戦没画学生、久保克彦の甥である著者が、久保克彦と彼が生きた時代を描いた本である。とても良い本である。
久保克彦は、中国戦線で戦死した。一発の銃弾が、彼の脳を貫いた。おそらく即死であっただろう。
死ぬということは、自分の身近にいた人びとと永遠に別れることであり、夕陽を観ることが出来なくなることであり、花を愛でることが出来なくなることであり、詩を書くことができなくなることであり、また絵を描くことができなくなるということでもある。そしてまた、人を愛することが出来なくなることであり、自分を愛する人びとを悲しませることでもある。
久保克彦は山口県出身である。生まれは小さな島であるが、物心ついた頃には徳山駅近くの久保書店の次男であった。
彼は絵を描くだけではなく、詩も書いた。本書には、残された数少ない詩が掲載されている。この書名も、久保の詩からである。
永遠の時の彼方へあてもなく行く/数知れぬ悲しい輓馬の隊列。
(中略)
怠惰な戦争の続いてゐる/黄土の大陸の方へと進んで行く。
それは
「輓馬の歌」と題された詩、輓馬とは荷車を引く馬である。トラックをほとんどもたない日本軍は馬を多用した。
久保の卒業制作の作品《図案対象》は、彼自身が学びとったすべての「知」を注ぎ込んだ作品である。その作品は、時空を超越した「世界」が描かれている。図案の対象は、「世界」なのだ、という主張。その「世界」が5枚の絵となって現前している。しかし久保は、この絵を描いて、つまり「世界」を描いてしまったことによって、この世を去る決意をしたようなのだ。ほんとうは絵をもっともっと描きたい(=もっともっと生きていたい)という思いを強く持っていたはずだが、大日本帝国はその望みを断つことを求めてくる。戦争をも引き起こす国家権力の恣意的な行動は(いつの時代でも、戦争をしない、させない方法はあった!)、人びとを、とりわけ青年を戦場に引き出し、もっとも残酷な殺人を強制し、また同時に死ぬことを強要する。
青年は、それを拒否できない。拒否できない大きな力がのしかかり、死へと導いていくのだ。みずからが死へと駆り立てられることを知っている若者は、死の準備をする。間近に迫ってくる死に向かって、みずからの生を思い切り燃焼させる。その燃焼が、久保の場合、この《図案対象》なのである。
著者の木村は、おそらく久保の人生をたどりながら、その理不尽に怒りをもったはずだ。それが行間にあふれる。
もちろん久保が、生きたい、もっと絵を描きたいという本心を知るが故に。
久保は、入営する直前、姪に『花と牛』という絵本を送った。その絵本は単純な内容だ。
昔、スペインにフェルジナンドという可愛い子牛がいました。美しい花を愛するフェルジナンドは、牧場の片隅の大きなコルクの木の下で、花を眺めているのが好きでした。ある日、マドリッドの闘牛場から牛飼いたちが牧場にやってきました。いつものように花を眺めようと、木の下に腰を下ろしたフェルジナンドは、蜂の上に座ってしまいましたからたまりません。
痛くて痛くて、フェルジナンドはそこら中をはね回りました。たちまち牛飼いたちの目に止まり、こんな元気な子牛は見たことがないと、さっそく買われてマドリッドの闘牛場に連れて行かれたのです。いよいよ闘牛の始まりいう時に、フェルジナンドはもともと戦いが好きではなく、静かにしているのが好きでしたし、観客席の貴婦人たちが身に着けている花の香りにうっとりとしてしまい、戦うことを忘れて闘牛場の真ん中に座り込んでしまいました。
やがてフェルジナンドは元の牧場に連れ戻されました。
戦争に動員される久保の本心が、ここにある。戦争なんか行きたくない、ぼくは美しい花を眺めていたい、死にたくない、殺したくない・・・・しかし、国家権力はそうしたふつうのこころを押し殺すのだ。
画家・野見山暁冶は、この《図案対象》について、「久保克彦は、だれにも絶対に見せないある冷徹な眼をもって、戦争というものをひそかに見つめていた。中学時代、個人としてかあるいはグループとしてか、反戦的な考えをおし進めようとしたことがあったようだ。久保は美術学校の卒業制作に戦争の画を描いた。42年、戦況は熾烈を極め、国をあげて戦争の画を奨励していた。戦争美術、陸軍美術、海洋美術、いろんな銘をうった戦争昂揚画が華々しく展観されて、人々はそこに日本の強さをまざまざと見るおもいがした。しかし久保の発表した戦争画は、祖国が勝ち誇っている勇ましい姿ではなく、ただ飛行機の不気味さが空をよぎり、落下し、爬虫類のような生物が飛び交い、まるで人類最後の日のような不潔感を漂わせている。あの時代に、これは記念すべき見事な反戦画だと私は思っている。」と書いている。
久保の姪、黒田和子は、《図案対象》は反戦画ではなく、「自らを含めた世界の崩壊」を描いたのではないかという。久保は、現在に至る長大な歴史(知の集積)を5枚の絵に描き込んだ。その絵に描かれたことによって「世界」は「崩壊」する。
戦争で殺されることによって、自分にとっての「世界」は、自己と共に消えていく。《図案対象》は、覚悟した自らの死(戦死)を自己の「世界」(それは生きとし生けるものが蓄積してきた世界である)の消失と捉えたのではないか。だから、この絵は、やはり「反戦画」といえるのではないかと思う。
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久保は、クラシックの音楽を聴いていたという。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、そしてチャイコフスキーの交響曲・悲愴・・・
私もそれらを聴きながら、この本を読み、このブログを書いた。