ネットにはフェイクを含む多様で雑多な情報が渦巻いている。とりわけ、X(旧Twitter)やYouTubeは顕著である。誰もが情報や動画を発信できるというところから、そして閲覧数が多ければ多いほど発信者にはおカネが入るということになれば、有象無象の人びとがそこに参入するのは間違いのないことだ。
さて昨日の集まりで、どのような情報を信じたらよいかはわからない、というような意見が出た。
まずわたしは、Xについては、信頼できる情報とはみなさない。だからXを利用もしていないし、見てもいない。というのも、たとえそこに信頼できる情報があったとしても、短い字数では的確な情報を流すことは出来ないと思うからである。重要な情報であるならば、短い字数で丁寧に説明できるわけがない。まずその情報を誰が、どのような根拠にもとづいて、なぜ発信したのかがわからなければならない。Xでは、おそらく根拠を示すことは難しいだろう。
わたしは長い間、歴史研究を行ってきたが、歴史はまず史料がなければ成りたたない。つまり根拠である。史料なしに歴史を組み立てることはできない。またその史料が使用に耐えるほどの信頼性があるのかを、他の史料や文献その他で厳密に検討していく(これを「史料批判」という)。
そのような習性がついていることから、いろいろな情報が流されてきても、すぐに信用することは絶対にしない。その情報が信頼に価するかどうかを、他の資料(文献や公刊資料など)を参照しながら考えていく。
そもそもわたしは、自分で納得しない限り、流されてくる情報を信じない。ときに送られてくる情報について、はやくそれについての考えを示して欲しいと求められることがあるが、しかし当方にも調べなければならないこと、読まなければならないことなど、ほかにしなければならないことがあるので、その求めに即座に対応することは出来ないのである。
そのため、送られてきた情報をそのままにしておかざるを得ないのだが、それが功を奏して、タイムラグが生じることから、その情報の真偽や軽重がおのずから明らかになってしまうということがある。情報が流されてきても、その情報に対する判断を停止しておくことも大切だと思う。
少なくとも、わたしはいろいろな情報を、本から得ることを基本としている。そのなかには、雑誌も入る。雑誌は、『週刊金曜日』、『世界』、『地平』、『法と民主主義』を定期購読しつつ、時に『現代思想』を購入している。また単行本を買い、あるいは図書館から借りだすなど、とにかく本を通して情報を得るようにしている。本の中にはろくでもないものもあるが、そこは今までの読書経験から判断してろくでもないものについては基本的に読まないようにしている。
唯一ネットで信用しているのは、YouTubeの「デモクラシータイムズ」である。いつも見ているわけではないが、信頼できる人びとが出演しているからである。