今日は暖かい日であった。今我が家の庭は花がまっ盛りである。この次に植えるつもりの花の種を蒔いた。
今はストロベリー・トーチが風にそよいでいる。近所で咲いているものではない花の種を購入して、たくさん芽を出させ、近所の人々に分けるのが趣味になっている。
さてそうした花とは無縁の映画を見てきた。例によってシネマ・イーラだ。中国を舞台にしたもので、さすがにこの映画については、おカネを出して何でこのようなものを好きこのんで見るのかと自問自答してしまった。
1960年前後の中国、毛沢東が権力を握っていた頃、毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」を唱えて、言論の自由を保障し、政府批判を許した。ところが途中で方針を変え、批判したものを「右派」として糾弾し、砂漠地帯に設置した労働改造所に追いやった。
ちょうど飢饉の時期と重なったことから、そこに追いやられた人々が、次から次へと無くなっていく。食べるものがないため、亡くなった人の肉までも・・・・
このようなところで、食べるものもなく、労働を強制されて、死んでいく。非業の死というか、もう何とも言えない。
歴史は、いや政治権力は、こういう非業の死を無数につくってきたのだ。アウシュビッツ、南京、ソ連のシベリア抑留・・・・世界各地にそうした事例がたくさんある。
こういう事実が示されるとき、私は、人間とは何であるのか、と問われている気がしてしまう。
こういう「非業の死」というか、「不条理の死」というか、そういうものをどのようにしてなくしていくのか、そのために努力するしかないと思う。
ゴビ砂漠には、花はない。砂と、枯れた草と、死体に土をかぶせた小山があるだけだ。そういうところと、まぶしい緑に囲まれ、色とりどりの花が咲き乱れる私の生活の場。この「差」、時間的にも空間的にも、もちろん離れている。だが、そういう事実を知り、その「差」を感じることが大切だと思う。
今はストロベリー・トーチが風にそよいでいる。近所で咲いているものではない花の種を購入して、たくさん芽を出させ、近所の人々に分けるのが趣味になっている。
さてそうした花とは無縁の映画を見てきた。例によってシネマ・イーラだ。中国を舞台にしたもので、さすがにこの映画については、おカネを出して何でこのようなものを好きこのんで見るのかと自問自答してしまった。
1960年前後の中国、毛沢東が権力を握っていた頃、毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」を唱えて、言論の自由を保障し、政府批判を許した。ところが途中で方針を変え、批判したものを「右派」として糾弾し、砂漠地帯に設置した労働改造所に追いやった。
ちょうど飢饉の時期と重なったことから、そこに追いやられた人々が、次から次へと無くなっていく。食べるものがないため、亡くなった人の肉までも・・・・
このようなところで、食べるものもなく、労働を強制されて、死んでいく。非業の死というか、もう何とも言えない。
歴史は、いや政治権力は、こういう非業の死を無数につくってきたのだ。アウシュビッツ、南京、ソ連のシベリア抑留・・・・世界各地にそうした事例がたくさんある。
こういう事実が示されるとき、私は、人間とは何であるのか、と問われている気がしてしまう。
こういう「非業の死」というか、「不条理の死」というか、そういうものをどのようにしてなくしていくのか、そのために努力するしかないと思う。
ゴビ砂漠には、花はない。砂と、枯れた草と、死体に土をかぶせた小山があるだけだ。そういうところと、まぶしい緑に囲まれ、色とりどりの花が咲き乱れる私の生活の場。この「差」、時間的にも空間的にも、もちろん離れている。だが、そういう事実を知り、その「差」を感じることが大切だと思う。