Olympicは、IOCはじめ、カネの亡者達が群がって公的な財産を食いつぶす国際的なイベントなのである。それは作家・柳広司が鋭く指摘したことだ。
オリンピック開催地を巡って多額の使途不明金が飛び交い、 IOC役員はスポンサーの金で世界中を豪華に旅してまわるようになった。各国政治家にとってもオリンピックは国民の税金を堂々と私物化する体(てい)の良い名目となり、政界や財界の面々がハゲタカのごとく群がった。
したがって、こういう報道があるのは至極自然のことなのである。
「東京五輪の日当は35万円」 国会で暴露された東急エージェンシー、パソナへの“厚遇”
新型コロナウイルスに感染しても、重症にならないと医学的な処置はなされずに、つまり薬の投与がない。高熱が出た場合には解熱剤が出されるくらいだという。要するに、治療もなく、ただ快方に向かうか、重症や死へと向かうかは患者次第という状況が続いている。
しかし、寄生虫病に苦しむ国地域では、イベルメクチンが投与されているが、これが新型コロナウイルスに効果があるようなのだ。だったら、もっと使用すべきではないか。
日本発「イベルメクチン」 インドがコロナ治療で感染者数減もWHO「反対」のナゼ
浜松市民の心配を余所に、浜松市のスズキ康友市長は、今年の浜松まつりの凧揚げを開催した。いろいろな条件をつけた。例えば緊急事態宣言が出ているとこらからの参加はさせないとか・・・しかし、自民党の片山さつき、塩谷立議員は緊急事態宣言が発出されている東京から凧揚げに参加している。片山さつきはマスクもしていなかった。
ということは、おそらく緊急事態宣言が出ていた東京その他からも参加者があったということであろう。
案の定、5月の連休に実施された浜松まつり以後に浜松市の感染者は大幅に増加した。まつりは感染者を増加させるのだ。5月30日の浜松市の感染者は、25人。静岡県全体では42人であるから、半分以上が浜松市である。この傾向が続いている。浜松市が突出して感染者が多いのだ。
静岡県の感染者数を報じるニュースに関するコメント、みなさん本質を衝いている。オリンピックが実施されたらどうなるか、その先行事例がこれである。
斎藤美奈子さんの本と昼間定時制高校の話 の続きである。1982年に書いたものだが、貴重な記録だと判断しアップすることにする。
暁を求めてー現代の織姫たち(下)
北から南から
この昼間二交替制定時制の高校は東海地方のH市にある。昔から繊維産業の盛んな地域で、特に規模零細な織物工場が多い。そしてここでも、その労働力を寒村僻地の娘に依存していた。言うまでもなく、地元の娘よりも低賃金ですむからである。
昭和初期に織物工場で働いていたY・Oさん(大正五年生)は宮城県桃生郡からH市に来た。一日一五時間ほどの労働の厳しさに工場から飛び出したこともあるという。昔を振り返ってこう言う。
「つらかったよー。だけど家に帰っても貧しいし、農作業やらにゃいかんかったし・・・。雪もいやだったなぁ」
このように東北地方から来た女工さんは「奥州っ子」と呼ばれていた。戦前は、東北地方や東海地方の山奥から来た人が多かったようだ。
しかし今はちがう。北は北海道の利尻島から、南は沖縄・八重山列島から、続々と集まってくるのだ。いずれも寒村僻地からといってよいだろう。
三月の下旬になると大きなバッグを持ったまだ童顔の少女たちがH市の駅に降り立つ。彼女たちは迎えの車に乗ってそれぞれの職場に向かう。どんな生活が待っているのかを知らない彼女たちは一様に希望を持った顔をしている。だが、二~三週間経つなかで彼女たちの顔から笑みが消えていく。時間に切り刻まれる生活は笑みを浮かべる余裕すら奪っていくのだ。
遙か遠方の中学生だった彼女たちはどのようにしてこの昼間二交替定時制の高校の存在を知るのだろうか。またなぜ来るのだろうか。
彼女たちは、「だまされた」と言うのだ。学校が募集するのではない。学校は『入学案内』を作成してそれを企業に頒布するだけだ。その『入学案内』には、素晴らしい文章が踊っている。
「理想や情熱がほとばしる学園生活」
「全国から集まった仲間が、この〇〇高で青春を謳歌しています」
この美辞麗句が散りばめられた『入学案内』を持って各地にいる募集人(戦前は桂庵といっていた)が活躍するのだ。
中学校の教師にコネをつけ、来そうな中学生に目をつけて、腕時計や菓子折やらを持って家庭訪問をする。
「週休二日になる」とか「寮の設備や近代的」とか言って、親・子どもの歓心をかうのだ。そして就職=進学することが決まると“支度金”を渡す。額はまちまちだが五~六万円だと聞いた。
この“支度金”は近大きな役割を果たす。競合しないようにはしているようであるが、まず他の企業が求人に来ても、渡してしまえばもう大丈夫である。また、就職した後、職場でのさまざまな人間関係、過酷な労働に耐えかねて退職というときには一種の「拘束」ともなるようだ。
もちろん募集人は募集時だけ活躍するのではない。しばしば就職した女工さんの家庭を訪問する。特に、女子高生が高校を卒業して退職しようとする頃に頻繁に訪問するようである。転職を阻止するためである。このために親が募集人の言うこときいてしまい、やむなく残った者もいるという。
ところでなぜ来るのであろうか。この高校に来る子どもは、およそ次のような子どもたちである。
「 a 成績は比較的良いが経済的に恵まれない者
b通える範囲に学校のない者(離島・僻村)
c 入れてくれる学校のないほどの「低学力」者
d 家庭の事情で家にいられない者(母親の再婚等)
彼女たちは概して下層家庭に生い立ち、教育的環境・親の愛情等に恵まれない。
(1979年度全国教研提出レポート『A高校における修学旅行問題」より)
いく人かの女子高生から話を聞いた
Yさん。父一人、母はいない。幼い頃に死んでしまったという。父は体が弱く、あまり働けない。Yさんは岩手県から来た。
Mさん。静岡県の山奥の出身である。もちろん近くに高校はない。高校進学のためには下宿をしなければならないが、その経済的余裕はない。ちなみに、Mさんの母も繊維産業に女工として娘の頃いっていたという。
聞くところによると、このように祖母・母と数世代にわたり繊維産業の女工として働いているという女子高生が多い。
Kさんは宮崎県の小さな農家で生まれた。病気がちで働けないでいる父親と、手術の失敗で背中をまっすぐに伸ばせなくなった母親がいる。だからKさんは来た。高校に行けないと思っていたKさんにとって昼間通える高校は大変魅力的なものに見えたのは言うまでもないことである。
Oさん。複雑な家庭である。異母兄妹がいる。継母がいる。幼い時から「家を出たい」と思っていた。高校進学を機に家を出て、この生活に入り、今は卒業して東京にいる。
そしてその他にもさまざまな事情を持った女子高生が生きている。
全日制の高校に入れないから、という事情を持つ者たち。しかし経済的余裕があり、入ろうという意志さえあれば入れる高校あるだろう。また、要するに「成績」が悪いということなのだろうが、実際には「成績」と家庭の富裕度は比例関係にあると言われている。 見るがよい。「貧困」の再生産が繊維産業を支えるという社会のありようを。はたして歴史は何を解決したというのだろう。
一人になりたい
親元を離れて寮(寄宿舎)に入る。夢にまで見た寮生活が始まる。しかし・・・・
『生活の場を見つめて』という女子高生の作ったパンフレットから紹介してみよう。現実はこうだ。
「バラ色のイメージとかけ離れていて良くなかった」
「パンフレットや労務の人の話と違っていた」
そして具体的に次のような声が綴られる。「畳しかない」、「部屋が狭い」、「古いのでびっくりした」等々。しかしこのような設備の面だけでなく、より彼女たちを悩ますものに(職場の人間関係だけでなく)寮での人間関係がある。
「寮生の心はすさんでいて、ひがみあいやけんかばかりで、他人とのつきあいが難しいことがわかった」「もっと楽しいところかと思ったが、おもしろくない」、「先輩・後輩の関係が強く、先輩はうるさい、こわい」
一部屋三~四人のなかでも暗闘が続く。一五畳ほどの部屋で繰りひろげられる日常生活は決して楽なものではないようだ。
そして翌日の労働に支障が起きないように行われる管理。
消灯時刻になると電気が全く使えなくなってしまう。電源をもとで切ってしまうからだ。だからなお勉強しようとするなら、廊下、あるいはトイレのうす明かりを利用するしかないという。
また門限の時刻が決まっていてそれに遅れると、以後の外出がしばらくの間(長くて一カ月間)禁止される。
会社の敷地の中にある寮での様々な「自主的」管理や「自主的」活動(例えば構内の除草など)から、そして難しい人間関係の網の目から逃れるために彼女たちは外へ出る。休日にはほとんどの者が外出するという。
女子高生たちは外で大いに羽を伸ばす。
「スカG」とか「Z」、あるいは「シャコタン」とかいうことばも交わされる。今の若者たちが車に精力を注ぎこむように、彼女たちも車に「凝る」。もちろん、乗せてもらうのだ。そのようななかで、男性との間で問題(例えば妊娠など)が起こったり、あるいは水商売などに入っていたりする者もいるという。世間から見れば「道徳的退廃」とでも言われるのかもしれない。
しかし彼女たちの、あの厳しい生活を見ると、彼女たちにとっては、幻想的ではあるけれども、一種の解放となっているのであろう。
ある少年に聞いた。
少年は、ガールハントをしたいときには「オリネエ」(織物工場の女工さん)、「ボーネエ」(紡績工場で働く女工さん)をねらうというのだ。彼は「すぐひっかかる」という。 彼女たちは自分たちが「オリネエ」「」ボーネエ」と呼ばれていることを知っている。この差別的呼称に居直っているようにもみえる。それが、私には「悲劇的」に見えてしかたがない。
一人の女子高生はこう言った。
「一人になりたい時もあります。でも一人になれる時は、機械の間を走り回っている時なんです」
今、生きるとき
A高校だけではない。繊維産業の盛んな地域には必ずこのような昼間二交替定時制の高校がある。愛知、岐阜、三重、静岡、長野、岡山等々。
だがこのA高校は特別だ。A高校の生徒たちは、生きている、いや生きようとしている。ここ数年間、女子高生たちがみずからの生きざまを訴え、問い直し、そして「暁」を求めようとしているのだ。
その契機になったのは、高校生文化研究会発行の『風さわぐ野の花』という本であった。 「私たちの前に1冊の本があった。書名を『風さわぐ野の花』という。混沌とした意識の中に沈潜していた私たちのエネルギーに豊かな滋養が注ぎこまれた。私たちは知ったのである。自分たちと同じ高校生がここにもいる、と。ただ違いがある。『・・・野の花』の女子高生たちは動いている、生きている。私達も動かなければならない、生きようとしなければならない」
六年前、沖縄出身のE子さんの文章である。E子さんたちは、まず自分たちの生活を見つめはじめた。心の奥底に淀んでいたものが一気に、あるいは徐々に形をとりはじめたのだ。その形は、A高校の生徒会が毎年発行している生徒会誌『暁』にしっかりと刻まれている。
文化の花、開け
A高校は低賃金で働く若年女子労働力を確保する手段として、繊維業界の要望により創設された。言わば「資本の論理」の上に創設されたのである。したがって矛盾も多い。
例えば、企業の二交替労働に照応させているために、始業式・終業式等は午前・午後の二回行われる。体育祭・文化祭・卒業式などの全体的な行事は、日曜日にもたれる。働く女子高生の休日にである。
企業の立場からは別に問題とすべきことではないのかもしれない。しかし女子高生たちにとってはそうでもない。
Kさんはこういうのだ。
「つくづくこんな生活が嫌に思えるのは、学校優先に考えて動くと、仕事中眠くて能率が悪く、逆に仕事を尊重して睡眠時間を気にすると他のことは何もできないって感じで、いったい自分はどうやりくりすればいいのかと考えだすときがあるからです。せめて早朝(五時~)や深夜(一〇時~)の労働がなくなればいいのに・・・」
二律背反的状況のなかで苦しむ女子高生たちは、そしてこう主張する。
「私達は進学を選んだことを忘れてはいけない。もし生活に困っていてお金が欲しかっただけならば、働くだけの道を選んだだろう」
このように言い切った彼女たちは「文化祭二日化」運動を展開する。
企業中心に動いている学校のあり方を生徒の力で転換させる、つまり土曜日を文化祭のために休み(操業ストップ)にさせようというのである。もちろん、文化的なものから疎外されている状況を打破していくという目的もある。
女子高生たちは校長に対して「文化祭二日化に関する要望書」を提出して文書回答を要求した。校長は文書回答を拒否してこういう。
「校長のコケンにかけても絶対に文書回答はしない。君たちは何をしているんだ。このような不健全な活動が続くようだったら生徒会活動は二、三年凍結する。生徒会というものは校長が認める範囲でしか活動できないのだ。校長が文書回答しないと一回言ったら、君たちはそれですぐわからなくはいけない」
このような校長の言明にもひるまずに、生徒会を中心とする活動のなかで「二日化」を実現していく。その間、要望書の校内提示をめぐる攻防、生徒たちによる企業への働きかけ等創意的な闘いが展開されたという。
いずれにしてもこの闘いの結果、「産学協同」ならぬ「産主学従」の学校のあり方を突破する糸口をつくったということになる。
と同時に、A高校の文化祭は、全日制高校の文化祭が低迷を続けていくなかで、自分たちの生活に根ざしたものつくりあげていった。
当時生徒会役員だったOさんは、
「全日制の高校生も驚いていました。あとで素晴らしかったという手紙が届いたりして、私たちもたいへん自信がついたような気がしました」と言う。
ちなみに、二日化を実現した文化祭のテーマは「今、五体を躍動させる時」、翌年(1978年)は「暁を我らの手で-存在の証しを今打ち立てよう」であった。
奪われた修学旅行
「私達は先生方がまだあたたかい布団の中で夢見ている時刻に仕事を始め、また、先生方が家族と一緒にテレビを囲んでいる時刻に現場で糸をつないでいます。眠い目をこすりながらバス(注)に乗り込み、眠けをこらえて先生の声に耳をかたむける。バスに乗り込むのも、バスを降りるのも、また、現場に行くのにも、いつも何かに追われるかのようにかけ足、かけ足の私たちです。時間に追われる、こうした生活の中で、四年になってからの修学旅行を、私達はあこがれに似た気持ちで望んでいたのです。その旅行が間近になってなくなってしまうなんて・・・。私達は普段釘づけにされている仕事から解放され、クラスメイトみんなで、見知らぬ街を歩いたり、友達と心ゆくまで話し合ったり、という貴重な時を失ってしまったのです。これからの学校生活を何を楽しみにして送ったらよいのでしょうか。一生懸命汗水たらして働いて得た中から積立金四千円を払うのはつらかったけれど、それも『四年生になれば・・』という希望があったからこそ耐えてきたのです。私はまだ修学旅行があきらめきれません」(注 会社の送迎用のバスのこと)
長々と引用したが、このA高校の生徒たちが修学旅行をどのようにみているのか、をまず念頭においてほしいと思ったからである。
事情はこうだ。
校長が何を思ったか、PTAならぬETA(雇用者と教師の会)の総会において「来年度(一九七九年度)の修学旅行は五月のゴールデン・ウィークに行う」と言明したのだ。これはA高校の教職員も誰一人知らなかったことであった。
驚いたのは女子高生たちである。彼女たちにとって、長期休暇は正月と旧盆、それにゴールデン・ウィークの三回しかない。その三回は親元を離れている女子高生たちにとっては帰省の機会でもある。
例年四年生は五月の連休に帰省し、五月中旬から三班に分けて行われる修学旅行(一度に行かれると、企業の操業に支障をきたすので分割する。先番・後番の一クラスずつが組んで行く)を満喫していたのだ。五月はしたがって彼女たちにとって二度休暇がくるということになる。ゴールデン・ウィークと修学旅行と。
しかし、もしゴールデン・ウィークに行われると、帰省もできないし、さらには大混雑のなかで修学旅行に行かなければならない。
女子高生たちははっきりと「ノン!」を叫び、校長にたたきつけたのだ。
まず彼女たちは学校からの五月連休実施についてのアンケート拒否し(白紙提出)、即座に生徒集会(授業時間をもらって)を開き、校長に談判にいく。そして学級担任に対して次のような決議文を渡すのだ。
「〈修学旅行についてのおねがい〉
私たちは連休に行われる修学旅行には行きたくありません。連休をはずして実施できるように職員会議で私たちの気持ちを伝えて欲しいと思います。
三年〇組一同」
さらに、生徒会では中央委員会を開き、次のような決議をあげ、全クラスの背面黒板に書きつける。ビラとか模造紙で発表しようとすれば、教師にとりあげられるか、はずされてしまうからである。黒板に書けば、消されてもいつでも書ける。
「〈要望〉
私たちは、修学旅行を一回で行うことは理想ですが、連休での修学旅行は望みません。しかし、私たちは学校生活の思い出となる修学旅行は絶対に行きたいと思います。私たちの以上の要望をかなえて下さい。私たちから、修学旅行をとらないで!!」
女子高生たちは無理な要求を出しているわけではない。今まで通りで実施せよ、と言っているのだ。しかし頑迷な校長は、彼女たちの要求を無視し続け、結局連休実施、もし参加者が少なければ中止する、いう強硬な結論を彼女たちに押しつけてきたのだ。
彼女たちは自分たちの企業に働きかけて、今まで通りの修学旅行を実施するよう学校に言ってもらったりもした。
だが九月にアンケートが強行された。その結果、女子高生たちの九割以上が連休実施の修学旅行の不参加の回答し、中止となってしまった。
この闘いはこうして翌年(一九七九年度)の三年生に受け継がれることとなった。
五月に開かれた生徒総会では、修学旅行問題を議題とすることを学校側から禁止されてしまった。もちろん女子高生たちはそんなことにひるむわけではない。動議としてそれを提案し、話し合いをもった。生徒たちは次から次へと発言した。拍手があった。掛声があがった。そして決議をあげた。「連休実施反対、全校生徒でこの問題に取り組んでいく」という決議を。
だがその後、修学旅行に関する生徒会活動は力ずくで禁止されてしまった。生徒会室に教師が常駐するようになり、生徒会役員が話し合うとすぐに教師が来て解散させる。
校長は言った。
「校長の方針にしたがえないものは君達でも、先生でも出ていってもらう」と。
その後、アンケートが実施された。七割の女子高生が「不参加」に〇印をつけた。また中止である。
女子高生たちはこういう。
「先生方はすぐ『秩序、秩序』という。辞書には『社会の規則立った関係』とある。すると、社会の秩序父というのは力のあるものが私達のような力のないものをその力によって押さえつけることによって成り立つのでしょうか」
そしてこう呼びかけるのだ。
「結果が良くないからといって尻込みしてはいけません。大切なことは、自分達の問題に自分達で取り組み改善してゆこうとする姿勢です。この姿勢を崩さないかぎり、私達はどんな困難も乗り越えていくことができると思います」
奪われた修学旅行は奪い返さねばならない。そのための闘いは今も続けられているという。
“暁を求めて”
細井和喜蔵はその著『女工哀史』の末尾にこう記したーー
“いま太陽の光りは濁っている”
それからいったいどれほどの歳月が過ぎていったのだろう。今もなお、太陽の光は濁っているではないか。
GNP世界第二位と言われ、「福祉国家」と言われるこの日本で、厳しい条件の中で生きていかざるをえない子どもたちが、社会の片隅で「女工哀史」を演じざるを得ない現実がある。「女工哀史」は書物のなかだけにあるのではないのだ。
このA高校の女生徒たちのことが『毎日新聞』(一九七七年一〇・二三付)で報道されるまで、私も「過去」のことと思い込んでいた。取材を始めて次から次へと浮かび上がってきた事実に私は怒り、あるいは哀しみ、あるいは感動した。
怒ったこと、それは彼女たちの労働の実態と学校側の姿勢であった。
まだ何も知らない中学校を卒業したてのあどけない少女たちを、過酷な労働に平然と投げこんでいくこのありよう。そして、そのような少女たちの苦しみを真正面から受け止めずに、姑息な手段を弄する教師の群れ。
考えてみればこのようなA高校はあってはならない。A高校のなかに渦巻く矛盾の数々は、その存在理由から発しているからである。
哀しんだこと、それはもちろん怒りのバネともなるものであるが、一つは彼女たちの境遇である。「同情なんかいらないよ」と言われるかもしれないけれども、私は幾度か言葉につまることきを経験した。また、彼女たちの「忍耐」である。必死に耐えている姿を見て私は、単なる忍耐ではいけない、再起を期すための忍耐でなければ、と思わずにはいられなかった。それでなければ、あまりにむごいではないか。それともう一つ。それは、彼女たちの「遊び」である。「遊び」のなかで身を持ち崩す場合もあるという。
そして感動したこと、それは言うまでもなく彼女たちの闘いである。彼女たちにとっては生きること即たたかいであるにもかかわらず、そのうえに自分たちの生活に根ざした創造的な闘いを繰り広げる。
一九七八年度の文化祭のテーマは「暁を我らの手でー存在の証しを今うちたてよう」であった。
彼女たちはさまざまなたたかいのなかで、みずからの生に限りない意味を持たせようとしている・“暁”を求めて、彼女たちは強くたくましく生きようとしているのだ。
〈付記〉文中引用した資料は、直接取材したもの以外は、主に生徒会機関誌『暁』と、高校生文化研究会『考える高校生』からのものである。
柳広司は、数え切れないほどの本を読んできたのだろう。読んでいて、それがわかる。読書は、人間の精神に大いなる栄養を与える。栄養をたっぷりと呑み込んだ精神は、批判的知性となって輝く。
最初に読んだ柳の『アンブレイカブル』も、批判的知性をもったエンターテインメントの小説であった。そのルーツを探るべく読んだのが、この本である。
知的刺激に充ちた本である。この本は、本について書いている。いや本を読んで何を思い考えたかを記している。同じ本でも、人によってその思いや考えは異なる。しかし他人がその本をどう読んで、何を思い考えたかはとても参考になる。
本書に取り上げられたのは、『月と六ペンス』『それから』『怪談』『シャーロック・ホームズの冒険』『ガリヴァー旅行記』『山月記』『カラマーゾフの兄弟』『細雪』『紙屋町さくらホテル』『夜間飛行』『動物農場』『ろまん燈籠』『龍馬が行く』『スローカーブを、もう一球』『ソクラテスの弁明』『兎の眼』『キング・リア』『イギリス人の患者』である。
私が読んだ本も読まなかった本も挙げられている。もちろん知らなかった本もある。挙げられたなかで私がもっとも深い思考を喚起されたのは、『カラマーゾフの兄弟』である。ただし余談だが、米川正夫訳で、その訳は重々しく、ドストエフスキーの原文とは距離があると米原まりさんがどこかで書いていたので、米原さんの指摘を反映させた訳本を読みたいと思う。
紹介された本に関わりながら、柳の批判的知性がみごとに発揮されている。先に紹介したオリンピックへの言及は、スポーツ小説『スローカーブを、もう一球』に関わってのものである。
それぞれについて書かれたものは知的刺激に充ちたものであるが、私にとっては『ソクラテスの弁明』、『兎の眼』などに関わっての柳の思いがもっとも感銘を受けた。
私もかなりの本を持ち、これ以上本を増やさないようにしたいと思っているので図書館から借りた。しかし借りた本は書き込みが出来ない。この本は書き込みをしたい内容を持っている。買えばよかった。
新型コロナウイルスに感染したひとが、治ったとされたあともいろいろな症状が続いている。
たとえば・・・
かかるまで大きな事と考えず…「コロナ後遺症」に悩む日々 感染から4カ月の男性「本当に辛い目に遭うよ」
日本では、こういう状態を「後遺症」と呼んでいるが、海外では long COVID という。
新型コロナウイルスがもつ症状そのものだから、がその理由である。
なぜか日本政府は、Olympic関係者には毎日PCR検査をさせるという。厚労省の医系技官など「感染症ムラ」の方々は、広汎なPCR検査は不要であり、また有害であるかのような発言をしていた。ダブルスタンダードである。
しかし、無症状の感染者が他人にウィルスを感染させていることが分かっている以上、無症状感染者を把捉して隔離しないと、パンデミックはなくならない。
だから多くの国ではPCR検査を広汎に行っている。
週2回の無償ウイルス検査、英イングランドの全市民に提供へ
柳広司の『アンブレイカブル』を読み、今まで柳を知らなかったことを恥じた。そこで柳の『太平洋食堂』を読みつつ、岩波新書の『二度読んだ本を三度読む』を読んでいたら、東京Olympicに関わる個所を発見した。この本は2019年4月に刊行されている(岩波書店の『図書』で2017年10月から2019年2月まで連載)。2年以上前の記述であるが、新鮮である。2020東京オリンピックの問題点がきちんと記されている。
忘れてはならない。
柳の批判的知性に、私は感服している。その個所を紹介しよう。長いが我慢して欲しい。
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お祭(サーカス)は民衆にとっては政治を忘れるためのものであるが、権力者にとってそれは政治のための好機である。
という有名な定理があって、オリンピック(=お祭り)が権力者に政治利用されるのは、いわば当然の帰結であった。
勘違いされては困るが、スポーツ=オリンピックではない。
・・・・スポーツは本来、選手個々人のものだ。たとえ団体競技においても、その本質は変わらない。個人に還元されるべきスポーツの大会に国家単位で選手を派遣し、メダルを競わせる時点で、オリンピックは「国家主義」「国家発揚」の政治的意図を必然的に体現してしまっている。
かつてオリンピックは「アマチュアスポーツの祭典」と呼ばれた。アマチュアリズム村長を高らかに謳い、スポーツでわずかでも金銭を受け取った事実が判明すると選手名簿から除名、メダルを剥奪されるという徹底ぶりだった。 180度方針が転換したのは、 1984年のロサンゼルス大会からだ。大手スポンサーを率いれ、莫大な放映権料を設定することで、オリンピックは一転“もうかる商売”へと変貌した。資本主義という悪魔に魂を売った代償は、スポーツのショービジネス化と、なし崩し的なプロ選手の参加である。
オリンピック開催地を巡って多額の使途不明金が飛び交い、 IOC役員はスポンサーの金で世界中を豪華に旅してまわるようになった。各国政治家にとってもオリンピックは国民の税金を堂々と私物化する体(てい)の良い名目となり、政界や財界の面々がハゲタカのごとく群がった。
2013年、ブエノスアイレスで行われたIOC総会において、日本の首相は臆面もなく「汚染水は完全にブロックされている」と、事故現場で懸命に作業を続けている人々を唖然とさせる嘘をつき、流暢なフランス語をあやつる女性タレントが「お・も・て・な・し」を約束して、2020年の開催地は東京に決まった。国際オリンピック委員会連中がどんな「お・も・て・な・し」を期待してやってくるのか考えただけで寒気がする。帰国後、首相の嘘は取り巻きや財界から賞賛され、以後彼は嘘をつけば褒められると勘違いするようになった。
当初東京大会は「復興五輪」と呼ばれていた。東北や九州地方で起きた地震被害、さらには原発事故からの復興だという。
開催決定後、オリンピック関連施設の工事が国策となった。人材も資材も東京に集中、資材費人件費が高騰し、東北や九州では不幸が妨げられている。オリンピック関連の大規模工事は震災で焼け太りしたゼネコン各社に割り振られ、平然と談合が行われている有り様だ。
東京大会開催決定翌日、国営放送(NHK)は無論、民放テレビ各局、さらには大手新聞4紙がこぞって公式スポンサーに名乗りを挙げ、「東京オリンピック2020」への異議申し立ては事実上封殺された。「決まったからにはやるしかない」と、まるで「始めたからには勝つしかない」と国民を鼓舞した先の戦争時と同じことをマスコミをまた繰り返している。
昨今はさすがに「復興五輪」は無理があるらしく、広告代理店を中心にアスリート・ファースト」などと、何語なのかさえ不明な言葉が広まっている。もしくは広めようとしている。
すでに発表された東京オリンピック2020の日程は、 7月24日から8月9日。
近年急激に温暖化が進み、気候が東南アジア化してる日本・東京で、猛暑の8月、真っ昼間に激しいスポーツを行う?マラソンコースも発表されたが、それによれば「午前7時のスタートでもコースの8割が暑さ指数(というものがあるらしい)で厳重警戒レベルを超える」という話だ。
どこがアスリート・ファーストなのか?
ちなみに1964年の東京オリンピック開会式は10月10日。「まるで世界中の青空を東京に持ってきてしまったような素晴らし秋日和です」と思わず発したスポンサーの言葉が図らずも東京による地方簒奪の状況を暴露した事実はともかく、スポーツをするには悪くない季節だ。(中略)
良く知られている通り、8月の競技日程はアメリカを中心とするテレビ各局の都合である。10月では秋の番組編成に支障を来す。オリンピックは番組端境期の夏にこそふさわしい。ー
選手の都合ではない。明らかに莫大な放映権料を支払うスポンサーの都合だ。が、「スポンサー・ファースト」というフレーズは、なぜかなかなか広まらない。
かつて「参加することに意義がある」と謳われたオリンピックの精神はどこへやら、メディアは「勝てば官軍」、メダルを取った者たちだけに群がり、ほめそやす。メダルを取らなかった者は、たとえ世界第四位であっても“お呼びでない”という非情さだ。勝利至上主義、それもオリンピックがもたらした害悪である。
(中略)
今やオリンピックは選手を商品化し、搾取する、資本主義最悪の見本市と化した。
(中略)
選手よりスポンサーの顔色を窺うオリンピックなど本当に開催すべきなのか、私たちはいま一度足を止めて考え直すべきであろう。
あのエンブレムは、オリンピックの喪章としてもいけると思う。