浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

円安が進む

2013-03-30 07:49:09 | 日記
 円安が進み、海外から輸入している原材料などの価格が上昇している。となると、当然物価は上昇する。

 すでに1997年頃から、企業、とくに大企業が収益を拡大しても、そこで働く労働者の賃金が上昇しなくなっているし、また公務員の賃金もたいした抵抗もなく急激かつ大幅に減らされているから、庶民の生活には負担増が重くのしかかってくる。

 庶民の生活は、今後さらに厳しくなっていくことだろう。

 アベノミクスなどという経済政策は実は今までと同じような内容であって、大企業や金融機関をよりもうけさせるもので、2%の物価上昇目標が実現すれば、庶民はよけいに苦しくなる。

 円安が続けば日本からの輸出が増え、輸出企業の景気はよくなる、といわれているが、中小企業の主な利益は国内からのもので、要するにアベノミクスは輸出大企業を儲けさせようというものだ。

 しかし、円安が進めば石油や天然ガスなども値上がりするわけで、大企業も決して両手を挙げて賛成するとは思われないが、日本の政財界は、長期的な見通しを持った政策を展開することを今までもしてこなかったから、短期的な利益だけに着目しているのだろう。

 電気料金も、ガス料金も値上げだそうだ。

 アベノミクスという政策についての検討が、今求められている。
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私費

2013-03-29 09:05:08 | 日記
 高校生の保護者は、在学中、いろいろなお金を払う。授業料は県に納入されるが、そのほかは学校で費消される。もちろん修学旅行の積立金や教材費は、それぞれの生徒個人に還元されるから問題はない。

 問題は、後援会費やPTA会費である。これを「私費」という。

 ボクが問題だと考えるのは、図書費である。ずっと昔、図書館で購入する本代は、県費、すなわち県からの公金がつかわれていた。ところがある時から、その県費がどんどん減らされ、いつのまにかほとんどが「私費」で占められるようになった。

 学校の図書館の本は、今、ほとんどが「私費」でまかなわれている。これはとてもおかしい。これは静岡県だけかもしれない。

 今日の『中日新聞』の地方欄に、「公費支出基準を公表」という記事があった。

 「(県内の高校で)非常勤職員の時間外報酬や公用車のガソリン代など、本来は公費負担すべき経費にPTA会費などが充てられた不適切な支出」が存在したことが、文科省の実態調査で判明した、だから県教委は支出基準をこのほど作成・公表したのである。

 「校舎の修繕や備品整備、教職員の人件費」などは「原則公費負担」と「明記」したというのだ。しかしこんなことは当たり前。となると、図書購入費も公費から支出されるようになるのだろうか。

 そして記事の続き。「部活動や進路指導などの経費は、正規の手続きを取ればPTAや後援会など関連団体の私費を活用できる」と。

 これは毎年必ず学校ごとに公表されているから、誰でも分かることだが、後援会費もPTA会費もその多くは運動関係の部活動につかわれている。その割合は大きく、運動部以外の生徒の保護者は、運動部のために大金を納めているということになる。それが今後も続くということだ。その金額は、厖大である。
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米軍は自由に空を飛ぶ

2013-03-27 21:11:54 | 日記
 米軍のオスプレイは、沖縄の空、日本の空を自由に飛ぶ。日本の空は、日本の領空であっても、米軍にとっては米軍の空だ。米軍は自由に、何の規制もなく飛ぶことができる。

 それはなぜか。日米地位協定というものがあるからだ。

 最近前泊博盛氏の『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』(創元社)が出版されたが、これなどは日本国民必読の本ではないかと思う。

 安倍は、TPPに参加し、交渉のなかで国益を追求していくなんていっているが、今までの日米交渉で日本側の利益が考慮されたことがあったのか。おそらく一度もないはずだ。TPPに参加するということは、それは同時にアメリカ側のいいなりになるということだ。

 安倍は、日本国民の生活を、アメリカと日本の大企業の利益のために差し出すことを決断した。

 日米地位協定が、日本の空をどのようにしているか、下記のサイトで見て欲しい。日本は、独立なんかしていないことがよくわかる。対米隷従国家・日本である。

http://www.magazine9.jp/hourouki/130327/
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手段として

2013-03-26 23:18:17 | 日記
 高齢化が進んでいることについて、何度かここに記した。子どもの数が少なく、高齢者がどんどん増えていくと(といっても、あと20年くらい。その後は高齢者は亡くなり、急激に日本の人口は減っていく)、高齢者が高齢者の世話をするということにならざるを得ない。

 高齢者が生活する「地域」は、まさに福祉の場となる。となると、「地域」に住む人々が自覚的に自分たちの生活の中に、「支え合い」の視点を持って行かざるを得ない。

 先日ボクは中山間地域の、いわゆる「限界集落」を訪問したが、高齢者たちは元気で損得なく助け合って生きていた。頭が下がった。平野部なら介護ヘルパーなどに依頼することができるが、介護ヘルパーも来てくれない山奥では、そこに住む人々が助け合うしかない(それで介護保険料を納めさせるなんて、ヒドイ!!)。

 しかしこの中山間地域の現状は、何れ平野部でも体験することになる。何といっても、少子高齢化である。働く人々が減っていくのだ。自公政権の悪政、少子高齢化対策を徹底的にさぼってきたことが、今後の日本の衰退をつくりだしていく。

 さて、となると、「地域」での福祉ということを本格的に考えなければならない。

 ボクは基本的に地域福祉のエリアは、中学校区ではないかと思う。中学校区に、自治会長や民生委員、婦人組織や学校、そしてもちろん行政などを巻き込んだ組織をつくり、「地域」の福祉をどうするかを真剣に話し合うのだ。現在、地区ごとに社会福祉協議会があるが、これは官製の上意下達の組織となっているので、一度解散させて新しくつくりなおす。

 そこでは、上意下達の話し合いはしない。ボトムアップで福祉計画をつくりあげる。それを行政に伝え支援を求めていく。

 そしてもちろん、実際に動く人が求められる。そういう人には、適正な報酬を与える必要がある。無料で完全にボランティアというのは、長くは続けられない。

 ボクが住む地域のことをみてみよう。現在の地域福祉に関わっている民生委員会議や地区の社会福祉協議会は、上意下達の運営により、そこに善意であつまる人々を手段として扱っている。行政の下請けの仕事を次ぎ次とやらせ、まさに奴隷状態である。

 そして何より、行政にやる気がない。思いつきの仕事を機械的にやらせるだけで、「やっています」のアリバイづくり。地域や高齢者の実態なんて、知ろうとも思わない。自分がそこにいる間、与えられた仕事を与えられただけやる、それだけだ。一歩を踏み出そうとしない。市の職員=公務員がよく批判されるが、なるほどと思えるようなことに、今日遭遇した。

 人間を、手段としてではなく、目的として扱え、とは、カントが言ったことだと覚えているが、すべからく高齢者福祉もそういう視点で再構築していくべきだ。

 もう時間がないのに・・・・
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もう、何でもあり

2013-03-25 22:09:26 | 日記
 自民党/公明党の政権がまた登場したことで、利権集団が歓呼の声をあげている。おそらく原発も存続させるだろうし、平和憲法も変えてアメリカ軍と一緒に戦闘を行うようになるだろうし、TPPにより日本の富は奪われ自然や町並みも破壊されるだろうし・・・・

 そういうニュースが次々と流れてくる。権力と共にある人たちは、何をやっても一時的な非難で終わることを百も承知だ。行け行けどんどん、である。

 原子力委員も、東電など原発推進勢力からたくさんのカネをせしめよう。それらは国民の電気代から流れていったカネだ。福島県民を救うよりも、原子力委員様の事業を援助するほうが大事なのだ。

 以下は『毎日新聞』の記事。


電力業界:原子力委員NPOに1800万円 震災後

毎日新聞 2013年03月25日 02時30分(最終更新 03月25日 10時03分)


 原子力委員会委員の秋庭(あきば)悦子氏(64)が設立したNPO法人に、東京電力や電気事業連合会など電力業界側が毎年多額の事業資金を提供していたことが分かった。原子力委員を巡っては東電出身の尾本(おもと)彰氏(64)が福島第1原発事故後も東電から顧問料を受領していたことが判明、安倍晋三首相が「国民の理解を得るのは難しい」と述べ、尾本氏は委員を辞任。秋庭氏が設立したNPO法人は原発事故後、東電や電事連から少なくとも1800万円受領しており、議論を呼ぶのは必至だ。

 このNPO法人は「あすかエネルギーフォーラム」(東京都中央区)。消費生活アドバイザーだった秋庭氏が01年に設立し、03年にNPO法人格を取得。10年1月の原子力委員就任に伴って秋庭氏は理事長を退き、顧問となったが、現在もNPO運営の相談にのっているという。

 東京都に提出されたあすかの事業報告書によると、09〜11年度に2000万〜4000万円余の事業収入があり、あすか関係者らによると、この多くは東電や、電力10社でつくる業界団体の電事連などからの提供だったという。このうち原発事故後の11年度は2283万円の収入があり、うち600万円余を電事連から受領し、東電から163万円余、日本原子力文化振興財団(原文振)から約250万円受け取っていた。

 原文振は原子力の知識普及を目的に、原子力産業界と学会を中心に設立された財団法人で、現在、中部電力出身者が理事長を、関西電力出身者が専務理事を務めている。

 あすかは12年度にも電事連から600万円余、原文振から約150万円を受領し、これらを合わせると、原発事故後に電力業界側から少なくとも1800万円を受領していた。非営利のNPOにもかかわらず、11年度末時点で3800万円余の正味財産がある。

 これらの資金を元に、あすかは主婦層を対象に原発や放射線などの勉強会開催や機関誌発行などの事業を展開。東電からは消費者アンケート事業を委託され、11年5月まで毎月80万円余受領し、09、10年度は同事業で年間960万円余受け取っていたという。

 あすかはこの他、高レベル放射性廃棄物について国民の理解を得るための経済産業相認可法人の事業を下請け受注し、11年度には約1000万円が支払われた。この事業受注についてはある程度公開されているものの、東電と電事連、原文振からの資金受領は公開していない。
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悪罵

2013-03-23 22:02:42 | 日記
 安田浩一ほか『ネット右翼の矛盾 憂国が招く「亡国」』(宝島新書)を読んだ。ボクはネトウヨなどと呼ばれる人々のことなんか知りたくはないのだが、しかし一定の力を発揮しているようだし、また「帝国意識」の観点からは、観察の対象とすべきではないかと思ったので読んでみたのだ。

 すでに安田浩一の『ネット愛国』は読んでいるので、ネトウヨの本質みたいなものは摑んでいる。

 彼らは強烈な被害者意識をもつという。何せネトウヨの書き込みをしている時間は、フツーの日の日中だという。働いていないんだ。職を持てない被害者。不満や怨みを、拝外主義的な気分の中に解放しようという暗い願望。

 そういえば、今月号の『DAYS JAPAN』に在日のコンサルタント、シンスゴさんが彼らの本質をつく文を書いていた。掲げられている写真は、コリアタウンがある新大久保を「在特会」というグループがデモ行進をしている。

 プラカードを掲げながら、「ボクを見て」「ボクを認めて」と叫んでいるようなその姿がなんとも痛ましかった。極右化する社会への過剰適応そのものだ。彼らに共通するのは、この社会から「見捨てられそう」ま、または「見捨てられた」人たちだということだ。

 戦前戦後を通して、日本人は、誰も責任を取らない仕組みの中で、むしり取る者と取られる者とに選別されてきた。被災地を見るまでもなく、いったん被害者になったり転落したりしたら、誰も救ってはくれない。だから、落ちたらおしまいという強迫観念が、社会の隅々まで根付いている。
 
 自分の将来が不安になったとき、彼らが頼る最後の縁は、「日本人であること」なのだ。韓国や朝鮮を叩くとき、彼らは「見て、見て、僕は日本人だよ、日本人なんだから、僕を見捨てないで」と叫んでいる。誰からも承認されない者の、最後の断末魔だ。

 思えばこの国は、韓国・朝鮮をしゃぶり尽くして、ようやく自分を維持してきた。政権は北朝鮮からの危機を煽り、韓国とは領土問題を使い、マスコミは韓流ブームと嫌韓の両方で儲け、中産階級から滑り落ちそうな輩は足下の在日を叩き、果ては「殺せ」コールで「正義」を誇示する。日本が日本であるためには、日本人がオレは日本人だと確認するためには、「朝鮮」や「韓国」が必要なのだ。

 自分というものがないその姿は、あまりに幼い。


 彼らのデモ行進のビデオを見たことがある。本当に朝鮮・韓国人を「殺せ」などと叫んでいた。品性のかけらも主張の正当性もなにもない、惨めな姿の人々だった。

 彼らの叫びは、論理もなく、デマをひたすら汚い言葉で言い放つだけだ。

 犯罪が起きればそれは在日の仕業と叫び、その一方で安倍首相や自民党が好きで、彼らが何を言おうとも盲目的に支持を表明する。何ともデタラメの人々。そういう人々が、今もネットで「活躍」している。
 
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2013-03-22 21:52:33 | 日記
 だんだん温かくなり、これから庭にも、畑にも、草がどんどん生えてくる。

 農業だけでは生活できなくなって、もう50年以上。ほとんどの人は、どこかで働いて基本的な収入を確保しながら、先祖伝来の田畑を耕してきた。
 
 田は、農業機械を買って他人の田と一緒に耕作して、少し田の所有者に与え、あとは市場に出すという方法でやっている。あるいは、そういう人に耕作を依頼して、少しの米をもらって耕作に携わらない。田は、畑とは異なり、普通にやっていれば、困るほど草が生えない。

 問題は、畑である。畑は放っておくと、草だらけになる。だから、近所の人で少しの耕作をしたい人々に借りてもらう。

 ところが、そこに高齢化の波が押し寄せてきている。

 畑を借りる人がいなくなっている。そうなると、畑は草だらけとなる。畑の所有者は借り手をさがし出さなければならない。

 ボクは、そういう窮状を見かねて、昨年から畑を借り、サツマイモやほうれん草をつくってきた。最初は3坪くらいであったが、あいている畑は20坪くらいある。残りもやってほしいといわれ、少しずつ耕し始めた。

 その隣の畑の利用者が、雑草がその畑に侵入してくるとして、いろいろ言うのだそうだ。だからといって、そう簡単に耕作はできない。それを聞いたボクは、徐々に農業者として生きはじめた。

 ボクの収穫物は、ボクのであってボクのではない。近所の人が食べるものもつくる。売るほどの技術はない。だからといって、せっかくできたものを捨てるわけにはいかない。

 収穫しては、洗い、配る。

 ボクはどんどん日に焼ける。

 これからの季節は、草と戦い、暑さと闘う。
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葬儀

2013-03-21 20:22:27 | 日記
 隣家のご主人が亡くなられた。ボクは、通夜と葬儀にずっと参列した。もうかなり長い間、癌を患っていた。家で死にたい、という願望の通り、自宅で死を迎えた。

 通夜の時、亡くなられたご主人の遺体が布団に包まれていた。あたかも眠っているかのように、静かに静かに、何かを沈思黙考されているような感じだった。

 そして昨日、遺体はやかれ、骨になった。

 ボクたち人間は、必ず死を迎え、骨と化す。生まれ、生き、そして死ぬ。そのサイクルは、皆が体験する。しかし死は、現世との完全な断絶となる。

 ボクは高校一年生のころ、死についてよく考えた。父が早く亡くなっていたからかもしれない。いずれ必ずボクは死ぬ、しかしボクがいなくなっても、世界はそのまま続いていく。もちろん、ボクが生まれる前にも、「世界」は存在し、ボクとまったく関わり合いを持たずに、「世界」は時を刻んでいた。だから、「世界」は、ボクという存在を一時的に包含し、そして一定の時が経過すれば放り出す・・・

 ならばなぜ、ボクはこの「世界」に出現したのか。「世界」はボクという存在がなくてもまったく平気でいる。ボクという存在が出現し、そして80年程度で消えてなくなる。なぜボクは、そういう冷酷な「世界」に生まれてきてしまったのか。なぜ、なぜ・・・・・・?

 どうせ「世界」から放り出されるなら、とっとと死んでしまえばいい。そうも考えた。なぜボクの周囲に存在する人々は、平気で生きていられるのだろうか。ボクは、ひたすらその解を得ようと、哲学書や文学を手当たり次第に読んだ。

 亀井勝一郎の本のなかに、「悔いなき死」ということばがあった。その頃、死を照準にした思考はファシズムだ、という本も読んだ。生まれてきた以上、やはり「悔いなき死」を迎えたい、そう思った。「悔いなき死」を迎えるには、どうしたらよいのだろうか。「悔いなき生」ということを考えた。いや、その本にそういう記述があったのかもしれない。死ぬ時に、「悔いなき死」を迎えるためには、「悔いなき生」を生きなければならない。生は、死へと向かって生き続けることだから。

 では「悔いなき生」を生きるためには、どうしたらいいのだろうか。そんなとき、ベトナム戦争で傷ついた少女の上半身の写真をみた。ナパーム弾で、焼けただれていた。

 ああ、ボクは「悔いなき生」をなどと考えている時、ベトナムでは米軍の爆撃の下で生きるために逃げ惑っている。何という落差。

 ボクは、その時、考えた。この「落差」を埋めることができなければ、ボクはそのベトナムの少女と「生と死」について語りあえない。ボクは、机の前に座りながら、またバスに乗りながら、あるいは庭を眺めながら「生と死」をアードコーダと考えるのを中断し、その「落差」を埋めるように生きることが求められているのだと思った。

 それからボクは、ベトナム戦争反対の運動に関わるようになった。「悔いなき生」というのは、自分自身のためだけに生きるのではなく、「世のため、人のため」に生きることなのではないか。

 自分のためだけに生きていくのは、むなしい。

 ボクは、葬儀場で、遺影をみつめながら、「あなたもそうした生き方をしていましたね」と心の中で語りかけた。

 いつか、ボクが誰かに語りかけられるのだろう、「あなたは・・・・」と。


  
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表現

2013-03-19 21:30:39 | 日記
 今、赤坂真理の『東京プリズン』(河出書房新社)を読んでいる。

 そしてバックを流れている音楽は、チャイコフスキーの第六番「悲愴」だ。

 音楽は、ほとんど音符で示される。音符の数なんて、そんなに多くはない。なのに、それぞれ異なった音楽が創作される。あたかもバイオリンの音色が自由に空間をたゆたうように、シベリウスのバイオリンコンチェルトのバイオリンが、孤独な響きの弧を描くように、音は自由に空間と時間のなかを進む。その音は、ボクたちを置き去りにしながら進んでいく、だからボクたちは少し遅れてその音の後をついていく。

 赤坂真理という作家の小説を、はじめて読む。文字というものが、音符と同じように、かくも自由な表現を獲得できるものなのか。ボクは、赤坂が文字で描いた時空を超えた世界に招き入れられ、そのある種不思議な世界を体験する。

 いったい読者をどこに連れて行くのだろうか。シベリウスのバイオリンコンチェルトを聴いている時に感じる、バイオリンの音色の後をそっとついていくような、いやついていくのではなく、その音色に連れて行かれるような、そんな気がする。

 村上春樹の作品にみられるような、へんな作為はなく、自然に導かれていく。ボクにとっては、赤坂の表現は、自然な曲線なのだ。村上のそれは、曲線もあるが、ところどころ折れ曲がったような不自然な構築物とでもいうようなものだ。

 長い間、小説世界に入り込まなかった。仕事を辞めて、その世界に入り込む時間ができた。

 ボクにとっては、奥田英朗の小説にもっとも馴染むことができる。村上の世界は、作為と不自然の暗闇の中を歩かされるような感じ。

 赤坂のそれは、母胎の中のゆるりとした安心できる空間。母胎のなかは、無限の過去と無限の未来が交錯するところだ。だから、時空を超え、自由な表現に身を任せながらついていくことができるのだ。

 しかし、この小説の表題は、prisonだ。ボクは、捕らえられているのだろうか。

 読了。

 小説が、ノンフィクションではなく、フィクションの手法を使って、「東京裁判」を描くことができたということは、すごいことだと思う。だが、歴史関係者の一人として、その認識がきちんとした事実認識をもとにしたものではないという気がした。フィクションの中に、学びとったものをみずからの感覚のなかに溶けあわせることによってつくりあげた「東京裁判」の像は、あまりに俗的である。俗的というのは、事実認識を踏まえないで判断を加えるピープルの一員の感覚的認識の鏡像であるということだ。つまり、この21世紀に漂泊する「民意」にそのまま乗って、さらなる漂泊を続けようとするような像であると判断せざるを得ない。

 小説上の工夫や表現力と、そのなかにこめられたある種の「主張」に大きな落差を感じた。


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憲法改悪の準備が進んでいます

2013-03-18 22:23:32 | 日記
 小森陽一さんの講演会の映像が下記のサイトにあります。ぜひご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=Qlteyva6ya4&feature=youtu.be


 この映像、友人から多くの人に知らせて欲しいと言われ、ここに紹介したのだけれども、あまり面白くないですね。真面目で、もちろん言っていることはきちんと学問的な裏付けをもったものなんだけど、どうも訴える力がない。

 ふむふむ、そうなのか、なんだけど、この映像を見て、元気が出てこないんだなあ。

 なぜ憲法改悪に反対する声が大きくならないか、というと、こういう語り口は今風ではないのですよ。訴える内容はそれでいいけど、訴える方法を考え直したほうがよいとおもう。

 忌野清志郎に尋ねてみたいよ。
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気がかり

2013-03-18 18:11:04 | 日記
 今日も病院に行った。昨日から、○○○の元気がなかったことが気になって仕方がなかった。

 夕方、病院に行くと、彼はいつものように天井を見つめていた。いや体が動かないから、そこしか見ることはできない。

 彼はきっといろいろ考えているのだろう。だが彼が何を考えているのか、ボクにはわからないし、おそらく誰にもわからないだろう。

 彼はとにかく、話せない!!

 「昨日元気がなかったから、今日も来てみたよ」と言うと、彼はニコッと笑った。よかった。この笑顔を見せてくれないと、ボクは気がかりになって、心が落ち着かないのだ。

 人間は、誰かの心に「気がかり」となっていてもらいたい動物だろうと思う。人間は、自分自身が「生きている」という感覚を持ちながら生きていく。

 自分自身が生きていること、また同時に、他の人にもそれを「認証」してもらわなければ、自分自身の存在を維持することができない。そういう不安定な存在なのだ。

 昨日、近所の人が癌で亡くなった。人間は、必ず死ぬ。生きているということは、同時に死に向かっているということだ。そして死は、いつ来るのか、誰も知らない。

 だがボクは思っていることがある。人間は「もうここら辺で死んでいいな」と思う時、死が訪れるのだ、と。

 ○○○には、そう思ってもらいたくはない。

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生きたい

2013-03-17 22:55:48 | 日記
 ボクの友人が入院している。毎週一回お見舞いに行く。お見舞いに行くと言っても、ボクが一方的に話すだけだ。彼とは会話はできない。ボクの問いかけに、うなずいたり、首を振ったりするだけだ。

 嚥下性肺炎を避けるために、喉のところを開けて、そこから呼吸するようになっているため、話せないのだ。

 彼はよくしゃべる奴だった。だから話せないのはとてもつらいだろうと思う。

 今日もお見舞いに行ったのだが、あまり応答してくれなかった。ボクは、今日の天候、ボクの近況を話し、彼の調子を尋ねる。

 彼は基本的に首から下が動かない。左側の手足は少し動くが、いつも寝たきりである。点滴で栄養をとっている。

 「脳幹出血」。普通なら助からないという。だが彼は助かった、体は動かなくなってしまったけれど。それでもリハビリの結果、左手や左足がが少し動くようになって、気分がいい時にはバイバイの仕草をするようになった。そして少しずつ、少しずつ機能を回復してきた。

 ボクは、ある時、「おい、死ななくてよかったな!」と言ったことがある。彼は、強く首をたてにふった。「そうだ、僕は生きていてよかった」と、全身で、断固として表現していた。

 彼はみずからの治療を、奥様と話し合いながら進めてきた。その治療の方向性は、「生きたい!生き続けたい!」という姿勢だ。苦痛が伴う治療でも、彼はそれを選び、耐えてきた。

 ボクは、彼のその強い意志に頭を垂れる。そして、その意志が、奇跡を起こすことを強く強く望んできた。

 彼のその強い意志に、ボクは教えられている。

 彼は中学時代の悪友だ。一緒にいたずらをして、先生から「体罰」を受けたこともある。卒業してからは、彼とボクがクラス会の万年幹事となっている。

 だが彼が動けなくなってから、クラス会は開いてはいない。彼の参加がないクラス会なんて、想像もできない。彼が参加できるまで待つつもりだ。

 三回目のサクラが咲き始めた。

 「オイ、○○○、奇跡を起こせ!」

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ああ、TPP

2013-03-16 20:09:06 | 日記
 TPPは、多国籍企業だけがトクをするものだ。それぞれの国の庶民は、決してトクしない。それぞれの国の政府を従属させた多国籍企業(そしてそこに投資している人々や機関)が、みずからの「強欲」を貫徹するために考え出したものだ。

 ISD条項というものがある。「Investor(投資家) State(国家)  Dispute(紛争) Settlement(解決)」=「国家と投資家の間の紛争解決手続き」というものだ。ある国家が自国の公共の利益のために制定した政策によって、海外の投資家が不利益を被った場合には、国際投資紛争解決センターという機関に訴えることができる制度であるが、ところがそのセンターは決して「第三者」ではなく、多国籍企業や「投資家」の利益を最大限に守ることに日夜励んできている、そういう機関だ。

 TPPに加盟すると、「公共の利益」というものが、海外の投資家などによる訴えにより「無化」にされるのだ。

 自民党・公明党政権は、多国籍企業や投資家の「強欲」を支えるつもりなのだ。

 昨年末の総選挙で、自公を勝利させれば、こうなることは予想できたことだ。日本国民は、だから「甘受」せざるを得ないのか。

 資本主義は、必ずどこかの「辺境」を見出して、そこから莫大な利潤を獲得してきた。ところが、「辺境」というところがだんだんなくなってきて、莫大な利潤を獲得することができなくなってきた。そこでバーチャルな空間を作り出してそこに「辺境」を求めたり、国内に貧困を作り出すことによって国内に「辺境」を求めた。だが、それでも利潤は獲得できるが、莫大な利潤は獲得できない。

 投資家や資本家が求めるのは、「利潤」ではなく、「莫大な利潤」なのだ。

 その「莫大な利潤」を獲得するために、日本を草刈り場にする、それがTPPだ、人びとの個人資産や預貯金、共済事業など、つぎつぎと攻撃され、残るのは、1945年の焼け野原、いや建物は残っているからそのたとえはやめよう。ともあれ、荒涼とした風景が見られることだろう。

 社会現象の背後には必ず人為的なものがある。しかし人々はその人為的なものに気づかない。貧困にさせられるのに、人々は貧困になる、冬が去り春が必ず来るように・・・・社会現象も自然現象のようにとらえられるのだ。

 そういう人々を、人為的なものを推進する勢力は、ニコッと笑っている。
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「善意」への悪のり

2013-03-15 22:54:57 | 日記
 高齢社会がますます進んでいる。中山間地域だけではなく、ボクの居住地域でも高齢者が増えている。高齢者とは65歳以上の人のことをいう。

 ボクの近所でも、三世代同居は珍しい。高齢者夫婦だけの世帯、高齢者の一人暮らしが増えている。これだけ増加すると、行政の目も行き届かなくなる。

 そこで登場するのが、民生委員だ。民生委員を辞書で引くと、「名誉職」とある。「名誉職」とは、「生活費としての俸給を受けない公職」である。つまり活動してもらっても、カネを支払う必要がない。福祉活動の担い手として、こんな便利な「公職」はない。行政も、各地の社会福祉協議会も、民生委員に次々と業務を下ろしてくる。

 民生委員はほんの少しの「カネ」を受けている。月に3000円弱である。民生委員は月一回の会議だけでなく、研修会、見学会など様々な行事に参加する。そのさい、交通費を含めていっさい出ない。また民生委員は地域の福祉に役立とうという、とても崇高な気持ちを抱いているから、自主的に高齢者宅などを訪問し、元気づけたり、話をしたりする。まさにボランティアである。だがそれは、高齢者にとっては、数少ない訪問者となる。

 しかし今、民生委員は、奴隷的労働に従事する。というのも、民生委員に、「上」(行政や社会福祉協議会など)から業務が次々と下ろされてくるのだ。その業務については、常に「上意下達」である。民生委員からの意見により何らかの動きが発生するということはない。「上」にとっては、民生委員は彼らの手足であり、耳であり、目なのだ。「上」は、役所の中にいて、民生委員に業務をさせる時だけ、役所を出ればよい。

 最近の行政。福祉に関わる業務ですらアウトソーシングする時代である。行政は、福祉活動の前線には誰もいない。つまり、行政は困難を抱える地域住民との接点については、外部委託している。すべて下請けに出しているのだ。

 もちろん、アウトソーシングという場合、あるいは外部委託する場合、カネを支払わなければならない。だが、民生委員はほとんどタダで使える。

 「善意」への悪のりで、地域の福祉が行われているといってよいだろう。

 しかし民生委員だって、奴隷的労働に甘んじることはできない。

 民生委員に、無意味な業務をさせたりするな、といいたい。同時に、民生委員の活動に「民主主義」を。「上意下達」の活動は、民生委員の「善意」を踏みにじることになる。

 

 
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収穫

2013-03-14 17:43:05 | 日記
 浜松市の粗大ゴミが4月から有料化される。そこで今住んでいる家ではなく、以前住んでいた家のもので、不要になったものを捨てるために、家の中を片付けている。何と不要なものが、しまい込まれていたのかと、我ながら感心する。

 ボクの財産というと、大量の書籍であるが、ボクが死んだ後、家人や子どもたちはどのように処分するのだろうか。紙類であるから、リサイクルにまわされてしまうのだろうか。疑心暗鬼になってしまう。

 午前中は、片付け。

 午後は、畑に行く。最近温かくなってきた関係で、寒い中ひたすら少しずつ少しずつ生長してきたほうれん草が、そんなに大きくなっていないのに、一部は花芽をつけはじめた。これはたいへんだと思い、ひたすら収穫する。農作物は、一気に収穫期に入るのである。

 もちろん我が家だけでは食べられない。もったいないから、近所におすそわけということにる。これがたいへんだ。というのも、収穫したものをそのまま渡すわけにはいかないので、丁寧に洗い、そして根の部分をカットする。そしてきれいな袋に入れて、「どうぞ」となるのだ。

 袋は、全部で8袋。

 作業をすべて終わって、腰の痛みを覚える。だが、畑には、まだまだほうれん草がある。ひたすら収穫し、洗い、根を切り、そして袋に詰めて「どうぞ」を繰り返すのである。

 スーパーでは、一把100円くらいで販売している。ボクのは200円くらいの分量が入っているはずだ。

 昨秋、苦土石灰を施し種を蒔き、寒い中、時々畑に行き、生長具合をみた。葉が黄色くなっていると、アルカリ分が足りないからと再び石灰を施す。4ヶ月くらい生長を見守る。そして一気に収穫期。

 それが一把、スーパーで100円だから。仕入れ値はもっと低いはずだ。農業では喰っていけないのもよくわかるというものだ。よほど大規模にやらないと生活できないだろう。この上さらにTPPだという。政府は、日本の農業を放り出すつもりなのだろう。

 ほうれん草の後は何を栽培しようか、などと考える。

 ほうれん草の隣の畝には、ジャガイモを植え付けてある。収穫期になったら、これも人びとに「どうぞ」となる。

 何のためにつくっているのかと、ふと思う。
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