今日『週刊金曜日』が来た。巻頭の「風速計」には、想田和弘さんの意見が記されていた。想田さんの意見は、他でも読んだことがある。侵略者に対して抵抗するな、応戦すれば人は殺され、生活の場は破壊される、軍事力では「国や民を守れるか」、それは「不可能」である、と。一切応戦せず、ロシア軍の支配を受け入れたなら、「街は今ほど破壊されず、人も死なずにすんだのではないか」というのが、想田さんの主張である。
これは善意の考えであり、私も理解できる。これと同じことは、1968年、「プラハの春」を潰滅するために、ソ連軍をはじめとしたワルシャワ条約軍が国境を超えて進軍しチェコスロバキアを占領したが、チェコの市民は抵抗しなかった。確かに破壊や殺戮はなかった。しかしチェコでは、1989年の「ビロード革命」まで抑圧的な体制が続いた。
どちらの選択が正しいか、私には解答はない。どちらを選択するかは、当該国の市民が決めることだ。
ただ、1968年の場合は、ソ連軍、ワルシャワ条約軍は、国境を超えるまえにミサイル攻撃などの軍事力の行使はなかった。
今回のロシア軍のウクライナ侵攻は、最初からミサイル攻撃など激しい軍事攻撃がなされた。こうした場合、無抵抗のままでいられるだろうか。2月24日から、街を破壊し、市民を殺す状況をロシア軍が開始した。1930年代の日本軍、ベトナム戦争での米軍と同じことをロシア軍が始めたのである。日本軍の侵攻に対して中国始めアジアでは激しい抵抗があったし、ベトナムでも同様であった。
したがって、ウクライナの応戦は、選択の余地のないものであったと私は考えざるをえない。応戦せざるを得なかった、と。
さて、想田さんの考え方であろうとなかろうと、だからこそ外交で軍事的衝突が起きないように(それも絶対的に、である)することこそが必要だということである。「敵基地攻撃論」なんぞはもってのほかの議論である。
「敵」をつくらない、「敵」にならない日本をつくることこそが、今回のロシアのウクライナ侵攻から引き出す教訓でなければならない。「敵」が存在しなければ、破壊も殺戮もないのだ。
ウクライナでは、必死の応戦をしている。私はウクライナの人々を支援し、援助している。