浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

美術とことば

2025-02-08 16:43:51 | 美術

 昨日、芸術は何でもありであって、自由だと記した。美術の場合は、何でもあり、はその作品で示されなければならない。諸々の作品をもとに、それらから帰納的になにものかを、観る者は捉えるのである。

 今日、豊田美術館のパンフレットを読んだ。それには、展示されている「新印象主義とアナキズム」「モンテ・ヴェリタ:逃避と創造の地」「シチュアシオニスト・インターナショナルとアスガー・ヨルン」「ロシアと集団行為」「マルガレーテ・ラスペ」「コーポ北加賀屋」「オル太」「大木裕之」についての簡単な解説が載っていた。それらの多くは、写真などをともないながら展示場にも掲げられていたものだが、字も小さく詳しく読めるほどの展示状態ではなかったので、わたしは読まなかった。

 それら解説文を読んでいて、なかなか理解しがたい内容であると思った。

 「新印象主義とアナキズム」のところでは、シニャック、スーラらの絵画が展示されていた。彼らは点描画で新境地を開いたのだが、その解説に「絵の具を混色することなく、ひとつの色班をひとつの単位として、画面に均一に並べる新印象主義の絵画は、支配されることのない個々の自律とそれが織りなす全体調和という、アナキズムの理念の具現化ともみえる」とあった。スーラらがアナキズムと関係があったことをわたしは知らないが、点描という方法をそのように捉えることは、一面可能であると思うが、はたして画家本人はそのような意思をもっていたのだろうかと、ふと思う。

 「モンテ・ヴェリタ」はスイスにある。「真理の山」という意味だという。そこにいろいろな文化人や学者等(ヘルマン・ヘッセ、ユングなど)があつまってある種のサロンを形成していたようだ。展示場の写真を見ると、裸でダンスしていたりして、新興宗教の団体のように見えたが、そこは「逃避と創造の場」であったという。

 次は、「シチュアシオニスト・インターナショナル」。初見である。『美術手帖』のHPには解説があった。そのメンバーのひとり、アスガー・ヨルンの絵が展示されていたが、フムフムという感じでみた。ネットでは、彼女の絵をたくさんみることができる。アスガー・ヨルンについては、この解説がよい。上野俊哉氏の「ヨルンは労働より遊戯を、物質との遊びから得られる生の無意識の能動的享楽を肯定し、物質との目的のないコミュニケーションにアート(芸術と技術)の原理を置いている」は、なるほどと思う。そういう意味の絵画としてみることができる。

 「ロシアと集団行為」。無意味の中の意味、その意味はその場で創造されるのだ。それをネットでもみることができる。しかしその場で創造される「意味」が、多くの人にとっての「意味」かどうかはわからない。解説には「集団行為においては、集団と称しながら、その行為を決して等しく共有することができない。曖昧なゾーンでの出来事を、どうしてひとつの事実として語ることができようか。集団行為は、いくつものアクションを通じて、個と集団、個人の体験と記録の共有の関係を問い、記憶=歴史の記述を複数化することで、一つに回収されることへと軽やかに抵抗しつづける」とある。言われてみるとその通りであって、同じ行為を集団で行っていても、個人個人の動きは異なり、そこで感じることもそれぞれ異なり・・・・しかしこれって、当たり前のことじゃない?そういうところに着眼した点は感心するが、それがいかなる「意味」をもつのか。

 「マルガレーテ・ラスペ」以下についての言及は、もうやめる。

 ただ書いておきたいことは、芸術はその作品をみるのであって、展示されている作品からキュレーターの意図をさぐる。この展覧会のチラシ、パンフレットの記述、他者が理解できる文が並べられているわけではない。芸術をことばでもって表現することは、そもそも難しいのである。

 「近年、芸術を含むあらゆる場で、旧来の制度や差別への連帯闘争が試みられています。それらは切実な抵抗の態度であり、私たちを鼓舞する重大な拠り所となるものの、ゆえにこそ小さな個別の才を均してしまう危うさと隣り合わせにあるものともいえます。このギリギリの状況において、私たちのこの表現や日常的な振る舞いは、いかに一つに回収されることなく共存し、それでも抵抗の力を持ちつづけることができるのでしょうか。そのそれぞれの試みがアナキズムの実践だと言えます。」

 これはチラシに書かれていた文である。「旧来の制度や差別への連帯闘争」ということばがわからない。「旧来の制度や差別するものに対する闘争への連帯」というのならわかる。

 芸術はことばでは説明できない。説明できないからこそ、作品が適切に並べられていなければならない。

 この展覧会、一部では評価が高いようである。わたしは評価はしないが、受容することはできた。

 

 

 

 

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【展覧会】「しないでおく、こと。ー芸術と 生のアナキズム」

2025-02-07 16:49:27 | 美術

 今日は、豊田市美術館に行った。「しないでおく、こと。ー芸術と 生の アナキズム」という展覧会があったからだ。浜松から豊田市は、なかなか遠い。しかし、行かずばなるまいと思い、車に乗って馳せ参じた。

 展覧会は小規模で、これで1500円かいなと思うほどのもの。最初に新印象主義の画家の絵が陳列されていた。絵はほぼそれだけだ。ほかには、モンテ・ヴェリタ、シチュアシオニスト・インターナショナルSituationist ーinternational、ロシアと集団行為に関する展示、マルガレーテ・ラスペの作品など。またそれぞれが行った芸術活動の様相がヴィデオで示されていた。そして床などのスペースには、「コーポ北加賀屋」の作品というか、ゴミのようなものが置かれていた。片づけなければならないと思うほどであった。

 若い頃、前衛劇をよく見た。台詞には意味深長なことばがちりばめられ、俳優の所作には象徴的だと思われるものがあった。わたしはしっかりと見つめ、真面目に台詞の意味を考えようとした。

 しかしそこには、重大な意味なんかないことに気づいた。一瞬の台詞や動きに、感覚的に反応し、面白ければ笑う、ただそれだけのものだということを学んでいった。

 今日はヴィデオをいくつか見た。そこに映し出されている人びとは、真剣に何ごとかをし、真面目に台詞を語っている。しかし通常の感覚からは、くだらない、何の意味もない、あほらしく思うものばかりだ。

 わたしは、しかしすでに学んでいた。そういうものをとにかく受容する、しかし理解しようとはしない、ただ受容する、可笑しかったら笑い、理解不能なものはそういうものとして受容する・・・

 わたしたちが理解できるものは、一定の秩序とこの社会の約束事に縛られているもので、既知のものと何らかの関係をもちうるものだからこそ、わかる、のである。しかし秩序もなく、了解可能な意味もないものには、違和感をもち、ある場合は拒絶する。

 芸術とは、まったく自由でなければならない。人びとの既知なものと連係させることをしないでもよく、作者の勝手な構想や思いを、そのまま何らかのものに表現すること、それが芸術でなければならない。とするとき、芸術は何でもあり、なのだ。

 この展覧会の趣旨、にはこうある。

「芸術=創造とはそもそも、いまだ了解されない認識や知覚の領野を拡張していく営みです。」

 そのとおりである。そしてこう続く。

「ゆえに芸術とは「芸術」として名づけられ、一つに回収されてしまうことへの抵抗をあらかじめ含んでいます。」

 これもその通りであって、その後に、「制度化され、統治されることへの抵抗・逃走の姿勢=アナキズムに芸術の本来的な力を認め、その可能性を問う」とある。

 つまり、芸術はアナキズムと親和性があるということを言おうとしているのであろう。それにもわたしは同意する。

 だが、これら展示された作品群からは、この展覧会を企画したキュレーターの意図をしっかりとつかむことはできそうもない、表面的な受容で終わってしまいそうな危惧を感じた。

 展覧会に行くたびに図録を買うことが多いが、今回は買おうという気がしなかった。キュレーターの意図を、展示されている作品群から帰納的に推察するには、どうも無理があるような気がしたからだ。

 

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芸術の秋

2024-10-16 19:34:41 | 美術

 今日、某所で香月泰男浜田知明について話した。いずれも東京美術学校油絵科出身の画家である。当地方では、この二人の画家について知る人は多くないようだ。香月は山口県出身、浜田は熊本県出身である。いずれも卒業後に召集されて、香月は「満洲」へ、そしてシベリアに抑留され、浜田は中国戦線に行かされた。

 香月も、浜田も、軍隊にはなじめず、どちらかというと嫌悪感をいだき、みずからを戦争に動員した支配層に対する怒りを持ち続けた。したがって、彼らが描く絵は、そうした思いがこめられている。

 今回、香月と浜田の絵を紹介したのは、今の時代、中国との戦争を企図しているようにみえる日本の支配層の思わく、それに対する抵抗として、二人の絵をぜひ見てもらいたいと思ったからだ。二人の絵に共通する思いは、非戦である。戦争を体験したが故に、軍隊の醜さ、戦争の悲惨さなどを、モノクロの世界で描き、非戦=平和を強く希求する。

 浜松市の図書館には、香月の本は17冊あるが、浜田のそれは一冊もないと、聴講者の方からうかがった。調べてみたら、たしかにない。どうしてだろうか。

 わたしは、浜田知明の図録などを5冊保有している。今こそ、二人の絵をみつめる必要があると思う。

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「無言館と、かつてありし信濃デッサン館ー窪島誠一郎の眼」

2024-10-13 18:32:14 | 美術

 今日、静岡県立美術館に行った。「無言館と、かつてありし信濃デッサン館ー窪島誠一郎の眼」という展覧会が行われていたからだ。なかなか見応えがあった。この展覧会はおそらく巡回しない。購入した図録は、2300円、奥付には発行は静岡県立美術館とあるから、おそらく静岡県立美術館のみの開催だと思う。12月15日まで開催される。

 まずよかったことの一つは、無言館に行ってもここに展示されている絵をすべて見られるわけではないことで、たとえば浜松出身の中村萬平の絵は、無言館では「霜子」だけを見ることができるが、ここでは自画像を含めて5点が並べられていた。それはおそらく他の画学生の絵も同様で、無言館の展示スペースには限りがあり、所蔵しているすべての絵を並べているわけではない。また他の美術館に所蔵されているものもあるだろう。

 それから、陸軍などが、すでに高名となった画家たちに「戦争記録画」を描かせていたが、そのうち藤田嗣治の「アッツ島玉砕」、小磯良平の「娘子関を征く」が展示されていた。わたしはそれらの絵の写真を見たことがあるだけであったが、さすがに一流の画家の絵だと感心した。小磯の絵はほんとうにうまい。また藤田の絵も、迫力があった。藤田は積極的に軍に協力して「戦争記録画」をたくさん描き、戦争協力者として指弾された。わたしも指弾する立場ではあるが、実物の「アッツ島玉砕」を見て、戦争協力を超えたものがあることを感じた。戦争協力の意図を持って描いても、戦争の実相を描こうと思えば思うほど、戦争の本質が浮かび上がってくる。

 そして構成がよかった。序章として、戦没画学生の自画像が並ぶ。戦場に行く前の、青年の自画像である。彼らは、戦場で、あるいは軍の病院などで亡くなった。生前の、おそらく未来をもった若者の群像である。

 第一室が「遺された絵と言葉」。ベストセラーである『きけわだつみのこえ』に、関口清の絵が掲載されていることに気づかせてくれた。

 第二室は「無言館の誕生」。無言館を誕生させたのは、画家・野見山暁冶氏と窪島氏である。その経緯が展示されていた。野見山氏の絵というと抽象画であるが、そうでないものが展示されていた。

 第三室は、「最期まで描こうとしたもの」。画学生が、戦場での死が予想されたとき、彼らは何を描いたか。家族であり、自らが住むふる里であり、・・・・

 第四室は、「静岡出身戦没画学生」。浜松出身の野末恒三、中村萬平、掛川出身の桑原喜八郎、河津町出身の佐藤孝の四人の絵が並ぶ。いずれも東京美術学校で学んだ。

 第五室は「戦争と向き合う」ということで、藤田と小磯の絵が展示されていた。そのほか、画学生の絵も並ぶ。「戦地でなお絵を描いた」からである。靉光、麻生三郎、松本竣介、鶴岡政男ら新人画会のメンバーの絵。そして軍事郵便。

 第六室は、「窪島誠一郎の眼」。無言館に至るまでの、窪島の絵を見つめる眼を探るというものだ。

 

 思いのほか多くの絵があり、なかなか見終わるまでに時間がかかった。昨日からはじめられたが、見に来てよかった。多くの人の眼に触れることを期待する。

 一般1200円、70歳以上600円、大学生以下無料である。

〈付記〉2300円の図録を読んだ。とても良い内容であった。

 

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【本】『芸術新潮』7月号 「愛され夢二の一生」

2024-06-27 08:23:54 | 美術

 夢二の絵や詩も好きである。

 今、東京都庭園美術館で「生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界」という展覧会が行われていて、『芸術新潮』7月号は、その展覧会に対応して編集発行されたものだ。

 私は夢二に関する本や図録をすでに持っているのだが、しかしこうして夢二の特集号が出版されると、どうしても買いたくなる。

 いくつかの記事があるが、「意外!? 夢二は女性を搾取していない」という対談は、よかった。夢二の人生にはいろいろな女性が登場し、また離れていくが、夢二が女性との間に悶着があったことはない。別れても、夢二を悪く言う女性はいなかった。この標題通りである。対談の中で、「たまきもお葉も、やはり自分の意志で動いている。女性たちを束縛して夢二だけが好き放題していた、というわけではなさそうです。自分で自分の道を決めようとする女性たち、社会にも進出し始めた女性たちに、夢二の作品を通して触れることができる。」と話されているが、その通り、夢二は家父長制的な志向を持っていない。さらにいうなら、夢二は、「大日本帝国」を支える国家主義や侵略的な志向などとは無縁に生きた。

 私はこの点でも、夢二を評価している

 夢二の絵や詩は、いつみても、何らかの抒情を感じる。また一冊本が増えてしまった。

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「才能豊かな空虚な画家」

2024-06-26 20:20:32 | 美術

 日中戦争から太平洋戦争までの間、多くの画家が戦争画(陸軍は「戦争記録画」とした)を描いた。そのなかで、突出して描いたのは戦後日本国籍を捨ててフランス国籍をとった藤田嗣治である。

 藤田は、たくさんの戦争記録画を描いた。その記録を以下に掲げる。画の標題の後に、どの展覧会に出されたかを記した。

南昌飛行場の焼き討ち(1938~9)第 5 回海洋美術展
武漢進撃(1938~40)第 5 回海洋美術展
哈爾哈河畔之戦闘(1941)第 2 回聖戦美術展 
十二月八日の真珠湾(1942)第 1 回大東亜戦争美術展
シンガポール最後の日(ブキテマ高地)(1942)第 1 回大東亜戦争美術展
ソロモン海域に於ける米兵の末路(1943)第 2 回大東亜戦争美術展
アッツ島玉砕(1943)決戦美術展
〇〇部隊の死闘ーニューギニア戦線(1943)第 2 回大東亜戦争美術展 
血戦ガダルカナル(1944)陸軍美術展
神兵の救出到る(1944)陸軍美術展
大柿部隊の奮戦(1944)戦時特別文展陸軍省特別出品 
ブキテマの野戦(1944)戦時特別文展陸軍省特別出品
サイパン島同胞臣節を全うす(1945)戦争美術展
薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す(1945)戦争記録画展

 藤田の戦争記録画は、すべてが戦意高揚を表現したものではなく、有名な「アッツ島玉砕」や、「サイパン島同胞臣節を全うす」は、陰惨な場面が詳細に描かれている。

 今は亡き評論家・加藤周一は、藤田の絵についてこう書いている。

藤田は戦時中の日本を経験し、陸海軍から委嘱されて戦場の絵を描いた。ノモンハンの敗戦から、シンガポール攻略の成功を通って、太平洋諸島に繰り返された全滅の悲劇まで。軍部の担当者が戦闘を記録する大画面を藤田に任せた理由は、彼の画面が抜群の迫真性を持っていたからだという。藤田の側からいえば、そういう仕事を引き受ける他に戦争中絵を描いて暮らすことはできなかったに違いない。その画面には戦争賛美も、軍人の英雄化も、戦意高揚の気配さえもない。藤田は確かに軍部に協力して描いたが、戦争を描いたのではなく、戦場の極端な悲惨さをまさに迫真的に描き出したのである。そこから戦争についてのどういう結論を導き出すかは、画家の仕事ではないと考えていたのだろう。(「藤田嗣治私見」朝日新聞「夕陽妄語」2006年5月24日付)

 私は、文中の「・・・違いない」という点については、戦争の画を描かなかった画家たちもいた、したがって「・・・違いない」は、加藤のあくまでも想像である。そして「その画面」についての記述、「戦場の極端な悲惨さを迫真的に描き出した」という点で、「アッツ島玉砕」はそういう捉え方もできるとは思うが、しかし、藤田は戦時中、こう書いている。

 戦争画を描く第一の要件は、作家そのものに忠誠の精神がみなぎって居らなくてはならぬ。幕末当時の勤皇憂国の志士の気魄がなくてはならぬ。(中略)今日の情勢においては、戦争完遂以外には何物もない。我々は、少なくとも国民がこぞってこの国難を排除して最後の勝利に邁進する時に、我々画家も、戦闘を念頭から去った平和時代に気持ちで作画することも、また作品を見る人をして戦争を忘れしめるような時期でもない。国民を鞭ち、国民を奮起させる絵画または彫刻でなくてはならぬ。戦争は美術を停滞せしめるものとか戦争絵画は絵画を衰頽せしめると考えた人もあるけれども、かえってその反対に、この大東亜戦争は日本絵画史において見ざる一大革命を呼び起こして、天平時代、奈良時代また桃山時代を代表するような昭和時代の一大絵画の様式を創造した。(中略)今日我々が最も努力し甲斐のあるこの絵画の難問題を、この戦争のおかげによって勉強し得、さらにその絵が戦争の戦意高揚のお役にも立ち、後世にも保存せれるということを思ったならば、我々今日の画家ほど幸福なものはなく、誇りを感ずるとともに、その責任の重さはひしひしと我等をうつものである。(『美術』1944年5月号)

 この藤田の文を読む限り、加藤の指摘は当たらないと、私は考える。

 また戦後パリで藤田と交遊のあった野見山暁冶は、こう書いている。

 藤田さんという人は非常に素直な人でした。人を信じてはしょっちゅう騙されていた。私たちにとってフジタの帰化は、一種のコスモポリタンとしての見事な資格を、人格的に掴みとったように思っていたが、どこの土地の人間でもないただの旅人ではなかったのか。常にライトに当たっていなければ生きてゆけない人生がそこにあるようだ。アッツ島もパリも光りだった。帰化さえ光にしたがっている。

戦争がみじめな敗け方で終わった日、藤田は邸内の防空壕に入れてあった、軍部から依頼されて描いた戦争画を全部アトリエに運び出させた。そうして画面に書き入れてあった日本紀元号、題名、本人の署名を絵具で丹念に塗りつぶし、新たに横文字でFUJITAと書き入れた。先生、どうして、と私の女友だちは訝しがった。何しろ戦争画を描いた絵かき達はどうなることかと生きた心地もない折だった。なに今まで日本人にだけしか見せられなかったが、これからは世界の人に見せなきゃならんからね、と画家は臆面もなく答えたという。つまりフジタにとって戦争は、たんにその時代の風俗でしかなかったのかも知れない。

 私は、総合的に見て、野見山の見方に賛同する。藤田は、自画像を何枚も描いている。その自画像をみると、彼はかなりのナルシストだと思わざるを得ない。そして彼の身の処し方から、私は藤田を以下のように結論づけた。

 ライトがあたるなら、何でも描いた。藤田にとって、現実も、戦争も、パリの女たちも、ただ目に映る風景でしかなかった。その風景を、藤田は描いた。その風景が、どのようなものであろうと、そこになにがあろうとなかろうと、喜びがあろうと、悲しみがあろうと、藤田にとってはそれはどうでもよいことだった。ライトがあたる風景を、藤田は描きつづけた。そしてそのライトを藤田は浴びたかった。

 藤田は、もちろん才能豊かな画家であった、しかし空虚な画家であった。

 こういういい方が許されるなら、「専門ばか」とでも言えようか。才能がありすぎたからこそ、描こうとしたその背後に何があるのかをみつめられなかった。彼は、アッツ島やサイパン島の玉砕の場面を表現した。しかしもちろん、彼はその現場にはいなかった。いなかったからこそ、「戦場の極端な悲惨さをまさに迫真的に描き出」すことができたのである。彼にとって、描き出されたその場面は、「現実」ではなかったのである。

 

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竹久夢二の展覧会

2024-06-15 21:05:03 | 美術

 私は竹久夢二の絵が好きだ。夢二の絵はがきはたくさんある。ひとと連絡するとき、多くの人はメールをつかうのだろうが、私は絵はがきをつかう。と言っても、最近は交友関係が少なくなっているので、出すことが少なくなっている。

 夢二の絵はがきが登場する機会をうかがっているのに、出番がない。以前、歴史学者の故ひろたまさきさんと交流していたときは、夢二を研究していたひろたさんも夢二の絵はがきをつかっていた。お互い、夢二の絵はがきでやりとりしていた。

 以前、『芸術新潮』を定期購読していた。しかし、個々の画家をとりあげるのではない特集が続いたのでやめてしまった。でも時々、どんな特集かを確認する。そしてその特集によっては購入する。

 7月号を点検したら、夢二を特集するという。東京都庭園美術館で、現在「生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界」が開催されていることから、『芸術新潮』が夢二をとりあげるのだ。早速注文した。私の書棚には、夢二に関する文献が今も並んでいる。

 歴史講座で、「夢二とその時代」をテーマに話したことがある。そのために、夢二の生家や岡山の夢二郷土美術館、夢二がよく行ったという牛窓を訪れ、また夢二が亡くなった長野県富士見の高原療養所あとにも行った。その際につくったレジメやスライドは今も保存している。

 なぜ夢二が好きなのかをみずからに問うと、夢二は近代日本国家にまったくなじめない人間であったということだ。夢二は、近代日本国家の一定の価値観から離れて生きた。その象徴として、彼は、元号を一切使わなかった。

 歴史講座で、私は夢二について、最後にこう語った。

石川啄木や大杉栄らのように、近代日本国家に「違和感」を持った人間ではなく、本来的に近代日本国家に馴染むことがなかった人間、それが夢二であった。夢二の作品が今も尚人々の関心を集める所以は、近代日本国家の価値観に染め上げられていないこと、そうしたものから自立していたからに他ならない。その時代の国家的価値観に寄生し、その価値観を身につけ、当該期にどんなに売れたとしても、その人間はいずれ歴史のくずかごに捨てられるだろう。その理由は、時代を超える普遍性を持たないからである。

 近代日本の価値観とは、天皇制(→「国体」思想)、ナショナリズム(→排外主義)、軍国主義・帝国主義(→植民地帝国)、資本主義(→格差社会)、私有財産の不可侵(財産権=人権の一つ)、自由放任と国家主導の資本育成(殖産興業、富国強兵)、家父長制(→「家」の束縛)、そして立身出世主義である。国家の価値観と合体する者は、国家的秩序の階段を上にあがることが許容され、カネや名誉などが与えられる。

 夢二は、そうした価値観とは無縁であった。

 

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森一三さんのこと

2024-06-13 22:13:26 | 美術

 近所に、石屋さんだけれども、油絵や彫刻、書を描く芸術家がいる。森さんの作品は、何かを描こうとして描いているわけではなく、魂からというか、心の底からというか、あるいは神の意図のままにと言うか、そういう作品ばかりである。

 個々の油絵から、何ともいえないエネルギーを感じるし、書は、書道ではない自由さにあふれ、「薔薇」はトゲのあるバラをそれとして描き、「花」は、たくさん描かれているが、一枚一枚異なるハナが描かれる。

 森さんから書を一枚あげると言われ、たくさんの作品からまず二点を選び出した。「道理」と「草木」である。この二つをわが家に飾るとき、「道理」はどうも押しつけがましいと思い、「草木」を選んだ。今はしっかりとした額に入れてある。

 「草木」を選んだ理由は、その書がまさに素朴な、私たちの廻りにある草木そのものを、字として素直に描いたもので、私自身の生き方を表していると思ったからであった。齢を重ねた私としては、まわりにある草木が自然の移り変わりのままに生まれ、生長し、そして枯れて死んで行くという、そうした死生観を持ち始めているからである。

 昨日、野見山暁冶、窪島誠一郎による『無言館はなぜつくられたのか』(かもがわ出版)を図書館から借りてきて、早速今日、読み終えた。

 先日の長野県上田への旅は、無言館を訪問するものであったが、そこに並んでいた戦没画学生の絵画は、戦時体制の下、生死を分ける戦場にちかい内に行かなければならないという切羽詰まった時期に描かれたもので、それぞれの絵画には、何が何でも描きたい、描かなければならないという意志の結晶としての作品であった。

 その本で窪島は、「・・・絵は描こうという対象を愛していないと描けない。それは事実なんです。夕焼けだろうが花だろうが、人だろうが、憎んでいたら、絵は描けない。文学は、批判する対象も書けるし、権力にはむかう批評も書けるけど、絵は、少なくとも絵を描いている時だけは描く対象を愛していないと、描けない。」(171頁)と語っている。

 なるほど、と思った。だから、彼らは、戦場の場面は描かなかった。愛することができないからだ。妻や妹、風景の絵など、愛するものを描いた。

 そこには、こんな絵を描いたら売れるか・・・などという邪心や欲はない。

 邪心がない、欲がない、という点で、森さんと戦没画学生は共通する。

 森さんは、墓石ももちろんつくっている。

 

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【本】立花隆『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』(文藝春秋)

2024-01-16 06:17:33 | 美術

 2004年に出版された本である。この年、静岡県立美術館で香月泰男の展覧会が開催され、私も見に行った。そのときの強烈な印象を理解しようとして購入したのがこの本である。そのときも読んで、書庫にしまってあった。今年、某所で「戦争と画家」をテーマとして歴史講座を行うことにした。そこでは、香月泰男と浜田知明の二人を主に取り上げようと思い、その一環でこの本を再読した。

 香月の絵で有名なのは、「シベリア・シリーズ」である。香月は「満洲」に動員され、敗戦によりシベリアに抑留され、強烈な寒気のなか過酷な労働を強制された。そのため、戦友の多くが命を落とした。

 その体験が脳裡から離れることはなく、彼はそれを絵にしていった。下絵は具象的ではあるが、完成した絵は抽象化され、普遍化された。

 その絵をみつめる人に、それらの絵は「難解」なものとなった。そこで香月は、それぞれの絵に文をつけた。

 たとえば「〈私の〉地球」という絵。そこにはこう書かれている。

周囲の山の彼方に五つの方位がある。ホロンバイル、シベリヤ、インパール、ガダルカナル、そしてサンフランシスコ。いままわしい戦争にまつわる地名に囲まれた山陰の小さな町。生家があり、今も絵を描き続けている「三隅」。それが私の地球である。

 これだけではわかりにくい。彼が「私のシベリヤ」に書いたものを紹介しよう。

私たちをガダルカナルにシベリヤに追いやり、殺しあうことを命じ、死ぬことを命じた連中が、サンフランシスコにいって、悪うございましたと頭を下げてきた。もちろん講和全権団がそのまま戦争指導者だったというわけではない。しかし私には、人こそ変れ同じような連中に思える。指導者という者を一切信用しない。人間が人間に対して殺し合いを命じるような組織の上に立つ人間を断じて認めない。戦争を認める人間を私は許さない。

講和条約が結ばれたこと自体に文句をつけるつもりはない。しかし、私はなんとも割り切れない気持ちを覚える。すると我々の戦いは間違いだったのか。間違いだったことに命を賭けさせられたのか。指導者の誤りによって我々が死の苦しみを受け、今度は別の指導者が現れて、いちはやくあれは間違いでしたと謝りにいく。この仕組みが納得できない。どこか私の知らないところで講和が決められ、私の知らない指導者という人たちがそれを結びにいく。いつのまにか私が戦場に引きずり出されていったのと同じような気がする。この仕組みがつづく限り、いつ同じことが起こらないと保証できよう。

 香月の絵には、戦争批判がある。みずからのシベリア体験、戦場体験をもとにした戦争批判が、こめられている。

 香月の絵、とりわけシベリヤ・シリーズは、今だからこそ、見つめる価値がある。そう思うから、私も香月泰男の絵をとりあげる。

 

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この映画は見たいな

2022-03-29 22:00:13 | 美術

見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界

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フェルメール「真珠の首飾りの少女」

2021-01-31 19:40:28 | 美術

 フェルメールの「真珠の首飾りの少女」、ものすごく詳細に見つめることができる

 

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望月桂の図録

2020-11-04 20:54:37 | 美術

 今日は冬の冷たい風が吹いていた。午後3時頃畑に立ったが、体を動かしても汗が出ない。12月の気温ではないかと思った。

 さて長野の八十二文化財団から『民衆美術運動の唱導者 望月桂展』が届いた。ずっと前に行われた展覧会の図録である。

 先に紹介した『公の時代』に、望月桂に注目が集まっているとありきちんと知っておく必要を感じて購入した。日本の有名な画家は画集が出ているが、望月桂のものは一般図書として販売されてはいない

 東京美術学校出身の望月は大杉らと交遊しつつ(大杉と一緒に『漫文漫画』を出している)、美術を民衆のものにしようと活動した。「大正期」のそうした動きは、その後につぶされていくが、望月らの躍動を知っておくべきだと思うのだ。

 というのも、『公の時代』にもあったように、「大正期」はその後の昭和前期の全体主義により窒息させられるが、現代も同じ方向に動いているような気がしているので(「あいちトリエンナーレ2019」を見よ)、よけいにその時期の躍動を知りたくなったのだ。

 躍動は、狂信的国家主義者の簑田胸喜らの激しい攻撃によって開始され、それが国家権力による暴力を導き出すことによって、息の根を止められた。現在も同じような状況があるように思う。

 図録には、庶民を描いた絵があった。庶民は日々を生きていく。日常を生きていくことが目的の人生だ。

 だが、それだけでよいのか。そこに何かが入り込まなければならない。

 アメリカ大統領選の動向を気にしながら、望月桂の絵を見ている。

 

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表現と継承

2020-10-29 21:44:07 | 美術

 自分自身を表現する手段として、私は文字しか持っていない。しかし表現の手段はいろいろある。音楽は言うまでもない。このブログで韓国の民衆美術を紹介してきたが、美術もその手段である。

 しかし美術という場合、それは絵画であり、また彫刻や版画である。だがそういうものに包含されない表現もある。『美術手帖』から送られてくる情報に、それを発見した。

それは、

原爆落下中心地に立ち上がる被爆者の「声」。松久保修平評 竹田信平 「声紋源場」プロジェクト

である。

長崎の原爆投下地点に、被爆者が語った被爆体験の声紋を「描き」、そしてその声を聞く。

文字ではなく声紋。声紋ではもちろん何が言われているかはわからない。だが声紋を見る人びとは、おそらく被爆体験を想像するだろう。

そして実際に、その被爆体験を声で聞く。被爆という事実が、重なって、そこにいる人びとをとらえる。

被爆体験の継承、その手段は固定的ではなく、自由に開かれている。どう継承していくか、表現の手段は、きっともっとあるはずだ。

 

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