浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

『裁かれた命 ー死刑囚から届いた手紙』

2011-12-25 15:52:34 | 日記
数十年ぶりかで会った友人から、こういう悪い時代になるとは思わなかったね、と語りあった。日々のニュースを知るだけでもストレスとなる。原発、沖縄・・・・。

 人間は、生まれてくる時代を選べない。今この時代に生きていくしかない。そういうあきらめをもちながら日々過ごしているが、時に良い本にめぐり会うと、それが喜びになるから不思議である。

 最近であった本はいくつかあるが、堀川恵子『裁かれた命ー死刑囚から届いた手紙』(講談社、2011年4月)に感銘を受けた。ある青年が死刑判決を受けた。強盗殺人事件である。事件が起きたのはずっと前の話だ。事件が起きて数日後、一人の青年が逮捕された。その名は、長谷川武。長谷川はすらすらと自供し、第一審もスムーズに進み、死刑判決が出された。捜査検事は土本武司であった。

 その後、土本に長谷川から手紙が届き始めた。なぜ自分に、と思いながらも、手紙は続いた。死刑を求刑した土本に、死刑判決への疑問が湧いてきた。

 土本は公判にはタッチしていなかった。だから第一審の裁判がどのようなものであったのかはわからない。長谷川は貧しかったので、弁護人は国選であった。その国選弁護人はあまり熱心ではなかったようだ。

 ただ第二審の国選弁護人であった小林健司弁護士は、東京高裁裁判官を退官して弁護士となってはじめての弁護活動であったが、事件を詳細に調査し、きわめて熱心な弁護活動を行った。しかし、死刑判決を覆すことは出来なかった。そして即上告。だが上告は棄却となった。

 小林も、土本も、はたして長谷川が死刑囚とされたことは正しかったのかを考える。裁判の場に出された資料は、十分なものであったか、一人の人間を有罪にする、あるいは検事がこのくらいの罪にするという目的に基づいての資料づくりをしてきたのではないか。

 土本を取材し、裁判に関わった人々と、長谷川武とその家族を訪ね歩いた著者である堀川も、死刑判決に疑問をもつ。

 人間は日々を生きる。その生きる場所、自ら選ぶことができる場合ももちろんあるが、しかし生まれた家庭そのものを選ぶことはできない。I was born.なのである。受け身なのだ。

 長谷川は、貧しい家庭に生まれた。母と自分、そして弟。母は一日中働きづめであった。なぜ長谷川は強盗殺人を行ったのか。長谷川個人の問題もある。しかし環境も大きな要因を占めるのではないか。

 個人の生というものは、個人が置かれてきた様々な関係(自然との関係、家族との関係、地域との関係、友人との関係・・・)の総和のなかに営まれていく。

 被害者の家族の怒り、当然である。

 堀川は、末尾の「そして、私たち」というところで、こう記している。「もし裁判が単なる制裁の場ではなく、不幸にも生み出された犠牲の上により良き社会を生み出していくための険しい道をめざすのであるならば、過ちを犯した人間を裁く法廷は、一方的に敗者を裁く場であってはならないと感じています。裁判を通して被害者の無念を共有し、消し去ることの出来ない遺族の痛みや哀しみを少しでも埋めるために、様々な支援策を一刻も早く充実させていかなければならないことは言うまでもありません。同時に加害者が事件に及んだ背景を探り、人間としての可能性や償いのあり方を見つめ、犯罪を繰り返させないために社会や大人たちは何をしておけばよいのかを考えていくことも必要ではないないでしょうか」

 すでに長谷川の生命は、国家の手により消されている。生きている人間を「合法的に」なきものにすること、長谷川が人を殺したというそのことと結果は同じであるのに、なぜ「合法的な」殺人が許されるのか。

 死刑という刑について、もっともっと考えるべきだ。そのときの前提として、裁判は、被害者の復讐として存在するものではないということだ。



 
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これを聴こう!!Human Error

2011-12-16 20:01:13 | 日記
 『週刊金曜日』今週号に紹介されていた反原発ソング。You Tube で聴くことが出来る。


http://www.youtube.com/watch?v=ENBV0oUjvs0
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吉村昭『歴史を記録する』(河出書房新社)

2011-12-15 00:14:13 | 日記
 歴史小説をたくさん書いている吉村昭の対談集である。吉村昭の本は、どれもすべて面白く、歴史を学ぶ者にとって興味深い内容がたくさん盛り込まれていて、一気に読んでしまう。

 この本も昨日午後借りてきて、読み始めたら終わらずに一気に読んでしまった。

 吉村の歴史小説は、歴史「小説」にあらず。というのも、徹底的に史料などを読み、現地を踏査し、そして書いている。いい加減なことは一切書かない。だから歴史を学ぶ者にとっても、信用できる内容である。

 歴史を研究する場合、おのずからその領域というものがあり、一定の領域まで調べ上げると、歴史研究者はそこまでで調査を終えて書いてしまう。ところが、吉村はそれでは小説は書けないという。高野長英が脱獄する、どういうルートを通って逃げたか。そしてどのように江戸に舞い戻るか・・・など、資料はもとよりであるが、実際判明したルートをたどり、山はどちらがわにあったかなど、しっかり調べ、その上で書く。歴史研究者もたどりつけないディテールを調べ上げ、そして一定の歴史像を描くのだ。

 その方法もすばらしいが、吉村の小説は基本的な筋が通っている。リベラリズムというか、実証性に裏打ちされているが故にファナティックなところがなく安心して読める。

 私は吉村のすべての作品を読みたいと思った。


 さて、この対談、すべて面白いが、たとえば江戸時代の道には大八車を通させなかったとか・・・、その中でもこの言葉が印象に残った。城山三郎との対談の中で、吉村は「あの戦争は軍部がやったのであって国民は騙されたのだという説。・・・嘘ですよ。責任転嫁です。庶民が一所懸命やったんです。それを認めないと戦争の怖さはわからない」(214頁)という。

 庶民が一斉に時代の流れ(これを私は「時流」と表現する)に乗る、それはあの小泉選挙や、今回の大阪市長選でも吹き荒れた。庶民は、難しいことを調べたり、考えたりしない、あるいはじっくりと遅々たる歩みではあるが少しずつの改善など待っていられない。ある種直感的なレベルで走り出す、するとそれをメディアも追い、増幅させ、さらに庶民に浸透していく。

 そういう動きが、大きな力を発揮するという時代になってきている。ある種怖い時代だ。吉村の「戦争の怖さ」とは、庶民の怖さでもあるのだ。

 一昨日で歴史講座の講師は終わり、次に二つの論文、一つの報告案をつくらなければならない。なかなかたいへんだ。


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口を開けて

2011-12-09 16:31:48 | 日記
 公民館の歴史講座の準備がなかなかたいへんで、このブログまで手が回らない。また今後、戦後静岡県の在日コリアンについて文をまとめなければならないので、そのために静岡文化芸術大学図書館に本を借りに行った。

 そこで二人の学生にあった。

 何でもRくんが、何とか塾に入れあげている、だまされているようだ・・・・という情報を得た。その何とか塾について調べてみたが、宗教団体ではなさそうだ(完全にそうではないとは言い切れないが)。しかしどうも胡散臭い。勧誘の仕方は、尋常ではない。尋常ではないことを一つでも行っている組織は、要注意である。

 その塾の何人かの講師をそのHPで見てみた。若い。調べてみたら一人は高崎経済大学を卒業しているようだ。

 塾の費用も、なかなか高額だ。高額であることも要注意である。なぜなら、金儲けが最大の目的となっている可能性があるからだ。

 都会には、地方からのこのこ出てくる学生を、金儲けの手段にしようとして、大きな口を開いて待っているどう猛な輩がいる。不用意に飛び込まないことだ。

 カモフラージュされた宗教団体のサークルに入って人生を狂わせられた若者がたくさんいる。




 
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