明日は2月1日。『中日新聞』東海本社版をやめる。『東京新聞』の統合版にすることにした。
『中日新聞』東海本社版の記事は、ほとんどが地元記事。といっても静岡県全体ではなく、東海本社がある浜松市中心である。『静岡新聞』は県紙としての自覚があるから、県全体をカバーするが、『中日新聞』東海本社版は県西部地域のみをカバーする。県紙ではなく、ローカル紙、あるいは地域紙である。
地域紙の記事は、眺めるだけである。読む記事ではない。もちろん、みずからに関わることが記されている記事なら読むこともあろうが、ほとんど関係ないから見出しだけで終わる。
ずっと前、まだ新聞代金が安かった頃、『朝日新聞』のほかに『静岡新聞』を購読していた。しかし、『静岡新聞』は読むところがない。ローカルの記事ばかりなので、見出しをみるだけなのだ。
最近の『中日新聞』は読むところがないので、あっという間に見終わる。読み終える、ではない。「見終わる」である。
「特報」欄も、『東京新聞』そのままではなく、あたりさわりのない内容のものを選んでいるとしか思えない。『中日新聞』東海本社のトップは、自民党などの政権与党の支持者ではないかと疑う。
『東京新聞』を購読できるか調べてみたら、統合版を購読できるようだ。ただし朝配達ではなく、夕方に配達ということになるという。
代金は、2623円である。
『東京新聞』にかえるつもりである。せっかく新聞代を払っているのだから、新聞を「読みたい」。
地域紙の記事は、眺めるだけである。読む記事ではない。もちろん、みずからに関わることが記されている記事なら読むこともあろうが、ほとんど関係ないから見出しだけで終わる。
ずっと前、まだ新聞代金が安かった頃、『朝日新聞』のほかに『静岡新聞』を購読していた。しかし、『静岡新聞』は読むところがない。ローカルの記事ばかりなので、見出しをみるだけなのだ。
最近の『中日新聞』は読むところがないので、あっという間に見終わる。読み終える、ではない。「見終わる」である。
「特報」欄も、『東京新聞』そのままではなく、あたりさわりのない内容のものを選んでいるとしか思えない。『中日新聞』東海本社のトップは、自民党などの政権与党の支持者ではないかと疑う。
『東京新聞』を購読できるか調べてみたら、統合版を購読できるようだ。ただし朝配達ではなく、夕方に配達ということになるという。
代金は、2623円である。
『東京新聞』にかえるつもりである。せっかく新聞代を払っているのだから、新聞を「読みたい」。
『毎日新聞』が以下のような記事を報じた。
岡山県議 海外視察報告書使い回し 同じ変換ミスもコピペ
議員の生態を見てきた私としては、地方自治体の議員も、国会議員と同じように、こんなもんだよ、という印象をもつ。議員になると「センセイ」なんて呼ばれて、嬉しそうにしている奴ばかり。行政が鈍なことをしているのか調べもせず、勉強もせずに、選挙のことばかり考えている者ばかり。
要するに、日本国民の政治意識の水準を示している。
岡山県議 海外視察報告書使い回し 同じ変換ミスもコピペ
議員の生態を見てきた私としては、地方自治体の議員も、国会議員と同じように、こんなもんだよ、という印象をもつ。議員になると「センセイ」なんて呼ばれて、嬉しそうにしている奴ばかり。行政が鈍なことをしているのか調べもせず、勉強もせずに、選挙のことばかり考えている者ばかり。
要するに、日本国民の政治意識の水準を示している。
本日届けられた『中日新聞』(東海本社版)を読んで、いやざっと眺めて、購読する価値はないと判断した。
まさに『中日新聞』(東海本社版)は、ローカル紙であり、またジャーナリズム精神を失いかけた新聞である。「ジャーナリズム精神を失いかけた」としたのは、まだ少し残されている全国ニュースには読む価値がある部分が残されているからだ。しかし、速度を増してローカル紙化しているから、ジャーナリズム精神をほとんどなくしてしまう段階に立ち至る可能性は多いにある。
今日の第一面の70%は、ローカルな記事である。「浜松の防潮堤かさ上げ」、「5トンのバケツ購入へ」、「県産ミカン記録的不作」でほとんどをしめる。左隅に「旧優生保護法は違憲」という宮城の女性による提訴の記事がある。
そして第一社会面のこれまた50%をしめる、浜松出身の平昌オリンピック出場選手の記事。第二社会面も80%がローカル記事。さらに県内版が2面、浜松市民版が1面、浜松・遠州版が1面。「静岡けいざい」面は、『中日新聞』東海本社とスズキの蜜月ぶりを示す記事。
ローカル面の記事は、批判精神皆無の内容である。つまりジャーナリズム精神を失った新聞記者が、紙面を埋めるためのみに駆け回って集めたガセネタを、さも報じる価値があるかのように書いたものだ。
『中日新聞』東海本社版は、購読を止めるつもりである。
まさに『中日新聞』(東海本社版)は、ローカル紙であり、またジャーナリズム精神を失いかけた新聞である。「ジャーナリズム精神を失いかけた」としたのは、まだ少し残されている全国ニュースには読む価値がある部分が残されているからだ。しかし、速度を増してローカル紙化しているから、ジャーナリズム精神をほとんどなくしてしまう段階に立ち至る可能性は多いにある。
今日の第一面の70%は、ローカルな記事である。「浜松の防潮堤かさ上げ」、「5トンのバケツ購入へ」、「県産ミカン記録的不作」でほとんどをしめる。左隅に「旧優生保護法は違憲」という宮城の女性による提訴の記事がある。
そして第一社会面のこれまた50%をしめる、浜松出身の平昌オリンピック出場選手の記事。第二社会面も80%がローカル記事。さらに県内版が2面、浜松市民版が1面、浜松・遠州版が1面。「静岡けいざい」面は、『中日新聞』東海本社とスズキの蜜月ぶりを示す記事。
ローカル面の記事は、批判精神皆無の内容である。つまりジャーナリズム精神を失った新聞記者が、紙面を埋めるためのみに駆け回って集めたガセネタを、さも報じる価値があるかのように書いたものだ。
『中日新聞』東海本社版は、購読を止めるつもりである。
『中日新聞』(東海本社)は、ローカル色を強めている。したがって、朝新聞を読む時間は大いに減った。東海本社の編集方針は、地域に徹するつもりなのだろう。私が『中日新聞』を購読しているのは、『東京新聞』を読むためであり、全国的なニュースや論評は『朝日新聞』記事をネットで読む。テレビを見ないので新聞から情報を得るしかない。だから、『東京新聞』と『朝日新聞』をネットで読む。配達される『中日新聞』(東海本社)は、読む価値がどんどん減じている。
さて『東京新聞』朝刊には、「あのときから始まった150年の軌跡」というシリーズを始めた。最初は五木寛之さん。でもその記事ではなく、その隣にあった「薩摩 苛烈な廃仏毀釈 寺への恨み、国学の影響」に大いに関心を持った。
私は明治初年の神仏分離・廃仏毀釈が日本人の宗教意識(といっても、「宗教」という概念は近代になって生まれた)を断絶させたと思っているのだが、驚くべきことに、明治初めのこの野蛮な政策で、薩摩では藩内の1066あった寺院がすべて破却されたというのだ。慌てて調べたら、何とその通りで、鹿児島県ではこの頃、仏像などが徹底的に破壊されたというのである。
現在は400以上あるが、そのほとんどはその後につくられた寺院だそうだ。大きな寺院は取り壊され、その後に学校などがつくられ、今でも学校の敷地に島津家の墓などが残っているところもあるという。
なんとまあ狂気に近い所業である。
こういう藩が、近代日本国家をつくりあげたのだ。では山口はどうであろうか。今度調べようと思う。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150115/276274/
さて『東京新聞』朝刊には、「あのときから始まった150年の軌跡」というシリーズを始めた。最初は五木寛之さん。でもその記事ではなく、その隣にあった「薩摩 苛烈な廃仏毀釈 寺への恨み、国学の影響」に大いに関心を持った。
私は明治初年の神仏分離・廃仏毀釈が日本人の宗教意識(といっても、「宗教」という概念は近代になって生まれた)を断絶させたと思っているのだが、驚くべきことに、明治初めのこの野蛮な政策で、薩摩では藩内の1066あった寺院がすべて破却されたというのだ。慌てて調べたら、何とその通りで、鹿児島県ではこの頃、仏像などが徹底的に破壊されたというのである。
現在は400以上あるが、そのほとんどはその後につくられた寺院だそうだ。大きな寺院は取り壊され、その後に学校などがつくられ、今でも学校の敷地に島津家の墓などが残っているところもあるという。
なんとまあ狂気に近い所業である。
こういう藩が、近代日本国家をつくりあげたのだ。では山口はどうであろうか。今度調べようと思う。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150115/276274/
産経新聞が「米兵が日本人救助」を報じないと沖縄2紙を猛攻撃するもデマと発覚し自爆
事実も確かめないで、攻撃の手段とする『産経新聞』。厚顔無恥。日本の首相と同じ。
産経報道「米兵が救助」米軍が否定 昨年12月沖縄自動車道多重事故
裏のアパートの駐車場から車がわが家に飛び込んでもう3ヶ月ほどになる。アクセルとブレーキを踏み間違えたそうだが、事故当日は謝罪の言葉はあったが、その後は事故を起こした人から何の音沙汰もなく、道で会ったら保険会社にすべてお願いしている、ということをぼそっと言った。
だから私は保険会社と何度か話しているのだが、ほとんど修理は終わっているのだが、2階屋根からの雨樋は、同じものがないと言うことで応急処置となっている。
元通りにしてくれないと示談の話しはありえないと言ってあるのだが、その後何の連絡もない。このまま放置しておくつもりなのだろうか。
誠意を感じられないので、保険会社の名を記す。
共栄火災海上保険という会社である。
口コミを読むと、契約者には親切のようだが、被害者に対してはきちんとやらない会社みたいだ。その口コミ通りである。
遅れれば遅れるほど、示談に応じなくなる。
だから私は保険会社と何度か話しているのだが、ほとんど修理は終わっているのだが、2階屋根からの雨樋は、同じものがないと言うことで応急処置となっている。
元通りにしてくれないと示談の話しはありえないと言ってあるのだが、その後何の連絡もない。このまま放置しておくつもりなのだろうか。
誠意を感じられないので、保険会社の名を記す。
共栄火災海上保険という会社である。
口コミを読むと、契約者には親切のようだが、被害者に対してはきちんとやらない会社みたいだ。その口コミ通りである。
遅れれば遅れるほど、示談に応じなくなる。
共同配信記事。地方からたくさんの若者が都市へと流れている。とりわけ関東圏に集中する。確かに東京は何でも揃っている。政治だけではなく、文化的なものも東京に集まる。
残念ながら、それだけでなく、地方には高等教育の学校が少ない、また仕事もあまりない。私が卒業した高校の同級生の多くは、地元に帰っていない。地元に帰ったのは、自営業、公務員になった者、浜松市にあるヤマハなどの企業に入社した者くらいだ。ほとんどは帰っていないというのが実状である。私が若い頃からそういう傾向だった。それがずっと続き、さらに加速しているような気がする。
人口減少も進む。このままだと、地方は立ちゆかなくなる。
だが、こういう状況に対して、自民党政権はまったく無策であった。それは今も変わっていない。口だけだ。口では何とでも言えるが、実行されてこなかった。少子高齢化も、そして人口の都市集中も、もはや手遅れである。
もうこのまま行き着くところに行くしかない、という気がする。それは長年、日本国民が、近視眼的な政策しか展開してこなかった自民党政治を許してきた結果である。日本国民も、先を見通すことをしてこなかった、ということでもある。
仕方がないと、私は言うしかない。
東京圏の転入超過22年連続 11万9千人、09年以降最大
2018年1月29日 20時26分
総務省が29日公表した2017年の人口移動報告によると、東京圏(埼玉、千葉、東京、神奈川)は転入者が転出者を11万9779人上回る「転入超過」だった。転入超過は22年連続で、超過人数は2年ぶりに増え、09年以降で最大。全市町村の76・3%は転出超過で、東京一極集中が加速している。「地方創生」を掲げる安倍政権は、施策の抜本的な見直しを迫られそうだ。
総務省によると、15~29歳の転入超過が目立ち、担当者は「景気が上向き、進学や就職などを機会として若い世代が全国から流入している」と説明している。
(共同)
残念ながら、それだけでなく、地方には高等教育の学校が少ない、また仕事もあまりない。私が卒業した高校の同級生の多くは、地元に帰っていない。地元に帰ったのは、自営業、公務員になった者、浜松市にあるヤマハなどの企業に入社した者くらいだ。ほとんどは帰っていないというのが実状である。私が若い頃からそういう傾向だった。それがずっと続き、さらに加速しているような気がする。
人口減少も進む。このままだと、地方は立ちゆかなくなる。
だが、こういう状況に対して、自民党政権はまったく無策であった。それは今も変わっていない。口だけだ。口では何とでも言えるが、実行されてこなかった。少子高齢化も、そして人口の都市集中も、もはや手遅れである。
もうこのまま行き着くところに行くしかない、という気がする。それは長年、日本国民が、近視眼的な政策しか展開してこなかった自民党政治を許してきた結果である。日本国民も、先を見通すことをしてこなかった、ということでもある。
仕方がないと、私は言うしかない。
東京圏の転入超過22年連続 11万9千人、09年以降最大
2018年1月29日 20時26分
総務省が29日公表した2017年の人口移動報告によると、東京圏(埼玉、千葉、東京、神奈川)は転入者が転出者を11万9779人上回る「転入超過」だった。転入超過は22年連続で、超過人数は2年ぶりに増え、09年以降で最大。全市町村の76・3%は転出超過で、東京一極集中が加速している。「地方創生」を掲げる安倍政権は、施策の抜本的な見直しを迫られそうだ。
総務省によると、15~29歳の転入超過が目立ち、担当者は「景気が上向き、進学や就職などを機会として若い世代が全国から流入している」と説明している。
(共同)
いつも昼頃にくる郵便が、今日は4時頃だった。そのなかに『図書』(岩波書店)があった。ぱらぱらと読んだ中で、いくつか印象に残ったものがあった。そのひとつは、原田宗典さんの長野パラリンピックの取材経験を書いた「美しいものを見た」である。
長野パラリンピックで、原田さんはブラインドクラスのクロスカントリーを見た。目の見えない障害者が、前をすべる先導者の声を頼りに必死に後を追う。その時、観客は声を出してはならない。競技者は先導者の声を聴きながら滑るからだ。
観客は、声を出さずに、ひたすら手を振る、それが応援なのだ。
「頑張れ」という声の代わりに、必死に手を振る観客。そこを、必死に先導者の声を頼りに滑る競技者。荒い息を吐きながら滑る二つの影が通り過ぎる。
これを「美しい」といわずして、何というのか。
私は、この文を読みながら、眼前にその姿を見ているような気がした。その光景がまざまざと描きだされた。
長野パラリンピックで、原田さんはブラインドクラスのクロスカントリーを見た。目の見えない障害者が、前をすべる先導者の声を頼りに必死に後を追う。その時、観客は声を出してはならない。競技者は先導者の声を聴きながら滑るからだ。
観客は、声を出さずに、ひたすら手を振る、それが応援なのだ。
「頑張れ」という声の代わりに、必死に手を振る観客。そこを、必死に先導者の声を頼りに滑る競技者。荒い息を吐きながら滑る二つの影が通り過ぎる。
これを「美しい」といわずして、何というのか。
私は、この文を読みながら、眼前にその姿を見ているような気がした。その光景がまざまざと描きだされた。
古代天皇制は、壬申の乱の後、天武・持統朝で成立した。天皇制の歴史を調べるとき、天武・持統朝がもっとも重要である。「日本」という国号、「天皇」という称号を使用しはじめたのがこの時期からであり、また天皇制を正当化する『古事記』・『日本書紀』も,この頃につくられたからである。
さてこの本は図書館から借りたものだが、7世紀後半に起きた戦争であるのに、その詳細がこんなにもわかるものかと驚いた。もちろんそれは著者の力ではあるが、それまでもこの乱についての研究書はたくさん出されているようだ。知らなかった。
本書も、『日本書紀』を典拠にして、かなり詳細に事件の帰趨を追っているのだが、まずみずからが軍勢の足跡を歩いていること、『日本書紀』の記述を構造的に捉えていることが、それを可能にしているように思えた。
ただ、本書は壬申の乱を主題にしているために、古代天皇制の構造、伊勢信仰の初発など、知りたいことは書かれていなかった。ないものねだりではあろう。
まあしかし、一挙に読めてしまうほど、この乱の動きをダイナミックに叙述している。
こういう本を読まずに、簡単に壬申の乱を片付けていた自分を恥じる次第である。
さてこの本は図書館から借りたものだが、7世紀後半に起きた戦争であるのに、その詳細がこんなにもわかるものかと驚いた。もちろんそれは著者の力ではあるが、それまでもこの乱についての研究書はたくさん出されているようだ。知らなかった。
本書も、『日本書紀』を典拠にして、かなり詳細に事件の帰趨を追っているのだが、まずみずからが軍勢の足跡を歩いていること、『日本書紀』の記述を構造的に捉えていることが、それを可能にしているように思えた。
ただ、本書は壬申の乱を主題にしているために、古代天皇制の構造、伊勢信仰の初発など、知りたいことは書かれていなかった。ないものねだりではあろう。
まあしかし、一挙に読めてしまうほど、この乱の動きをダイナミックに叙述している。
こういう本を読まずに、簡単に壬申の乱を片付けていた自分を恥じる次第である。
昨日『朝日新聞』が、「橋下流政治の10年 強い発信力、改憲議論「露払い役」」という記事を配信した。
確かに強い発進力ではある。なぜかといえば、その発信したものをメディアがとりあげるからだ。別に橋下だけではなく、松本人志もである。たいしたことを語っているのではないのに、ネットがその発言をとりあげる。
メディアはそうした発言が好きなのだ。
記事中に、
東京工業大の西田亮介准教授の見解が掲載されていた。
「小泉純一郎元首相は、テレビや新聞を通じてメッセージを発信した。橋下氏はツイッターで有権者に直接言葉を届けた」
なるほど、橋下は、トランプ大統領よりもまえから、ツイッター政治家であった。
話の筋は変わるが、私はツイッターをしていない。ネットで見るツイッターの投稿者、投稿内容を読むと、自己アピール度が強いように思える。研究者もツイッターをしている人が多いが、基本的な傾向は「わたしってすごいでしょ!」というものだ。短い文面に、詳しい説明はいれられないから、結論部分だけを書く。
さて話は戻って、橋下のツイッターについて、
「対立する政治家や評論家らを「バカ」「アホ」などと乱暴な言葉で切り捨てた。ネット活用は他の政治家にも広まったが、「くたばれ」「人間の屑(くず)」など、言葉の乱れも目立つ。」と記事は指摘する。そういう内容をメディアが追うということは、メディアもそういうことばを好むということだ。いや、このご時世、短文で短い内容がないものが好まれるのだろう。
記事の末尾は、「西田准教授は「乱暴で率直な物言いが人気を集めることを、橋下氏が示した」と要因を指摘する。」である。
現代人の品性を、表している。だが「率直な」ではなく、「乱暴で内容のない物言い」と言い換えた方が良い。
確かに強い発進力ではある。なぜかといえば、その発信したものをメディアがとりあげるからだ。別に橋下だけではなく、松本人志もである。たいしたことを語っているのではないのに、ネットがその発言をとりあげる。
メディアはそうした発言が好きなのだ。
記事中に、
東京工業大の西田亮介准教授の見解が掲載されていた。
「小泉純一郎元首相は、テレビや新聞を通じてメッセージを発信した。橋下氏はツイッターで有権者に直接言葉を届けた」
なるほど、橋下は、トランプ大統領よりもまえから、ツイッター政治家であった。
話の筋は変わるが、私はツイッターをしていない。ネットで見るツイッターの投稿者、投稿内容を読むと、自己アピール度が強いように思える。研究者もツイッターをしている人が多いが、基本的な傾向は「わたしってすごいでしょ!」というものだ。短い文面に、詳しい説明はいれられないから、結論部分だけを書く。
さて話は戻って、橋下のツイッターについて、
「対立する政治家や評論家らを「バカ」「アホ」などと乱暴な言葉で切り捨てた。ネット活用は他の政治家にも広まったが、「くたばれ」「人間の屑(くず)」など、言葉の乱れも目立つ。」と記事は指摘する。そういう内容をメディアが追うということは、メディアもそういうことばを好むということだ。いや、このご時世、短文で短い内容がないものが好まれるのだろう。
記事の末尾は、「西田准教授は「乱暴で率直な物言いが人気を集めることを、橋下氏が示した」と要因を指摘する。」である。
現代人の品性を、表している。だが「率直な」ではなく、「乱暴で内容のない物言い」と言い換えた方が良い。
小社会 沖縄県の米軍北部訓練場。ヘリコプター離着陸帯の…
沖縄県の米軍北部訓練場。ヘリコプター離着陸帯の建設現場で反対派の住民らと、彼らを排除するため全国から派遣された機動隊員が向かい合っている。雨の中、1人の若い女性が機動隊員の青年の目をじっと見据えた。
まばたきもせず見つめる黒い瞳。見返す青年隊員。やがてこらえかねたように彼はスッと目をそらした。高知市で昨年上映された三上智恵監督のドキュメンタリー映画「標的の島 風(かじ)かたか」に、そんな印象深い場面があった。
現場では大阪府警の機動隊員が住民らに向け、「土人」と暴言を吐いたこともある。青年隊員が女性の目をまともに見ることができなかったのは、後ろめたさのためからか。
沖縄で相次ぐ米軍ヘリの不時着を巡って、内閣府の松本文明副大臣(自民党)が「それで何人死んだんだ」と国会でやじを飛ばした。死者が出なければ、不時着も問題はない―。そう言っているとしか受け取れない発言である。
すぐに辞表を出し受理されている。事実上の更迭であろう。きょう告示される名護市長選への配慮がうかがえる。選挙がなければ、これほどの即断即決がなされたかどうか。
「沖縄県民を軍靴で踏みにじる結果にならないよう」。かつてそう述べた野中広務元官房長官が死去した。沖縄の苦しみから目をそらさない政治家が亡くなる一方で、沖縄に対し無知、無関心な政治家が増えてゆく。情けなく、悔しい。
土曜日にJRを利用すると、特異な集団にであうことがある。以前、静岡からの帰り、エコパホールがある愛野駅からたいへんまじめそうで地味な感じの若者がたくさん乗ってきた。後で調べたら、「いきものがかり」のコンサートであった。
今日は夜、浜松の中心街で集まりがあり、わたしはそれに参加し、浜松駅からJRで帰ったのだが、今日も特異な集団が下り電車からたくさん降車してきた。格好は、派手ではないが、かわいい系のおしゃれな女の子たちだった。帰宅して調べたら、今日はエコパで「ジャニーズwest」のコンサートがあった。
土曜日に静岡に行くことが多く、よくそうした集団と出会う。コンサートによって見事に同じ格好の人びとが集まるようだ。
コンフォーミズムを感じる。みんな一緒、が好きなのかな?
今日は夜、浜松の中心街で集まりがあり、わたしはそれに参加し、浜松駅からJRで帰ったのだが、今日も特異な集団が下り電車からたくさん降車してきた。格好は、派手ではないが、かわいい系のおしゃれな女の子たちだった。帰宅して調べたら、今日はエコパで「ジャニーズwest」のコンサートがあった。
土曜日に静岡に行くことが多く、よくそうした集団と出会う。コンサートによって見事に同じ格好の人びとが集まるようだ。
コンフォーミズムを感じる。みんな一緒、が好きなのかな?
私はずっと前から前進座はあまり好きではない。前進座の演目は、基本的に時代劇である。今日の「薄桜記」も「忠臣蔵」の時代、つまり元禄である。
前進座は、いつもわかりやすい芝居を上演する。私は、わかりやすい芝居は好きではない。見た感想がワンパターン、ということは観劇者が劇空間の創造にあまり参画できないということだ。
この脚本を書いたジェームス三木は、パンフレットにこう書いている。
有難いことに観客は、ひとりひとりが独自の想像力を働かせ、舞台に見えないものを、読み取ろうとする。(中略)それぞれが個人的な判断で、芝居の花を咲かせる。だから作る側は、見えないものをどう見せるかが勝負なのだ。私は7割見せて、残りの3割は、観客の主体性にゆだねるのが理想だと思っている。
私は、7割は見せすぎだと思う。
また舞台の最後に流れた歌は、あれは何?という感じであった。また最後は主人公の男女が「死ぬる」のだが、舞台上の死がいに雪が積もるというかたちで終わる。
この場面、五味川純平の『人間の条件』の最後を想いださせた。しかしなあ、『人間の条件』の主人公も異国の大地で息絶え、そこに雪が降り積もるのだが、「薄桜記」の人生と『人間の条件』の主人公・梶の人生を比べると、ものすごい差を感じるのだ。両方とも、みずからの良心を裏切らないで生きたのだけれども、『人間の条件』は人間として生きた、しかし「薄桜記」は武士として生きた、その違いは大きい。
前進座は、いつもわかりやすい芝居を上演する。私は、わかりやすい芝居は好きではない。見た感想がワンパターン、ということは観劇者が劇空間の創造にあまり参画できないということだ。
この脚本を書いたジェームス三木は、パンフレットにこう書いている。
有難いことに観客は、ひとりひとりが独自の想像力を働かせ、舞台に見えないものを、読み取ろうとする。(中略)それぞれが個人的な判断で、芝居の花を咲かせる。だから作る側は、見えないものをどう見せるかが勝負なのだ。私は7割見せて、残りの3割は、観客の主体性にゆだねるのが理想だと思っている。
私は、7割は見せすぎだと思う。
また舞台の最後に流れた歌は、あれは何?という感じであった。また最後は主人公の男女が「死ぬる」のだが、舞台上の死がいに雪が積もるというかたちで終わる。
この場面、五味川純平の『人間の条件』の最後を想いださせた。しかしなあ、『人間の条件』の主人公も異国の大地で息絶え、そこに雪が降り積もるのだが、「薄桜記」の人生と『人間の条件』の主人公・梶の人生を比べると、ものすごい差を感じるのだ。両方とも、みずからの良心を裏切らないで生きたのだけれども、『人間の条件』は人間として生きた、しかし「薄桜記」は武士として生きた、その違いは大きい。