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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「非歴史的ー超歴史的なもの」

2024-07-09 12:19:58 | 読書

 以前紹介した『現代思想』増刊号「丸山真男 生誕100年」特集号、発売されたときにほとんど読んでいたが、長文である故に読まずにおいたものがある。木村直恵の「「開国」と「開かれた社会」」である。この論考は、丸山真男が「古層」(原型・古層・執拗低音)とよんだカテゴリーがどのような思考のなかで生みだされてきたのかを説明している。

 昨今、「開かれた社会」ということばが、丸山真男と関連したところで記されているが、このことばはカール・ポパーのものだ。

 わたしが属している研究会のメンバーなら、今から10年前に故金原左門さんが「大正期の「開かれた社会」-大正期デモクラシーの無限の地下水- 」を話し、また書いているが、この「開かれた社会」も、ポパーである。ポパーの概念をつかって、「大正期」を考えようとしてもので、丸山真男だけではなく、金原さんもポパーに関心を持っていたのである。その際金原さんはカーの『歴史とは何か』への批判的な言説としてポパーの『開かれた社会とその敵』に注目したのであった。ポパーのこの本は、とても大部で、以前は翻訳書が未来社から出ていたが、最近は岩波文庫から出ていて、その翻訳はとてもわかりやすいという評判となっている。10年前、金原さんから電話で、ポパーをよみなさいと言われていたことを思い出して第一巻を購入したところである。

 丸山真男が「原型・古層・執拗低音」を提起した契機は、「開国」(『忠誠と反逆』所収)に書かれている。丸山は、敗戦直後と明治維新の状況とが相似的である(「閉じた社会」から「開かれた社会」へ)ことから、幕末維新期と敗戦直後の日本社会を、「開国」であったとする。その際、丸山もポパー(丸山は、ポッパーと書く)に注目し、「非歴史的ー超歴史的なもの」を見つめることになる。

 ポパーの『開かれた社会とその敵』は、「全体主義と思想的に対決する」ために書かれたものだ。木村直恵は、「全体主義を前にしたときの存在拘束性ー歴史主義的立場の脆弱さと、それにたいする非歴史主義的立場の強靭さ」を指摘するが、全体主義に対決する際、歴史主義的立場は脆くも対決の場から離れていくが、非歴史主義的立場の者は強く、全体主義に負けない。それは戦時下の日本の知識人のありようでもあった。

 「過去の事象をそのまま「歴史的なもの」のうちに回収することなく、あえてそこに「非歴史的ー超歴史的なもの」を投げつけることによって、過去から「現在的な問題と意味とを自由に汲みとる」というこの狙い」が丸山の「開国」の「本質的な問題に関わっている」と、木村は記す。それが「開国」から「原型・古層・執拗低音」に至る、丸山の思考の方法であった。

 丸山は、日本思想に、「非歴史的ー超歴史的なもの」をみる。それは「「思想」にかぎりますが、日本の多少とも体系的な思想や教義は内容的に言うと古来から外来思想である、けれども、それが日本に入ってくると一定の変容を受ける。それもかなり大幅な「修正」が行われる」であり、「まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある」(「原型・古層・執拗低音」、『日本文化のかくれた形』、岩波現代文庫)、その「音型」を「原型」、「古層」、「執拗低音」というのである。まさに日本思想の根底に、「非歴史的ー超歴史的なもの」を発見するのである。

 そのような「非歴史的ー超歴史的なもの」としての「古層」には批判がある。

 たとえば末木文美士『日本宗教史』の巻頭には、次のような批判が並ぶ。わたしの視点も、末木と近い。

・・・・「歴史意識の古層」(『忠誠と反逆』所収)という論文の中で、丸山は記紀神話の冒頭の叙述から「なる つぎ いきほひ」という三つの範疇を取り出し、それが執拗な持続低音として、「日本の歴史叙述なり、歴史的出来事へのアプローチの仕方なりの基底に、ひそかに、もしくは声高に響き続けてきた」とする。そこには戦後、近代的、合理的な思考を日本の中に根付かせ、再び戦前に戻る前と努力してきた丸山が、その試みに挫折し、伝統的思考の根強さにお手上げとなってしまった状況が反映されているようだ。

 丸山はその「古層」の頑固さの背景に、「われわれ「くに」が領域・民族・言語・水稲生産様式およびそれと結びついた聚落と祭儀の携帯などの点で、世界の「文明国」の中で比較すれば全く例外的と言えるほどの等質性を、遅くも後期古墳時代から千数百年にわたって引き続き保持してきた、というあの重い歴史的現実が横たわっている」と指摘する。丸山の古層論は今日あまり評判がよくない。確かに「例外的と言えるほどの等質性」が歴史的に保持されてきたという前提は、今日すでに崩れている。そうとすれば、いわば有史以来変わらない発想法というのはあまりに非現実的であり、そのまま認められないことは明らかである。不変の発想様式を前提とすることは、形而上学的な決定論に陥ることになる。

 ・・・・・我々の現在を制約するような「古層」は、それ自体が歴史的に形成されてきたと考えるのが最も適当ではあるまいか。

 ・・・歴史を貫く一貫した古層を認めず、それを歴史的に形成されたものと考える。

 ・・・歴史を通じて、まったく変わらないものを認めようとすれば、こじつけとなりフィクションとならざるをえない。

 丸山は、「ぼくの精神史は、方法的にはマルクス主義との格闘の歴史だし、対象的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だった」(座談「戦争と同時代」)と語っているが、「格闘」の結果が「原型・古層・執拗低音」の発見であったということ、それをどう考えたら良いのだろうか。

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旅立たれる人々

2023-03-19 19:11:52 | 読書

 今朝、娘から義母が亡くなられたという連絡を受けた。

 最近、亡くなられる方が増えた。新型コロナ第八波では、世界で最も日本の死者が多く、またコロナ感染でない方の死者も多いと報じられている。

 先日、作家の大江健三郎さんも亡くなられた。今日、書庫から『大江健三郎同時代論集』(岩波書店)の1を持ち出した。出版されたときに、全巻購入してあったもので、ずっとしまい込まれていた。せっかく揃えているのだから、読まなければと思った。大江健三郎さんは、作家でありながら、戦後日本の民主主義を大切にしようと努力されてきた方である。政治社会状況に対しての発言を、しっかりと読み込もうと思う。

 書庫には、『山辺健太郎・回想と遺文』(みすず書房)があったので、これも持ち出し、寝転びながら山辺健太郎という人物に対する回想の数々を読み始めた。

 山辺健太郎は共産主義者であり、活動家であった。1926年の浜松日本楽器争議にも参加している。戦後は活動家というより、歴史研究者として知られている。『日韓併合小史』、『日本統治下の朝鮮』(いずれも岩波新書)、みすず書房の『現代史資料』の「社会主義運動」などを編纂・刊行している。

 さてその『・・・回想と遺文』であるが、活動家諸氏とともに歴史研究者も文を寄せている。遠山茂樹、松尾尊兊、犬丸義一・・らである。そこに寄稿された方々の多くもすでに鬼籍に入られている。これらの方々も戦後歴史学を担われてきた方々である。

 「戦後」というのは、平和と民主主義、経済成長で特徴づけられると思うが、今はそれらが消えかかっている。最近の軍備増強の動き、台湾危機などが叫ばれているが、平和と民主主義が無視され、「戦前」といってもよい大きな変化が生じている。

 私は、これら「戦後」を担ってきた人々がのこされた様々な著作をしっかりと読み、後に時代に引き継いでいかなければならないと思う。

 

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「戦争か、平和か」

2023-02-18 21:22:53 | 読書

 イタリアの思想家であるマウリツオ・ラッザラートの著書(未邦訳)、『戦争か革命か なぜなら平和は選択肢にないからだ』について、廣瀬純さんが紹介している。

 資本主義にとって戦争は不可欠のものだと言っているようだ。、資本主義が障壁を乗り越えるためには「戦争」するわけであるが、戦争を起こすのは国家であるがゆえに「資本主義は「資本」単体ではなく「国家=資本複合体」の観点から捉え直さなければならない」とする。

 資本主義にとって国家は必要不可欠なものであるがゆえに、末尾の文にはこうある。

 「国家によって組織されるすべての戦争を、国家に対する内戦へと転じ、国家制度それ自体を打倒するときにこそ、資本主義は終わるのである。」

 つまり、資本主義を変革するためには、国家を倒さなければならないということである。

 この本、邦訳されたら読んでみたいと思った。

 

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読書の秋

2022-10-30 21:19:06 | 読書

 今2冊の本を読み進めている。一冊は斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)である。昨日図書館から借りてきた。最初から読むのではなく、終章から読みはじめた。終章には、柴田翔の『されど、われらが日々』が取り上げられていたからだ。この本を、僕は高校生か大学の頃に読んだ。詳細は覚えていないが、とても感動した記憶がある。今日、書庫をさがしたがなかった。僕は『贈る言葉』も感動した記憶がある。

 斎藤のこの本は、買った方がいいかと思った。韓国の小説をたくさん読んでいるわけではないが、こういう記述を読むと、もっともっと読まなければ、と思う。

 今まで見てきた 韓国の小説の多くが、 歴史が負った傷をさまざまな視角から描いている。または個人の傷に潜む歴史の影を暴いている。それだけ満身創痍の歴史だったともいえるし、韓国の文学者たちがそれを描くことを大事にしているからでもある。そして何より、歴史を見つめるのは現在と未来のためだという感覚を多くの作家が共有している。

世の中は初めから欠陥だらけである。歴史も傷だらけである。それを一人が一人分だけ、一生かけて、修復に修復を重ねて生きていく。(293頁)

 確かに韓国の歴史は、「満身創痍」のそれであった。植民地支配、南北分断、朝鮮戦争、独裁政権・・・・韓国の文学者はそうした歴史を見つめる、それも現在と未来のため、だというのだ。引用した末尾の2行は、私に生きる力を与えてくれた。

 もう一冊は、今日届いた。『逍遥通信』第七号である。「追悼 外岡秀俊」とある。分厚い。『週刊金曜日』の植村隆さんの「ヒラ社長が行く」で紹介されていたので、読みたくなって発行人の澤田展人さんに連絡した。すぐに送っていただき、読みはじめたのだが、これがまたいい。

 というのも、もと朝日新聞記者の外岡秀俊さんと僕は、ほぼ同時代を生きてきた。そして同じような時代の空気を吸い、現実に対してプロテストする姿勢をもった。プロテストの方法は独自ではあるが、プロテストの精神は共通する。この本には、北岡さんの高校(札幌南高校)時代の同期生がたくさんの文章を寄せている。僕はまずそれらを読んだ。外岡秀俊のことを書きながら、その時代の空気が描かれていた。僕の高校時代の雰囲気と共通するものがあった。この頃の高校生は、背伸びしていろいろな本を読み、話し合った。そして相互に刺激し合っていた。

 僕は良い時代を生きてきたと思う。その頃考えたこと、書物などで学んだことなどが、今も僕の内部に生きていることを感じる。

 この二冊、とても、とてもよい本である。今は亡き外岡秀俊さんの本も、である。

 

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ことばの重さ

2022-10-18 08:40:29 | 読書

 講談社文芸文庫の『故郷と異郷の幻影』を読む。読み終えたら私の元を去る本である。

 木山捷平の「ダイヤの指環」は、日本の敗戦直後に「満洲」に生きたことを回顧する。国家の後ろ盾など支えるものが消えた状況の下では、ひとりの人間として生きていくしかない。ただの人間同士の交流を振り返る。

 辻邦生の「旅の終り」。辻邦生の作品は読んだことがない。この小品を読んで、このひとの作品は読まなくてもよかった、と思った。少しも心が動かされることはなかった。

 石牟礼道子の「五月」。重い、重い作品である。強いられた水俣病、それに苦しめられる患者たち。肉体の苦しみを描く場面は重く迫ってくる。反面、ふつうに生活できていた時期の回想は、軽やかに語られる。重く、また軽やかに、それが交互にやってくる。

 「安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。」

 綴られたことばが、ことばなのに重い。重いことばは、しかし創造的なのだ。

 『世界』に金石範の「夢の沈んだ底の『火山島』」が掲載されている。これにも、私は支えられない重さを感じた。

 重いことばの背後にぴったりと人びとの生死がくっついているからだ。

「記憶を喪失した人間は人間ではない。」「眼は開いていて見えない。耳は眼の横についていて聞こえない。口があっても話せない。」「ことばが、軀のなかから離れない。ことばが離れようとしても恐ろしい苦痛で、ことばが軀から取れない。出てこない。」「忘却に歴史はない。」

「記憶の殺戮と記憶の自殺両方を背負って、限りなく死に近く沈んでいた忘却からの蘇生。それが歴史に対する意志であり、完全に死に至っていなかった記憶の勝利だ。生き残った者たちによる忘却からの脱出、暗闇の底から一人、二人と語り始めた証言が、氷河に閉じこめられていた死者の声をよみがえらせる。はじめの一歩だが、その記憶の勝利は歴史と人間の再生と解放を意味するだろう・・・」

ことばが新たな意味を持って創造されていく。文学の有効性は、こうしたことばの創造をおこなうことにより、実証されていく。

私がやってきた歴史叙述の力のなさよ。

 

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寂聴さんの本

2022-03-31 08:12:57 | 読書

 『ユリイカ』を読んでいるが、寂聴さんが寂聴さんだけに、寂聴さんを論ずるに、全力投球していることが文章から匂い立ってくる。

 寂聴さんは誰とでも話し、ほめて伸ばす人だという。そうだろうと思う。晴美さんの頃、静岡の大杉栄らの墓前祭に来静されたとき、運転手を務めた私とも気さくに話していただいた。そのときの会話の一部は今も覚えている。にこやかに、クリアでエネルギッシュな話し方をされていた。

 私は、『比叡』を読んだとき、これぞ文学だと思ったことがある。今読んでもそう感じるかどうかは分からないが、感動した記憶がある。

 寂聴さんの文学は、寂聴さん自身の生き方と作品を重ね合わせて批評されることが多い。私小説が多いからだ。ただ私は、伊藤野枝や管野須賀子など、評伝文学の方を好んで読んでいる。

 『ユリイカ』をはじめから読んでいて、黒田杏子さんの、寂聴さんとの俳句との関わりを記した文はよかった。寂聴さんの「御山のひとりに深き花の闇」という句が紹介されているが、その説明に感心したし、文学者としての寂聴さんの句も、卓越していると思った。

 高村峰生さんの「おしっことお風呂」は、寂聴さんの作品の中から、おしっことお風呂を記した情景を切りとり、それらがどういう意味をもたされているかを考察したもので、寂聴さんの文学を文学としてきちんと読むことを示唆するものであった。

 寂聴さんは、石牟礼道子さんが亡くなられたとき、「いいわね・・こんなにいろんな人が文学のことを褒めてくれて」と言ったそうだ。私小説作家としての寂聴さんではなく、文学者として彼女の文学を鑑賞していくことの必要性を、高村氏は記していた。

 中上紀さんの文も良かった。中上さんも寂聴さんにより作家になった人のようだ。父君は中上健次。

 その次は「栗原康」の駄文。毒にも薬にもならない、わけの分からない単語を並べただけの戯れ言であった。おそらくこの人は、寂聴さんの本は大杉や野枝のことを描いたものしか読んでいない。

 多くの人が、寂聴さんを真剣に論じているのに、まったく失礼な文である。ここまで読んで、しばし休憩。

 

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『世界』2月号

2022-01-12 08:07:45 | 読書

 昨日『世界』2月号が届いた。特集は二つであるが、私はいつも「メディア批評」から読みはじめる。いつも通りに、鋭い指摘が並ぶが、テレビを見ていない私にとっては「そうだったのか」というだけだ。

 もちろん新聞への言及がある。辺野古新基地の建設断念を明言したのは『東京新聞』だけだとのこと。『朝日』や『毎日』は、『読売』や自民党・公明党政権の方針に徐々に引きずられているということでもある。そういう新聞にカネを出そうとは思わない。「メディア批評」は、「日米安保条約は日本の安全保障上、本当に不可欠な存在なのか。同条約が沖縄差別を引き起こしているのではないか。本土メディアの人権意識が問われる」と書いている。

 同感である。アメリカという国家が、誕生以来、一貫して独善的な外交政策を展開してきたことを学んだ私としては、自国のことしか考えないアメリカと「同盟」していることに危惧を持つ。

 今、アメリカは中国の「人権」を非難しているが、つい最近までアフガンその他でのイスラム教徒の過激派によるテロに苦しみ、中国に対してイスラム教徒の過激派取り締まりを要求していた。その過激派を産み出す地域は「新疆ウイグル自治区」であった。中国による「新疆ウイグル自治区」抑圧は、アメリカが求めていたことでもある。また、中国の「人権」を非難するアメリカは、中東で、多くの一般住民を殺してきた。アフガン撤退時でも誤爆によりNPOの人々を殺したばかりである。外国の民間人の生命を奪うアメリカが、他国の人権状況を批判できるのか。 

 そういう米国の利益を最大限引き出そうと日本の政治家がアメリカCIAと手を組んで、表向きは「愛国者」「ナショナリスト」の顔をしながら暗躍してきた戦後の歴史をみると、暗澹たる気持ちになる。

 さて「世界の潮」に、「ドストエフスキー生誕200年」の記事があった。知らなかったが、1917年の革命後、ドストエフスキーは冷遇されていたそうだ。レーニンは彼の作品を酷評していたとのこと。1960年代まで、ドストエフスキーの作品は「発禁状態」にあったそうだ。

 今では、「罪と罰」が学校で必修とされているという。よいことだ。ドストエフスキーは読むべきである。みずからの生き方に大きな影響を与えること、間違いナシである。大学一年生の時、ドストエフスキーを読みあさった。その感想を日記につけながら。

 ドストエフスキー生誕200年、時間があったらもういちど読み直そうと思っている。ただ、私が読んだのは米川正夫訳。本当は、ドストエフスキーの作品は笑いがあるのだと、亡くなった米原万里さんが書いていた。他のひとの翻訳で読もうと思っている。

 

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考えさせられたスピーチ

2021-11-16 12:16:26 | 読書

[東京外国語大学]アレクシエーヴィチ氏記念スピーチ

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斎藤美奈子さんの本と昼間定時制高校の話

2020-12-11 19:46:04 | 読書

 紀伊國屋書店の『中古典のすすめ』。ずっと読んでいて、山本茂美『あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史』について書いた文が光る。

 ただし、86頁のこの本を間違って、訂正もせずに『あゝ野麦峠ーある製工女哀史』としている。編集者はこの誤植に気付かなかったのか!

 私も『あゝ野麦峠』は感動しながら読んだ口だ。なぜなら、若い頃、貧しい製糸女工さんのような生活を強いられていた少女たちを知っていたからだ。

 そのことについてルポルタージュを書いたことがある。「“暁”を求めてー現代の「織姫」たちー」である。某雑誌に2回にわけて掲載したものだが、上だけデータ化してあるので、ここに貼り付ける。長文である。(1982年に書いたもの)

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消えた「女工哀史」

 野麦峠を訪れる観光客の胸中にあるのは、あの『あゝ野麦峠』に描かれた幼い少女たちが日本近代に残した重い足跡なのだろうか。冬になると野麦峠に雪が降り、少女たちの足跡を消していったように、時の流れは「女工哀史」を歴史的な事象として、おびただしい書物のなかに埋めこんでいってしまう。だが、書物のなかだけに「女工哀史」はあるのだろうか。

 日本の多国籍企業が低賃金労働力を求めて韓国、台湾、東南アジアなどに侵出していっているのは周知のことであろう。繊維産業ももちろんその例外ではない。「女工哀史」の悲劇はそのままのかたちで、まず海外で演じられている。貧困という民衆のありようが、日本企業に甘い汁を吸わせている哀しむべき、いや怒るべき事実がある。

 時間という経験と、空間という緯線が私たちの前に交わっているのである。
 だが、その交点の真下、つまり私たちの足もとにも「貧困」があり、その「貧困」を貪っている者たちがいることは、あまり知られていない。

 

働く女子高校生

 女子高校生が働いている。もちろんアルバイトではない。生きるために、高校生活を維持するために働いているのである。彼女たちは繊維産業(紡績・織物工場)の労働者であると同時に、昼間二交替定時制に通う高校生である。
 彼女たちの一日は次のようにして始まる。
  
 私たちの毎日の生活は、けたたましいめざましの音で目 がさめる。時刻は4時20分。まだ眠りたいという意思とは裏腹に、体だけが自動的に働きはじめる。凍りつくような水で顔を洗うのはとてもつらい。かじかむ指で作業服に着替え、まだ星の散りばめる暗い道を工場へと向かう。その足取りは重い。午前五時、作業開始のサイレンが私たちの頭に響く。まるで『仕事を始めるんだ』と命令するかのように・・・

 このようにして始まった彼女たちの生活は、午後1時30分に仕事を終え、高校へ行く。

 ふつう定時制高校というと、そこに通う生徒たちは、昼間働いて、夜、学校に行く。しかし彼女たちは昼間学校に行くのである。
 このような昼間二交替制定時制高校は、生徒集団を二つに分ける。一方が働いている時、一方は学校に行っている。したがって午前に学校に行く生徒集団もある。彼女たちの労働は午後1時30分から夜の10時まで、あるいは10時30分までである。一週間毎に二つの生徒集団は、それぞれ仕事と学校を交互に繰り返す。このような変則的な生活時間帯は、繊維産業の二交替労働に照応してつくられたものであることは言うまでもない。
 4年の間、こうした生活は続けられる。その間、彼女たちは、思い悩み、様々なことを経験する。

 

「私たちは機械ではない!」

 昼間二交替定時制高校(「昼定」と言われる)の女子高校生たちの生活は、まさに「時間に追われる生活」である。だから彼女たちは歩かない。移動は常に「かけ足」である。

 昼定の一女子高校生はこう語る。

  だって時間がないもの。自分の自由な時間をつくるにはかけ足するしかないんです。

 彼女たちの働き、学ぶ生活の中で、自由になる時間は2時間足らずである。それ以上とるためには、基本的な生活(たとえば睡眠、食事など)を犠牲にしなければならない。列車の過密ダイヤのように、分刻みの時間に追われる。いや、時間に切り刻まれる生活が続くのだ。

 そんな時間のなかで、最もまとまった時間、それは働いている時間である。約8時間の労働の中身はどうなっているのであろうか。幾人かの女子高生たちに「私の仕事」と題したレポートを見せてもらった。そのいくつかを紹介しよう。

 まず織布工場では・・
 ○織布の戸を開いてびっくりすることは、鼻をつく悪臭とガシャガシャという大きな音。落ちついて仕事ができるかと疑問すら出てくる。新入生の時など、機場から出てもキーンという耳鳴りが三週間ほど続き、とても痛く他の音がとても小さく耳に入ってくる 

 ○人数関係にしろ人が足りないために名だけの有給休暇といった感じで、一人もらえば二人でやらなければならないので、後々のことを考えればとてももらう気になれません。病気などをしてもどうしても欠勤する場合にはじめて有給休暇で休むくらいなのです。この職場は体に絶対に害になっていると思う。毛羽が一日に段ボール一箱でるのです。

  ○人数が少ないから、やたらに休むことができない。たまらないのは生理の時です。腰を曲げたりするので苦痛だ。生理休暇がないからお互いいたわり合いながらやっている。

  ○どの職場でも、やっぱり織布は神経を使います。傷なんかはいれば、やっぱり織布の責任だから。4年間働いてつくづくイヤになりました。それから、出勤する時間はみんなより早いのです。同じ時間に始まるのですが、朝織機に油を差さなければならないので、4時35分か40分頃部屋を出なければならないのです。

  次に紡績工場では・・・
  ○粗紡の仕事ですが共通して言えることは、目、口、鼻に綿ぼこりや風綿がはいって痛いし、腰を曲げるので、ある人はヘルニアになった人もいるし、音がうるさいので耳が 痛くなる。

  ○仕事が始まる前に台の清掃。サイレント共に立ちっぱなしの仕事が始まる。

  ○本来なら男の人の仕事だけど、人手不足のため女の子がやっている。精紡でできた管糸を捲糸に運ぶ仕事が管糸運搬である。下に車のついた運搬用の車で一箱10㎏前後の箱を一度に20個ぐらい乗せて運ぶ。

  ○食事は、まわし交替となっていて、先番の時(午前中仕事をする時、午後の場合は後番という-引用者注)は6時45分から45分間ずつ9時まで、後番の時は17 時15分から19時30分までである。それ以外休憩はなく、自分勝手に台を止めることができない。

  ○捲糸には三種類の機械があって、各機械に一日の目標あ げ個数が決められています。そして毎日、黒板に各人のあ げ個数を書き、目標達成ができた人には赤チョークで枠を とったり、丸印をつけたりして、私たちの競争心を駆り立 てているようです。

 女子高生たちが一生懸命に働く、いや働かされている姿が目に浮かぶようである。紡績工場では8時間、ずっと機械の間を走り回っている姿がある。いずれにしても彼女たちの労働は生やさしいものではない。それでもある高校生はいう。

  私たち失敗しないように必死にやっています。失敗したら、他の人に迷惑をかけるし・・・

 彼女たちは与えられた仕事を必死にやろうとする。やらずにはおれないような体制ができているといった方がよいのかもしれない。とにかく働く。しかし彼女たちもふと考えるときがある。

  私たち、台を動かしているというよりも、逆に私たちが動かされているみたい。

  そしてこう叫ぶのである・・

  私たちは機械ではない!

 

破壊される健康

 全日制高校の生徒の疲労度は、学校の生活の中で高くなっていく。しかし昼定の女子高生の疲労度は、学校生活の中で低くなっていく。疲労しきった体は、学校生活の中で回復するのだ。

 女子高生たちは労働の現場で健康を害していく。

 先ず高温多湿の職場環境は、水虫を蔓延させる。水虫がひどくて通院する者が多い。それから難聴。ひどい騒音の中で仕事をするから当然かもしれない。また重いものを持ったり運んだりするので腰痛・ヘルニアに苦しむ者も多く、入院する者もいる。他に関節炎、生理痛・生理不順なども多い。彼女たちは身体の限界を超えて働かされているといってよいだろう。

 このような昼定と他の全日制高校と同時に行われたアンケート結果がある。

 明らかに昼定の女子高生に身体の故障が多いことが分かる。生理休暇も、有給休暇も十分にとれないというなかで、彼女たちの身体は蝕まれていく。

 ある女子高生は、話す。

 企業側は私たちをなんだと思っているのか。生産を増すだけの機械みたいだ。身体の具合が悪くても『あなた学校に行ったんでしょ。だったら仕事だってできるはずよ』と、働け、働け。私たちは勉強するためにここに来たのだ。学校があったから、ここに来たのだ

 通院する場合、彼女たちは学校を休んでいく。学校に行けば「学校に行ったなら仕事はできるはずだ」といわれる。彼女たちは決してズルで欠勤するのではない。欠勤すれば同僚に対して迷惑になることを知っている。やむを得ず休むのだ。それに対して会社側は、「働け、働け」という対応しかとらない。
 その対応も、ただ単に会社側の人間が積極的に行うのではなく、卑劣にも、女同士の目に見えない対立を利用したりする。労働者同士の足の引っ張り合いである。特に上級生が下級生を「指導」することになっているが、実際は「管理」の論理で下級生らに迫っていく。女子高生たちは上下関係の強さを意識してこう言う。

  先輩後輩の差がありすぎる。
  上の人はえらそうだ。 
  上司から言われることを素直に受け入れねばその職場でいやがられる。

 同じ労働者同士が監視し合い、労働を強化させていくのだ。その中で彼女たちの身体は破壊されていく。
 女子高生たちのできることはただ一つ、それは耐えることである。

 一人の女子高生は次のように記している。

 この先いったいどうなるのか。普通の高校生を見るとうらやましく感じ、何度ここをやめたいと思ったか数知れません。『ふつうの高校生になりたい。家に帰りたい。お母さんに甘えていたい。部屋がうまくいかずつまらない。仕事がつらい。もう疲れた』などと泣き言を思ってみたりもしました。そのたびに浮かんでくるのはお母さん、中学生の時の先生の励ましのことばです。『負けない、頑張るぞ』などと自分を励まし、立ち直り、今日まで頑張ることができました。これから先、つらいこと、悲しいこと、いろいろな困難にぶつかると思いますが、自分に負けずに頑張っていきたいと思います。いいえ負けてはならないのです。ここまで来た以上は、勉強と仕事を両立させていかなければならないのです。自分自身のためにも・・・

 彼女たちは4年間、つまり昼定を卒業するまで頑張りたいという。いくらつらくても、苦しくても「自分で選んだ道だから」と。

 しかし4年間必死に働いてやっと卒業=退社だ、と解放的な気分になれればよいのだが、残念ながらそうではない。彼女たちに最後の関門が待ち構えている。

 

会社、やめさせてくれない!!

 女子高生たちは4年間の「時間に切り刻まれる日々」を耐え抜く。そして昼定を卒業すると同時に、新しい世界へ旅立とうとする。だが、繊維のいくつかの企業は退社させてくれないのだ。

 「退職の自由」は、戦前の大日本帝国憲法下の時代ならいざ知らず、日本国憲法があり、その下には労働基準法などがあって、労働者の様々な権利の一つとして保障されているはずである。
 だが現実はそうではない。

 戦前、企業は「前借金」、「強制貯金」、「強制労働」などで、労働者の「退職の自由」を奪っていた。現在ではもちろんこれらのことは禁止されているが、「前借金」ならぬ「仕度金」(後述)、「強制貯金」ならぬ「社内預金」-これらは法に触れないようにしながら、今も十分機能している。

 「社内預金」は請求すれば、遅滞なく返還されることとなっている。しかし、ある女子高生が「会社を辞めたいから、社内預金を下ろしたい」と言ったところ、「まだ退社を認めていないからダメだ」と拒否されることもあったという。このような状況の中で退社するためには、着の身着のままで逃げるしかないという。

 ではどのようにして退職させないようにしているのだろうか。その例をいくつか記そう。
①看護婦になりたいという女子高生に、社長夫人は言う。
「看護婦なんかになると結婚する相手がなくなるし、こき使われるだけよ。ここで働けばお金も貯まるし、親に面倒をかけずに結婚できる」

②3月5日に退社したいという生徒にはこう言う。
「そんなに早くやめて何をするのだ。そんなにあせってやめなくても、4月10日頃、新入生が入社して落ちついてからやめた方が気持ちよくやめられるじゃないか。3月5日でないと親が死ぬとでも言うのか。第一、今まで会社のお世話になっていて、卒業したらハイサヨウナラでは虫がよすぎるじゃないか。人がいないときにやめたいと言っても、それは無理な話だぞ」  

③結婚したいから退社したいといった女子高生に社長はこういう。
「若いからまだ結婚なんて早い。先輩は(卒業後)1年も2年もいるのに、おまえたちだけだ。会社のことは考えないのか。おまえはふつうの人間じゃない」

 企業にとってみれば、3月下旬に「新工」(新入社員)が来るので、4月いっぱいは働いてもらい、新入社員に技術などを伝授してもらいたいわけである。ちなみに企業内にある通信制の高校の卒業式は、4月に入ってからである。

 このように直接的に退社させないようにする一方で、次のようなこともする。
 まず待遇で。4年生になる時点で、退社しない女子高生には寮の個室を与えたりする。あるいは、4年で退社する場合と4年以上働いて退職する場合とでは、退職金に大幅な差をつけたりする。

 さらに、女子高生の親許に行き、退職させないよう親に働きかける。これが彼女たちにとっていちばんの圧力となる。

 彼女たちの通っている高校では、制度的には全くこのことに無関心のようである。なかには女子高生たちのために努力する教師もいるようだが、その動きは大きくはないようだ。

 だから彼女たちみずからが、訴えを始めた。今から5年前、1977年の3月6日のことである。女子高生たちの通う高校で卒業式があった。答辞は沖縄から来た卒業生によって読まれた。

 その答辞は、今も語り続けている。

  ・・・今、私たちの心も喜びでいっぱいです。この日のために遠くからお祝いにかけつけてくださいましたご父兄の方々をはじめ、私たちのために良きご指導を行ってくださいました諸先生方並びに一日も欠かさず送り迎えのバスを出してくださいました企業の方々に心から感謝したいと思います。
  振り返ってみますと、私たちは希望に胸をふくらませて、住みなれた故郷をあとにしました。そして人一倍根性のいる働きながら学ぶという、二つのことを同時にしなければならない昼間定時制への第一歩を歩み始めました。その当時は、どんなことがあっても4年間はやり通してみせるという固い決意と意地がありました。
  ところが、仕事と勉強の両立は、私たちの想像をはるかにこえた、困難をともなったものでした。唯一のくつろぎの場である学校は、全国各地から集まってきた仲間たちに満ちあふれ、私たちの楽しみはここで語りあうことでした。
  今思うと、1年目は無我夢中でやってきたせいもあって、あっという間に過ぎていったような気がします。仕事場では高温多湿という悪条件の中で、多くの人が騒音や水虫に悩み、さらには腰痛、ヘルニアで入院するなど、健康を害する人が数多く現れました。また2~3年前の石油ショックで繊維産業は大きな打撃を受け、この学校を去らなけれ ばならなくなった友もいました。
  このような状態で2年、3年を過ぎ、仕事にも学校にも慣れた私たちは、仕事の単純さと学校のつまらなさを日々感じたものでした。楽しみも日曜日と給料日だけの、はかなく空しいものに変わっていました。
  それを解決するために努力したかというとそうではなく、ただなんとなくこのような状態に押し流されて現在にたどりついたような気がします。それで充実した日々が送れたと満足していえる人がいるだろうか。この青春のまっ盛りの時期に、何かをし残したような空虚さを感じずにはいられません。その一つとしては、学校や企業に対する不満を爆発させずに今まで来たことです。
  私たち卒業生は今ここで次のことを要望したいと思います。第一に学校へは、「学校に就職の斡旋を委託する」という内容を持つ職業安定法第25条3項を採用し、転職希望者のために就職斡旋を行うことを希望したいと思います。2月中旬に調べた4年生の進路状況は、転職希望者のうちわずか34・45%しか決まっていない状態でした。毎年卒業生を送り出す学校側としては、そういう矛盾をなくし、卒業後の保証をしてほしいと思います。
  次に先生方は、生徒の持つあらゆる可能性を信じること、そしてこの学校は県立高校だということを、先生方はじめ企業側も再認識していただきたいと思います。
  第二に企業側への要望といたしましては、転職の自由を認めてほしいということです。それに会社で働く人たちの個人を尊重する意味で、寮生活の改善や食事の栄養面も考えて「苦情処理」の実現を果たすこと、特にある紡績に関しては、寮内の規則制限を緩め、プライバシーの侵害をしないことの要望も加えたいと思います。
  最後の要望は在校生の皆さんに対してです。在校生の皆さん、現在目覚めつつある生徒会に協力し、さらに発展させること、そして自分たちで決めたきまりを理由なく破らぬこと、不満なところは自分たちの手で改善して勝ちとることを望みます。もう一つ、今出した要望の行く末を見守り実現させてください。
  以上のことは、私たち卒業生の最大の望みであります。
  ・・・・・(中略)・・・
  離ればなれになる私たちは今度いつ会えるかわからない まま、一人ひとりの道を歩いて行きます。着実にしっかりと目的に向かって旅だっていきます。また次の目標をめざして。
  『詞集 たいまつ』より
   始めに終わりがある。
   抵抗するなら最初に抵抗せよ。
   歓喜するなら最後に歓喜せよ。
   途中で泣くな。
   途中で笑うな。

 

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「中古典」

2020-12-10 21:58:32 | 読書

 斎藤美奈子さんの本は好きだ。『東京新聞』のコラムにも、週一回書いている。文学評論家という肩書きになるのだろうか。その齋藤さんが『中古典のすすめ』(紀伊國屋書店)を出した。

 私は購入しようと思って、アマゾンなどをみたのだがなかった。そこで図書館にあるかと思って調べたらあった。他の人が借りだしていて、今日初めて手にした。

 「古典」というと岩波文庫に入っているようなものをいうが、「中古典」とは、まあ「古典」ではないが、注目されたり、少しは読む価値があるかなと齋藤さんが思ったものをいうのだろう。

 いろいろな本が紹介されている。読んだ本も読んでいないものもある。

 最初に紹介されているのは、住井すゑさんの『橋のない川』である。これは私は読んでいる。ただし全部ではない。齋藤さんは、第二巻までは読んだ方がよいとあるが、私は第四巻まで読んだはずだ。読んだはずだというのは、くっきりとした記憶がないからだ。しかし主人公が育った場所のイメージは、今ももっている。

 言うまでもなくこの小説は差別の問題を扱ったものである。私も当然読むべき本だと思う。差別というものがどういうものであるかを、体感的に知ることができる。

 今日手に取って読んだ紹介文は、柴田翔『されどわれらが日々・・』、高野悦子『二十歳の原点』である。いずれも学生運動に関わるものだ。

 学生時代に読んだ本は記憶に残り、また読んだときの感覚を思い出すこともできる。学生運動に関わっていた私にとっても、この本は思い出深い。この頃の柴田翔の本は今も書庫にあり、『されどわれらが日々・・』よりも私は『贈る言葉』のほうが好きだ。『贈る言葉』は青春の苦い思い出と一緒くたになっている。

 私の青春時代は、学生運動の波だけではなく、いかに生くべきか、恋愛、性など様々なものが一挙に押し寄せてきて大きな荒波にもまれていたような気がする。その波の中を生きぬき、こうして老いてきているのだが、今になって振り返ることがよくある。

 この齋藤さんの本を読み、そこに紹介されている本を、私自身がどのように読んだのかということと、つきあわせてみようと思う。

 もう一冊、図書館から借りてきたのは『有島武郎』(岩波新書)である。買うべきかどうかを迷い、とりあえず借りてみて良かったら買おうと考えた本である。

 私は芥川龍之介の後は、有島武郎を読んでみようと思っている。彼に当該時代の「歴史」がどのように刻まれているのか、私の研究対象としたいと思っているからだ。

 有島武郎の作品は、「古典」である。

 

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今月号の『世界』

2020-12-08 19:55:40 | 読書

 私が購読している雑誌の一つが、この『世界』である。岩波書店の月刊誌である。高校生の頃は、『世界』のほかに、『展望』(筑摩書房)や『朝日ジャーナル』も読んでいた。今残っているのはこの『世界』だけ。

 私は「メディ時評」から先ず読みはじめる。もちろんこれはメディアに関する論評であるが、いつも適確である。

 さて私はアトランダムに読むのだが、まず「犬笛政治の果てに」(金子歩)がまずよかった。トランプ政権がどういう流れの中から出現してきたのかを丁寧に教えてくれる。ニクソンやレーガンなど共和党の大統領が、要するに人種差別を利用しながら票を得てきたことが歴史的に記されている。

 アメリカの黒人をはじめとした人種差別はほんとうに根深い。白人中産階級の安定した生活は、いつも人種差別を背景にして維持されてきた。しかし白人中産階級が没落していくなかで、人種差別の意識が強化され、その意識を共和党が強化し、トランプにつながっている。

 それから横浜市のIR事業に関して、建築家の山本利顕氏が横浜市にカジノがない開発案を提示したという。「観光の根源とはなにか」というインタビューであるが、とても刺激的な内容であった。

 山本氏は「観光地」とは、テーマパークではなく、「「観光地」に共通するのは、ディズニーランドのような特別なテーマパークがあるわけではなく、住民たちが生活している場に観光客が来る」のであり、「自分たちにとって住みやすい魅力的な環境・空間が、観光客を惹きつけているわけで」、「観光客をもてなすのは、住民」なのであって、「「住民自治」が非常に重要なの」だという。そして「歴史的に形成されてきた文化を大事にしている土地の魅力にはかなわない」。

 そして「公」とは「国家が提供するもの」だと思われがちだが、それは「官」であって「公」ではない。「公」とは地域社会のコミュニティであり、「私」とはそのコミュニティのメンバーなのだ。

 このような指摘を読みながら、若い頃はそういうことを考えていたことを思い出した。個人ー社会的領域ー国家、山本氏に言わせれば、私ー公ー官という関係。

 山本氏は、「今の新自由主義的な改革も、中間団体を解消して、国家とばらばらの個人とに二元化してしまうという発想に貫かれて」いる、と。まさに「中間団体」、私がいう「社会的領域」、そこでは様々な個人、グループや団体が相互交流する領域である、それが現在は消されつつある。

 となると、どのようにコミュニティ、社会的領域、中間団体を豊かにしていくのかということを考えていかなければならない。

 山本氏は、そうした思想を持った提案をすることで、横浜市でそれを実現しようとしている。新自由主義に毒された横浜市政は、山本氏の提案にのることはないとおもうが、その思想を我々が学ぶべきではないかと思った。

 

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政治的社会化

2020-12-04 22:10:40 | 読書

 『東大闘争の語り』を読んでいる。

 著者の小杉亮子は、東大闘争に関わった東大生がどういう背景の中で東大闘争に関わるようになったのかをまず考えている。

 その背景に、日教組の運動、教員の教育実践の影響があるとみている。私は東大闘争の世代に少し遅れるが、日教組の運動や教員の実践が、私に政治社会的関心をよびおこしたという記憶はない。

 聞き取りの対象は、東京などの大都市出身者なのだろうか。地方都市では教員が政治的社会的発言を子どもたちにたいして発するということはなかった。政権批判など一度も聞いたことがない。

 いなかの中学校での私の教育経験は貧困であった。中学校1年の英語の授業は、体育の教員だった。ジスイズアディッシュという発音であった。2年の社会科(歴史的分野)は美術の教員、ただ黒板に書くだけの授業だった。ちゃんとした教員による数学の授業は3年の時のみ、英語は2年の時のみ、社会は3年のみ。理科はずっと恵まれなかった。国語だけが熱心な女性の先生であった。体育は最初と最後に来るだけ。

 影響を受けたのは、高校の3年現代国語と、2年の倫理社会だけかな。といっても当該期の政治の話なんか何も聞かなかった。

 私は高校のときから政治社会的に覚醒していたが、学校や教員とは無関係であった。

 とにかく、政治社会化に、私の場合は、学校や教員は全く無関係であった。

 

 

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文献のみの推測

2020-12-04 10:45:42 | 読書

小熊英二の『1968』という大部の本を私は読んではいない。以前このブログにも書いたが、「カッティング」の意味を小熊がわかっていなかった(小熊は、「印刷したビラを裁断する作業」であると解説していた)ことに強い違和感を持ったし、それも知っていない者の本は読む必要がないと判断したからだ。

今私は『東大闘争の語り』(小杉亮子、新曜社、2018年)を読みはじめたのだが、そこの記述に関して、小熊はここでも事実に基づかない文献のみによる憶測を記しているようだ。

小杉は、東大闘争に参加した者から、政治社会のことを自覚するようになった淵源を尋ねている。その淵源として、少年期に抱いた生活感(自分自身は「裕福ではないが貧困ではない」)をもとにして、周囲にあった貧困の存在に気付いていたことを析出している。

 小杉はこう書いている。

“裕福ではないが貧困ではない”、つまり裕福な人々と貧しい人々の両方について想像力を働かせられる位置にあったことは、自他のあいだに存在する経済格差や、東大生というエリートの立場に立ったことで生じる社会的地位の上下に対する異和感を形成させるものだった。東大闘争が発生したとき、その異和感は社会と大学に対する異議申し立て参加への障壁を下げることになった。(57)

私は東大卒業者ではない。しかしここに記されていことは納得できる。

中学3年時の私のクラス(40人以上いた)で、大学進学者はたった3人である。成績が良くても、職業高校に行く者も多かった。私も「裕福ではないが貧困ではない」という位置にあった。周囲には「おだいさま」といわれる家があり、私たちの生活とは異なる世界に生きていた少数の人々がいた。そしてもちろん、貧困そのものの家庭もあった。子どもの頃の生活感はそういうものであった。

小杉は小熊の主張をとりあげる。

1960年代学生運動参加者のこうした、自らが相対的に有利な位置にいるという自覚と社会的格差に対する繊細な感受性は、先行研究では受験競争の勝利者としての「罪悪感」に短絡されてきた。すなわち、ベビーブーマー世代の成長とともに激化した受験競争のなかで、その頂点に立つ東大に入学することができた彼らは、「平等を重んじる戦後の民主教育の理念を教えられて育ちながら」「誰よりも多くの級友を蹴落として東大に入学できた」ことに罪悪感を抱いていたというのである。

私の体験からすると、「罪悪感」なんかは持っていなかった。受験校に進学した私や友人にとって、4年制大学に進学することは当たり前のことであった。私が学生運動に関わりはじめたのは、「罪悪感」ではなく、「正義感」であったと思う。「自らが相対的に有利な位置にいるという自覚と社会的格差に対する繊細な感受性」がその背景にはあった。その点で小熊の主張は「憶測」に過ぎない。

小杉は書いている。

自他の経済的格差や社会的地位の差にかんする東大闘争参加者達の感受性は、受験競争に巻き込まれるずっと前から、すなわち幼少期に自らが属する社会集団を認識する段階から芽生えていたものであり、進学が適わない級友や山谷でのセツルメントといったより具体的な生活体験に裏打ちされていた。その点で、罪悪感というよりは、具体的な解決方策を探る、社会問題に対する先鋭的な問題意識と呼ぶほうが適切なように思われる。(58)

小熊ら社会学者の多くは、何らかの研究をするときに多くの文献を渉猟し、それをもとに叙述していく。以前にも書いたが、その際、文献には軽重があることを意識していないように思える。私は歴史学であるから、使用する資史料については当然「史料批判」という作業を行う。社会学の研究者の多くにとっては、そうした作業が不十分だと、私は思う。

小熊の主張を知れば知る程、あの大部な『1968』は読む必要がないと思う。

 

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『美術手帖』

2020-10-27 22:08:27 | 読書

 『美術手帖』という雑誌がある。私は以前『芸術新潮』を購読していたが、その特集が変化してきたので(要するに美術の範疇を超えていった)やめた(特集をみて、時々買うようにしている)。また時々、図書館から『美術手帖』のバックナンバーを借りるようになった。

 そして『美術手帖』のウエブ上の会員となったら、時々情報を送ってくれる。今日送られたこれがなかなか刺激的であった。

 ポスト資本主義は「新しい」ということを特権としない Vol.1:卯城竜太(Chim↑Pom)

 

 ここで紹介されている望月桂について書いてある本をさがしたり・・・あった、あった。小松隆二さんが書いた『大正自由人物語 望月桂とその周辺』(岩波書店、1988年)である。かつて読んだ本だが、もう一度読もう。

 考えてみれば、日本にも民衆美術の伝統があるではないか。韓国は1980年代からだが、日本では戦前にそういう歴史がある。プロレタリア美術もあったし・・・

 これに関連して色々読んでいったら、白土三平の父親は岡本唐貴といってプロレタリア美術の担い手だったんだ。これも知らなかった。私は白土三平の漫画は、今ももっている。プロレタリア美術についても調べたくなった。

 次々と関心が動いていって、読まなければならないと思っていた本が読めないでいる。頑張らなければ・・・

 

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きわめて知的な論

2020-10-25 21:29:27 | 読書

 日本人よりもよく勉強している。韓国の知的水準の高さに脱帽。

軍国主義批判した日本の政治学者「国家と宗教の誤った結合、ナチズムに帰結」

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