ひたすら本の処分を行っている。みずからの残りの人生を考えると、蔵書のほとんどは読めないし、内容的に時代遅れとなったものも多い。それに何か新しいことを研究しようとも思わないから、必要のない本は片っ端から捨てている。
残りの人生は、農作物をつくることに多くの時間を使いたいと思う。その理由の一つは、ストレスをできるだけなくしたいからだ。ストレスの多くは他人との関わり、とりわけ組織的な人間関係とのあいだで生じる。となると、組織という組織とはできるだけ関わらないようにしたい。私の場合、関わりのあるのは自主的に組織された歴史の研究会だけだが、それからも離れていたいと思うようになった。農業ではあまり多くの人とは関わらない。農作物はたくさんでき、人からは売ったらどうかといわれるが、売るつもりはないので、子どもに送ったり、近所の人にあげたりしている。
考えてみれば、私はひとりでいても平気な人生を送ってきた。自分から他人との交流を求めることも多くはない。酒も飲めないし。また電話も、私からかけることはほとんどない。来るものは拒まず、去る者は追わず、という人間関係で生きてきた。
宮台真司が、最近の若者には友だちがいない、しかし友だちがいないと思われたくないので、付き合いたくなくてもその集団でなんらかの役割を演じて「群れ」ているそうだ。
私は思うのだ、ひとりならひとりでよいではないか。ひとりでいられるなら、好きな本を読み、音楽を聴き、農作業もできる。他人から邪魔されることもない。
若いころから、主体性をもつことを心がけてきた。主体性をもつということは、依存しないということでもある。自立できなければ主体性を維持することはできない、ならばあらゆる点で自立しようと思った。まず生活的自立が必要だと思い、料理など日常生活を送るに際して必要なことはすべて自分でやってきた。今でも針は持つし、自分の着るものの管理はすべて自分でやるなど、ひとりで生きられるように生きてきた。
最近話す人は、家人、子どもや孫などの親族のほかは、近所の人、千葉県や静岡市に住む友人くらいだ。
本を処分するということは、不要な人間関係も処分するということにつながる。もう無理をしないで、隠遁生活に入ろうとしている。まさに晴耕雨読の日々である。