新権力が構成されたのである。

 また先生は「人間の意識」を問題にし、「人間の意識を彼が存在する客観的な諸条件との関連の中で考察する」ことを指摘する。西郷を例に挙げ、1871年鹿児島にいた頃の西郷と、半年後に廃藩置県を断行した西郷と、1877年に西南戦争を起こした西郷は、「おなじではない」とする。

 さらに先生はよく「矛盾」について言及されていた(12頁)。当該期の「矛盾」はどこにあるのか、をしっかりと認識することが大切であると。
 先生が、弁証法は大切だと、会うごとに話されていたことを思い出す。

 『日本近代国家の形成』、今度読むと3回目となる。しかしまだまだここに書かれていることを理解できたわけではない。

 先生は、この時期の歴史が、頭の中にきれいに整理されてしまわれていたと思う。問うとすぐに答えられた。いつも、すごいなあと思っていた。

 先生の本は、岩田書院から『原口清著作集』として刊行されている。じっくりと読んでみようと思う。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おやっ?

2016-11-24 11:06:22 | その他
 浜松では、毎年みかんは箱買いする。なくなったら、また箱買い。こどもの頃はミカンの食べ過ぎで手が黄色くなったことを思い出す。

 さて、静岡県西部地方では「三ヶ日みかん」が有名だ。この地方で収穫されるミカンだけが、紀州などと比べて糖度が高い。だから「三ヶ日みかん」は値段が高く、三ヶ日のミカン農家では「ミカン御殿」が建っている。

 私の知り合いは、三ヶ日ではないのに、「三ヶ日みかん」の箱をどこからか入手して売っていた。その方が儲かるからだ。

 わが家は、高価な「三ヶ日みかん」ではなく、その近郊で収穫される「浜名湖みかん」を買っていた。

 ところが今年は、「浜名湖みかん」の箱が、どこの店でも見当たらない。どこでもすべて「三ヶ日みかん」の箱だけがある。ひょっとして、「浜名湖みかん」の生産者は、三ヶ日農協に話をつけて「三ヶ日みかん」として販売しているのではないかと疑っている。ネットで見ても、「浜名湖みかん」が見当たらない。

 「三ヶ日みかん」の糖度の高さについて以前詳しく聞いたことがあるのだが、ずっと前なので忘れてしまった。いずれにしても「三ヶ日みかん」が甘い理由はその土質にあるということだ。とするなら、他の地域のみかんを「三ヶ日みかん」として販売するのは、虚偽ということになる。

 さて、私の疑問の真偽はどうなのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は1日・・・・

2016-11-23 19:13:41 | その他
 今日は、一日掛川市の某家に行き、その家の文書整理。毎月一回行っているが、なかなか捗らない。どのくらい資料があるのか、まだわからないから、終わりが見えない。

 実は私は、もう古文書を見るより、印刷された活字を読む方がよい。古文書を読みながら歴史を組み立てていくという作業は、もう卒業したと思っている。静岡県内の自治体史はもうほとんど一巡し、現在私が引き受けている自治体史は1980年代以降を対象としている。したがって、くずし字を仕事として読む必要はない。

 さて、本日コメントをいただいた。私はときどき本の紹介をしているが、それを待っていらっしゃるとのこと。これはなかなかたいへんだ。責任感をもって読み、かつ書いていかなければならないということだ。

 コメントにあった、松下竜一さんの『ルイズー父に貰いし名は』はとてもよい本だ。ずっと前に読み今は書庫に鎮座していると思い、今日書庫に行って捜してみたがない。どこかにあるはずだ。かわりに伊藤ルイさんが書いた『海の歌う日』(講談社)があった。これも読んだはずだが、あまり記憶はない。
 大杉や野枝に関する本は、2023年まで静岡での墓前祭を主宰しなければならない私としては、すべて読まなければならないし、あたまにたたき込んでおかなければならない。

 松下竜一さんの本は、『豆腐屋の四季』から読みはじめ、ほとんどを読んだ。どの本を読んでも、よい文章で、松下さんの優しさや理不尽なことにたいする抵抗精神が著されていて、いずれもこころを動かされた。松下さんの本は、今は『松下竜一 その仕事』という全集(?)になっている。
 松下さんは、もちろんルイさんと仲良しだった。

 実は風邪を引いてから、読書量がぐっと落ち、やっと現在回復過程にあるという状態だ。どんなことでも関心を抱き、森羅万象を知りたいと、昔は自然科学の本もいろいろ読んだが、自らの生きられ時間がもうそんなに長くはないと悟ってから、自然科学などの分野は遠ざけている。

 本を読まないとダメだ、は私がいつも言うセリフである。みずからの脳を活性化し、世の中の不正を暴くためには、様々な知識をインプットしなければならない。そしてインプットされた知識をきちんと整理して、人々に伝えていくのだ。

 何のために生きるかは、何のために本を読むかに直結する。逆もまたいえる。
 本を読むことは、即、生きることである。しかし本は、選ばなければならない。人生はまた、いつか閉じられる、限られた時間なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人が亡くなると・・・・

2016-11-22 21:32:54 | その他
 今朝、雨上がりの銀木犀の葉が、きらりと輝いていた。今日は快晴だ、と喜んで机の前に座ったら、メディアから福島沖の地震のニュースがいっぱい入っていた。

 原口清先生のご逝去を伝えていなかったところにメールを送ったり、新聞に原口先生の訃報がでているという情報を皆さんに送ったりした。

 この前書庫の整理をしていたら、『しのぶぐさ』という小冊子をみつけ、机の所まで持ってきていた。大杉と野枝の娘、伊藤ルイさんの追悼集だ。これは、原口先生より先に亡くなられた、正恵さんからいただいたものだ。

 読み始めたら、これも中断できずに読み続けた。

 全国各地から、ルイさんの訃報を哀しむ声が綴られていた。ルイさんは、様々な矛盾が出現する現場に足を運び、そこで生きる人々に大きな足跡を残していた。ルイさんと手をつないだ人々の声から、ルイさんという人の姿が描かれる。すばらしく魅力的な、洞察力のある方であった。

 なかに、ルイさんのいくつものことばが記されていたが、そのなかで衝撃的であったのは、

 わたしは関東大震災、というはじめのことばを聞いただけで、背中に激しい痛みがはしる。差別というのは、具体的な痛みをともなうんですよ・・・・

 であった。差別は、現象ではなく、実体なのだ。それがここに記されていた。

 そしてもうひとつ。

 人格の核となるもの、それは記憶

 これも重い言葉だ。まさに生きてくる中でつくられてきた記憶の無数の糸が人格をつくる。

 ルイさんは、亡くなるときに「わたし頑張った」と言ったそうだ。そう言い得る人生を生きていきたい。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本文学史

2016-11-22 15:34:41 | その他
 高校時代、国語の時間に一冊の文学史の本を渡され、試験の度ごとにページ数を割り振られて勉強した、それが私の日本文学史の初体験である。

 その後歴史を学び教えるという仕事に就いたことから、古文をはじめいろいろな本を読んできた。

 古文は、高校時代の夏休みに本を買わされ、1年のときは「竹取物語」、2年の時は「徒然草」(確かどこかの文庫本)であったが、休み明けにテストを受けた記憶がある。「竹取」はあまり記憶はないが、「徒然草」はすべて読み、なかになかなかよいことが書いてあるわいと感動したことを思い出す。

 さて笠間書店からなぜか送られてくる『リポート笠間』。この内容がなかなかよいのだ。古文を含めた日本文学関係の雑誌であるが、興味深い記事が多い。

 今回は、テーマが「理想の『日本文学史』」である。何気なく読んでいたら、面白いので、そのテーマに関わる文はすべて読み終えた。

 なかでも、なるほどと思ったのは、日本の文学史から漢文学が捨象され、そのうえに「日本文学史」が構築されてきた、という指摘である。その通りだ。

 「近代の国民国家の形成とともに立ち現れた国文学は、漢文学を内から外へ排除し、本来は和語和文と漢語漢文とが複雑に交錯しつつ形成してきたはずの前近代の日本の「文」の総体を覆い隠してしまった。」(河野貴美子ほか)

 ケンブリッジ大学が、『ケンブリッジ日本文学史』を刊行したそうだが、それを紹介した福田武史の文。

 前近代および近代の識字層が、漢文系のテクストの読み書きを基本とする環境の中にいたことを、自言語によるテクストを中心に据える文学史は隠蔽してしまう。そもそも日本文学は漢字によって書くことから始まった。「古代」部の概論を「書記、リテラシー、そして日本文学の起源」と題したのは、特に日本文学に馴染みのうすい読者にとって重要である。日本文学史は、自言語による「口承」の神話や歌謡や祈りの言葉といったものから始まるものではない。

 すぱっと小気味よい書きっぷりである。

 それ以外にも、学ばせてもらったことは多い。『リポート笠間』はすごい!

 ついでに、この『リポート笠間』の特集は、笠間書院が50冊にもわたる日本文学史の刊行を予定しているからだそうだ。稲本万里子は「暴挙」と書き込み、消去して「快挙」とした。いずれもあてはまる。

 しかし、「暴挙」をあえてすることによって、それが「快挙」となるのだ。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「出征」の場面

2016-11-22 10:34:34 | その他
 「戦後」に、こんなことが行われようとは・・・・・

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/346720
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震と原発

2016-11-22 09:21:15 | その他
 布団の中で、昨日送られてきた笠間書院発行の『リポート笠間』61号を読んでいた。これがなかなか面白いので、このブログに書き込もうと思い布団からでて、パソコンを起動させた。

 すると、福島県沖で大きな地震があったニュースが送られていた。そして津波も発生しているようだ。

 地球は、大きな活動期に入っていることを感じる。最近、熊本をはじめ各地で大きな地震が起きている。今度は福島沖、ということだ。

 その地震のたびに、近くにある原発の状況が報じられ、そのなかで何らかの事故が起きている。


 こういう情報に接すると、日本のように地震が多発するところでは、原発はやめよう、と思うのは当然のことだ。電力会社や政府の、今も尚原発を存続させようという方針が、きちがいじみた行為に思えてくる。

 地震が起きる度に、原発が暴走しないようにと祈るしかない、という現実は、おかしい。地震はどういうかたちで起きるのかまったくわからないのだから、そういう神頼み的な安全確保の方法は、21世紀にはあわない。原発のすぐ近くで地震が起きるとも限らないのだ。

 原発はやめよう。それが電力会社、電力総連、そして政府・地方自治体官僚を除き、日本人の共通認識である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これ、読んで欲しい

2016-11-21 20:54:26 | その他
 早稲田大学の水島教授の「平和憲法のメッセージ」。

http://www.asaho.com/jpn/index.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする