浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

イヤな社会になっている・・・

2025-01-28 07:49:26 | 社会

 兵庫県をめぐって、SNSで野蛮なことばが飛び交っているという。わたしはXは見もしないし、ユーチューブは特定の番組をみるだけで、実際SNSの世界でどのような怪情報が飛び交っているかは知らない。知らない方がよいと思ってそれらに関わらないようにしているのだが、しかし死者まで出るとなるとこの問題に関心を持たざるをえない。

 SNSにはたくさんの広告がひも付けされていて、アクセスするだけでSNSを発信する者に広告収入が入るという。わたしのパソコンやiPhoneには、AdGuardという広告をブロックするソフトを入れているので、そうした広告は目に入らないのだが、たしかにAdGuardがはいっていないパソコンなどを使用すると、たくさんの広告が入ってくる。

 SNSを利用する者には、アクセスにより広告収入が入るのだから、それでカネ儲けを考えている者は、できるだけアクセス数を増やそうとする。となると、真実を報じるというよりも、どうしたらアクセスが増えるかということが優先事項となる。したがって、何をSNS上に出すかは、真実とは関係がないのであり、虚偽情報やデマが、SNS上には無数に流されるというわけだ。

 SNS上に流される情報はそうしたものだという認識をもっていれば、SNS上の情報を真実とはみなさない。しかしそれらを真実とみなす者があとを絶たない。公職に就いているもの、タレント、テレビに出ているコメンテーター(わたしは、まったく専門知識のない方々がコメンテーターとしてあらゆることに口をはさむという番組が昔から嫌いで、ほとんど見ないできた)などなど。

 詐欺事件の報道においても、同じような手口なのになぜかだまされる人が次々と現れる。人びとは、簡単にだまされると、わたしは思っている。詐欺事件の多くは電話から始まる。わが家の電話については、非通知、特定の番号から始まる電話番号などについては最初から受けつけないように設定してあり、またすべての通話は録音されるようにしてある。それでも着信音が鳴る場合もあるが、基本的には知らない番号にはでない。最近の電話機はいろいろな防御手段がついているので、それを利用すれば良いのに、と思う。

 話がずれた。

 デマや虚偽情報、他人の名誉を毀損するニセ情報がでまわっているが、わたしは何らかの法的規制が必要ではないかと思うし、また平気で偽情報を拡散する者には、刑事罰を適用すべきだと思う。

 デマや誹謗中傷でついに死者が 「流言」を言いっぱなしにする立花孝志氏と「真実を知り全てがつながりました」と言っていた有権者は...

 

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悪人には・・・

2025-01-26 08:00:15 | 社会

 もと兵庫県議の竹内さんが自死されたという。痛ましい事件である。SNSによる執拗かつ卑劣な攻撃の渦のなかで、死に追い込まれたようだ。

 日本社会には、勝手気ままに暴言を吐くような人物がいても、周囲は腫れ物にでも触るような気遣いをして、そのような人物をおさえるような動きをしない。勝手気侭に振る舞う輩は、だから行動を改めるようなことはしない。

 わたしが耕作している畑の隣で米を作っているヤツがいる。畑の際(きわ)に多くの雑草を積みあげていたら、そこはオレの土地だと言ってきた。通常、畑と田の境界は、畑から斜面をおりた田との接点なのに、斜面の上までおれの土地だと言ってきた。いままでは、その斜面の除草はわたしがやっていたのだが、そういうならまあいいや、除草を彼にやってもらえばと思い、「ああそうかい」と言ったまま別れた。その間のやりとりは、すべて怒号である。

 一度こちらの耕作について怒鳴ってきたことがあり、畑のなかで怒鳴り合いをした。それまでは、通常の大人の対応をしていた。その直後、怒鳴り合いを見ていた近所の人から、彼がいつも気に入らないことがあると人びとに怒鳴りつけていたことを聞いた。その人になぜそれをもっと早く教えてくれなかったのか、と言ったことがある。近所の人は彼をあまり刺激させないようにしているという。しかし、わたしはそうではない。

 怒号で来るヤツには、怒号で返す。さもないとつけあがるからだ。

 今まで人生を生きてきて、こちらが譲歩すると図々しく一歩踏み出してくる輩がいること、それもかなり多いことを学んできた。

 竹内もと県議へのSNSについての分析記事がある。それをみると、少しでも退くと攻撃の量が増える。日本人だけの習性かどうかは知らないが、弱いところをみせると攻撃を強化する卑劣なヤツがいる。「水に落ちた犬は打て」という魯迅のことばがある。魯迅がそれを書いた背景はまったくことなるが、彼らの立場から同じことをしている。

 「敵に後ろを見せてはならない」は、生きていく上で必要な姿勢だと思う。もちろん、弱者や敗者へのあたたかい思いやりも必要である。要は人を見て対応せよということだ。相手が悪人なら、悪人ときちんと認識して、それなりの対応をすべきなのである。悪人には弱みを見せてはならない。

 

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【演劇】オペラシアターこんにゃく座「遠野物語」

2025-01-25 17:17:12 | 演劇

 今日は、アクトシティ浜松大ホールで「遠野物語」を見た。

 一幕75分、休憩15分、二幕70分という長いオペラである。

 さて、わたしの隣席にいた高齢の女性、一幕の75分の間、ずっと咳をし続けていた。隣席で咳をされると、とても気になると共に、台詞(歌詞)が聞きにくく、この舞台の世界に入り込むことはできなかった。

 休憩の際に、はるか後方の席に移ったが、時すでに遅し、あまり楽しめなかった。だからこの「遠野物語」についての感想はない。

 ただ少し柳田國男について記す。わたしは柳田に関しては、民俗学は学ばなければならないと思い、著作集みたいなものは購入した。今は処分してなくなっているが、読みはじめて、わたしは民俗学にはなじめないと即座に思った。柳田の文体にまったくなじめなかったからだ。

 ほとんど読まなかったので、具体的にどうなじめなかったかを書くことはできないが、何とか思い出してみると、柳田の文は、論文でもなく、評論でもなく、感覚的な文章で、とらえどころのない内容がだらだらと書かれていたというように記憶している。

 そしてまた、民俗学を研究している方々と自治体史の仕事を共にしたことがあるが、民俗学は今残されている事象をそのまま表現していくというもので、その事象を歴史的に分析することはしないといわれた。

 たとえば、今、ムラに秋葉神社の分社が残されているとしよう。しかし、近世までは秋葉神社は存在していない。各地にあった秋葉社は、神仏習合の秋葉三尺坊大権現を祀ったもので、おおもとは秋葉寺であった。

 明治初期の維新政権による強引な神仏分離政策の結果、秋葉神社が出現したのである。民俗学は、その歴史的経緯を叙述しない。

 また民俗学研究者の調査活動をはたでみていると、きちんと史料調査をするのではなく、あんがいいい加減に叙述していたことを思うと、民俗学は果たして学問か、と思ったこともある。

 わたしはかつて「近代日本の国学」というテーマで連続講座をもったことがあるが、近代日本の国学こそ、民俗学なのだということを指摘した。

 そして、今日の「遠野物語」をみていて、ああこれは平田篤胤の世界だなと思った。

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支配層とべったりしていたら・・

2025-01-24 22:47:43 | メディア

 あまり興味はないのだが、ArcTIMESをみていたら、フジテレビの社員説明会の内容を詳報していた。フジテレビ社員の危機感は感じられたが、その首脳陣のあまりにヒドイ対応に驚いた。

 第三者委員会の弁護士について、その設置について企業経営に詳しい弁護士に事前に相談し、フジテレビの意向に沿うような報告を3月末までにだすように、裏で工作しているようなことを話したそうだ。これでは、第三者とは言えないし、公平中立なものができるわけがない。

 危機感を持った社員が、首脳陣に食い下がっているのに、彼らは脳天気な対応をしている。

 なぜそれができるのかというと、彼らは支配層に守られているという自信を持っているからではないかと思った。総務省の官僚の天下りを受け入れ、自民党議員の子どもなど関係者を社員として受け入れている実態をもつフジテレビは、不祥事が起きても、経営陣が批判されようとも、あるいは社員に厳しく追及されようとも、おれらは自民党や総務省に守られていると思っているのではないか。

 テレビをみないわたしにしてみれば、フジテレビがつぶれたとしても、何の影響も受けない。

 とにかく、フジテレビの首脳陣は、あまりにヒドイということはいえる。

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フジテレビのこと

2025-01-24 07:12:16 | メディア

 わたしは芸能界についてまったく関心がない。いわゆる「推し」という人物も未だ嘗て持ったことがない。だから何らかの意見をさしはさむ立場ではないことを自覚している。

 しかし社会派のネットメディアでも、この問題をとりあげているので、この問題についての知識は増えた。

 この問題に関してわたしがいうことは、フジテレビは、フジサンケイグループといわれるように、この系列は、メディアの中でも右翼的な位置にあって、産経新聞などは自民党政権を強く強く支え、そのためには捏造した記事をも掲載する徹底ぶりである。

 そういうメディアの系列であるから、自民党議員の親族が社員となって、そこから議員に名乗り出るということもあるし、あるいは官僚の重要な天下り先ともなっている。要は、現在の支配層による、支配層のための、支配層のメディアとして、フジサンケイグループは存在してきた。

 支配層が傲慢で、庶民の生活を顧慮することもなく、常に上から目線であるから、そのメディアも同じ性質を持つのであって、支配層が腐臭を放っているから、それを支えるメディアも腐臭を放つのである。

 わたしはテレビを見ないので、フジテレビがなくなろうと関係ないが、おそらく支配層は全力でフジサンケイグループを支えようとするであろう。監督官庁である総務省も、大甘な対応をするだろう。

 支配層と密接な関係をもつフジサンケイグループ、その存続に支配層がどのように対応していくのか、わたしの関心はそれくらいである。

 

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イヤな時代

2025-01-23 08:17:40 | 社会

 もと兵庫県議の竹内さんが自死したという。ネットでの誹謗中傷、それにもとづく実体のある脅迫など、それらが烈しく押し寄せる中で、生きていこうという意志を失ったのか。

 わたしはSNSの利用は最小限に抑えている。というのも、ネット空間には、ろくでもない情報、虚偽情報、真偽不明の情報・・・・・・が飛び交っている。そこで使われていることばも、日常生活で使用されているものではなく、乱暴な、攻撃的な、聞くに堪えないようなものだ。ふつうの人は、そういうことばを発しない。発しているのは、「人としてどうなのか」と思うような人物が発しているのだろう。

 そして、そういう乱暴なことばを真に受けて、行動に移す輩も出てくる。

 ネットの世界で飛び交う虚偽情報などは、なんらかの方法で、それも短時間で消す、という方策を考える段階にきたと思う。

 そしてその虚偽情報を堂々と流して平然としている者について、やはり刑事事件として対応すべきではないか

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アメリカ合州国のこと

2025-01-21 07:33:48 | 国際

 アメリカ大統領に、トランプが就任した。就任と同時に、彼はかなりのスピードで動いている。

 ネット記事などから引用すると、以下のような政策がある。

 「米国の黄金時代が今始まる」「米国を再び偉大にするため、私は神によって救われた」「私は今、米国では何事も不可能ではないことの証としてここに立っている。不可能とされることこそ、われわれが最も得意とすることだ」「不法入国を即座に阻止し、何百万人もの外国人を送還する手続きを開始する」「パナマ運河を取り戻す」「メキシコ湾の名称を「アメリカ湾」に変更する」「気候変動問題に対する国際的な枠組み「パリ協定」から脱退する」「政権の一日一日、米国を第一に考える。最優先事項は誇り高く、繁栄し、自由な国をつくることだ」「米国は富を増やし、領土を拡大して成長する国家だと考える」「米国民を豊かにするため、(輸入製品に)関税を課す」「今日から性別は男性と女性の2つだけであることを政府の公式方針とする」

 

 これらの政策をみると、別段新しいものでもない。どんな人が大統領であっても、アメリカ合州国は歴史的に独善主義をひたすら追求してきた国家だからだ。

 アメリカ合州国は、当初から先住民・インディアンを「殲滅」し、そのあとに「明白なる運命」だとして「新大陸」(彼らにとっての新、である)の支配を正当化してできた国家である。最初の移民たちは、ピューリタンたちだ。彼らの信じる宗教にもとづいた国づくりを、彼らは始めた。

 さて、岩波新書に『アメリカ 過去と現在の間』(古矢旬、2004年)がある。同書は、アメリカ合州国を次の五つの概念で分析している。

 ユニラテラリズム、帝国、戦争、保守主義、原理主義

 これらが通時的に出現していることを描いていて、当然これらは移民が「新大陸」に入ってきたところから始まっている。キリスト教の聖書をもとにした宗教的原理主義、それらを墨守する保守主義、そしてインディアンとの戦争の中で、アメリカ合州国は建国されたこと、まさにそれは帝国としての方法であった。そして先住民を殲滅した後にかれらが奪い取った広大な大陸は、孤立していても豊かな生活ができたのである。

 建国後も、通商政策に於いても独善主義は貫かれ、自分たちだけがよければいい、という方針は常に保持されてきた。

 トランプの政策の基本は、アメリカ合州国の伝統的なもので、アメリカ国民にとっては、別に目新しいものではないだろう、だからトランプが支持されるのである。

 トランプが独善的な政策を繰り広げるだろうが、それこそがアメリカ合州国の本質だとみれば、トランプによってアメリカ合州国の真の姿が世界の人びとの前に示されるのである。

 

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【本】佐藤泉『漱石 片付かない〈近代〉』(日本放送出版協会)

2025-01-19 21:53:20 | 

 2002年に刊行された本である。

 漱石を考究しようとして借りてきたものだが、これを読んで、漱石について考えていくことは、半年では無理だと判断した。それは以下の記述による。

 各時代はそれぞれの「漱石」を思い描き、そして「漱石」は各時代の要求に対してみごとに適合するように表情を変えてきた。どの「漱石」もたしかに漱石であるにちがいなく、それがこの作家の偉大さだというならば、そのとうりである。(65)

 ということは、捉えどころがなく、あるいは捉えることが難しく、または捉えようとしてもその輪郭が定かではない、ということにもなるだろう。

 となると、漱石を捉えるというとき、もちろん作品を読むことは当然ではあるが、漱石についての様々な文献を参考として読むとき、これだという本はないということになる。

 歴史について書くということは、今までの研究史をきちんとたどり、自分自身はその研究の軌跡に、どのような新しい視点を加えたか、ということになる。半年では、おそらく難しいという判断である。

 漱石はじっくりと読むしかないと思った。

 しかしそれでも、佐藤泉はよい視点を提供してくれている。

 西洋人が驚嘆の眼で日本の近代を見つめている。そのまなざしを受け止めた漱石は、日本の近代がいかに普通でないかを意識しはじめ、そして西洋の近代とは違う日本近代の特殊性を問題化し、それについて思考しはじめるのである。自己のアイデンティティ(存在証明)は他者のまなざしを受け止めて、反発したり受け入れたりすることによって確立するというが、この場合の「日本近代」という自己意識も、まさにそのように成立したものだった。逆説的なことに、日本という自意識の成立事情は、決して「内発的」なものではなかった。(61)

 ここには、漱石が日本の近代をどのように見つめたのか、それが課題となるということを示唆している。

 漱石は、日本近代をどうみつめたのか、これを課題として、いずれ探ってみたい。今年から来年前半の仕事になるだろう。

 

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【本】夏目漱石『吾輩は猫である』を読む(2)

2025-01-19 10:19:18 | 

 『我が輩は猫である』には、ふむふむと考えさせられる文がある。そのうちいくつかを下記に並べる。

「人間の定義を云ふと外に何もない。只入らざる事を捏造して自ら苦しんで居る者だと云へば、夫(それ)で充分だ」(下 127)

 このあとに、「世の中を見渡すと無能無才の小人程、いやにのさぼり出て柄にもない官職に登りたがるもの」とある。明治の時代から、このような風潮が存在していたというわけだから、今「官職」についている者たちが、あまりにひどいのもうなずける、というものだ。 

 「人間にせよ、動物にせよ、己を知るのは生涯の大事である。己を知る事が出来さへすれば人間も人間として猫より尊敬を受けてよろしい。其時は吾輩もこんないたづらを書くのは気の毒だからすぐさま巳(や)めて仕舞ふうつもりである。然し自分で自分の鼻の高さが分らないと同じ様に、自己の何物かは中々見当がつき悪(に)くいと見えて、平生から軽蔑して居る猫に向かってさへ斯様な質問をかけるのであらう。人間は生意気な様でも矢張り、どこか抜けて居る。万物の霊だなどとどこへでも万物の霊を担いで歩くかと思ふと、是しきの事実が理解出来ない。而も恬として平然たるに至つてはちと一噱(いっきゃく、※「一笑」と同じ意味)を催したくなる。彼は万物の霊を背中へ担いで、おれの鼻はどこにあるか教へてくれ、教へてくれと騒ぎ立てて居る。それなら万物の霊を辞職するかと思ふと、どう致して死んでも放しそうにしない。此位公然と矛盾をして平気で居られれば愛嬌になる。愛嬌になる代わりには馬鹿を以て甘んじなくてはならん。」(155~6)

 近代になってから、人びと、とりわけ青年は、自分とは何かを問い始めた。個の意識が生まれたのだ。漱石に教えを受けた学生が日光の華厳の滝に飛び込んだことがその証左である。彼はつぎのことばを遺書として残した。

 

巖頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

「今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入る迄一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の呪詛だ。馬鹿馬鹿しい」(205)

 資本主義が導入されてから、「己の利」をひたすら追求する者たちが増えていった。現在はその窮極の段階である。 

「昔は御上の御威光なら何でも出来た時代です。其次には御上の御威光でも出来ないものが出来てくる時代です。今の世はいかに殿下でも閣下でも、ある程度以上に個人の人格の上にのしかかる事が出来ない世の中です。はげしく云へば先方に権力があればある程、のしかかられるものの方では不愉快を感じて反抗する世の中です。だから今のは昔しと違って、御上の御威光だから出来ないのだと云ふ新現象のあらはれる時代です。昔しのものから考へると、殆んど考へられない位な事柄が道理で通る世の中です。」(214)

 そういう時代を経て、今では昔に戻ってきていると思う。「御上」に「反抗する」者の数は減る一方である。

 新自由主義の時代、トップダウンが「正しい」と強いられる世界では、人びとの多くは「反抗」を忘れて、「御意、御意」と叫ぶのである。

 

 

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トップダウンの組織

2025-01-18 21:24:04 | 社会

 東京女子医大におけるもと理事長・岩本某の大学支配を知れば知るほど、日本の組織がもつ怖ろしさを考える。トップが私腹を肥やし、みずからに従わない者を追い出し、独裁政治を敷いていた。

 そしてそのトップは、ついに逮捕され、今や牢獄にある。東京女子医大は、その名声を失い、職員は減り、医学の教育研究機関として地に落ち、医療機関としても不信感をもって見られるようになった。

 岩本某の独裁的な振る舞いを、当然その組織に属している人たちは目にし、聞いていたことだろう。しかし最悪の事態になるまで、岩本をおさえることはできなかった。

 なぜなのかと思う。

 新自由主義的経営が、政府によって導入することを促された結果、すべての学校(理事長、学長、校長・・)で、トップに権限が集中するようになった。学校については、文科省の主導による。トップダウンの経営が推奨されたのだ。

 たとえば、大学では教授会の骨抜きが行われ(以前は、大学の自治は「教授会の自治」として批判されたが、今は「教授会の自治」はもはやない!)、小中高の学校では職員会議が会議ではなく、伝達のための会議へと還られた。

 トップに権限が集中し、その周りにはトップにより選ばれたゴマすり野郎が脇を固めるようになった。小中高では、昔は管理職は校長、教頭のみであったが、今は一般教員のなかに階統制を導入し、平面的な組織をピラミッド型の組織へと変えた。そして管理職の評価によって給与に差別を導入するようにした。「ゴマすり」を増やそうというのだ。

 トップダウンの組織は、自治体にも導入された。「自治体経営」というとき、それはトップダウンが是とされる考えとなった。

 トップの専横により、その組織を破壊し、機能を麻痺させることが社会全体で増えている。トップとその周りにいる者(組織における支配者たち)に権限を集中させ、彼らに意見する者たちを排除するという方式が普及させられたからだ。

 全社会的に「イエスマン」を増やすこと、それが新自由主義の考えである。

 その点、「ドクターX」の、「群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌い」は素晴らしいと思う。ゴマすりをしない人間をたくさん生みだすことが、組織を健全に保つ秘訣である。もちろん、労働組合をつくること、御用組合ではない組合をつくることも、秘訣のひとつである。

 わたしは、ゴマすり野郎は、大嫌いである。

 

 

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【本】夏目漱石『吾輩は猫である』を読む

2025-01-15 10:00:53 | 

 夏目漱石を攻略しようと思って、『吾輩は猫である』を読み、また佐藤泉の『漱石 片付かない〈近代〉』(日本放送出版協会、2002年)を読んだ。今年は漱石だ、と思って読みはじめたが、なかなか難しい。佐藤の本を読んでいると、論点が様々でてきて、一人の作家・漱石をどのように考究していくか、その方法、視点がとんと思いつかない。ことしはいずれ「漱石ーその時代」というテーマを話すための準備期間として、とにかく漱石の作品を読み進めることだけにする。

 歴史講座は、「日本とアメリカー歴史的に考える」というようなものにしようかと思う。アメリカについての本をたくさん持っていて、いずれ「アメリカ帝国」とはいかなる存在であるのかを考えるつもりではいた。

 さて、『我が輩・・・』を読んでいたら、おもしろい指摘があった。

 人間といふものは時間を潰す為めに強いて口を運動させて、可笑(をか)しくもない事を笑つたり、面白くもない事を嬉しがつたりする外に能もない者だと思つた。(上、68)

 たしかに。わたしは週一回鍼灸師のお世話になっているが、そこに行くと、ひとりの老女が、のべつまくなしにしゃべっている姿をみる。会話を楽しむというより、自分自身が話すことだけを追求している。だから他人が話していても、その話をさえぎるかのように話す。そして笑ったり、うれしがったりしている。まあ元気に話すことが長寿の手段でもあるから、わたしはだまって聞いているのだが。

元来吾輩の考によると大空は万物を覆うふ為め大地は万物を載せる為に出来て居るー如何に執拗な議論を好む人間でも此事実を否定する訳には行くまい。偖(さて)此大空大地を製造する為に彼等人類はどの位の労力を費やして居るかと云ふと尺寸の手伝もして居らぬではないか。自分が製造して居らぬものを自分の所有と極める法はなからう。自分の所有と極めても差し支ないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。此茫々たる大地を、小賢しくも垣を囲らし棒杭を立てて某某所有地抔と画し限るのは恰もかの蒼天に縄張して、この部分は我の天、あの部分は彼の天と届け出る様な者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。(上、116) 

 これは猫殿の発言ではあるが、なかなかの指摘である。

 次は「大和魂」への言及である。これは会話の中で交わされているのだが、その部分だけを抜き書きしよう。いずれ再び「大和魂」が叫ばれる時代が来るかもしれない。確かに「大和魂」には実体がない。ことばだけだ。ことばだけが叫ばれる時代が再来する?あゝ怖い。

「大和魂!と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」/「大和魂!と新聞屋が云ふ。大和魂!と掏摸(スリ)が云うふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする」/「東郷大将が大和魂を有つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有つて居る」「大和魂とはどんなものかと聞いたら、大和魂さ答へて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云ふ声が聞こえた」/「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る。」/「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」

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農業のはなし

2025-01-14 21:17:51 | 社会

 子どもの頃、田畑がひろがっていた。しかし、その面積はどんどん狭まっていった。そして今は、米を作らない田、作物をつくらない畑も増えている。

 さらに、田が次々埋められ、そこが運送トラックの基地となったり、ソーラー発電所になったり、農地面積は減り続けている。

 『週刊金曜日』に、「主食の生産守れなくて何が食糧安保だ」という記事があった。アメリカから農産物を輸入するために、ひたすら日本の農業をつぶしてきたのが、自民党・公明党政権の農政であった。「ノー政」とも言われてきたが、いよいよもって日本農業は自壊へと歩を早めている。

 今、田畑で作業をしているのは、高齢者ばかりだ。その高齢者は、年金を得ているから農業をやれている。脳病一筋の人は、農業だけでは生活できないので、よほど耕作面積を広げないと生きていけない。

 記事には、農家の現状が記されている。トラクターは300~400万、コンバインが500万から600万だ。耕作面積を広げるということは、このような農業機械を導入しなければ無理である。「農業機具だけで年間100万円くらいの減価償却費がかか」るとある。「1俵6万円で政府に買い上げられても、うちの場合、1町3反で60俵とれたとして360万円。そこから農機の償却や肥料代、燃料費などを引いていくと残るのはおよそ200万円。新卒給料より安い。」

 高価な農機具を導入できない人たちの耕地面積は狭い。だから、他産業で働いていたことによる年金がないと、農業はできない。からだのどこかを痛めながら、高齢者は農作業に従事している。いずれ、その人達も農業から離れざるを得ない。誰が米を作るのか、誰が農地を耕すのか。

 昨日の『東京新聞』第一面は、「スキマバイトの隙間」で、高校生の告発をもとにした記事があった。高校生は東京都が全額負担している「レインボーライド」の会場設営の仕事に応募した。そこで様々な法令違反をみつけた。時給は1165円。東京の最低賃金は1163円だ。

 東京都は、この事業に5億円を投入し、フジテレビとALSOKの共同事業体に委託した。今問題となっているフジテレビなど大企業に大金を渡し、二社はおそらく中抜きし、下請けに出している。さらに何重にも下請けに仕事がまわされ、最低賃金でスキマバイトの働き手がこきつかわれる。

 政府も、地方自治体も、集めた税金をこのように大企業にまわし、その金がどのように流れているのかを調べようともしない。

 政府自治体は、農業を捨て、労働者を捨て、大企業だけに集めた税金を流している。ひどい事実にわたしはいつも憤りを覚えるが、しかし庶民はどうなのか。

 怒りは?

 

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「だまされるな!」

2025-01-13 10:04:44 | 社会

「だまされるな!」は、『週刊金曜日』の巻頭、田中優子さんの「2025年の風景」の末尾にあることばである。

「見せかけの改革とその裏の何も変えようとしない怠惰が、25年の姿に思える。だまされるな!これが年の初めの呼びかけだ。」

 しかし、ほとんどの人びとは、自分たちが「だまされている」なんて思っていない。こんなにも物価が上昇していても、それは自然現象と同じなのである。「物価が高くなる」、「今日は寒くなる」・・・「なる」のであって、誰かが「する」ものではないのだ。

 昨日の『東京新聞』一面トップは、「別姓かなえた海外婚」「待ち続け40年 しびれ切らした」であり、なかなか日本で実現しない夫婦別姓を実現すべく、海外で夫婦別姓による結婚を行うという人がいる、という記事だ。

 夫婦別姓というのは、世界では当たり前のこと。日本でも、以前に記したが、明治の初期までは別姓であった。夫婦同姓は、近代につくられた「新しい伝統」なのである。わたしがよくいうのは、源賴朝の奥さんの名は?と尋ねる。答えは北条政子である。日本でも、夫婦別姓の歴史の方が長いのである。

 夫婦別姓にとってなにが障害となっているかといえば、超がつくほどの保守勢力(ウルトラ右翼)である日本会議(神社本庁など、近代日本で優遇された勢力、明治以後の夫婦同姓の時代にいい目を見た人びと)やかの統一教会(韓国では夫婦別姓があたりまえ、統一教会の教祖は文鮮明、奥さんの姓は韓であるのに、なぜか日本では夫婦同姓を支持する)、それに支援されている自由民主党の議員達が選択的夫婦別姓に強固に反対しているからだ。

 「実現しない」のではなく、彼らが「実現させないようにしている」からだ。社会現象は、誰かが何らかの工作をしているから起きているのである。

 最近ガソリン価格が上昇している。世界各地で紛争が起きていることも背景にあるが、ガソリン価格を引き下げることはできる。ガソリン価格には税金がたくさんかけられている。こんなことは常識であるが、とりわけ暫定税率といわれる1㍑あたりの25.1円をなくせばよいのだ。

 また物価上昇に伴い、政府に入る消費税が大幅に増えている。庶民は、物価高騰に苦しんでいる。わが家も苦しくなっている。しかし自民党・公明党政権は、消費税を下げようとする気配もない。れいわ新選組だけが「消費税廃止」を主張しているが、これは正しい政策だ。消費税導入、消費税の税率アップに伴い、同時並行的に行われたのが、法人税の引き下げである。法人税の引き下げ分を消費税に肩代わりさせる、そういう政策がおこなわれてきたのだ。現在企業がウハウハしながら内部留保を増やしているのは、自民党・公明党政権の政策によるものだ。

 現在の社会現象の内、庶民の生活を苦しめている事象は、すべて自民党・公明党政権が引き起こしているといっても過言ではない。

 「だまされるな!」というとき、みずからがだまされているという認識がなければならない。日本の庶民がそういう認識をもつことができるか、わたしにはそれがわからない。

 

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一貫する姿勢

2025-01-12 10:22:47 | 政治

 法人税や所得税を減税して、そのかわりに消費税を増税する、というのが、自民党・公明党政権の政策であった。富裕者を優遇して、庶民からカネをとりたてて、そのカネを公共事業という、企業が中抜きできる事業につかうというのが、自民党・公明党政権の所業で、それが今も続いている。オリンピックや万博など、そうした事業は国も自治体もやり放題である。自民党・公明党につながる者どもがそこから分け前を頂戴することができるからだ。

 さてまた、自民党・公明党政権は、庶民に対するイジメを強化しようとしている。「高額医療費見直し「現役世代の負担軽減」は政府の詭弁…恩恵どころか、弱者に負担を付け回し」である。

 そういう姿勢で一貫している自民党・公明党政権が、なぜか、あたかも庶民を助けるような口ぶりでおこなってきたのが、コロナワクチンである。全額国庫負担で行ってきたコロナワクチン。自民党・公明党政権の姿勢、庶民(弱者)を放っておいて、企業をひたすら儲けさせるという一貫した姿勢から、コロナワクチン接種は、人びとを救うために行ってきたといえるのかどうか、やはりそこにはアメリカへの思いやり(アメリカへの日本のカネの支出=贈与)、大企業へのバラマキがあった、むしろそちらのほうが蓋然性が高いのではないか。

 メディアでは唯一コロナワクチン接種についての「影」の部分を報じてきた名古屋のCBCが新たな調査結果を報じた。ちょうど浜松市の事例をもとにした報道である。

 ワクチンを6回接種した人が、3回目のコロナにかかったという事例を聞いたことがあるが、はたしてコロナワクチンは効果があるのか、製薬業界を儲けさせるための事業ではないのか、という疑念が強くなる。

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行政は、企業のためにある

2025-01-11 18:48:04 | 社会

 今日の『東京新聞』一面トップは、「自民への献金年24億円 後押し」「経団連の要望 次々実現」である。大企業で構成される経団連が自由民主党に、年24億円のカネを献金している。そして自民党は、経団連が求める政策を次々と実現させていることを指摘している。

 その通りである。別に経団連だけではなく、それぞれの業界も多額のカネを自民党に献金している。

 自由民主党、公明党による政治は、基本的に大企業が喜ぶ政治を行っている。そんなことは昔からである。大企業に利益が生じるように、儲けられるように様々な施策を行っている。そして儲けさせれば、儲けの一部が自民党や自民党議員に還元される。

 そしてそれは、地方自治体の行政でも同じである。企業が儲けやすいように行政を行い、儲かったカネの一部が自民党議員や首長にも渡される。

 こんな政治がずっと続いているのだ。

 『吾輩は猫である』でも、こういう記述がある。

 銀行家などは毎日人の金をあつかひつけているうちに人の金が、自分の金の様に見えてくるさうだ。役人は人民の召使である。用事を弁じさせるために、ある権限を委託した代理人の様なものだ。ところが委任された権力を笠に着て毎日事務を処理していると、是は自分が所有している権力で、人民などは之について何等の嘴(くちばし)を容るる理由がないものだなどと狂ってくる。(下巻、126)

 役人がこのような心性を持っている上に、企業からカネをもらっている政治家が口をきけば、「人民」のことなんか当然無視すべき存在だと思うだろう。実際、自治体の役人に接してみれば、そのような人物ばかりであることがよく理解できるであろう。

 役人の性格は、漱石の時代から変わっていないということだ。人民の「嘴」はないも同然である。

 

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