今日、本を2冊買った。一冊は『「社会」のない国、日本』(講談社選書メチエ)、堤未果『沈みゆく大国アメリカ〈逃げ切れ!日本の医療〉』(集英社新書)である。前者は、今日の『中日新聞』の書評で紹介されていたものである。
ボクは、明治年間(といっても1890年代以降)は確かに日本には「社会」はなかったと考えている(国家というものが人々の頭上に覆い被さり、人々が個人として生きる場を与えなかった)が、大正期には「社会」というものが不十分ではあるが成立していたと思っている。ということは、現代は当然「社会」は存在している。
ところが、『「社会」のない国、日本』の著者は、ヘイトスピーチを例に挙げて、「我々が同じ人間・個人として共に生きる」という現実を否定している、したがって「日本に人間社会は成立していない」と、「序論」に記している。
まだまさに「序論」の入口しか読んでいないので、どういう展開になるか。
ここを読んでいて、長田弘の『一人称で語る権利』(平凡社)の、「じぶんという主語でなく、国家という主語をじぶんにもつことの危なさというか、怖しさ」(64頁)を思い出した。日本人の、特に男たちは、「じぶん」ではなく、「国家」を主語にして考えている、だからそういう人間たちにとっては、「社会」は不要であって、「国家」さえあればよいのだ。
「じぶんという主語」を持つ人によって、「社会」はつくられるのだろうと思う。
ボクは、明治年間(といっても1890年代以降)は確かに日本には「社会」はなかったと考えている(国家というものが人々の頭上に覆い被さり、人々が個人として生きる場を与えなかった)が、大正期には「社会」というものが不十分ではあるが成立していたと思っている。ということは、現代は当然「社会」は存在している。
ところが、『「社会」のない国、日本』の著者は、ヘイトスピーチを例に挙げて、「我々が同じ人間・個人として共に生きる」という現実を否定している、したがって「日本に人間社会は成立していない」と、「序論」に記している。
まだまさに「序論」の入口しか読んでいないので、どういう展開になるか。
ここを読んでいて、長田弘の『一人称で語る権利』(平凡社)の、「じぶんという主語でなく、国家という主語をじぶんにもつことの危なさというか、怖しさ」(64頁)を思い出した。日本人の、特に男たちは、「じぶん」ではなく、「国家」を主語にして考えている、だからそういう人間たちにとっては、「社会」は不要であって、「国家」さえあればよいのだ。
「じぶんという主語」を持つ人によって、「社会」はつくられるのだろうと思う。