議論をする中で、「私は実証主義だから」ということばを聞くことがある。それは、みずからの考えや思想を持っていないということを「自白」するものである。
学問というのは、批判の学である。批判するためには、みずからの思想を持たなければいけない。思想が、学問の拠って立つところだからである。
東島誠の『自由にしてケシカラン人々の世紀』(講談社選書メチエ)を読んでいたら、こういう個所にあった。
「「私は実証主義だから」というのは、通用しない。それは自分自身の認識の限界を他者に開示できない者の泣き言であり、・・・・「観点」「前提」をはっきりさせることは、まさに「致命的」に重要である」(143)
はっきりいえば、思想なき研究は全く面白くない。私自身の知性を震わせることがないからだ。思想のある研究に会うと、私は読みながら立ち止まり、また立ち止まり、その度に様々に思考を飛翔させる。思想のないものは、それがない。失礼ながら、成田龍一の文はまさにそれだ。そうした研究者はたくさんいる。増えているようにも思う。
古代史研究の先達である石母田正は、こう書いている。1946年の文である。
戦後の歴史学界には再び実証主義への復帰の強い傾向が見られる。戦時中極端な国家主義をとなえて、歴史学を台無しに壊してしまった学者が、今度は口を拭って自分たちは本来実証主義的歴史学者だったと言訳がましく弁解しているのである。いわゆる実証主義が戦犯的歴史家の避難所となりつつあるのは興味ある事実だ。
歴史における実証主義というのは、それほど深い根柢を持つものではない。普通には史料の丹念な蒐集とその批判的操作(それも精々ベルグハイム式の)に基づいて、歴史を客観的にあとづけるのが、実証主義的だと考えられているようである。これは確かに市民的歴史学が史学史上に果した大きな業績であって、近代の歴史学はこの意味でなら実証的でなければならないのは至極当然である。史料の蒐集とその客観的な分析というものに基礎をおく歴史記述というものは、いかなる傾向の歴史学にとっても当然の前提であってこの点で争おうとする歴史家は一人として存在する筈はないのである。
歴史学とはいうけれども、日本の歴史学は実は学問として最も水準の低い学問であった。これは全体として日本の学問のみじめさということを念頭においても、歴史学の全体的低さは話のほかなのである。学問という以上それは何よりもまず方法と体系を生命とするものであって、このような論理的なものを欠いた場合それは学問ではない。この近代の学問の本質は歴史学以外の部門でも勿論十分意識され実現されてはおらないとしても、しかし方法や体系のない学問というものは成立することはできない。
ところが歴史学は学という名称を僭称しながら、全くの無方法と無体系が一般的なのである。ある問題についての若干のあるいは沢山の資料を並べて、それを考証的に記述すれば、それは立派な歴史学の論文であり、かかる論文を若干書けば専門的な歴史家となれるのが歴史学界の現状である。しかもこのような学風は実証的であるという理由で許されるばかりでなく、堅実な学風とさえ見做される。
したがって歴史家には「考える」ということは必要な条件でないばかりでなくむしろ考える学者は異端視さえされる。このような伝統と環境の内に育った歴史家は思考力という点では殆ど零といってよいほどの不具な状態にあることはいうまでもない。
歴史学ほど包括的な思考力を必要とする学問がないにかかわらず、歴史家ほど対象について考えない人間はないということは、この学問の将来にとって最も憂慮すべき点であろうと思う。
いわゆる実証的研究は1月にとって欠くことのできない前提である。しかしそれは他方において、歴史学を絶えず後退させる傾向を内在している。実証主義のもつ無性格と無思想は歴史学の進歩を抑える何よりの強い原因となっている。歴史の客観的認識、純粋認識としての歴史学という言葉は、この無性格と無思想を粉飾する合言葉となっているが、しかし実際に両者がいかに関係のない二つのものであったかは戦時中の歴史学の動向を反省すれば十分である。実証主義的歴史家こそ専制主義の弁護に第一に立ち上り、客観的歴史学をはずかしめた最も軽薄な学者たちであった。
歴史学は史実によって科学的に構成されるべきものである。この構成するということの意味が理解されない限り学問としての歴史は存立することさえ出来ない。資料を蒐集し、対象と格闘するのも一つの建築物という全体をきずきあげるためである。この努力の中に、方法の錬磨、理論の鍛錬がはじめて生れる。箇々の煉瓦の属性を研究してもそれは建築とはならない。建築家は材料のすべての性質を知っておかねばならないが、建築は全体への構成力や構想力なくしては行い得ない。この構成力、構想力は決して個人的な素質や歴史家的センスやその他の主観的なものではなく、そこにこそ論理と思考力と方法が最も生きる学問の世界があるのである。対象の中に潜む内的な連関や法則は方法なくして発見されるものではないという学問の最も初歩的な考え方が、歴史学界においてはまだ市民権を得ておらない。実証主義者はこれを頑強に拒否し、それによって自己の怠慢を弁護しようとしているからである。このことを告白することは外部の人にははずかしいことだが、しかし偽りのない歴史学界の現状である。
(『石母田正著作集』第16巻、「実証主義への復帰」)
昨日、伊藤隆氏へのインタビュー記事を読んで、石母田正の「実証主義」の歴史家こそが専制主義の弁護者であったという文を思い起こした。まさに符合したという気持ちである。
近年は、実証主義といいながら、史料ではなく、文献を渉猟して、自らの問題意識に都合の良い文献を並べてこれが何々の歴史でございます、などというものが増えている。そのなかには、著者の「思い違い」を平気で書いている者もいる。
私たちは史実の確定にこだわる。幾つかの史料(資料)を比較検討して史実を確定し、ほんとうにひとつひとつレンガを積むように、確定した史実を積み重ねながら一定の歴史像を描いていくのである。近年の学者たちの、「思い違い」を平気で書く姿を見ると、おいおいそれでは歴史研究者としてはアウトだよと言いたくなる。だが、それでも通用するというのが現代である。その多くは「歴史社会学」という分野の研究者である。
そういう人たちには、史料をもとに史実を確定する作業をしたことがないようだし、また思想もない。石母田式に言うなら「無性格・無思想」である。したがって、その研究はきわめて平板で、「建築物」とはとうてい言えないようなものが多いのだ。
すでに亡くなられた多くの歴史家の文章から、精緻な研究とその背後にある思想を読むことができる。戦後歴史学を担った研究者の文献をきちんと読むことから、歴史研究は始められなければならないと思う。