日中戦争から太平洋戦争までの間、多くの画家が戦争画(陸軍は「戦争記録画」とした)を描いた。そのなかで、突出して描いたのは戦後日本国籍を捨ててフランス国籍をとった藤田嗣治である。
藤田は、たくさんの戦争記録画を描いた。その記録を以下に掲げる。画の標題の後に、どの展覧会に出されたかを記した。
南昌飛行場の焼き討ち(1938~9)第 5 回海洋美術展
武漢進撃(1938~40)第 5 回海洋美術展
哈爾哈河畔之戦闘(1941)第 2 回聖戦美術展
十二月八日の真珠湾(1942)第 1 回大東亜戦争美術展
シンガポール最後の日(ブキテマ高地)(1942)第 1 回大東亜戦争美術展
ソロモン海域に於ける米兵の末路(1943)第 2 回大東亜戦争美術展
アッツ島玉砕(1943)決戦美術展
〇〇部隊の死闘ーニューギニア戦線(1943)第 2 回大東亜戦争美術展
血戦ガダルカナル(1944)陸軍美術展
神兵の救出到る(1944)陸軍美術展
大柿部隊の奮戦(1944)戦時特別文展陸軍省特別出品
ブキテマの野戦(1944)戦時特別文展陸軍省特別出品
サイパン島同胞臣節を全うす(1945)戦争美術展
薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す(1945)戦争記録画展
藤田の戦争記録画は、すべてが戦意高揚を表現したものではなく、有名な「アッツ島玉砕」や、「サイパン島同胞臣節を全うす」は、陰惨な場面が詳細に描かれている。
今は亡き評論家・加藤周一は、藤田の絵についてこう書いている。
藤田は戦時中の日本を経験し、陸海軍から委嘱されて戦場の絵を描いた。ノモンハンの敗戦から、シンガポール攻略の成功を通って、太平洋諸島に繰り返された全滅の悲劇まで。軍部の担当者が戦闘を記録する大画面を藤田に任せた理由は、彼の画面が抜群の迫真性を持っていたからだという。藤田の側からいえば、そういう仕事を引き受ける他に戦争中絵を描いて暮らすことはできなかったに違いない。その画面には戦争賛美も、軍人の英雄化も、戦意高揚の気配さえもない。藤田は確かに軍部に協力して描いたが、戦争を描いたのではなく、戦場の極端な悲惨さをまさに迫真的に描き出したのである。そこから戦争についてのどういう結論を導き出すかは、画家の仕事ではないと考えていたのだろう。(「藤田嗣治私見」朝日新聞「夕陽妄語」2006年5月24日付)
私は、文中の「・・・違いない」という点については、戦争の画を描かなかった画家たちもいた、したがって「・・・違いない」は、加藤のあくまでも想像である。そして「その画面」についての記述、「戦場の極端な悲惨さを迫真的に描き出した」という点で、「アッツ島玉砕」はそういう捉え方もできるとは思うが、しかし、藤田は戦時中、こう書いている。
戦争画を描く第一の要件は、作家そのものに忠誠の精神がみなぎって居らなくてはならぬ。幕末当時の勤皇憂国の志士の気魄がなくてはならぬ。(中略)今日の情勢においては、戦争完遂以外には何物もない。我々は、少なくとも国民がこぞってこの国難を排除して最後の勝利に邁進する時に、我々画家も、戦闘を念頭から去った平和時代に気持ちで作画することも、また作品を見る人をして戦争を忘れしめるような時期でもない。国民を鞭ち、国民を奮起させる絵画または彫刻でなくてはならぬ。戦争は美術を停滞せしめるものとか戦争絵画は絵画を衰頽せしめると考えた人もあるけれども、かえってその反対に、この大東亜戦争は日本絵画史において見ざる一大革命を呼び起こして、天平時代、奈良時代また桃山時代を代表するような昭和時代の一大絵画の様式を創造した。(中略)今日我々が最も努力し甲斐のあるこの絵画の難問題を、この戦争のおかげによって勉強し得、さらにその絵が戦争の戦意高揚のお役にも立ち、後世にも保存せれるということを思ったならば、我々今日の画家ほど幸福なものはなく、誇りを感ずるとともに、その責任の重さはひしひしと我等をうつものである。(『美術』1944年5月号)
この藤田の文を読む限り、加藤の指摘は当たらないと、私は考える。
また戦後パリで藤田と交遊のあった野見山暁冶は、こう書いている。
藤田さんという人は非常に素直な人でした。人を信じてはしょっちゅう騙されていた。私たちにとってフジタの帰化は、一種のコスモポリタンとしての見事な資格を、人格的に掴みとったように思っていたが、どこの土地の人間でもないただの旅人ではなかったのか。常にライトに当たっていなければ生きてゆけない人生がそこにあるようだ。アッツ島もパリも光りだった。帰化さえ光にしたがっている。
戦争がみじめな敗け方で終わった日、藤田は邸内の防空壕に入れてあった、軍部から依頼されて描いた戦争画を全部アトリエに運び出させた。そうして画面に書き入れてあった日本紀元号、題名、本人の署名を絵具で丹念に塗りつぶし、新たに横文字でFUJITAと書き入れた。先生、どうして、と私の女友だちは訝しがった。何しろ戦争画を描いた絵かき達はどうなることかと生きた心地もない折だった。なに今まで日本人にだけしか見せられなかったが、これからは世界の人に見せなきゃならんからね、と画家は臆面もなく答えたという。つまりフジタにとって戦争は、たんにその時代の風俗でしかなかったのかも知れない。
私は、総合的に見て、野見山の見方に賛同する。藤田は、自画像を何枚も描いている。その自画像をみると、彼はかなりのナルシストだと思わざるを得ない。そして彼の身の処し方から、私は藤田を以下のように結論づけた。
ライトがあたるなら、何でも描いた。藤田にとって、現実も、戦争も、パリの女たちも、ただ目に映る風景でしかなかった。その風景を、藤田は描いた。その風景が、どのようなものであろうと、そこになにがあろうとなかろうと、喜びがあろうと、悲しみがあろうと、藤田にとってはそれはどうでもよいことだった。ライトがあたる風景を、藤田は描きつづけた。そしてそのライトを藤田は浴びたかった。
藤田は、もちろん才能豊かな画家であった、しかし空虚な画家であった。
こういういい方が許されるなら、「専門ばか」とでも言えようか。才能がありすぎたからこそ、描こうとしたその背後に何があるのかをみつめられなかった。彼は、アッツ島やサイパン島の玉砕の場面を表現した。しかしもちろん、彼はその現場にはいなかった。いなかったからこそ、「戦場の極端な悲惨さをまさに迫真的に描き出」すことができたのである。彼にとって、描き出されたその場面は、「現実」ではなかったのである。