大地震の被害に遭われた方々の苦難を思う。
地震に見舞われた能登半島を車で周遊したのは、20代後半のことだった。それ以降、訪れたことはない。その際に購入した御陣乗太鼓の面は、今も玄関で訪問者を凝視している。
その時に書いた文を掲載する。今も覚えているが、車で走りながら、人の姿をほとんど見かけることはなかった。そのある種の衝撃を書いたものだ。「過疎地帯ー奥能登」という表題で書いた。
奥能登の冬は寒い。暗い。わびしい。日本海から吹き寄せる潮風が、山裾の草木を枯らし、荒涼たる姿を現出させる。そしてどんよりとした厚い雲の下で冬の海が荒れる。
ほとんど人影は見えない。時おり道のすみを手ぬぐいをかぶった老婆が腰を斜めに曲げながら歩いている。それ以外の人には会わない。人家はあった。車もあった。しかし人はいない。コンクリート・ミキサー車が自らの巨体をゆっくりとまわしていた。しかし人はいない。見捨てられた家、そして車。
大通りを車がひっきりなしに行き来し、たくさんの人がうごめきあっている「大都市」の生活に慣れた人の目に、奥能登は異様に、あたかもゴーストタウンのように映る。
過疎。このことばが奥能登を象徴する。全国の山間僻地の状況がここにもある。若者たちは都市に出て行く。部落の男たちも農閑期には「出稼ぎ」に行く。厳しい冬の中、残された人びとは孤立に耐える。そのように生きてきたし、また生きねばならない。
過疎―これは単に人口の減少ではない。現代に特徴的な極めて深刻な社会現象なのだ。過疎は、「人口減少のために一定の生活水準の維持が困難になり、それとともに資源の合理的利用が困難になって、地域の生産機能が著しく低下し、こうして人口密度が低下し、さらに年齢構成の老齢化が進み、従来の生活パターンの維持が困難になった状態」と、経済審議会地域部会の中間報告は定義する。しかし、過疎は進行する。過疎が過疎を呼ぶ。なぜ?
冬が過ぎ、雪が溶けると奥能登に若者が来る。都会の若者たちだ。奥能登の人々は忙しくなる。だが、奥能登から出て行った若者は帰ってこない。仕方がない、と奥能登の人々は考えるのだろうか。