年末あるパーティに出た。浜松市の経済界のトップも参加していた。ボクの周辺の何人かも、名刺をもってその人たちに挨拶に行っていた。ボクはもちろんそういうことはしない。ボクにとって、屈従は唾棄すべきものである。彼らは自らをトップであると自覚しているから、いそいそと挨拶に来る者たちは自分に屈従する者たちだと認識しているであろう。
ボクはいかなる人間であろうと、対等の個人としてでなければ人間関係を結ばない。年齢や経済力、政治力・・・すべてを捨象して、対等でなければならないのだ。そして対等の関係の中で唯一働くのは、相互の謙虚さである。個人としての人間はそれぞれ得手不得手、特技、知識などを持っている。それぞれがそれぞれ持っているものを尊重し合うというところに、個人としての対等関係が成り立つ。
ボクは、いかなる人間に対しても、同じ姿勢で向かい合う。屈従はしないし、居丈高にもならない。
さて今ボクは『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)を読んでいる。16世紀フランスの青年が書いたものだ。その人の名は、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ、モンテーニュの友人でもあった。
このブログの表題は、その文の中にあったものだ。
ボエシは書く。
ただひとりの圧制者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。
民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、あえてみずからを抑圧させているのである。彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、皆民衆自身なのだ。(18頁)
もう隷従しないと決意せよ(19頁)
農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことを行えばそれですむ。だが、圧制者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧制者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は、圧制者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。(70頁)
こういう姿を見せる人びとを、ボクはいつも見てきた。圧制者というか支配体制を支える人たちだ。そういう人がいろいろなレベルで立ち働いている。あたかも隷従が楽しいかのような、あるいは隷従こそが自らにとっての自由であるかのように生きている人びとがいた。
解説を書いているのは、西谷修。実はまだ全文を読んではいないのだが、西谷の解説が素晴らしいので、それを紹介する。
一人の支配者は独力でその支配を維持しているのではない。一者のまわりには何人かの追従者がおり、かれらは支配者に気に入られることで圧政に与り、その体制のなかで地位を確保しながら圧政のおこぼれでみずからの利益を得ている。そのためにかれらはすすんで圧政を支える。かれらの下にはまたそれぞれ何人かの隷従者がいて同じように振る舞い、さらにその下にはまた何人かの・・・という具合に、自ら進んで隷従することで圧政から利益を得る者たちの末広がりに拡大する連鎖がある。その連鎖が、脆弱なはずの一者の支配を支えて不動の体制を作り出している。
圧政は一者の力によってではなく、この体制のもとで地位を得かつ利益を引き出す無数の追従者によってむしろ求められ、そこに身を託す多くの人々によって支えられている。そしてその底辺には、圧政を被り物心両面で収奪されるばかりの無数の人びとが置かれているということだ。(230~1頁)
そのパーティで、ある人がこう言っていた。ヒラの時にはふつうの人だった人が、管理職なったら全然人が変わって強い口調でいろいろ言ってくる、と。ボクはこういった。あなたの職場の人が、そういう管理職としての姿勢をつくっているのだ、と。
一時でも屈従の姿勢を見せると、相手は自分自身のほうが「上」であると錯覚するのだ。そうではなく、一切の屈従を示すな、とボクは語った。
「自発的隷従」を拒否しながら生きた人びとがいた。伊藤野枝であり、平塚らいてうであり、そして大杉栄であり・・・・・・
ボクは彼らから、まだまだ学ぶことがある。この本を読んでしまったら、『美は乱調にあり』の三度目を読みはじめよう。
ここ数年、特定秘密保護法案への姿勢を除き、メディアの「自発的隷従」の姿を見せつけられてきた。メディアこそ、「自発的隷従」から脱皮しなくてはならないはずだ。
Tさん、この本読みましたか?そしてKHさん、時間がないかもしれないけど、この本、読んでおいたほうがいいよ。
2013年から2014年へと時間が進むとき、ボクはベートーベンの第九をyou tubeでスピーカーにつないで聴きながら、この本を読む。自らは決して自発的隷従を拒否せん、と。
ボクはいかなる人間であろうと、対等の個人としてでなければ人間関係を結ばない。年齢や経済力、政治力・・・すべてを捨象して、対等でなければならないのだ。そして対等の関係の中で唯一働くのは、相互の謙虚さである。個人としての人間はそれぞれ得手不得手、特技、知識などを持っている。それぞれがそれぞれ持っているものを尊重し合うというところに、個人としての対等関係が成り立つ。
ボクは、いかなる人間に対しても、同じ姿勢で向かい合う。屈従はしないし、居丈高にもならない。
さて今ボクは『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)を読んでいる。16世紀フランスの青年が書いたものだ。その人の名は、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ、モンテーニュの友人でもあった。
このブログの表題は、その文の中にあったものだ。
ボエシは書く。
ただひとりの圧制者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。
民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、あえてみずからを抑圧させているのである。彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、皆民衆自身なのだ。(18頁)
もう隷従しないと決意せよ(19頁)
農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことを行えばそれですむ。だが、圧制者のまわりにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧制者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめくみとらなければならない。連中は、圧制者に服従するだけでは十分ではなく、彼に気に入られなければならない。(70頁)
こういう姿を見せる人びとを、ボクはいつも見てきた。圧制者というか支配体制を支える人たちだ。そういう人がいろいろなレベルで立ち働いている。あたかも隷従が楽しいかのような、あるいは隷従こそが自らにとっての自由であるかのように生きている人びとがいた。
解説を書いているのは、西谷修。実はまだ全文を読んではいないのだが、西谷の解説が素晴らしいので、それを紹介する。
一人の支配者は独力でその支配を維持しているのではない。一者のまわりには何人かの追従者がおり、かれらは支配者に気に入られることで圧政に与り、その体制のなかで地位を確保しながら圧政のおこぼれでみずからの利益を得ている。そのためにかれらはすすんで圧政を支える。かれらの下にはまたそれぞれ何人かの隷従者がいて同じように振る舞い、さらにその下にはまた何人かの・・・という具合に、自ら進んで隷従することで圧政から利益を得る者たちの末広がりに拡大する連鎖がある。その連鎖が、脆弱なはずの一者の支配を支えて不動の体制を作り出している。
圧政は一者の力によってではなく、この体制のもとで地位を得かつ利益を引き出す無数の追従者によってむしろ求められ、そこに身を託す多くの人々によって支えられている。そしてその底辺には、圧政を被り物心両面で収奪されるばかりの無数の人びとが置かれているということだ。(230~1頁)
そのパーティで、ある人がこう言っていた。ヒラの時にはふつうの人だった人が、管理職なったら全然人が変わって強い口調でいろいろ言ってくる、と。ボクはこういった。あなたの職場の人が、そういう管理職としての姿勢をつくっているのだ、と。
一時でも屈従の姿勢を見せると、相手は自分自身のほうが「上」であると錯覚するのだ。そうではなく、一切の屈従を示すな、とボクは語った。
「自発的隷従」を拒否しながら生きた人びとがいた。伊藤野枝であり、平塚らいてうであり、そして大杉栄であり・・・・・・
ボクは彼らから、まだまだ学ぶことがある。この本を読んでしまったら、『美は乱調にあり』の三度目を読みはじめよう。
ここ数年、特定秘密保護法案への姿勢を除き、メディアの「自発的隷従」の姿を見せつけられてきた。メディアこそ、「自発的隷従」から脱皮しなくてはならないはずだ。
Tさん、この本読みましたか?そしてKHさん、時間がないかもしれないけど、この本、読んでおいたほうがいいよ。
2013年から2014年へと時間が進むとき、ボクはベートーベンの第九をyou tubeでスピーカーにつないで聴きながら、この本を読む。自らは決して自発的隷従を拒否せん、と。