浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「戦争と画家」について

2024-11-06 19:08:10 | 画家と戦争

 戦争は、多くの画家の卵を殺した。画学生たちである。彼らの絵は、作品として、上田の無言館に展示されている。

 わたしは一度だけ、無言館を訪ねたことがある。「無言館」というだけあって、そこに入ると、人は無言になる。

 そこで抱いた感想は以下の通りである。

 無言館に入るやいなや、私たちはことばを失う。まさに「無言」である。一点一点の作品を、私たちは見つめる。その作品の中に、私たちはひたすら絵を描いていた青年たちの意気を感じる。絵を描くことが好きで、絵を描くことを一生の仕事として東京美術学校に入学した彼らは、しかしみずからの命が長くないことを知っていた。激しい戦争が彼らを吸い込もうとしていたからだ。そして戦地で、もっともっと生きつづけ、絵を描きたいという願望をもちながら、望まない死を迎えた。

 
 私たちは、彼らの作品のなかに「静寂」をみる。それらの作品を残して彼らが夭折したことを知っているからである。同時に私たちは、彼らの作品を、ふつうにみることができない。私たちの眼と作品との間に、戦争での〈死〉が介在している。〈死〉を介在させて作品を見ることは、ある意味で邪道ではある。だが介在させないでみることは不可能だ。
 

 これらの作品は、彼らの生きた証しである。私たちは生きた証しとしての作品を見るが、同時に、生きていればもっともっとよい絵が描けただろうにという、画学生への哀惜の念をもつ。彼らの未来は、戦争によって断ちきられた。戦争がなかったら・・・という気持ちもわいてくる。

 無言館館主も、こう書いている。

「かれらの「死」のあまりの不条理さが、かれらの絵をいまだに成仏させていないといってもいいだろう。絵というものがそれを描く者のもつ人生観や死生観のあらわれであり、その生存の証ともいえる自己表現の産物である以上、どうしても戦没画学生たちの絵は、かれらの生命を他動的に、「自死」させた戦争というものの存在をぬきにしてみることはできないのである。・・・・・・画学生たちのその死はあの戦争という暴力によってムリヤリ強いられた不本意な死、「強いられた死」だったということだ。」

 今、静岡県立美術館で、「無言館と、かつてありし信濃デッサン館ー窪島誠一郎の眼」という展覧会が開催されている。

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【本】香月婦美子『夫の右手 画家・香月泰男に寄り添って』(求龍堂)

2024-09-20 09:51:47 | 画家と戦争

 浜田知明の展覧会には何度も行った。香月泰男の展覧会には一度行ったことがあるだけだ。この二人の画家は、兵士として動員され、戦争の実相をじっくりと画家の目で見てきた。だから、彼らの作品には、戦争の本質が込められている。

 浜田の展覧会で購入した図録は4冊ある。香月は一冊だけだ。だから香月に関わる本を、たくさん読まなければならない。歴史講座で話すことになっているからだ。

 香月は、1911年10月、山口県に生まれる。東京美術学校油絵科に入学し、卒業後教員となる。1938年結婚。1943年1月、召集される。香月の兵種は丙種合格であった。31歳であった。最初は教育召集であったが、4月に本召集に変更され「満州」に行き、そして敗戦によりシベリヤに抑留される。1947年5月に復員し、下関高等女学校の教員となる。

 香月はシベリヤで体験したことを「シベリヤシリーズ」として描いている。それは山口県立美術館にある。

 さてこの本であるが、妻の目から見た香月泰男の姿が微笑ましく描かれている。文の間には、たくさんの香月の絵がはさまれているが、そのほとんどが頬笑ましい親子の絵である。

 香月は成育過程で、家族の縁がうすかった。香月の母は、婚家と肌があわなかったために、家を出たり入ったりを繰り返していた。父は再婚し、しかしその後妻を出して母が戻ってきた。が結局別れてしまい、父は朝鮮で亡くなり、泰男は祖父の手で育てられることとなった。母や父の後妻とも良い関係であったが、結局母との生活をほとんど経験しなかった。

 だから香月は、家族をとても大切にした。それがよくわかる絵が、本書にはたくさん掲載されている。それらの絵には、香月の愛が静かに描かれている。親子の愛情、平和な風景、香月の温かい眼。いずれの絵も戦後の絵であるが、こういう絵を描く画家が非人間的な戦場や抑留生活を生きなければならなかったのである。

 

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【本】司修『戦争と美術』(岩波新書)

2024-04-11 10:06:46 | 画家と戦争

 司氏は画家である。画家の視点から、「戦争画」を論じている。藤田嗣治、宮本三郎ら、「戦争画」を描いた画家たちに批判的である。「ああいう時代だったから仕方なかったのだ」とかいう「戦争画」描いた人びとを擁護する声があるが、司氏はきっぱりとそうではないと断言する。

 それはなぜか。「ああいう時代」であっても、「戦争画」を描かなかった画家たちがいたからだ。「新人画会」というグループがあった。麻生三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、そして靉光、松本竣介らである。彼らは銀座で展覧会を行った。一、二回は日本楽器、三回目は資生堂だった。三回目は、1944年4月であった。そこには「戦争画」はなかった。

 「ああいう時代だったから、軍に協力するしかなかった」という「弁解」は、ここで崩れ落ちる。

 しかし、美術評論家らは、「戦争画」を描いた者たちを擁護する。その擁護のことばが、本書に収録されている。

 軍部は、画家だけではなく、作家たちをも戦地に派遣した。「従軍画家」、「従軍作家」である。ドナルド・キーンはこう書いている。

 作家の名声を利用しようとする軍部の思惑に腹を立てるどころか、ほとんどの作家は大陸へ派遣されることに熱心だった。従軍といっても、だいたいがわずか二週間、それもそのほとんどは豪華ホテルで過ごされた。

 画家たちも同様だっただろう。

 ヒトラーに見込まれてレニ・リーフェンシュタールは、「意志の勝利」などのドキュメンタリー映画を制作した。レニを論じながら、司氏は、

 日本の戦争画でもそうですが、画家であるがゆえに描いてしまったということはありません。人より抜きんでた才能の持ち主に限って、権力者からの要請があり、描いているのです。その効果を期待することからすれば当然のこと(28)

 一般の人でも、そして日頃反権力的な言辞を弄している者でも、権力者から声がかかると、平気でなびく、そういう人がたくさんいることは、私も見てきている。「権威」に弱いというか、自分自身に個としての自尊心がないのだ。

 司さんは、こう記している。

 日本の戦争画から生まれたものは、芸術家の奢りと、「無智な大衆」より劣る精神の貧弱さでした。そのような作品(大東亜戦争画)が芸術として評価されてよいはずがありません。(46)

 大東亜戦争、あるいは十五年戦争が日本の歴史の恥部であるとすれば、「大東亜戦争画」も恥部、僕はそう思うのです。(61)

 司氏は、「戦争画」の画料を書き留めている。銀座の土地、ひと坪一万二千円の頃、一号で10円、「戦争画」は二百号だから2000円が軍から支払われた。

 「戦争画」を描く画家には、画材がふんだんに提供された。「ああいう時代だから軍に協力しないと絵が描けなかったんだよ」という弁解もある。だが、新人画会の画家たちは、「戦争画」を描かなかったが、そうでない絵を描くことができた。

 新人画会の前で、彼らの弁解は一切の力を失うのだ。

 

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画家・中村宏

2024-04-06 08:23:51 | 画家と戦争

 浜松出身の画家・中村宏が、最近みずからの戦争体験を描きだしている。中村が体験した戦争体験とは、浜松市への空襲であり、また艦砲射撃である。

 中村宏は、現在の浜松学芸高校へと連なる学園の創設者家族のひとりである。中村は日本大学芸術学部在学中から社会運動に参加し、美術運動の先駆者ともなった。

 1955年、米軍基地拡張反対の砂川闘争にも参加し、それにもとづいて「砂川五番」という有名な絵を描いている。その後も、美術に対する自分自身の見解を次々と明らかにしながら多くの絵画を世に出した。

 その見解については、『応答せよ!絵画者 中村宏インタビュー』(白順社)に、嶋田美子の問いに答えるかたちで明らかにされている。それを昨日読み終えたばかりである。

 1950年代には、「ルポルタージュ絵画」を提唱し、山下菊二らと行動を共にしている。「一生懸命リアルに描こうとすることがないと、ルポルタージュは本当は成り立たない」と中村は語っている。その後、中村の絵は、「リアル」ではないようなものになっていくけれども、リアリズムは絵画の基調となっているように思う。

 中村の絵画は、外側にリアルがあって、そのリアルが中村を通過するなかで、中村の描く絵画へと結晶していくようだ。表現された絵画は、理解を拒絶するようなものでもあるが、観る者が観る、考える、解釈する・・・・というように、リアルと中村、そして鑑賞者が三位一体となって成立するものだ。

 そのような画家である中村が、何故にみずからが体験した戦争を描くようになったのか、おそらく「現代」がそうさせたのだろう。

 だからこそ今、戦争と画家との関係を見つめる必要があるのだと思う。

 

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東京美術学校への軍事統制

2024-04-05 09:24:12 | 画家と戦争

 自由な学風で知られた東京美術学校ではあるが、戦時体制が強化される中で、そのような雰囲気が押し潰されそうになった。多くは自由の喪失にやむなく従ったが、そうでない者もいた。『東京藝大百年史』には、当該時代のことが記されているようだ。『輓馬の歌』からの孫引きである。当時学校には、配属将校が派遣され、学生たちに軍事教練をさせていた。

 ある時、身体の具合が悪く、教練を見学することを許された生徒がいて、彼は当時の学生たちがたいてい手にしている岩波文庫を座って読んでいたため、教官に注意された。だが、彼は「教練を見学するくらいならこれを読んだほうがずっといいんです」と言って止めない。そのためひどく殴られたが、いくら殴られてもやめなかった。

 ある日、図案部の学生たちは、数人のモデルに裸のまま教室に整列してもらい、そこに配属将校を呼んできた。案内されて教室に入ってみると、予想外の事態で、あわてふためいた配属将校は真っ赤になって、怒鳴りながら足早に去っていった。留飲を下げた学生たちは、それを拍手で見送ったという。

 四年生のときだったか、その配属将校が、全生徒に丸坊主になるよう命令した。ほとんどが従ったが、中に10人ばかり実行しない者がいて、私もその一人だった(内心は怖かったが)。すると教官室に呼ばれ、「お前たちは非国民である。日本は戦っているのに何と思っているか。この次までに坊主になって来なかったらすぐ退学させて兵隊として現地に送る」と威嚇された。真っ青になった私たちは、その次には頭を刈ってきたが、ただ一人、韓国人のTさんは髪の毛をみな制帽の中に入れて丸坊主のように見せてやってきた。教練の最中、将校は何かおかしいと気づいて、帽子をとれと命じた。彼が帽子を脱ぐと、下から髪の毛がうじゃうじゃとかぶさった。将校は「貴様あ」と言って、いきなりTさんを殴った。途端にTさんは興奮して、銃を捨てたかと思うと将校を殴り返した。学生が将校を殴るなどということはありえないことだったから、その将校はあっと思って怯んでひっくり返った。Tさんはそれに馬乗りになり、さらにボコボコ殴った。すると遠くにいたもう一人の将校がそれを見つけ、「貴様あ」と刀を抜いてかけてきた。それでTさんは門の外に逃げていってしまった。そのため彼は退学になったが、結局後で復学が許されたと聞く。それは将校の経歴に傷がつくのを避けるための処置だったらしい。私たちはというと「やった。やった」って言って手をたたいたりしてたもんだから、後で岡さんが心配して、皆を集めてそれは大変だった。

 また東京美術学校へは、様々な仕事が持ち込まれた。

 東京美術学校の学生たちには戦争に協力するような課題が与えられた。

「南方共栄圏における広告塔図案」という課題。

 イ、大東亜民族団結せよ ロ、楽土大東亜 ハ、日本軍と協力せよ ニ、同生共死の同朋よ ホ、働くから勝つのだ ヘ、鬼畜の米英

 等の内容を色調明快、構図は単純にあくまで力強き表現様式たること

 

陸軍省からの「特別幹部候補生募集」のためのポスター作成の要請、その指示。

右は軍報道部において本校図案部学生諸氏にたいし期待、依頼せられたる緊急要求ポスターにて、およそ16、7歳より20歳までの優秀なる少年を多数に募集したき旨にあり、既往の陸軍ポスターにとらわれず諸君の情熱において年若き少年の奮起を促すにたる明快、力強きものを制作提出せられんことを希求する

 戦争は、つまり軍隊は、抑圧し、同時に利用できるものは何でも利用するのだ。東京美術学校の学生たちにも、そうしたものが押しつけられた。

 ああ、戦争はいやだ。にもかかわらず、アメリカの命令のもと、日本国家は戦争準備をしている。ああ、怖い!!

 

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【本】木村亨『《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春 輓馬の歌』

2024-04-04 22:18:17 | 画家と戦争

 戦没画学生、久保克彦の甥である著者が、久保克彦と彼が生きた時代を描いた本である。とても良い本である。

 久保克彦は、中国戦線で戦死した。一発の銃弾が、彼の脳を貫いた。おそらく即死であっただろう。

 死ぬということは、自分の身近にいた人びとと永遠に別れることであり、夕陽を観ることが出来なくなることであり、花を愛でることが出来なくなることであり、詩を書くことができなくなることであり、また絵を描くことができなくなるということでもある。そしてまた、人を愛することが出来なくなることであり、自分を愛する人びとを悲しませることでもある。

 久保克彦は山口県出身である。生まれは小さな島であるが、物心ついた頃には徳山駅近くの久保書店の次男であった。

 彼は絵を描くだけではなく、詩も書いた。本書には、残された数少ない詩が掲載されている。この書名も、久保の詩からである。

 永遠の時の彼方へあてもなく行く/数知れぬ悲しい輓馬の隊列。

 (中略)

 怠惰な戦争の続いてゐる/黄土の大陸の方へと進んで行く。

 それは 

 「輓馬の歌」と題された詩、輓馬とは荷車を引く馬である。トラックをほとんどもたない日本軍は馬を多用した。

 久保の卒業制作の作品《図案対象》は、彼自身が学びとったすべての「知」を注ぎ込んだ作品である。その作品は、時空を超越した「世界」が描かれている。図案の対象は、「世界」なのだ、という主張。その「世界」が5枚の絵となって現前している。しかし久保は、この絵を描いて、つまり「世界」を描いてしまったことによって、この世を去る決意をしたようなのだ。ほんとうは絵をもっともっと描きたい(=もっともっと生きていたい)という思いを強く持っていたはずだが、大日本帝国はその望みを断つことを求めてくる。戦争をも引き起こす国家権力の恣意的な行動は(いつの時代でも、戦争をしない、させない方法はあった!)、人びとを、とりわけ青年を戦場に引き出し、もっとも残酷な殺人を強制し、また同時に死ぬことを強要する。

 青年は、それを拒否できない。拒否できない大きな力がのしかかり、死へと導いていくのだ。みずからが死へと駆り立てられることを知っている若者は、死の準備をする。間近に迫ってくる死に向かって、みずからの生を思い切り燃焼させる。その燃焼が、久保の場合、この《図案対象》なのである。

 著者の木村は、おそらく久保の人生をたどりながら、その理不尽に怒りをもったはずだ。それが行間にあふれる。

 もちろん久保が、生きたい、もっと絵を描きたいという本心を知るが故に。

 久保は、入営する直前、姪に『花と牛』という絵本を送った。その絵本は単純な内容だ。

昔、スペインにフェルジナンドという可愛い子牛がいました。美しい花を愛するフェルジナンドは、牧場の片隅の大きなコルクの木の下で、花を眺めているのが好きでした。ある日、マドリッドの闘牛場から牛飼いたちが牧場にやってきました。いつものように花を眺めようと、木の下に腰を下ろしたフェルジナンドは、蜂の上に座ってしまいましたからたまりません。

痛くて痛くて、フェルジナンドはそこら中をはね回りました。たちまち牛飼いたちの目に止まり、こんな元気な子牛は見たことがないと、さっそく買われてマドリッドの闘牛場に連れて行かれたのです。いよいよ闘牛の始まりいう時に、フェルジナンドはもともと戦いが好きではなく、静かにしているのが好きでしたし、観客席の貴婦人たちが身に着けている花の香りにうっとりとしてしまい、戦うことを忘れて闘牛場の真ん中に座り込んでしまいました。

 やがてフェルジナンドは元の牧場に連れ戻されました。

 戦争に動員される久保の本心が、ここにある。戦争なんか行きたくない、ぼくは美しい花を眺めていたい、死にたくない、殺したくない・・・・しかし、国家権力はそうしたふつうのこころを押し殺すのだ。

 画家・野見山暁冶は、この《図案対象》について、「久保克彦は、だれにも絶対に見せないある冷徹な眼をもって、戦争というものをひそかに見つめていた。中学時代、個人としてかあるいはグループとしてか、反戦的な考えをおし進めようとしたことがあったようだ。久保は美術学校の卒業制作に戦争の画を描いた。42年、戦況は熾烈を極め、国をあげて戦争の画を奨励していた。戦争美術、陸軍美術、海洋美術、いろんな銘をうった戦争昂揚画が華々しく展観されて、人々はそこに日本の強さをまざまざと見るおもいがした。しかし久保の発表した戦争画は、祖国が勝ち誇っている勇ましい姿ではなく、ただ飛行機の不気味さが空をよぎり、落下し、爬虫類のような生物が飛び交い、まるで人類最後の日のような不潔感を漂わせている。あの時代に、これは記念すべき見事な反戦画だと私は思っている。」と書いている。

 久保の姪、黒田和子は、《図案対象》は反戦画ではなく、「自らを含めた世界の崩壊」を描いたのではないかという。久保は、現在に至る長大な歴史(知の集積)を5枚の絵に描き込んだ。その絵に描かれたことによって「世界」は「崩壊」する。

 戦争で殺されることによって、自分にとっての「世界」は、自己と共に消えていく。《図案対象》は、覚悟した自らの死(戦死)を自己の「世界」(それは生きとし生けるものが蓄積してきた世界である)の消失と捉えたのではないか。だから、この絵は、やはり「反戦画」といえるのではないかと思う。

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 久保は、クラシックの音楽を聴いていたという。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、そしてチャイコフスキーの交響曲・悲愴・・・

 私もそれらを聴きながら、この本を読み、このブログを書いた。

 

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戦争と画家(その1)

2024-04-03 21:31:57 | 画家と戦争

 かつて香月泰男と浜田知明の展覧会に行ったことがある。いずれも戦争の絵を描いている。戦争の絵と言っても、香月はみずからが体験したシベリア抑留、浜田は兵士として中国に連れて行かれた兵卒としての体験を描いている。戦争を賛美する絵は描いていない。彼らは、戦争を体験したあとに画家となり、戦争の負の側面を描いた。

 戦時下、すでに画家となっていた者たちは、戦争讃美の絵を描いたし、描かされた。藤田嗣治、宮本三郎、向井潤吉など。横山大観は時流におもねる絵を描いた。

 近代天皇制国家は、画家を戦争に駆り立て、画家になる者に絵筆ではなく銃剣をもたせた。そしてそのなかで、命をなくした画家もいた。亡くなった画家の多くは、その卵とも言うべき人たちだった。もし生きていれば、彼らはどんな絵を描いてくれたのだろうか。

 私は、上田にある「無言館」に展示された絵を描いた画家たちについて書かれたものを読んだ。『芸術新潮』の1997年7月号、特集は「大いに語れ 戦没画学生、未完の夢」である。これは出版されたときに購入したものだ。

 戦没画学生について、私はいま語ろうと思っている。そのために、戦没画学生について書かれた本を借りだした。今日は、木村亨が叔父である久保克彦について書いた『輓馬の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春』(国書刊行会)を借りてきた。久保の卒業制作の絵《図案対象》は、東京藝大にある。文部省買上となった作品である。才能ある画家のひとりが、戦死したのだ。

 その本のあとがきを最初に読んだ。そこには、非戦の訴えが熱をおびて書かれていた。私も、その非戦の訴えをもとにしながら、「戦争と画家」を語ろうと思う。

 いま政治は、戦争を知らない世代に移りました。政府を選ぶのも、メディアの姿勢を変えるのも、国民です。政治も、国民全員が責任を負っているはずです。メディアや時代のなりゆきに流されることなく、真実を見極め、自分で考えることが必要です。「歴史は繰り返す」と言いますが、そうではなく、「歴史忘れられる」のだと思います。忘れられるが故に、繰り返すのだと思います。歴史を直視し、歴史に学ばなくてはなりません。不幸な歴史を繰り返してはなりません。

 戦争が終わったとき、誰もが戦争の無意味さを語り、平和を願ったはずでした。そしてそれは、「戦争の放棄、交戦権の否認」、「思想及び良心の自由」、「集会・結社・表現の自由」などを定めた日本国憲法に結実しました。いま、それらはともすると忘れられがちになっています。

 平和をつづけるためには、一人ひとりの強い意志と覚悟が必要です。

(中略)

 克彦を含め、あの時代の若者たちは、自分の信念や理想は胸の奥深くに押し込めて、国を守るために自己のすべてを投げ捨てたのでした。歴史の潮流に押し流される自らの運命を悲しみながらも、真剣に生き抜いたのでした。

 全てを断たれて戦死した若者たちの、そして310万人の犠牲を、無駄にすることがあってはなりません。

 戦争を直接知る最後の世代としての、切実な願いです。

 2019年5月

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