2014年、多くの著名人が亡くなった。そのなかでもっとも印象に残る人が、菅原文太さんだ。菅原さんは、「戦争は絶対やってはいけない」ということばを、あちこちで発していた。
それだけではない。以下のようなこともしていた。『毎日新聞』の記事。
菅原さんは、政治や経済、社会や歴史のことに関心を持ち、折に触れて余韻のある言葉を紡いでいた。
亡くなったのは11月28日。沖縄県知事選挙の応援に行ったのも、11月。最期まで、平和のために、沖縄の自然を守るために、行動していた。
他者の生き方から学びながら生きるいうとき、菅原文太という人からも学ぶ。
菅原文太さん死去:在日韓国人に「故郷の家」 建設に尽力
毎日新聞 2014年12月02日 08時00分(最終更新 12月02日 08時25分)
俳優の菅原文太さんが死去した。菅原さんは約30年前、在日韓国人のための老人ホームを大阪に建てる運動に協力した。菅原さんの呼びかけで1億円を超える寄付が集まり、1989年、堺市南区に施設「故郷の家」が建設された。
きっかけは、施設を運営する社会福祉法人「こころの家族」理事長、尹基(ユンギ)さん(72)の新聞投稿だ。高齢の在日韓国人の孤独死を取り上げて施設の建設を呼びかけると、菅原さんから連絡があった。そして、東京のホテルで会った尹さんに「福祉の事は分からないが、難しいことをやらせてほしい」と募金の呼びかけ人を買って出た。
この法人の記念誌への寄稿文で菅原さんは、新聞を読んだ妻から「あなたの顔と名前で何か手伝えることがあるならやりなさい」と言われて協力することにしたと明かしている。そして「日本人から寄付しようという申し出がないので非常に残念。募金は小さなともし火からスタートさせて、いずれオリンピックの赤々と燃える火のようなところに持って行ければいいなと期待している」と記した。同じ施設はその後、神戸や京都にもできた。
菅原さんは86年、尹さんの両親が運営していた韓国の孤児院「共生園」も訪れ、子ども2人の里親となり、入学資金の提供や毎月の仕送りで支援した。尹さんは「文太さんのエネルギーと情熱で多くの人が助けられた。もっと長生きしてほしかった」と突然の悲報に肩を落とした。【山口朋辰】
それだけではない。以下のようなこともしていた。『毎日新聞』の記事。
菅原さんは、政治や経済、社会や歴史のことに関心を持ち、折に触れて余韻のある言葉を紡いでいた。
亡くなったのは11月28日。沖縄県知事選挙の応援に行ったのも、11月。最期まで、平和のために、沖縄の自然を守るために、行動していた。
他者の生き方から学びながら生きるいうとき、菅原文太という人からも学ぶ。
菅原文太さん死去:在日韓国人に「故郷の家」 建設に尽力
毎日新聞 2014年12月02日 08時00分(最終更新 12月02日 08時25分)
俳優の菅原文太さんが死去した。菅原さんは約30年前、在日韓国人のための老人ホームを大阪に建てる運動に協力した。菅原さんの呼びかけで1億円を超える寄付が集まり、1989年、堺市南区に施設「故郷の家」が建設された。
きっかけは、施設を運営する社会福祉法人「こころの家族」理事長、尹基(ユンギ)さん(72)の新聞投稿だ。高齢の在日韓国人の孤独死を取り上げて施設の建設を呼びかけると、菅原さんから連絡があった。そして、東京のホテルで会った尹さんに「福祉の事は分からないが、難しいことをやらせてほしい」と募金の呼びかけ人を買って出た。
この法人の記念誌への寄稿文で菅原さんは、新聞を読んだ妻から「あなたの顔と名前で何か手伝えることがあるならやりなさい」と言われて協力することにしたと明かしている。そして「日本人から寄付しようという申し出がないので非常に残念。募金は小さなともし火からスタートさせて、いずれオリンピックの赤々と燃える火のようなところに持って行ければいいなと期待している」と記した。同じ施設はその後、神戸や京都にもできた。
菅原さんは86年、尹さんの両親が運営していた韓国の孤児院「共生園」も訪れ、子ども2人の里親となり、入学資金の提供や毎月の仕送りで支援した。尹さんは「文太さんのエネルギーと情熱で多くの人が助けられた。もっと長生きしてほしかった」と突然の悲報に肩を落とした。【山口朋辰】