浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

多様な意見(続々)

2022-03-31 22:58:43 | 国際

 今日『週刊金曜日』が来た。巻頭の「風速計」には、想田和弘さんの意見が記されていた。想田さんの意見は、他でも読んだことがある。侵略者に対して抵抗するな、応戦すれば人は殺され、生活の場は破壊される、軍事力では「国や民を守れるか」、それは「不可能」である、と。一切応戦せず、ロシア軍の支配を受け入れたなら、「街は今ほど破壊されず、人も死なずにすんだのではないか」というのが、想田さんの主張である。

 これは善意の考えであり、私も理解できる。これと同じことは、1968年、「プラハの春」を潰滅するために、ソ連軍をはじめとしたワルシャワ条約軍が国境を超えて進軍しチェコスロバキアを占領したが、チェコの市民は抵抗しなかった。確かに破壊や殺戮はなかった。しかしチェコでは、1989年の「ビロード革命」まで抑圧的な体制が続いた。

 どちらの選択が正しいか、私には解答はない。どちらを選択するかは、当該国の市民が決めることだ。

 ただ、1968年の場合は、ソ連軍、ワルシャワ条約軍は、国境を超えるまえにミサイル攻撃などの軍事力の行使はなかった。

 今回のロシア軍のウクライナ侵攻は、最初からミサイル攻撃など激しい軍事攻撃がなされた。こうした場合、無抵抗のままでいられるだろうか。2月24日から、街を破壊し、市民を殺す状況をロシア軍が開始した。1930年代の日本軍、ベトナム戦争での米軍と同じことをロシア軍が始めたのである。日本軍の侵攻に対して中国始めアジアでは激しい抵抗があったし、ベトナムでも同様であった。

 したがって、ウクライナの応戦は、選択の余地のないものであったと私は考えざるをえない。応戦せざるを得なかった、と。

 さて、想田さんの考え方であろうとなかろうと、だからこそ外交で軍事的衝突が起きないように(それも絶対的に、である)することこそが必要だということである。「敵基地攻撃論」なんぞはもってのほかの議論である。

 「敵」をつくらない、「敵」にならない日本をつくることこそが、今回のロシアのウクライナ侵攻から引き出す教訓でなければならない。「敵」が存在しなければ、破壊も殺戮もないのだ。

 ウクライナでは、必死の応戦をしている。私はウクライナの人々を支援し、援助している。

 

 

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事なかれ主義

2022-03-31 08:42:18 | 政治

 県庁や市役所などの公務員の欠点は、事なかれ主義であるということだ。だいたい3年くらいで部署が変わるので、みずからがそこの部署にいるときは何ごともなく過ぎていくことをだけを考えて仕事をこなしていく。もめ事も起きないように、とにかく無難に過ぎていくことだけを考える。

 上から言われることはやるけれども、自主的に何かをすることはしない。自分のためでもあるし、あとからその部署に来る人のためでもある。

 役人根性が、いつのまにか習い性になる。それは、退職してからも、である。力ある者に従い、権威にすがる。自分自身を主張することはしない。

 だから、役所に関わっていろいろな問題が、後から起きる。

 熱海の土石流災害もそうだ。県や市の職員の事なかれ主義が招いたものだ。もちろん業者が悪いのだが、そのワルを放置していた県や市も悪いのだ。

 

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ロシア人は変えないのか

2022-03-31 08:42:18 | 国際

 ロシア軍のウクライナでの蛮行は、とどまることを知らないようだ。国際人道法に反する行為を平然と行い、指摘されると「そんなことはしていない」とウソをつく。プーチンと同じ未来を見ていたシンゾーと同類の人間が、ロシアには多いようだ。

 しかしロシアにも良識ある人々はいるだろう。早くプーチン指導部の決定的に誤った作戦を中止させなければならないはずだ。

 そういう動きがあるようだ。早くプーチン体制をぶっ倒せ。ロシアには革命の伝統があるだろう!

 

 

 

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寂聴さんの本

2022-03-31 08:12:57 | 読書

 『ユリイカ』を読んでいるが、寂聴さんが寂聴さんだけに、寂聴さんを論ずるに、全力投球していることが文章から匂い立ってくる。

 寂聴さんは誰とでも話し、ほめて伸ばす人だという。そうだろうと思う。晴美さんの頃、静岡の大杉栄らの墓前祭に来静されたとき、運転手を務めた私とも気さくに話していただいた。そのときの会話の一部は今も覚えている。にこやかに、クリアでエネルギッシュな話し方をされていた。

 私は、『比叡』を読んだとき、これぞ文学だと思ったことがある。今読んでもそう感じるかどうかは分からないが、感動した記憶がある。

 寂聴さんの文学は、寂聴さん自身の生き方と作品を重ね合わせて批評されることが多い。私小説が多いからだ。ただ私は、伊藤野枝や管野須賀子など、評伝文学の方を好んで読んでいる。

 『ユリイカ』をはじめから読んでいて、黒田杏子さんの、寂聴さんとの俳句との関わりを記した文はよかった。寂聴さんの「御山のひとりに深き花の闇」という句が紹介されているが、その説明に感心したし、文学者としての寂聴さんの句も、卓越していると思った。

 高村峰生さんの「おしっことお風呂」は、寂聴さんの作品の中から、おしっことお風呂を記した情景を切りとり、それらがどういう意味をもたされているかを考察したもので、寂聴さんの文学を文学としてきちんと読むことを示唆するものであった。

 寂聴さんは、石牟礼道子さんが亡くなられたとき、「いいわね・・こんなにいろんな人が文学のことを褒めてくれて」と言ったそうだ。私小説作家としての寂聴さんではなく、文学者として彼女の文学を鑑賞していくことの必要性を、高村氏は記していた。

 中上紀さんの文も良かった。中上さんも寂聴さんにより作家になった人のようだ。父君は中上健次。

 その次は「栗原康」の駄文。毒にも薬にもならない、わけの分からない単語を並べただけの戯れ言であった。おそらくこの人は、寂聴さんの本は大杉や野枝のことを描いたものしか読んでいない。

 多くの人が、寂聴さんを真剣に論じているのに、まったく失礼な文である。ここまで読んで、しばし休憩。

 

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ロシア軍の犯罪

2022-03-30 23:57:09 | 国際

「到底許されることではない」戦禍のウクライナ南部の都市・ミコライウで須賀川記者が見たロシア軍の“非人道的”な攻撃

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あきれるしかない!

2022-03-30 23:33:35 | コロナ

 世界的な常識であった、新型コロナウイルスはエアロゾル感染するということを、やっと国立感染症研究所が認めたようだ

 今まで、厚労省の医系技官につらなる国立感染症研究所はじめ「専門家」といわれる人々は、エアロゾル感染にきわめて否定的であった。そのため、企業では、接触あるいは飛沫による感染対策が行われてきた。そのため、工場では感染者が増加したところが多い。

 やっと、世界の常識に日本が追いついた。

 しかし、追いついていないところもある。pcr検査については未だに否定的なことである。厚労省の医系技官にとって、PCR検査はみずからの利権につながらないからだろう。

 

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2022-03-30 12:38:09 | 

 最近本を買うことが少なくなった。数年前までは、欲しい本、書評で紹介された本を見境なく買っていた。しかし今は、あまり買うこともなくなった。そもそも雑誌を読むだけでも時間がかかるし、私は農業もしているので、そのための時間も多い。最近は、頼まれた内容の原稿を書くことで、多くの時間を費やした。次は、ひろたまさきさんの歴史研究について書くつもりで、ひろたさんの本を読みはじめている。

 そんなとき、図書館に依頼してあった『ユリイカ』の瀬戸内寂聴特集、やっと私の番になった。昨日借りて、読みはじめた。この本、最初は買うつもりであったのだが、目次に「栗原康」の名を発見し買うのをやめた。彼の文はすべて駄文というべきもので、彼の文が掲載されているものについては買わないことにしていたからである。

 読みはじめて、力作揃いであることがわかった。瀬戸内寂聴と関わりがあった人々が、全力投球で書いている。それだけ寂聴が魅力的であったからである。

 静岡・沓谷霊園に大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の墓があり、毎年墓前祭が開催されているが、その関係で寂聴さん(当時は晴美さん)を車に乗せ、いろいろお話しをしたことがある。寂聴さんが伊藤野枝の評伝を書いているからであって、それ以降、寂聴さんのいろいろな動きを注視してきた。

 ここでは『ユリイカ』に書かれている内容を紹介しないが、良い本だ。

 

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新聞記事

2022-03-30 12:38:09 | メディア

 昨日の『東京新聞』第一面トップは、「止まらぬ値上げ 4月も」である。いろいろな商品の値上げが行われる。報じられる前に、すでにいろいろな商品の値上げは行われていて、価格は変わらなくても内容量が減っているものも多く、値上げのラッシュである。

 その原因の一つが「円安」である。政府は、輸出大企業のために、ひたすら円安への誘導を行ってきた。輸出大企業は、円安と消費税の還付により、たいへんな利益を上げてきた。輸出大企業の繁栄のもと、労働組合が自民党や公明党を支持するのも当然であるかのような政策である。

 しかしそれによって、市井の人々の生活は苦しくなる。中小企業の賃金は上昇せず、高齢者の年金は下がるばかり。コロナ禍が、さらに庶民を痛めつける。痛めつけられた人々は、選挙には行かない。

 社会面には、日本大学の現役学生ともと日大全共闘のメンバーの対談である。日本大学は、日大で大きな闘争が起きたほど、昔から腐臭を放っていた。今回の田中前理事長の事件も、日大らしい事件である。

 その対談で、「逆らうことに不寛容な雰囲気」が強くなっていると指摘される。それはそうだろう、学校の成績が「観点別評価」という教師に従順な者ほど成績がよくなるというシステムを採用してから、学校は静かなものだ。教師に逆らうものはなくなり、生徒間の陰湿ないじめが横行するようになった。こういう状況は、文科省の文教政策がもたらしたものだ。

 とにかく子どもたちを従順な人間にしなければならないと、部活動を強制し(部活動の必修化は、高校紛争対策であった!)、上意下達を子どもたちの間で徹底させた。この頃から学校に「先輩・後輩」ということばが一般化された。

 しかしこういう子どもたちからは自主的・創造的な考えは生まれてこないだろう。旧教育基本法にもとづく教育こそが求められるのだが、自民党や文科省はとにかく権力に従順な人間が好きだ。そういう子どもを、文科省はつくってきた。「逆らう」ことは「悪」と思われるようになった。

 しかし、昔の人間には、「逆らう」ことが人間のあるべき姿であることを示す人がいる。文化欄の「一首ものがたり」に、95歳の女医(今は引退しているようだ)・北山郁子さんのことが載っていた。読んでいて、感動した。富山県出身の北山は、渥美半島で夫と共に医療活動を行った。しかし医者として、封建的な雰囲気が強いこの地方で苦労した。そして渥美火力発電所増設反対運動にリーダーとして参加した。中部電力は漁業協同組合長に多額のカネを貢ぎ、運動を切り崩した(漁業協同組合は、どこでもカネに弱い)。

 「逆らう」こととは、「あたりまえのことを言いたい」ということでもある。

 新聞を購読していると、思いがけない記事に当たることがある。昨日の『東京新聞』、この北山郁子さんの記事を読めたことだけで、購読していてよかったと思った。

 

 

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この映画は見たいな

2022-03-29 22:00:13 | 美術

見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界

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『週刊金曜日』3月25日号

2022-03-29 21:29:31 | 

 私は五種類の雑誌を購読している。もっとも長期間購読しているのが、岩波書店の『世界』である。その『世界』がよく売れているというニュースをみて、とてもよいことだと思った。

 私は、新聞は『東京新聞』を購読しているが、もし他の新聞だったら不機嫌になる回数は増えるだろう。

 さてその5種のなかから、『週刊金曜日』を紹介しよう。今週号(1370号、3月25日号)が良い記事で埋まっているからだ。めずらしくほとんどを読んだ。ロシアのウクライナ侵攻の記事もよいが、福島県の甲状腺ガンについての記事は、全国民が知るべきである。

 このことについては何度も書いているが、福島県で子どもたちが甲状腺ガンになっている。私は長い間教員として過ごしてきたが、一人として甲状腺ガンになった生徒を知らない。その他の特殊な病気になった生徒はいたが、甲状腺ガンはいなかった。明らかに福島の原発事故で流出した放射能が原因であることは常識的に見れば明らかである。にもかかわらず、国や東電、そして福島県は、原発事故が原因とは言わない。最初から言わない。事故が起きる前から、事故が起きて甲状腺ガン患者が増えても、原発事故が原因だとはぜったいに言わないようにしようという取り決めがあったかのような対応だ。許せないことだ。 

 この件に関して津田敏秀教授へのインタビュー記事がある。疫学的な方法からしてもクロなのに、政府や福島県などが頑強にそれを否定するそのことが告発されている。

 チェソンエさんの小出裕章さんへのインタビュー記事もよい。時に掲載されるチェさんのインタビューはいつも好感が持てる内容だ。今回も同じ。

 次は、北海道新聞の新人記者が「旭川医大不正支出問題」で取材している際に逮捕されたこと、それに対して道新が記者を守らなかったことが糾弾されている。『週刊金曜日』の植村隆さんも、「慰安婦」報道でネトウヨらの卑劣で激しい攻撃がおこなわれたとき、朝日新聞社は植村さんを守らなかった。新聞社は、そういう会社であること、つまりいざというときには逃げてしまうという習性をもっているということである。だからこそ、雑誌の意味がある。逃げていく新聞が殆どであるけれども、しかし果敢に抵抗する雑誌は存在するのだ。『週刊金曜日』もそれである。

 日本学生支援機構の「奨学金」という名の、教育ローンに関して、その取り立ての問題が連載されている。日本学生支援機構は、学生を支援するのではなく、カネを貸してカネ儲けをする組織と化しているようだ。「違法回収」という取り立て。これも日本政府が、公教育にカネを出さないところからきている。OECD諸国の中で、日本の公教育への支出は、確かビリである。

 他にも良い記事が多かった。

 『世界』の販売が好調であるように、『週刊金曜日』も購読者が増えることを望む。これらの本の購読者が増えるということは、日本の民主主義を活性化させることになる、と私は思う。

 

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ロシアという国

2022-03-29 20:32:49 | 国際

 私は昔から「Z」が大嫌い。学生時代、暴力を振るいまくっていた革マル派がヘルメットに「Z」という文字を書いていたからだ。

 そしてウクライナに侵攻したロシア軍が、「Z」という文字を戦闘車両に書いている。

 さらに「Z」が嫌いになった。

 そして、ロシアの広告をみて、さらに「Z」に嫌悪感を強くした。

 

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多様な意見(続)

2022-03-28 23:26:00 | 国際

 私のところにも、いろいろな情報がメールで送られてくる。そのなかには、今回のロシアによるウクライナ侵攻は、もちろんロシアが悪いが、ウクライナにはネオナチがいる、ウクライナがNATOに入ろうとした、あるいはアメリカなどNATO諸国が反ロシア政策を展開していた・・・・・・だからロシアは悪いが、ウクライナも悪いということを主張するものだ。そしてロシアは悪者だとロシアをこぞって叩くのはいかがなものか・・・・と。

 国家間の関係だから、もちろんどちらかに絶対的な正義があるわけではない。そんなことは当たり前である。

 だが、現在、ロシアはウクライナの民衆を殺戮し、ウクライナ民衆の生活を根こそぎ破壊しているのだ。ロシアが徹底的に悪者であるのは当然である。

 アメリカがイラクのフセイン政権を倒すために、軍隊を派遣して、今回と同じようなことをした。アメリカがフセイン政権を倒すのは理由があるからだ・・・といって、アメリカを擁護することは、リベラルといわれる人々の間にもなかったと思う。イラクは大量破壊兵器を持っていないのに、持っているとして攻撃したアメリカ軍は悪者だ、という共通見解があった。

 今回の侵略について、リベラルと言われる人々の間に、ロシアを擁護する姿勢が、なぜか見られるのだ。

 問題はこう立てられなければならない。「殺すな!」ということだ。私たちが立つべきところは、「殺される側の民衆」のところであるべきなのだ。その立場からみれば、一目瞭然、悪はロシアである。

 ロシアの侵攻には理由がある・・・といっている人々に、私は上から目線を感じてしまう。ロシアがウクライナ侵攻するにはもちろん理由はあるだろう、しかしその理由をあれこれ想像する必要が、今あるのだろうか。

 停戦が成立し、ロシア軍によるウクライナ民衆への殺戮、そして破壊が止まり、ウクライナの主権が尊重されるようになったとき、侵攻の理由をあれこれ議論してもよい。今はその時ではない。

 ウクライナをみずからの勢力圏に置いておきたいロシア、そのこと自体上から目線であるのだが、そのロシアの非を徹底的に攻撃することが、今必要なのだ。

 ウクライナの歴史、ソ連やロシアによって収奪され、抑圧された歴史がある。やっと大国ロシアの軛から離れて独り立ちしようとしていたとき、今回の侵攻が起きた。

 ロシアを免罪してはならない。ロシアは悪者なのだ。そしてもちろん、そのロシア=ロシア人ではない。私がいうロシアとは、プーチンをリーダーとするロシア国家である。

 今、そのロシアが、殺戮と破壊を恣にしている。そのロシアに少しの正当性はあるのか。まったくない!のだ。

 

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一期一会の演奏

2022-03-27 19:46:55 | 日記

 「一期一会」はよいことばだ。「一生に一度しかない出会い」という意味で、茶道のことばである。

 ジャクリーヌ・デュ・プレの演奏は、どれを聴いても「一期一会」の演奏だ。今この時に聴いてくれる人に全力で演奏する。だから真剣な演奏である。

 私も、出会う人に対して、「一期一会」の精神で相対すべきであると思ってきた。自分の人生も大切だけれども、今出会っている人の人生も大切だ。だからこそ、その出会い、交わりを大切にしたいと思う。

 そのためには、相対する人に、好感を持たなければならない。好きにならなければならない。

 相対する人は、目の前にいる個人である。現存している。

 しかし、マスとしての民衆、人々、国民・・・・などの集合名詞は、目の前にいるものではない。想像力が求められる。

 想像上の民衆、人民・・・・・に好感が持てるか。

 おそらくデュ・プレは持てたのではないかと思う。演奏会では聴衆は、目の前にいる。しかしレコーディングでは、いない。想像上の聴衆を好きになり、全力で、誠心誠意に演奏する。

 この曲を聴きながら、果たしてプーチンはどうかと考える。プーチンは、目の前にいる人間ですら、好感を持つことはないと思う。想像上の国民、民衆、そしてウクライナ国民・・・

 おそらくプーチンは孤独な人間なのだろう。誰をも好きになれない、愛すことのできない、したがって好まれない、愛されない人間。だから人間に対して冷徹に振る舞うことができる。他人を判断するものさしは、自分に有用かどうか、自分に従うかどうか、自分を恐れるかどうか・・・・・ひとりの人間のために、民衆のために、誠心誠意力を尽くす、ということとまったく無縁な人間。

 残念ながら、人々は、そういう人間を権力の頂点にまつりあげるのだ。

 聴衆を、実際の聴衆であっても、そこにいない聴衆に対しても、デュ・プレは全力で誠心誠意演奏した。

 しかし彼女は、悲劇的な最期を遂げた。「一期一会」を生きる人間にとって、この世は生きにくい。

 私は、デュ・プレの全演奏を持っている。そのなかで、とりわけドヴォルザークのチェロ協奏曲が好きだ。

 ウクライナの民衆の悲しみ、怒り、苦しみを想像しながら、デュ・プレを聴く。

 

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破壊され尽くしたウクライナの街に・・・

2022-03-27 19:46:55 | 国際

 2月24日から、私は陰鬱な気分が続いている。ウクライナに対するロシア・プーチン政権の軍事侵攻が引き起こしたものである。

 ウクライナの民衆が殺され、民衆が生活していた住居や街並みが破壊されている。

 破壊され尽くした街並みを見るのはとても辛いことだ。

 このナターシャ・グジーさんのうたごえを聞きながら、映し出されたウクライナの街並みを思い浮かべた。あの破壊された街並みに、この美しい声が流れていく。

 本来ならば、太陽と緑に囲まれた静かな街並みであったはずで、きっと彼女のうたごえはそうした街並みにこそ流されるべきなのだろう。

 だが私は、破壊された街並みを、悲しみをもちながら、彼女のうたごえはそれらを癒やすためにあるように思えた。

 「殺すな!」「NO WAR!」

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多様な意見

2022-03-27 14:30:30 | 国際

 プーチン政権によるウクライナ侵攻に関して、様々な意見が交わされている。私はそれはそれでよいと思うが、どうかなというものも多い。

 まず一つは、ウクライナの大統領は、戦禍に苦しむウクライナの民衆を救うためには、早期にロシアとの停戦をすべき、つまりある種の「降伏」をしたほうがよいという意見がある。善意の意見であろうが、私はそうは思わない。

 まず、侵略に抵抗し続けるか、それとも「降伏」するのかは、ウクライナの民衆が決めることであるということだ。

 1930年代、日本軍が中国侵略を行った。それに対して、中国民衆が様々な抵抗闘争を行った。私が史料を見ていて驚いたのは、日本軍の進攻を遅らせるために、道路にばく大な土砂で軍隊の進攻を妨害する妨害塹を建設してあったことを、日本兵士の一人が絵をかいて書き送っていたことだ。それほどの抗戦の意思を、当時の中国民衆が持っていたということだ。

 日本軍が非道な侵略を行っているとき、中国の蒋介石や毛沢東に対して、民衆の被害をなくすために「降伏」したほうがよいと、果たして言えるだろうか。

 ベトナム戦争の時、アメリカ軍は北ベトナムへの絨毯爆撃を繰り返し、枯葉剤をまいたりしていた。しかしベトナム民衆は、残虐な攻撃(ボール爆弾、マグネシウム爆弾、ダムダム弾・・・・など、米軍は核を除き、ありとあらゆる兵器を使った。)に対して、徹底的に抗戦して、米軍を追い払った。このベトナム民衆に対して、民衆の犠牲を減らすためには早く降伏すべきであった、といえるであろうか。

 私たちが選択すべきは、侵略した側を強く批判すること、そして侵略をやめさせるように尽力すること、そして侵略されている側の人々を助けるために何らかのことをすること、ではないか。

 それは、ベトナム戦争に対して、私たちが批判したことと同じことだ。私はベ平連の一員であったが、ベトナム民衆に戦いをやめてアメリカに「降伏」したほうがよいなんて、まったく思わなかった。ベトナム民衆の戦いは、正義であると認識していたからだ。

 ロシアが軍隊を侵攻させ、ウクライナの民衆を殺傷し、生活を破壊している。それに抵抗する戦いは、私は正義であると思う。

 「降伏」するかどうかは、ウクライナの人々が決めることであって、安全な外野から「降伏」したほうがいいなんて言っている場合ではないのだ。

 私は、とにかく、ウクライナの民衆を支える人間でありたいと思う。

 

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