「歯車」を読んだ。今までずっと芥川の作品を読んできて、これほどまでに死の蔭に蔽われているものはなかった。
私は「歯車」という作品の内容は知らなかったが、ただひとつ「歯車」という題のいわれは知っていた。芥川は、時に視界の中に「歯車」を見る。おそらくそれは光り輝くものだろう。以前も書いたことがあるが、私も同じものを見る。私の場合はシャークの歯のように見える。視界に小さく輝くゾウリムシのようなものが見えはじめる。するとそれがだんだん大きくなってシャークの歯となる。輝きながら視界を横切り、そして消えていく。目を瞑っても見える。芥川の場合は、「僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何ともなかつた。しかし右の目の眶(まぶた)の裏には歯車が幾つもまはつてゐた」とあるから、なぜか片目だけだ。私の場合は、両目に見えて、目を瞑っても見え続ける。しかし芥川のように頭痛はない。
しかし全編なんという陰鬱な雰囲気なのだろう。最初から幽霊の話だ。そして姉の夫の自死、それも鉄道に飛び込んでのそれであった。陰惨な話が続く。そういう話の延長線上に芥川の精神状態が綴られていく。
芥川は不眠で苦しんでいたようだ。彼は精神病院にタクシーで行く。しかしなかなか見つけられず、タクシーを降りて歩いて行くと、青山斎場の前に出てしまう。10年前の漱石の告別式以来であったが、そこで芥川は「十年前の僕も幸福ではなかつた。しかし少なくとも平和だつた。僕は砂利を敷いた門の中を眺め、「漱石山房」の芭蕉を思ひ出しながら、何か僕の一生も一段落のついたことを感じない訣(わけ)には行かなかつた」という感慨を記す。
彼はホテルをとり、そこで原稿を書く。しかし気分優れず、街中を歩き、またレストランに入り落ち着かない時間を過ごす。そして時に丸善で本を買う。「メリメエの書簡集」はその一冊だ。だがそれを読みながら「彼も亦やはり僕等のやうに暗(やみ)の中を歩いてゐる一人だつた」と書く。
芥川は妻の実家に行く。別荘地のようだ。そして周辺を歩く。焼け残った家を見つけ、また鼴鼠(もぐらもち)の死骸をみる。
そして「歯車」が浮かび上がる。
「何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。僕は愈最後の時の近づいたことを恐れながら、頚すぢをまつ直にして歩いて行つた。歯車は数の殖ゑるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。・・」
「歯車」は不吉なのだ。「歯車」が見えた後、彼は自宅の二階で仰向けになって頭痛をこらえる。
今度は「歯車」ではなく、「銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼」であった。確かに私に見えるシャークの歯も、銀色である。
そのとき、芥川の妻が二階に慌ただしく昇ってくる。
芥川は「どうした?」と尋ねる。
「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから・・・」
この「歯車」は次の文で終わる。
それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった。ー僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?
この「歯車」は小説として何かを書こうとしたものではない。主題があってないようなものだ。主題は、芥川の生きていることの不安、絶望、生の苦しみ・・・である。
「歯車」を書いた1927年3月から4月にかけて、芥川は精神の不安のなかにあった。しかしこうした絶望的な精神状態を生きる方向へと転換することは難しいように思えた。
芥川が見る「歯車」、これは「閃輝暗点」といわれるものである。眼には異常がないけれども、視神経につながるどこかに時に異常が起きるのだろう。私も眼科にかかり、脳の検査も受けたが取り立てて異常は発見されなかった。
芥川はこの「閃輝暗点」を不吉な兆候と見立てたのだろうか。
確かにはじめてシャークの歯が視界を蔽ったとき、私は失明するのではないかと不安だった。しかしこれは一定の時間が経過すると消えていく。私の場合は頭痛もない。つきあっていくしかない。
芥川と異なり、私は「閃輝暗点」だけではなく、いやのこともなんであろうとも、死ぬまでつきあっていくという気持ちでいる。
いつかは死ぬ。しかし自分からそうするつもりはない。芥川は、いったい何に絶望を感じたのだろうか。